大江健三郎の作品は読んでは忘れ読んでは忘れが多いのにこの第二部は意外に記憶に残っている。
従来大江健三郎の作品は個から出発し、その個、僕は大江健三郎なのだが、この作品ではサッチャンから出発し、大江健三郎はKちゃん、K伯父さんとして客観的(?)
に表現されているのが興味深い。
引用の作品を読むとそれが引適切なのにはうなってしまう。
「燃えあがる・・」は第一部のみでひとつの作品として読み得る。
それを考えると同時代ゲームも六つの作品として読むことできる。それぞれの作品が競争している、これがゲームなのか。
相変わらずの猥雑さには疑問を感じる読者も多かったろう。
新しい人よ眼ざめよも読みなしておきたい。
Night falls on China,
O teach us to outgrow our madness.
Ruffle the perfect manners of the frozen heart, And once again compel it to be awkward and alive… Clear from the head the masses of impressive rubbish; Rally the lost and trembling forces of the will, Gather them up and let them loose upon the earth…
And now I hear the hum of printing presses; Turning forests into lies…
・ “Night Falls on China,” by W.H. Auden
「生け贄男は必要か」に魯迅の狂人日記の引用p192があり、狂人日記を読む。
例によってネットで調べる。
「狩猟で暮したわたしたちの先祖は」W.H.オーデン
ブログの本買記には見る前に跳べが載っていた。
われらの狂気を脱する道を教えよ/W. H. オーデン
「中国に夜が来る
Don't Let Me Downのブログでは
なお、html文書なので分かち書きはいい加減である。
大江文学の題名には異様な魅力を感じていた。それを検討するのも別な意味で一興になるものである。
knifeを持っていたのにnaif(仏語)とあだ名されてる云々は、以前は読み飛ばしていた。p193
「カラマーゾフの兄弟」からの引用もある。
「懐かしい・・」の付録のインタビューで大江健三郎が「・・宗教を持つ人たちと、宗教を持たぬ人間とが、なんとか協同して、ひとつの祈りをおこなう・・」と語っているのは「カラマーゾフ・・」とゾシマ長老と関連付けられる。
人は何故、人を殺すのか。
チェルノブイリ、フクシマも終わってはいないのだ。
二十世紀はアル中だ!
本の帯には「20世紀文学の金字塔」とある、それなら、研究書、解説本が出版されていてもいいはず。
現在、「火山の下」の題名で2010年に斎藤兆史監訳、渡辺暁共訳で白水社からエクス・リブリス・クラシックスシリーズで3564円で出版されている。
大江健三郎が「火山」を書いたのは1954年頃、「活火山の下で」翻訳出版されたのは1966年、原書で読んだ可能性もあるが、関連性はないだろうと推定する。
引用されてるイェーツの詩では、詩の翻訳自体詩作であり、訳者による違いが大きく、原詩はもちろん訳詩集も読むことも諦めた。
ゲームとは何なのか不明だが、全てがゲームなのか、神話とはゲームなのか。
探したら「朝鮮人強制連行の記録」朴慶植著未来社刊が出てきた。
ネットで「火山」についてしらべていたら「江藤淳と大江健三郎」の著者の小谷野淳のブログがあることを知る。
小谷野敦が子供向けに書かれたものと言う。文庫本400頁を読まなければならない子供は可哀想だ。
ザルツベルグのコベンツルホテル、娘夫婦が利用したことがあるのでは。
なお、この作品は評伝「大江健三郎と江藤淳」には引用などされてはいない。
今、歌舞伎に入り込み余裕はない。
如何に記憶がなくなっているか。
私を僕と書くのは新鮮だった。
著者は細かい資料までよくぞ読破したと思う。むしろ踏破だ。
八大低賃金サービス業、ウェイトレスやウェイター、調理人、販売人、用務員、介護士、レジ係、メイド。
簡単に書いたが示唆されることは多い。
なお、この序詞はプーシキンのオリジナルでなく、ピョートル・ヴャーゼムスキの長詩「初雪」からの引用である。
オネーギンは韻文詩であり、木村彰一訳は詩として行分けされいるが、他は散文のように行分けされずに印刷されている。
モームは吃音だったとのことである。
モームは高校時代に月と六ペンスを読んで以来だ。
「そじる」の漢字が分からないのでネットで調べたら「傷む」の会津弁だった。
訳者あとがきは1956年になっている。
書店にある最新刊の裏書きには初版1956年、新装版1985年と書いてある。
ドストエフスキーも完成度に劣るところがあっても面白い。
2014年12月14日
市立図書館に予約していた柄谷行人著「帝国の構造」を読む。
私有財産は麻薬か。
鎌倉孝夫/佐藤優の「はじめてのマルクス」を読む。
2014年11月5日
セルバンテスのドン・キホーテ読み終えた。
挿話の軍隊生活では自伝的部分がある
2014年11月3日
出久根達郎のエッセイなど、面白く詠んでおり、どんな人かネットで調べたら1944年生まれ、私と同じではないか、3月31日の早生まれで、吉村さんが近い。
2014年10月4日
日本人論争を読んで、
2014年9月21日
県立図書館に予約しておいた「日本人論争 大西巨人回想」が準備できてるとのメールが入り借りて来る。
2014年8月31日
読書から遠ざかってはいるが、未成年を
ボツボツと読んでいた。
2014年8月22日
帯状疱疹、帯状疱疹後神経痛で読書から遠ざかっていた。
2014年7月26日
大江健三郎の見る前に跳べ、どんな小説だったのかまるっきり忘れてしまったので読む。
2014年7月25日
読書力低下気味、未成年は再読だが、混迷の森、少し明快にするつもりで中村健之介緒のドストエフスキー人物事典の未成年の項を読む。
2014年7月12日
文學界平成15年6月号サリンジャーの特集の鼎談で沼野充義がキャッチャーはドストエフスキーの未成年に似たところがあると語っているので、「未成年」をもう一度読んでみる。
2014年7月11日
村山談話が話題についてなることが多い、一方、自社さ政権は社会党の墓堀でしかなった思っていたが、見直してみようと思い、「「村山談話」とは何か 村山富市 佐高信」を読む。
2014年7月9日
村上訳の「キャチャー・イン・ザ・ライ」を購入した時、「サリンジャー再び 村上春樹」を掲載してあった文學界も購入してあったので、これも読む。
2014年7月8日
そもそもサリンジャーの作品に出会ったのは学生の英語の時間に教材にbananafishが使われた事にある。
2014年7月6日
「サリンジャー生涯91年の真実」を読んで、○年ぶりに「ライ麦畑・・・」を読む。白水社の野崎孝訳があるのだが、村上春樹訳が出たときに購入したのが読まずにあったので「キャチャー・イン・ザ・ライ」を読む。
2014年6月23日
「サリンジャー生涯91年の真実」ケネス・シラウェンスキー著田中啓史訳を読み終わる。
2014年6月20日
パリ入城でヘミングウェイにも会っている。
2014年6月15日
サリンジャー生涯91年の真実を読んでいる。
2014年6月15日
大江健三郎再読読書日記の一つとしてヒロシマノートを読む。
2014年6月8日
先月末に亡くなり、ニュースにもなり、facebookにもその死亡の書き込みがあったMaya Angelou(マヤ・アンジェロウ)の「歌え、翔べない鳥たちよ」を読む。
2014年6月2日
「懐かしい年への手紙」読み終わる。
この小説で大江健三郎が餃子を初めて食べたのは松山の高校に入ってから、私が初めて食べたのは大学に入ってからで餃子を食べたのも10年以上遅れているわけだ。
2014年5月25日
4月29日以来、本を読んでないのか。
2014年4月29日
「国家はなぜ衰退するのか」
自由主義経済の制度化が繁栄を導くとのことだが、本当にそうなのか。全ての国がアメリカ、日本になり得るのか。国内的に敗者を産んでるように、国際的にも敗国を産むシステムではないのだろうか。
2014年4月21日
図書館に予約してあった「国家はなぜ衰退するのか」(上)が順番待ちで入ったので、借りて読み始める。
2014年4月21日
Twitterで紹介されていたC・ダグラス・ラミス著「要石:沖縄と憲法9条」を読む。
2014年4月18日
以前一寸読んで中止していたドイツ反原発運動小史を読む。
2014年4月8日
NHK講座になった100分で名作のテキスト「罪と罰」亀山郁夫を読む。
2014年4月5日
日付をみると最近本を読んでない。
2014年2月30日
万延元年のフットボールを再読する。
2014年2月30日
梅本克己の唯物史観と現代を読み返してみる。
2014年2月17日
死線を越えてを読み終えて、 自伝的部分の多いのだろうと思う。
2014年2月15日
賀川豊彦の死線を越えてを読み始める。
2014年2月12日
芥川賞受賞作の「穴」を読む。
2014年2月11日
文藝春秋芥川賞受賞作読む前に、150回を記念する対談などが載っており、結構面白い。
2014年2月10日
都知事選、反原発系が敗北し、気落ちしていた。
文藝春秋掲載の芥川賞受賞作を読もう。
2014年2月3日
何故か、図書館から借りた「「福音書」解説「復活」物語の言語学 溝田悟士」を読む。
2014年1月21日
地下室の手記の再読を始める。
2014年1月19日
数十年前まとめて購入した文庫本の中に共産党宣言をさらーっと読んでみた。
2014年1月18日
書評誌「未来」12月号、「オリンピックの落とし穴」町田幸彦
2014年1月17日
個人的な体験を読む。
2014年1月13日
学生の頃単行本で買ったはずだが行方不明で「個人的な体験」の文庫本を図書館から借りる。
2014年1月12日
ドストエフスキー人物辞典の初期作品関連を読む。
2014年1月11日
図書館から新潮社文庫の空の怪物アグイーを借りる。
カバーの端(製本関連の用語も忘れてしまった。)に載っている大江健三郎の写真が再版時の平成の写真で若い時分の写真を載せて欲しかった。
2014年1月3日
新潮のサイードと大江、これを読むとインレートスタイルを著した理由が一寸解る。
大掃除のメインのひとつとして少ない本を整理してたら新潮創刊1200号記念誌にサイードと大江健三郎が寄稿している。読んでないか。
芥川賞落選の「想像ラジオ」を読む。選者の嫉妬が落選させたのではないか。
この日記、あれを読んだこれを読んだだけで感想文ひとつないのだからあきれる。
小説に出てくる田村さんは山岸外史とは違うのだろうか。太宰治の評論では奥野健雄、佐古純一郎を読んだ。
淡々と繊細な文体、ファンがいるのは理解できる。
メモ
ガザ通信岡真理訳
トランボ ハリウッドに最も嫌われた男(映画)
希望ヶ丘の人びと重松清
佐古純一郎、この名前ふっと思い出した。高校生の頃、太宰治を読んでいた時親しんだ文芸評論家。
曽原三友紀
読む人間
パイドロス「懐かしい・・」p15
2016年12月10日
2016年11月30日
「燃えあがる・・」第三部を読み始めているが、歌人鳥居の歌集「キリンの子」が気になり丸善で購入した。
短歌に強く惹かれたのは啄木以来だ。
凄絶なる生い立ち、それを表現方法する歌は、個から出発して五七五七七に拘らず独自の領域まで持って行く。
買ったのは五刷、それなりに売れていることでホッとする。
この後、どんな作歌活動に入っているのか、難しさがあるが、この一冊だけでも悲しく素晴らしい。
俵万智は幸せ過ぎる。2016年11月26日
第二部の題名が「揺れ動く〈ヴァシレーション〉」であることから、更にイェーツに暗示されるように物語が展開される。
第一部でギー兄さん(救い主?)は殴られ、森の会は縮小となる
。
第二部ではギー兄さん再生し協会が建設される。
私が同工異曲と捉えていたが、再生であることを知る。
イェーツの「動揺」を読んだが解りにくい詩である。詩は解るものではなく感ずるもの。
一連目一行目の「人は二つの極のあいだにいて」、二連目一行目「煌々と燃え盛る火炎、あとの半分は緑色につつまれて、」、「燃えあがる・・」との関わりの強さが感じられる。
「あいまいな日本の私」を見直したら、イェーツのひそかな弟子と語り、その全詩集が徹底して「燃えあがる・・」に影を投げかけている、と語っている。p7
大江健三郎のテーマは「再生」ということではなかろうか。
第二部でギー兄さんは復活する。その父で総領事が亡くなる。総領事は「火山の下」の領事と結びつくなのだろうが、結びつけて読むことができない、領事職からドロップアウトしたのは共通だろうが。
総領事は大江健三郎のSF作品「治療塔・・」の第三部書くことになるが挫折してしまう。p143
「治療塔・・」は三部作の予定だったのか。
教会が建設されて順調そうにみえたが最後にはギー兄さん自体説教の言葉を失なってしまう。2016年11月19日
結局「燃えあがる・・」の文庫本が見つからず、第二部は単行本で読むことにした。通販で購入することも可能なのだが。
第二章の題名の「中心の空洞」は何もない教会を意味する。かって読んで時は目を通したに過ぎないことを実感する、何も感じずにいたのだ。
2016年11月10日
「燃えあがる・・」一部三部の文庫本は古本屋で購入したので、二部の古本を神保町で捜しても見つからない。
まあ、そうはいくまいと思い、文庫本の新本を求めようと考えたが、丸の内の丸善にない、神保町の三省堂にもない。八重洲のブックセンターにもないのである。
出版時に買った単行本で読むしかないか。2016年11月6日
コクトーの「バッカス」を読む。
コクトーは「恐るべき子供たち」を読んだだけ、絵画展のようなのをみた記憶があるが。
バッカスは渡辺一夫と山崎庸一郎の共訳である。当然、大江健三郎は原書からの引用でvacchusとなっている。
大江健三郎はフランス文学専攻だったのに、英文学からの引用が多く、仏文学からは少ないような気がする。
バッカスの舞台は1523年、16世紀だ、大審問官もその頃ではないかと確認すると、「舞台は16世紀」となっている。
第二幕六景のハンスの台詞に「地獄廻り」があり、神曲からのもので、「ただ彼の身代わりになれるだけだ。」は「燃えあがる・・」の「・・自分のいのちよりも、あなたのいのちが大切・・」に繋がるのだろう。p238
中野重治の『春先の風』は短編で、警察に捕まり、その間子供を失い、《わたしらは侮辱のなかに生きています。》と書く。
中野重治全集の一巻に載っているので本当に初期の短編である。
書き出しが3月15日・・となっている、これは3.15事件を書いたのだ、後から気がついた。
埋もれているような作品が生き返ってくる。大江健三郎も埋もれつつあるか。2016年11月4日
「燃えあがる緑の木」第一部を読み終える。
文庫本の第一部、第三部は古本屋で買ったので第二部の古本はないかと今日、神保町の古本まつりで捜してみたが、やはりなかった。
そう問屋は卸さないということだろう
ところで第二部、
作品の題名がイェーツの詩「Vacillation/揺れ動く」p216からきていることを知る。高松雄一編では「動揺」
大江文学の「ズレ」を気になっていて、この作品にはp34ズレて行く、p76ズレの問題、p137ズラした声、と何回か出てくる。
僕ではなく、サッチャンが私と語り始める作品、大江健三郎には珍しい女性の独白体の作品、龍之介も太宰も女性の独白体の短編を書いていたはず。
独白体といっていいのかな自信はない。
ギー兄さん、壊す人が出てくる、かっては飛び飛びに、それも何年も間を置いて読んでいたので同工異曲のように感じていたのに、今回継続して読むと、それぞれ異なったギー兄さんで、この第一部では新興宗教の教祖になり損ねるような役割で後のオウム真理教事件を思わせるような「インドのグルー」という言葉が出てくる。
何せサッチャンは両性具有、性転換者でここに大江健三郎の今までにない視点がある。
大江の小説には神曲は問わず他の作品からの引用も多く、読書会案内にもなる。
この作品では中原中也訳ランボオの「永遠」p176、コクトーのBacchus p250がある。
いずれも市立図書館にある。
粟津則雄訳は家にあるのでそれと比較したい。
中原中也訳が「永遠」なのか、「地獄の季節」の引用なのか、確認したい。
中原中也全集で確認すると、
もとより希望があるものか・・のスタンザが四連目にあることから、「地獄の季節」での引用に依るものだろう。
このスタンザが粟津則雄訳では「永遠」では五連目で「地獄の季節」では四連目で太陽にとろけたになっている。
鰻屋で中野重治の色紙に『春さきの風』の結びの手紙の言葉《わたしらは侮辱のなかに生きています。》p156
タカラ椅子p135、懐かしくなる。
永遠と一瞬よりはいくらか長く続く間p170〜、一つの時間論がある。
ラウリーの『泉への森の道』p183の翻訳はないだろうと思いネットを検索していたら、野呂正著「泉への森の小道」(U)マルカム・ラウリーの生と死の道、があり、この作品を窺い知ることができる。
「転換」p179は英語ではconversionであるが、「懐かしい年への手紙」p416の改心(ルビはコンヴァージョン)には結びつかない。)2016年11月2日
原基晶訳の神曲地獄編を書店で捜したら、丸の内丸善、浦和パルコ紀伊國屋、須原屋、三省堂にもない、あっても煉獄編、天国編だけなのだ。
そうなると、益々欲しくなる。
遂に見つけた、書泉グランデにあったのである。
1430円、今まで購入した文庫本では最も高価、但し1983年に購入した岩波文庫野間宏の青年の輪(1)が850円、今だったら幾らになるのだろうか。(1)の途中までで挫折した本だ。2016年10月25日
16日、毎日新聞の書評欄に「『神曲』とは何かと」(村松真理子監修/別冊宝島)が載っており、紀伊國屋で求め読む。
ムック本を購入するのは初めてような気がする。
図版が多く、ブレイクのもある。
ページ数がすくないので超要約となっている。それでも丁寧に読まないと理解し難い。歴史が動いている動こうしている時代なので初めて聴く登場人物も多い。
肝心の神曲、図書館からかりるのではなく、購入したいものだ
まるっきり口語体だけど講談社学術文庫の原基晶訳がいいだろう。文語体は大江健三郎の小説で読むとして。2016年10月20日
隠遁者ギーが亡くなり、ギー兄さんが亡くなり、「燃え上がる緑の木」に再登場してくる。
文庫本の「燃え上がる緑の木」一部三部は古本屋で購入している。それならば二部の古書もどこかにあるはず。2016年10月20日
久しぶりに安部公房の「砂の女」を読んでみた。
古本屋で100円で購入したものだ。
学生の頃映画にもなって話題になった。
当時、小市民化を促すものと共産党は批判していた記憶がある。
スターリン社会のもう一つの面、大審問官の裏からの表現になる。
安部公房特有の文学空間、その構想力
は確かにノーベル賞ものだろう。2016年10月17日
「懐かしい年・・・」を読むのに遠回りしていた。戻れなくなってしまいそうだったが、何とか読み終えた。
キュウリをキウリにしたのは中野重治を参考にしたようだ。p165
p320の「受け身はよくない」も中野重治からのもので、中野重治がどこで使ったのか調べるのは容易でないだろう。
松山から隣町まで汽車に載る、p263、途中まではあれ汽車に乗って谷間に行くのは初めて出てくると思う。
5,6歳年上のAさんp286、岸田今日子かと思っていたら、p289に宝塚出身のAさんとある、そうすると新玉美千代のことか、信じ難い。
この小説は自伝的な要素が深く、私個人からfictionの世界への形を採るのが大江の特徴、事実から真実へと言い換えることもできるか。
この作品の重要な存在がギー兄さんと妹で、実際に妹がいたのか、年譜をみると確かに存在している。
小田川p233も確かに実在の川だ。今頃になって調べている。
長い間、実在の個人から出発して文学の世界を構築して行く大江文学をその個を含めて意識的にfictionと考えて読んできたので、年譜を見たり家族を含めた写真を見るのも最近のことである。
ギー兄さんは伊丹十三がモデルとなろうが、大江健三郎の分身であることも間違いなく、ギー兄さんの「死者の奢り」p276、「個人的な体験」p371に対する批評は出版当時あったもので大江健三郎自身その批評を納得もしていたことになるのだろうか。
故郷を懐かしむ、ブレイク詩「Under Saturn」から始まり、ダンテで終わって行く。
私のダンテへの理解が浅く、読み切ったとは言い難いのが残念。
「懐かしい年・・・」を読むのは今回で三回目のはずだが、全くいい加減だった。若い時分は時間があるのに走り読みし、時間がない今になってゆっくりと読んでいる。不思議なことだ。
森を「・・放射能の灰とラジオ光線の毒とに/ありとある市 ありとある村の/人間 家畜 栽培物が浸食される時/森におこっているのは驚くべき/生命の更新である。森の力は強まり/・・」書いて入るが、除染されずに残っているフクシマの森を大江はどう考えているのか、既に発言されていて私が知らないだけか。
投光器を解体して幻灯機を作ったp236、雑誌の図版を壁に写したのだから、OHPのようなものだろうが、どう考えてもできそうもない。2016年10月2日
「懐かしい年・・・」読書を再開。9月30日
「「罪のゆるし」のあお草」を読む。
ブレイクのピカリング稿本中の「知の旅人」(松島正一編では精神の旅人)は奇妙な恐ろしい叙事詩である。
作品での僕の罪は何なのか、少年時の父に対する思い、ヒカリに対する思いか。
少年時の「神隠し」も関連してくるのだろう。
ブレイク詩集の編者が他の作品でなく、「「罪のゆるし」のあお草」を紹介したのには納得するものがある。2016年9月27日
更にネットで「われらの狂気を・」のオーデンの詩を検索していたら次の詩がみつかった。
ぴぴんさん訳で良さそうだ。
The great arc of travelling shadow,
Moves over land and ocean, altering life…
オーデンの詩は題名と詩の一行目の同じ場合が多い。2016年9月27日
「われらの狂気を・・」を読む。
詩と小説の関係には了解されるものがある。
詩を小説に利用するのではなく、詩に拠って喚起させられる小説、詩に拠って深められる小説、詩人がブレイクでありオーデンであることから外国語に翻訳された場合、理解され易いだろう。
全然視点は異なるが、第三部 父よ、あなたはどこへ行くのか?について
ここに父が大きい背を向けて録音機に向かって過ごし、スパイとの疑いが記されるシーンがある。p337
このようなシーンを「万延元年・・」と重ねて記憶しており、「万延元年・・」を読み返してもそのシーンはなく、何だったのかと思っていた。
雑誌で「父よ、あなたはどこへ行くのか?」を読んでいたのかもしれない。
ブレイクの詩 My mother groan'd! my father wept.・・ は岩波文庫対訳ブレイク詩集に Infant Sorrow の第で乗っていた。
排骨湯麺が美味しいと書いてあり、どんな麺かと調べたら、パイコー湯麺、
これなら食べたことがあるはず。
「父よ、・・」を読んで、強く感じたのは私自身の父はどんな風だったのか、父の亡くなった年齢35歳を過ぎてから思うことが多かったのだが、母に訊かず仕舞いなのが残念である。
私は父の倍以上の年齢を生きている。2016年9月23日
「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」の第三部はオーデンとブレイクの詩を核とする二つの中編となっており、ブレイクに目を通さねければならない。
古書店で買った岩波文庫の「ブレイク詩集」のまえがきを読むと、大江健三郎氏の短編「「罪のゆるし」の青草」に影響を与えたとある。
私は読んでいない。大江作品を余り読んでいないことがバレてしまう。
この作品、ネットで調べてもどこに収載されているのか不明である。
レーンツリーを聴く女たちに載っているように書いてあるのがみられるが、そのようなことはなく、ネットで更に調べると短編集「いかに木を殺すか」に収載されているのが判明した。
運良く、文春文庫の「いかに木を殺すか」を古書店で50円で購入していた。
「われらの狂気を・・」の後の作品なので、「われらの狂気を・・」を読んでからにしようと思っている。2016年9月21日
そんなわけで、短編集「われらの
狂気を生き延びる道を教えよ」新潮文庫1975年発行を読む。
「核時代の森の隠遁者」が「万延元年・・」の後編になるものであることを知る。
但し、坊さんがぼくとなる。2016年9月10日
「懐かしい年への・・」
「万延元年・・」ともうひとつの短編p16とあるのに、その短編が不明で調べてみると「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」にあるようだ。
この本購入していたつもりだったが見あたらず、文庫本一冊50-100円の古書店にもなく新文庫本で購入した。
今は大江健三郎の人気はなくなり文庫本は古書店のワゴンで買っていた。
「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」に依ると、この題名はオーデンの詩から選ばれたもので、それではとオーデン詩集を借りて読もうと思ったが、深瀬基寛訳はなく、中桐雅夫訳を借りたが、当該題名の詩はない。
だが、解説を読むと、「見るまえに跳べ」「狩猟で暮らしたわれらの先祖」はオーデンからの引用となっている。
特有な題とは思っていたが、そこまで考えるには至らなかった。
中桐雅夫訳の一番初めに出てくる「きょうは顔をあげて、ぼくたち、おなじような夕方を/思い出してる、小川が砂のうえを流れ、はるかに/氷河を望む風のない果樹園を一緒に歩きながら。」は大江健三郎の初期作品を連想させる。
肝心の大江が題名に引用した詩は載っていない。
これは深瀬訳がそのまま検索できた。
狩猟で暮したわたしたちの先祖は
生きものの悲哀の物語りをものがたった
留めを刺された獣の顔に刻まれた限界と欠乏とを憐んだ。
ライオンの不寛容の面魂のなかに見た
射止められた鹿の死にゆく眼光の裏に見た
人間の栄光を狂ひ求める「愛」を見た
理性によって弥増すであろう人間的栄光を、
あの寛容の衝動と支配力を
ひとつの神の正しさを。
あの美くしい伝統に育てられながら
いったい誰が予言したか、
「愛」とは本来、込み入った罪の筋道に
適合することを誰が予想したか、
人間の靭帯が彼の南国身振りをこのように修正して
人間の成熟した理想を作り得ることをーー
考へることは何もない、わたしたちの考えのほかには何もない、
飢えることだ、非合法に働くことだ、
そして自分の名前を消すことだ。
(深瀬基寛訳)
Leap Before You Look W. H. Auden
The sense of danger must not disappear:
The way is certainly both short and steep,
However gradual it looks from here;
Look if you like, but you will have to leap.
見るまえに跳べ W. H. オーデン
危険の感覚を失くしちゃいけない。
君の行く道は、たしかに、急で険しいものだ、
ここから見ると 緩やかなものに見えるけれどね。
好きなだけ見ていていいさ、でも君はどのみち跳ばなきゃならないんだ
(本買記訳)
については明確にその訳が?のところがあるが、ぴぴんさんのブログで
偉大な方舟の進み行く影が
大地と大洋に落ち、いのちを変えてゆく…
ああ、われらの狂気を脱する道を教えよ
凍結した心の完璧なふるまいをかきみだし、そしてまた無様に生きさせよ…
心を奪う頭の中のがらくたの山を捨て、うしなわれおののく意志の力を奮い
呼び集めてこの地に解き放て…
森が嘘になってゆく…」
(ぴぴん訳)
W.H.オーデンの詩;
《ああ聞こえてくる、わたしたちのまはりに上海から湧き上がる
ゲリラ戦の遥か彼方のつぶやき聲と入り交って
「人間」の聲―「われらの狂気を生き延びる道を教へよ」2016年9月10日
「懐かしい年への・・」に戻って、
実に遅読、遅読を自慢にしてもいいんだが。
p136にモームの「人間の絆」に関するところが出てくる。読んでおいたので良かった。
ディケンズといい、大江健三郎は英文学との繋がりが強い。
大学ではフランス文学が専門なのに、サルトルなど思想的にはフランスなのか
「燃えあがる 緑 木」はp142辺りに出てくる。
2016年9月1日
図書館に予約しておいた岩岡千景著「セーラー服の歌人 鳥居」KADOKAWA刊が取りおきされてるとのメールが入り借りて読む。
歌人の鳥居、現実が酷くても短歌(居場所)があれば生きていける。
現代の短歌はこんな風なのかと一寸知る。
鳥居の作品から私の選んだ一首
「包丁のひかりを帯びて一筋の冷たい風が研ぐ冬の街」
寂し過ぎる。
芸術は弱い人のためにある。太宰治の「畜犬談」、読んでなかった。
私も高校生の頃、幾首か書いたはずなのにほとんど憶えていない。2016年8月27日
「懐かしい年への手紙」を再読(再々?)するに当たって、W.B.YeatsのUnder Saturnを読んでおいた方が良いのではないかと思い、ネット(余白氏のHP)でダウンロードし読んでみる。(1921年出版の詩集Michael Robartes and the Dancerに収録)。
Do not because this day I have grown saturnine
Imagine that lost love, inseparable from my thought
Because I have no other youth, can make me pine;
For how should I forget the wisdom that you brought,
The comfort that you made? Although my wits have gone
On a fantastic ride, my horse's flanks are spurred
By childish memories of an old cross Pollexfen,
And of a Middleton, whose name you never heard,
And of a red-haired Yeats whose looks, although he died
Before my time, seem like a vivid memory.
You heard that labouring man who had served my people. He said
Upon the open road, near to the Sligo quay --
No, no, not said, but cried it out -- 'You have come again,
And surely after twenty years it was time to come.'
I am thinking of a child's vow sworn in vain
Never to leave that valley his fathers called their home.
余白氏訳と鈴木弘訳を参考にして読んだ、大江健三郎訳も。
詩の翻訳は神業だ。
「懐かしい年への手紙」の出だしに、
I am thinking of・・が大きな意味あるのだろうが、イェーツに対し理解不十分であり、何ともいえない。
今回、イェーツを一寸知ったのは成果か。
Man , do not pride.・・
Young man be not forgetful of prayer・・
である。
原卓也訳の新潮文庫で調べると、中巻の107、108ページにそれがある。
鉛筆で印し付けられていた。「懐かしい・・」以前読んだ時チェックしたのか、「洪水は・・」を読んだ時に記したのか、全く記憶がない。
「カラマーゾフ・・」を三回は読んでいるのに全く読みが浅い。2016年8月19日
こんな本あったのかと思い図書館借りて読む。
埴谷雄高編「内ゲバの論理」1974年三一書房刊。私が30才の頃か。
高橋和己「内ゲバの論理は越えられるか」、これが掲載されているのか、「わが解体」に書かれたものだ。ー主要打撃論理と人民戦線路線、大衆の参加しない組織。
「暗殺の美学」埴谷雄高ーマクベスートロツキー「テロリズムと共産主義」、「暗殺の哲学」高橋和己ーカミュ「正義の人々」、「憎悪の哲学」埴谷雄高、「目的は手段を浄化しえるか」埴谷雄高、「リンチの思想」鶴見俊輔、「市民的権利の立場から」久野収
あとがき「内部からの声を」ー似而非革命ーを埴谷雄高が書いている。2016年8月13日
短編コレクションTに金達寿の「朴達の裁判」も載っている。
著名な作品なので読んだような読んでなかったような。
阿Q正伝を思わせるような小説である。2016年8月11日
ガッサーン・カナファニー著岡真理訳「ラムレの証言」を河出書房新社刊世界文学全集V-05 短編コレクションTで読む。
パレスチナを忘れてはいけない。
この作品の書かれた時分(?)、映画「栄光への脱出」「情婦マノン」を面白く観ていた自分が情けない。2016年8月10日
今期の芥川賞受賞作、村田紗耶香「コンビニ人間」を読む。
面白い、ユーモアがあって面白い。三島由紀夫賞など受賞しており、新人ではない文章が力になっている。
表題通りのユーモア性があるのだが、最後には恐ろしくなってくる。
2016年8月6日
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ著松本妙子訳「チェリノブイリの祈り」を読む。
著者はノンフィクション作家で2015年のノーベル文学賞受賞、書店にはたまたま無かったので市立図書館に予約しておいた。半年以上経って図書館から取り置きしましたとのメールが入ったのが前月、退院直後知り合いに図書カードを預け借りて来てもらった。
チェリノブイリ事故のベラルーシの被害者何十人にも対する聞き取り、ドキュメンタリーなのにフィクションと思わせられような凄惨さ、淡々と記されているような中の凄惨さが恐ろしい。
「事実は小説より奇なり」のレベルの話ではなく、人間の精神状態の複雑さである。
チェルノブイリは1600レントゲン、毎時3000マイクロレントゲン、50キュリーの世界。
フクシマは年間10ミリシーベルト、約7000ベクレルの世界。
単位換算換算
1キュリー = 3700ベクレル
1シーベルト = 100レム、 1レム = 10ミリシーベルト
1 Sv = 100 rem[1] = 100,000 mrem (ミリレム)(ネットより)
だからと言ってフクシマは安全度が高いと言う気は毛頭ない。2016年7月27日
整形外科に入院中で痛みがあって、読書三昧と言うわけには行かない。
その点、子規はすごいな。
「火山の下」で読書に疲れた。
一度は目を通したいと思っていた「コーラン」(上)井筒俊彦訳(岩波文庫)を読む (?)。
旧約聖書、新約聖書の後を継ぐ書であろうが、そこに描かれているのは神話の世界ではない。
極めて世俗的で、一夫多妻、豚肉の拒否が書かれている。
この書が何故これほどまで力を持ったのか、興味あることだが、関連書を含めてそこまでは読み込まない。2016年7月3日
「火山の下」、何たる難解な本だ。
複雑たる時代1938年、当時のメキシコを知らなければならない。これがかなり困難。
解説を先に読んでから読むべきだった。主人公のジェフリーはアル中か、強度のアルコール依存症だ。
大江健三郎もアルコール依存症のような気がする。
意味不明と思われる部分も多い、本来注釈が必要な小説であろう。
じっくりと一年くらいかけて読むべき本か、螺旋階段を地獄に向かって崩壊していくアル中ジェフ。
火山の下は12章よりなり、それぞれの語り手が異なっている。そこにあるズレ、同時代ゲームの六通の手紙のズレに関連ずけられるか。
誰か、謎解き「火山の下」を書いてくれないか。
二十一世紀もアル中だ!2016年6月21日
図書館に予約しておいた「火山の下」が取り置きされたので借りて読み始めだが、長編、事情があって期間内には三分の一しか読めずに返却。
書店ありそうなので購入して読もう。
第一章は男性二人がカジノ閉じたカフェのテラスで二つの火山を背景にしてで話し込んでいる。
好ましい第一章である。2016年6月16日
「神曲」読み終えるには一年はかかるだろうと思い、図書館に返却し、「火山の下」を借りて読むことにした。
本を読むには、
目を通す、字句を追う、読む、読み込むがある。
私の場合は「字句を追う」と「読む」の中間で、真ん中だったり左に寄ったりである。2016年6月12日
ラウリの「活火山の下で」はあちこちに出てくるので読んでいた方が良さそうと思い、市立図書館のHPで検索すると蔵書はなさそう。
ネットで調べると確かにある。
白水社の新しい世界の文学〈第35〉「活火山の下で」がある。加納秀夫訳である。
1966年刊の古書で¥4798〜となっている。
何故細かく書くかというと新しい世界の文学シリーズ発刊は学生の頃で買い始めて途中で読む力が無くなって購入を中止したシリーズなのである。
金もないので購入したのは10冊に及ばないので「活火山の下で」を購入には至らなかった。
なお、購入した分は行方不明である。
これを図書館から借りるなりして読もおう
「火山」を読んでないのだが。2016年6月11日
「懐かしい年への手紙」を少し読み始めたらダンテの神曲をせめて引用の部分は読んでいた方がよいと思い、神曲の世界に一寸触れてみた。
大江健三郎は岩波文庫の山川丙三郎訳がお気に入りで、これを読んでみると文語文で、曲の末の注を読みながらでなければならない。
ところがその注の字が小さく、中には潰れた漢字もあり極めて読み進めにくい。
そこで新訳をチェックすると講談社学術文庫の原基晶訳が読み易い、本来の神曲が三行毎に分かち書きされているようで、それに従っており、文体も現代文で、注が頁毎に載せられている。
山川訳では第一曲第二曲となっているのに原訳では第一歌第二歌となっている。
神曲は本来詩であることから山川訳の文語体には詩らしさと格調の高さが感じとれる。
原訳でも読み進める、ダンテと一緒に地獄に入るのは至難の技、引用されてる部分を調べてみる。
第十三曲(原訳では第十三歌)が引用されており、特に四十行目で山川訳「たとへば生木の一端燃え、一端よりは雫おち風聲を成してにげさるごとく 詞と血と共に折れたる枝より出でにき・・・」、原訳「ちょうど青々とした生木が両端の一方から 燃やされると、別の端からは滴を垂らして 出て行く蒸気が燻る音をはじめとするたてるように、 絶たれた元枝から 言葉と血がいっしょにあふれていた。・・・」とあり、
懐かしい年への手紙ではp38。
2016年5月28日
二冊100円で購入した「いかに木を殺すか」(文春文庫)に収録された「いかに木を殺すか」を読む。
手紙ではないのだが「同時代ゲーム」の第七の手紙のような作品で、この中で何度か「同時代ゲーム」に触れている。
「世界舞台」は村=国家=小宇宙であろう。
下世話で、Wはすぐ分かるがS君 H氏 A君は誰なんだろうと思ってしまう。
関係ないが、かってミクロコスモスというパソコンソフトがあり、windows以前の定番ソフトだった。
当然「雨の木」にも繋がって行く面がある。
解説は川西政明で、埴谷雄高が「自分のこと」で「 」と書いている紹介し、大江健三郎の仕事を「自己」→「自己の他在化」→「自己の多在化」と捉えてるのには成る程なと考える。
埴谷雄高のそれが載っている本は河出「ドストエフスキー論集」で、家にあったはずの講談社「ドストエフスキー全論集」が行方不明だ。2016年5月24日
新潮文庫(性的人間)に収録されている「共同生活」も読む。
四匹の猿と住む主人公、一つの部屋に四方向から見詰められ、拒否したいのだが拒否できず、そのことによってのみ存在感を味わっている。
最後に猿の存在は幻覚と判明する。
今まで知らなかった作品だ。大江健三郎は実に色々書いていたんだ。2016年5月20日
「政治少年死す」、高校の頃雑誌で読んでもう一度確認したかったのである。
出版はされておらず書籍で読むことはできないが、ネットで読むことができる。
モデル小説ではないが、モデルになった浅沼稲次郎を暗殺した山口二矢は私より一歳上、その現実に圧倒されており、小説には違和感を覚えていた記憶がある。
ついでに読んでなかった「セヴンテーィン」(性的人間ー新潮文庫に収録)も古書店で二冊100円の文庫本を購入して読んだ。
右翼少年を描くだけでなくそれを通して人間の「存在」の仕方を表現しており、それには圧倒される。
山口二矢=おれと考えれば、右翼も脅迫したくなろうが、一人の右翼少年を描いた考えれば感謝状を贈る価値ありだろう。
これも実存主義の小説ではなかろうか。2016年5月15日
「同時代ゲーム」を読んで、
単行本を購入して読んだ時は大江健三郎の作品を読まないわけにはいかない、そんな風でしかなかったかなと思う。
単行本では電車の中で読むのは不便で、今まで文庫本の購入は古本屋で購入し、神保町界隈で探しても見つからず、1000円以下ならばよかろうとと新潮文庫の新本を購入した。
以前に読んだ時、何が同時代なのか、何がゲームなのか分からなかった。
この作品は僕から神話的存在の妹宛て出された六通の手紙からなる。
それぞれが一つの作品のようでもある。
第一の手紙
メキシコからの手紙でマリコナルの遺蹟と村=国家=小宇宙を重ね合わせられ、「壊す人」が村を建設するのだが、先住民族を追い払って建設することが暗示されている。「壊す人」はアナーキストのようなとも考えたが永久革命論の方が適しているか、日本書紀に触れられていることからも神話の世界である。
「・・ウーウーと唸って・・」(p28)は晩年様式集の「ウーウー声・・」(p14)に連想させられる。
第二の手紙
スターリン=壊す人=絶対権力者、その暗殺者シリメ、ダライ盤、神話の世界は続いて行く。
「かれらの同時代に生きていた・・」(p174)と同時代はここに表れ、最後まで出てこない。
第三の手紙
亀井銘助の末裔の演出家、これでまた同時代になるわけだ。
川を汚すのは川を格下げ(p237)する行為とするのは納得だ。
第四の手紙
ここで五十日戦争が描かれて、戦争戦術の机上(空想)作戦の展開、著者はゲームをするように作戦を考えたのではないだろうか。
これでもって題名のゲームと考えるのは矮小化なのか。
色々な作戦が実行されて面白い。
第五の手紙で「僕」の兄弟がはっきりと示され、露一、露二郎、露巳(つゆみ)、露己(つゆき)、露留で「僕」は露己である。双子の妹が露巳、へびであることは象徴的だ。神話の完成度を上げていく。
「ツユトメサンが壊す人はじめ創建者らのイメージにとりつかれている・・」(p442)とり憑かれているのは「僕」であり大江健三郎だろう。
題名のゲームには結びつかないがp469に「ゲーム」が出てくる。但し野球関連のゲーム。
第六の手紙
森のフシギ、大江健三郎が創作した???である。
アポ爺、ペリ爺が特高に逮捕される。
それぞれの手紙が競ってげーむのようになってるとは思えないのだが。
大江神話の世界にどっぷり漬かってしまった。2016年5月11日
新聞の書評欄の片隅に載っていた夏樹静子著「腰痛放浪記」を図書館から借りて読む。
結果として、心因性の腰痛で、それを治してくれる医師に巡り会い絶食治療を受け快癒して行く。
それまでの三年間の痛み、私の腰痛などかわいいものだ。
何軒か整形外科、針治療、整体、宗教、有名どころには殆ど行っている。
まあ、金がないと受けられない治療でもある。
2016年5月1日
大学受験きっかけのひとつであったNHKドラマ「あすなろ物語」で井上靖の旧制高校時代をモデルとしたドラマであったのを再確認する意味で「あすなろ物語」を読んだところ、旧制高校時代そのものに相当する部分は描かれててはいなかった。
ドラマについて古い記憶を掘り起こすと女性関係とマント姿で砂浜を彷徨する四高生で、脚本家筒井敬介の作でもある。
原作は、所詮は桧にはなれないあすなろの一寸悲しい小説であることも知る。2016年4月24日
蓮池透著「拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々」を読む。
書店に行ったら売り切れで図書館に申し
込み予約待ちで読んだ。
どぎつい題名だが、返還活動の経過が冷静に述べられ、私が拉致問題について考えていたことが含まれ、同意する点も多い。
「解決」の定義の不明確さ、(支援会)が政治にふりまわされている実態、安倍晋三の「任期中に解決します」、「最優先課題として取り組みます」、「最重要課題として取り組みます」。
安倍晋三の欺瞞性は批判するにも値しない。
5人の一時帰国時約束を破って北朝鮮には戻さない、私としてはこの判断には疑問を感じている。北朝鮮と何らかの打ち合わせがあってしかるべきではないだろうか。
意味のないというか戦略のない経済制裁。
なにせアンタッチャブルの世界だ。
しかし問題なのは私自身傍観者であることか。2016年3月29日
続き
小森は万延元年のフットボールから書き始め、安保闘争の解釈の違いがズレを意味するものであると、それならズレが分かり易い。
著者は二分法を提案しており、万延元年の一揆、60年安保闘争、また鷹四と密三郎、古事記と日本書紀と。
二分法が男と女、悪と善、文明と野蛮、勝者と敗者といったものならば通俗小説に陥ってしまう。明と暗、肯定的と否定的と考えれば納得である。
古事記と日本書紀を提出しているのは卓見だ。
否定的部分を再分割してその否定の部分の再分割していく中に大江文学の全体が見えてくるとしている。
いい読書案内にもなっている。2016年3月25日
更に『同時代ゲーム』の読書案内になりそうだと思い小森陽一著「歴史認識と小説 大江健三郎論」の『同時代ゲーム』の部分「第三章 千年の交渉者」を読む。借り物の本である。
2016年3月24日
小学館 日本の作家23大江健三郎において、
加賀乙彦が根源への遡行ー大江健三郎『同時代ゲーム』を読むと題し、六つの手紙からなるこの小説の手紙にはそれぞれずれがあり、そこに読者の参加を求めており、作者と読者とが、物語を作り上げるのを競い、ゲームをおこなっている趣がある。ーなるほどと思う。
地形も意識的にずらしているのか。
死と再生の物語とみている。2016年3月22日
「同時代ゲーム」の解説は四方田犬彦が書いている。
題名の同時代は何を意味しているかを書いている。
小さい時間と大きい時間と。2016年3月17日
「懐かしい年への手紙」、読み始めて、その前に「同時代ゲーム」を読んでおいた方がよさそうだと思い、通勤電車の中でも読みたいと思い文庫本を探したが意外にないもので、気分転換も兼ねて小学生高学年以上向けの「自分の木下で」を読んだ。
大江健三郎の作品は個人生活と虚構を微妙に繋ぎ合わせて文学空間を想像して行くもので、個人生活そのものを書いたものは避け気味で、今回はじっくり読んでみた。
大江ゆかりさんの画には優しさが溢れている。
あちこちに書かれたことではあるが、光さんの「お祖母ちゃん、元気を出して死んで下さい!」p160は大江健三郎どうよう、私も元気を出して死ぬことにしたい。
少年時代は木の上で、大人になってからは電車の中で読書するのは他にすることがないので集中できると書いてあり、私の電車読書もそうかと思う。
場所に関しての芥川賞受賞作があったと思い、ネットで調べたところ、円城搭の「道化師の蝶」であった。
芥川賞受賞作の掲載された文藝春秋は保存しているのだがこの号はない。
「飛行機の中で読むに限る」に始まる小説である。
その中にラテン語で書かれたとされる小説「猫の下で読むに限る」が出てくる。この印象が深く記憶に残っている。2016年3月14日
「懐かしい年への手紙」を読み始めている。
単行本では大きいので、文庫本を中心に読む。解説等を先に読んでから本書に入ることにし、単行本には付録に、大きい「懐かしさ」にむかっての大江のインタビューが載っている。
そこに「・・僕がずっといだいているのは、今日の核時代において、人類が二十一世紀へ生き延びうるとすれば、それはキリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラムの人たち、それに仏教徒らという、信仰を持つ人たちと、宗教を持たぬ人間とが、なんとか協同して、ひとつ祈りをおこなうことがあってはじめてじゃないか・・」とある。
それを裏切ってるのが二十一世紀の現実だろう。
宗教にある独善性、内包する男女差別を考慮すると宗教には否定的にならざるを得ない。
文庫本(講談社学芸文庫)では作家案内は黒古一夫が書き、解説は小森陽一が書き、大江健三郎が「著者から読者へ」を書いている。
小森もダンテには触れており、ダンテを読まないと理解が浅くなってしまおうが、神曲を読み解く時間はない。
「ズレ」については触れられず、解りにくいが比喩について、暗喩、還喩、提喩、反語法(アイロニー)を取り上げているのが興味深い。2016年3月9日
寺山修司地獄偏を読む。
購入したときにちらっと覗いただけできちんと読んでなかった。
恐らくランボーの地獄の季節が念頭にあったのだろう。
龍之介の地獄変はどんな小説だったのか思い出せない。
寺山修司のこれはやはり長編詩の領域で、思い出すのは高校生の時に聴いたラジオドラマで犬神云々で強い衝撃を受けた。
ネットで調べると「恐山」だったようだ。
地獄偏の単行本は1983年1月1日発行(ネット調べ)なっているが、読んだのは普及版で1983年7月1日発行、寺山が亡くなったのは1983年5月4日(肝硬変腹膜炎敗血症)であることからその逝去を悼んで出版されたのであろう。
それで購入したわけだ。
内容はおぼろげな記憶の「恐山」と同じような寺山修司の世界である。
「恐山」もドラマではなく長編詩だった気がする。
老いたる私にはあの震える感動がなくなっている。2016年3月5日
村上春樹は翻訳の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を読んだだけで何も読んでいない。
全然読んでいないのは不味かろうと「ノルウェーの森」を読んだ。
発行は1987年、88年に22刷、ベストセラーだ。
厭世気分を淡々と自分自信を語って行く。
高校でも大学でもこんな風に書くのがいたなあと思い出す。
「一人の美しい女」p8、美しいをそのまま言葉に出して来るのには抵抗を感じる。それは出さずに語って貰いたい。
何時の時代か、その時の貨幣価値はどのようなものかと気にしながら小説を読む。
新宿「西口の原っぱ」p151、山の稜線が・・「まるで『サウンド・オブ・ミュジック』のシーンみたいですね」p252、
「学食ランチ、A120円B100円C80円、Cが食えないのは60円のラーメン」p104、「20歳」かp126、「クレジットカード」p114、「1969年」p159・・となればはっきりする。
当時、クレジットカードがあったのか、それには全然気がつかない安サラリーマン生活をしていた。
ブツブツ喋る語り口、何となくライ麦を連想していたら、「・・不思議なしゃべり方するわねぇ」・・「あの『ライ麦畑』の男の子の真似・・」p182と出てくる。私の感想は先取りされている。
何せエロチシズムの表現が多い。高校生の頃読んだとしたら太陽の季節以上の衝撃を受けたと思う。
「好きな人に毎晩抱かれて、子供が産めれば埋いい・・」p124、村上はこんな女性を肯定するのか。
ハツミさんへの感情の震えは「少年期の憧憬のようなもの・・」p116、この「憧憬」を描いた小説と考えても良いのかも、それにしても猥褻だ。
村上は1949年生まれで私より三歳若い。どの作家もそうなのだろうが幅広い知識にはやはり驚く。2016年3月1日
「帝国の慰安婦」
発売当初書店には在庫がなく、図書館に予約していたが予約待ちが多く一年以上先になりそうなので購入読んだ。
納得する面が多く、特に植民地いう構造の中で捉える点、業者、慰安婦宿主、女衒が実務を担っている。
私としては国より民であり、民間が元慰安婦を支援するのを支持する、国の責任逃れの手段であったにしても。
被害者は老齢化している、これは絶対見逃してはいけない。
日韓双方に政治に利用され過ぎだ。
あったとはずの本「朝鮮人強制連行の記録」が見つからない。戦時中禁止された慰安婦の写真が載っている写真集もあったはずだが。
性奴隷、性奴隷と言われようが人間性が残っているのにはほっとする。
奴隷と言われようが家畜ではないのだ。
慰安婦については触れられていない。
ここでは面長はほとんど日本人とあるが、「帝国の・・」のように面長は朝鮮人で日本の警察官が付き添っている方が妥当なような気がする。
写真集、学生の頃購入した戦時中の不許可写真集は行方不明、実家に置いたままか。
そこには二人の慰安婦が眼鏡をかけ頭に鞄を載せ、振り返って笑っているような写真だった記憶がある。
当時、この二人は今も生きてるんだろうかと思い、笑っている姿にホッとしたことを覚えている。2016年2月28日
新聞の日曜版小説を読み終わる。
もともと毎日読まなければならない新聞小説は苦手でほとんど読んだことはないが、週一回の日曜版小説は読んでいる。
荻原浩作「ストロベリーライフ」、静岡の苺農家に異様に詳しいので出身地をネットで確認したところ、(旧)大宮市出身で大宮高校卒業である。
都内でデザイナーだった恵介が父の病気から実家の苺農業を手伝ってのめり込んで行く小説で、苺栽培の技術的難しさを描きながら人間関係に触れていく。
結末は明る過ぎるが読んでいて楽しい。
人気があったようで新聞社から単行本で出版される。2016年2月26日
津島祐子がこの18日肺癌で亡くなった、1947年生まれで私より若かったとは意外だった。
ほとんど読んでなく、かなり前にNHK TVドラマ純情キラリを再放送で観ていたところ、原案が津島祐子となっており、それにしては変だなと思い、「山猿記」を読んだのが初めてである。
追悼の意を感じ近作の「ヤマネコドーム」を図書館から借りて読んだ。
3.11後にミッチが日本に訪れることから物語は始まる。
途中まで読んで何故ヤマネコドームか不審に思い、スマホで調べた。
ドームはビキニ環礁の放射性汚染物質で造り上げたルニットドームなのである。
確かに表紙はルニットドームの写真である。
ミッチ達混血孤児にまつわる小説で、現在、幼児期、青年、壮年時が前後し不思議な空間となている。
場所は日本であったり、アメリカ、カナダ、ヨーロッパと地理的にも広い空間となっている。
オレンジに絡む殺人、推理小説になるようで推理小説にはならない。
戦後の混血孤児の哀しさが中心となり、チェルノブイリ、3.11が背景にあるものの主張はされない。
ヤマネコはミッチが一時生活していたパリ郊外(?)の古城に現れるヤマネコの眼がミッチの眼に似ていることに由来するのだろう。
ミッチのコガネムシに似た眼は エメラルドグリーンの昆虫に通じる。
主人公は依子ことヨンコである。2016年2月20日
「ローザ・ルクセンブルクの暗殺」を読み終えて。
種々の証言が出てきて推理小説のような様相が現れるが大衆に惨殺されたのではなく、軍に惨殺されたと考えるのが妥当である。
ドイツ革命時政権を握った社会民主党が帝政時代の軍隊、官僚をほぼそのまま受け継いだのが背景にあり、暗殺を座視していたわけだ。
軍事裁判は軍人に有利に進められた。
軍法会議判事ヨルンスはヒトラー政府から民族裁判所判事に任命され、惨殺の中心的役割を果たしたルンゲは後にヒトラー万歳の手紙を書いている。
ヒトラー政権が産まれる下地はすでにあったのだ。
社会民主党がスパルクス団を潰したいと考えていたのが大きな要因ではある。2016年2月17日
「ローザ・ルクセンブルクの暗殺」、読むに従い、虐殺、凄惨さに気分が悪くなる。
民間人が殺されて軍事法廷裁判、軍人に有利となるのは当然だろう。
2.26事件では民間人北一輝は軍事裁判で銃殺となった。これは法的に妥当ではないのだろう。
2016年2月14日
福村出版、小川、植松訳「ローザ・ルクセンブルクの暗殺」を図書館から借りて読んでいる。
暗殺されたのは知っていたが具体的にどんな風だったのか知りたいと思ったのである
。
読み始めると当時のドイツの状態を知らないと理解不十分になりそうなので、図書館から山川出版の「ドイツ史 3」を借り暗殺前後の時代を読む。
2016年2月12日
今期芥川賞受賞作本谷由希子作異類婚姻譚、滝口悠生作死んでいない者を読む。
異類は似て行く夫婦の話でカフカの変身を連想してしまう。
馴れた筆致のようで、恐ろしさが感じられないのが残念。
どう展開するのかと思っていたら夫が山芍薬になってしまうのにはがっくりだ。
死んでいない者は葬式の話で亡くなった祖父には子供が5人、孫がいて、曾孫がいて多人数が出てくる。
記憶力が怪しげになっているので読み進むに従い誰が誰だか解らなくなってしまう。
それが作者の魂胆だろう。
個性的な遺族達。数人に焦点を当てて書き込んで欲しいとの思いになる。
地名に浦和が出てくるので、浦和が舞台らしいのだがイメージが重ならない。
浦和の何処なんだ。
これから選評を読む。2016年2月8日
鴻巣友季子氏が大江健三郎/尾崎真理子の対談に触れていて、掲載誌新潮2005年11月号があったので読んでみる。
確かに「引用する文章と文章と地の文章との間にはまずズレがなきゃいけない、それがありながら精妙なつながり方を」と語っている。
意外や、「現実の自分と書かれた太宰の辻褄を合わせるには、自殺するほかないですよ!」と太宰治について語っている。
また、反体制的な知識人を教育する温床として純文学は大切だとも語っている。
本人に間違いないだろう。2016年2月7日
「キルプの軍団」メモ
地下壕、大江健三郎はこういうのが好きなんだ。子供の秘密基地に繋がるようなのが。
オーウェンの詩は読んだことがない。p135 ネットで調べると、題名がアブラハムとイサクの詩がある。
「魚が水を飲むように」と「」つきで書いてあるので、なにかの引用かと思いますネットで調べたが分からなかった。
「罪の許し」・・私にはいまひとつ理解が及ばない。
region of quilp、キルプの軍団、北川訳ではどう訳されているのだろうか。
もう「骨董屋」を返却しているので確認はしない。
初めキルプを好意的について描く小説かと思ったら、やはりそうではなく、百恵さんを襲うようなものを意味していた。
「キルプの軍団」、「私」から出発し私小説を装って小説空間を構築して行く大江健三郎文学特徴がよく出ている。
過激派(?)を扱うのは大江のテーマであろう。
代表作と言えるのではないだろうか。
2016年2月4日
「キルプの軍団」読書途中、なにせ読むのは遅い。「僕」は高校二年生である。p32,p72(18)
久しぶりに「僕」が主人公になる小説で懐かしさを感じてしまう。
旧約聖書のエイブラハムがコーランではイブラーハムであることを知る。p132
百恵さんに好感を抱く。
サッチャンの名前が出てくるので太宰治のすたこらさっちゃんを思い出したので図書で調べたらそんな題名の作品はなかった。
更にネットで調べる、山崎富栄がが太宰からスタコラサッチャンと呼ばれていたらしい。
小説の中にも現れて来ないようなのに何故記憶にあったのだろうか、山崎との心中に関する読んだ評の中にあって、
それに強い印象を持ち、そう思うようになったようだ。
中野重治について通りぬけ難い暗礁の海を行く文章p201とあり、大江健三郎もさもありなんと感じる。
虐げられられし人びとのネリーは骨董屋のネリーに由来するのか。p2112016年2月1日
「キルプの軍団」、単行本で途中まで読んでいたが、電車の中では大きくて読みにくいので図書館で文庫本を借りて読むことにした。
今までは解説を先に読むとそれにとらわれ自分の読み方ができないと先には読まないことにしていたのだが、最近は読書案内の一つとしており、文庫本には解説があり、それを先に読む。
大江健三郎の「新しい文庫版のために」の中に、この版のために「骨董屋」と「荒涼館」を読み直した(英語版)とあり、「荒涼館」も読んでおくべきかと思われるがこれは止めておく。「ニコラス・ニクルビー」も。
「虐げられし人びと」は「骨董屋」に影響された作品だったのか。
解説は鴻巣友季子(全然知らない)。
「僕」は高校生か、ディケンズの英語版を読むんだから当然だろう。それも三年生か、それも極めて優秀な高校生だ。
主人公のオーちゃんは大江の次男を一寸モデルにしたわけか、モデルを考えながら小説を読む習慣はない。
外国文学には聖書の箴言などの引用が多い。注を読まないと分からない。
振り返れば日本文学の中で最も引用の多い作家ではなかろうか。2016年1月30日
「骨董屋」下巻を読み終わる。
通勤の電車の中で読むのがメインなので時間がかかる。
ネリーもおじいさんも死んでしまう。
クウィルプは暗い海に溺れて死んでしまう。
最後の一行
「すべてのものは消え去っていくのだ!」
クリスマスキャロル、オリヴァートゥイストも読んでおきたい気もするが、切りがない。
まして、下巻解説で「骨董屋」はディケンズの主要長編の中で短い方だと書いてあるのだ。2016年1月21日
「骨董屋」、読むのが遅く上巻を読んだ段階だ。
キルプが北川訳ではクウィルプになっている。
読みにくい訳だなと思っていたら、大江健三郎の文体と似たところがあるような気
がする。大江健三郎は英訳の方が読みやすいのかもしれない。
「キルプの軍団」はディケンズを読ませるための作品ではないか。
ギリシャ神話等々からの引用があったりするので(訳者注)が絶対必要だ。
産業革命時のイングランド下層社会が見えてくる。
可哀想なネリー、おじいさんは只の賭博狂に過ぎなかったのか。
「小人で顔と頭は巨人、陰険で狡猾、身の毛もよだつニヤリとした笑い・・」、こんなキルプに大江は愛着を感じるのか。
「座ることができない椅子」が出てくる。岡本太郎の作品「座ることを拒否する椅子」が連想される。
私が事務所で使っている金属の飛び出ている椅子、これも座ることを拒否する椅子だ。2016年1月12日
「キルプの軍団」、どういうわけか読んでなかった。
読み始めて、ディケンズの「骨董屋」に沿った小説であり、購入当時「骨董屋」を読んでから「キルプの軍団」を読んだ方がいいと思い、そのままにしてしまったを思い出した。
それで今回「キルプの軍団」を途中で止め「骨董屋」を読むことにした。
「キルプの軍団」では中学生がペンギン・クラシック版を読みながら物語が進むのだが、英語版が読める訳ないので翻訳を探す。
店頭には売ってなくて、図書館で借りることにした。
意外に翻訳が少なくてちくま文庫の北川悌二訳を読むことにした。文庫本上下になり上を借りる。2016年1月8日
香山リカ著「がちナショナリズムー「愛国者」たちの不安の正体」を読む。
安倍首相の傲慢さが不安を抱えるネトウヨに安心感を与え、経済政策はミドルクラスに期待を持たれ、現実的に支持率があがっているいるわけか。
傲慢症候群で論理的な話が通じないのも納得、対話を避け、相手を野次で潰しにかかるのも納得。
橋下が学者はテーブルの上だけで役に立たないと対話を拒否し見下すようにするのと相通ずる。
この状況下に如何にすべきかの回答はない。
香山リカが参加していた市民連合もひとつの応えか。
時代の傾向を経済政治だけでは捉えられない?2015年12月28日
SEALDs編著の「民主主義ってこれだ!」を読む。
思想、イデオロギーの本ではない。
SEALDsメンバーのエッセイと対談である。
奥田愛基、参院での意見陳述全文掲載。
写真が多く、そこには生き生きした若者が写っている。
民主主義とは立憲主義である。これだけで他に難しい話しはない。
何故これほど広がったのか、「何かおかしいと」の思いが非党派性非イデオロギーのSEALDsへの参加となったのだろう。
ネットをみると短絡的な発想で批判するのがいる。
このようなシステムが継続することを期待したい。
「「デモなんてやって大丈夫かな?」と、やるまでビビりまくっていた・・・」、よくぞそこを超えてくれた。2015年12月26日
鶴見俊輔著の「教育再定義への試み」を読む。
三省堂本店にも丸善OAZO店にも在庫はなく神保町の信山社で求める。
この本について、大江健三郎が次の三点を語っていた。「死ぬことの準備を自己教育とする」p164、「人間の総体はどんな偉大な個人よりも偉大」p165、「人類は人類を滅ぼそうとしているが、人間の総体は滅びてはならない」p26、
と。
実は自分ではメモも取らずはっきり覚えてなかったので、北野隆一氏による11月16日のtwitterから引用である。
それ以外に、まなざしp13、ひとつの問題に対しひとつの答だけではないp15、偶発性教育p35、失敗した100年間の英語教育p37、学校以外で学ぶことが多い、教育する者が教育を受ける者から教育を受ける、等々教えられるものが多い。
自分の知識の狭さ卑小を知らされる。
77歳の鶴見は「もうろくをくみこんで、今これからの自己教育の計画をたてることが必要だ。」と書いている。
私は?2015年12月20日
大江健三郎の「M/Tと森のフシギの物語」を読む。
この大分前に北浦和の古書店で購入した本である。大分前は数十年前のことでまだ読んでなかった。
「同時代ゲーム」と重なるような本で本格的に森の中の集落が舞台になる作品で物語は継承されて行く過程で虚構が神話になって行く。
神話の独立村落共同体の歴史だ。
遠野物語にも現実性がある。
比較的平易な文章で書かれている。「同時代ゲーム」と比較すれば良いかもしれないが殆ど忘れてしまっている。
分かり易く他の本の入門書になるように思える。
やっと読んだ私は子供以下の読書力ということで納得できるが悲しくもなる。2015年12月19日
TVで原節子追悼の主演映画を放映しており、その中でどのように映画化されているのか関心があり、「白痴」を観る。
はっきり言って黒澤明の失敗作である。
ドストエフスキーの映画化には難しいものがあるのに、「白痴」の映画化は更に難しいものがある。
原節子の美貌をナスターシャに重ねたかった思いは分からないわけではないが、主人公はムシューキンなのだ。2015年12月7日
「ピンチランナー調書」を読んで。
「万延元年」以降、四国の森の物語に入って行ったと記憶していたが、勘違いで革命組織の「自由航海団」「ヤマメ軍団」を書いている。
「ピンチランナー調書」が発表されたのは1976年10月、1975年の内ゲバ死亡者数はネット調べで21人と最大である。
パロっている部分はあるが、これを何とか越えるものをと文学者の立場からのメッセージと考える。
勿論各党派は何も感じはしないだろうが。
共通性を考えるのではなく差異を強調する体質、商品経済の差別化に繋がってしまうような気がする。2015年11月30日
ピンチランナー調書を例によってのんびりと読んでいる。
ウィスキーをビールで割って飲むフレーズがあり、義叔父もそうだったなと思い出す。
2015年11月26日
「洪水はわが魂に及ぶ」を読んで。
人類滅亡に関わる題名なのだが、「自由航海団」が革命小グループを連想させ、悪霊との類似性を観てしまう。
昭和48年9月30日発行であることから昭和47年の浅間山荘事件を参考にしているのは明らかである。
樹木の魂、鯨の魂には大江健三郎の大きなテーマであると思われる。
万延元年でジンは密三郎の家の女中であったが、洪水では障害を持つ子となっている。
関連性は見つけにくいがそれぞれが重要な役割を担っている。
洪水のジンは救い主の面影がある。2015年11月22日
大江健三郎の洪水はわが魂に及ぶを読、んでいる。
鳥の声の記述のある時は、スマホで鳥の声を検索しその声を聞きのんびりと読んでいる。
今までどんな鳴き声に関心を持たずに読んでいたのは実に浅い読み方でしかなかった。
プリズム双眼鏡7×50 73° はネットで見つけられなかったが数十万円くらいのものだろう。
カラマーゾフの兄弟からの引用も原卓也訳で確認した。2015年11月16日
11日、TVでNHKを見ていたら、100分で名著でサルトル「実存主義とは何か」を放映していた。
これが面白く分かり易い。それでそのテキストを購入して読んだ。
久々のサルトルだ、自分はサルトルを殆ど理解してなかったとの思いになる。
TVも観よう。2015年11月14日
大江健三郎再発見を読み終える。
以前、買っただけで読まなかったのかも知れない。
今まで読んでいた小説の記憶が薄く何が再発見かもよく分からない。
これから読み直して行くので、この本に戻ることがありそうだ。
大江健三郎の思想は不明だ、実存主義とはおさらばしたのか。
ネオプラトニスムとは何なのだ。
この本には八頁に渡って大江健三郎関連の写真が載っている。
小説を全くのフィクションとしての読んでいたがこれからプライバシーを一部念頭に置き再読しよう。2015年11月7日
読書力がないのでじっくり一行ずつ追って「万延元年」を読み終える。
魅力あるというよりも魔力ある文体にも魅せられる。
複層した構造、読み切ったとは到底いえない。2015年10月31日
「万延元年のフットボール」論の感想を團野光晴先生にメールし、再度(再々々?)「万延元年のフットボール」を読み始める。2015年10月26日
團野光晴の「万延元年のフットボール」論を読む。
化学系は別として文系の研究の別刷りを読むのは初めてである。
2015年10月21日
ゆっくり読んでいた「万延元年のフットボール」を読み終わる。
戴いた團野光晴の「万延元年のフットボール」論の別刷りを読み始める。2015年10月11日
浦和の古書店、利根川書店で、文庫本の万延元年のフットボールを200円で購入。
あったはずの単行本が行方不明なのである。松原健一の大江健三郎論が100円だったので同時に購入した。
この書店、店内狭く所狭しと紐で括った本が積んであり、古書展で販売するのが主としているそうだ。
万延元年を読み始める。三回目になる。
2015年10月8日
Wikipdeiaの英語版をKenzaburo Ooeを検索すると代表作とは思えない「恢復する家族」の表紙絵がupされている。
図書館から借りて読むことにし、読んでないこの本にははっきりした記憶がある。
発行年月日などによりノーベル賞受賞後発売され三省堂で平積みになっていたのがこの本であることが確認できる。
大江ゆかり画の共著が大江健三郎の小説からは遠そうだったので積極的に購入しなかった記憶がある。大江健三郎の著書が発売される度に購入するほどの経済的余裕、読書能力、置く場所が限定されているのでもある。
大江健三郎に対する思い入れは強いのだが、ノーベル賞受賞万歳の気分にはなっていなかった。サラリーマン仕事の中での悩みに支配されていたわけでもあるが。
基本は家族を描くエッセイ集である。
子育てと言ってもよいのだろうが、光との関わり合いの形は文学への関わり合いが強く、通常の子育てとは大きく意味合いの異なるものである。
文があって絵が描かれたのではなく絵があって文が書かれた作品との思いになる。
「日常的な会話の言葉は、あいまいさ、不透明さにみちていてp160」「暗いほど落ち着きp140」
が印象に残るフレーズである。
「渡辺一夫が重ねた石板の塊をノミで彫り城を造るp142」「渡辺一夫は東大では個室がなかったp144」、そんなことがあるのか。
「癒される者(あいまいな日本の私)p29」
では重籐医師が自殺した若い医師に
「「目の前に苦しんでいる人が達がいる。そのとき自分らにかれらを治療するほかないではないか」、自分はそうそういおうと思っていた」とある。
一方「恢復する家族p32」では、
「・・・いま眼の前にこれだけの数の傷ついて苦しんでいる人たちがいる以上、自分たちとしては、かれらを治療するようつとめるほかないではないか、と答えれた・・・」とある。
些細なことだろうが。
私は埼玉県障害者交流センターでパソコボランティアをしていると、当然知的障害者を見かけることがある。
「恢復する家族」はどこまで有効なのだろうか、それを問うのは検討違いなのだろうが。
大江文学の代表作とは言えないが、大江文学、大江健三郎を知るエッセイ集である。
「癒やし」を使い始めたのは大江だったように思う。
大江ゆかり画も家族への思いに溢れている。
問題になった「沖縄経験」の著述に沖縄出身者の言葉を引用した件について軽率であったとしている。p1452015年9月××日
学生寮、北斗寮のホームページを作成している関係から、大江健三郎の研究家である石川高専教授の團野光晴先生を知ることになり、大江健三郎の読み返しをする気になった。
手始めに「大江健三郎と江藤淳」を自前で購入し再読しながら、この本は作家、学者の索引が20頁もあるので健三郎の作品名の索引を作る。
さらっと目を通す読み方、そうしないと引用部分を読み飛ばしてしまう。
ちなみに引用が最も多いのが「万延元年のフットボール」で15回で、一方引用されていない著書も多い。2015年9月××日
長女の残した本、岩波新書「歌舞伎のキーワード」を読む。
花道などの歌舞伎由来の言葉を解説しながら歌舞伎入門書となっている。
著者は服部幸雄千葉大の教授で1991年発行の書だ。
長女が講義を受けた先生なのだろう。2015年9月10日
「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」を読み終える。
なんやかやあって新書版をやっと読み終える。読書力の衰えのような気がするが、本来のものだろう。
『カラマーゾフの兄弟』は未完成で後編はどう著されるのか誰もが興味深く思っているはず。
後編はどう構想しているのか思いながらもう一度「カラマーゾフの兄弟」を読んでみたい。2015年9月4日
大江健三郎集の解説は平野謙が書いている。
平野謙は文芸評論家として超一流と謂うわけはないだろうが、かって読者層代表と書いていたことがあり、分かりやすい批評だったと思う。
図書館から亀山郁夫著「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」を借り読み始める。2015年9月3日
1991年発行の古い本だが、「客家(ハッカ)」を読む。漢民族の多様性,
力をみることができる。
世界に、特にアジアに広がっている客家、アジアの経済を動かす力、軽んずるべからず。
高木桂蔵著。2015年9月2日
図書館で新潮日本文学の大江健三郎集を借りて「奇妙な仕事」を読む。
病院の屋上で犬が吠えてるような記憶があったのだが、全然違った。
病院の屋上で犬が吠えてるわけはないか。
死者の奢りの前駆となる作品である。
高校の頃、文庫本で販売されていた気配はないので読んでいなかったんだろう。2015年9月1日
古本屋で買った、丁寧にいうと、古書店で税込み百円で購入した新潮文庫の「死者の奢り・飼育」を読んだ。
大江健三郎は中学時代に知り、環境からも著書を読む機会がなかったが、会津若松市の高校に入り初めて購入した大江健三郎の著書だった。
これ以降大江健三郎にのめり込むことになるのだが、この本に六編入っているのに記憶にあるのは死者の奢りの一部に過ぎない。
単行本を購入する金はなかったので文學界を購入し、雑誌で大江健三郎を読むことになるのだが。
今回読み直してみて、やはり大江健三郎は天才だ。
飼育は映画で観た記憶はあるが内容は定かでない。2015年8月31日
「さよならだけがな人生だ」、太宰治か田中英光の小説で馴染んでいた言葉だが、新聞のコラムを読んでいたら、漢詩の「人生足別離」を井伏鱒二が意訳したもであることを知る。
2015年8月20日
小谷野淳著の「江藤淳と大江健三郎 戦後日本の政治と文学」を図書館から借りて読む。
実に面白い、著者の政治的立場に疑問を持たないわけではないが、文学論でもない作品論でもない伝記であると称しているが、伝記に絡む作品の解説があり、読んだつもりでいた大江健三郎を読んでなかったとの思いを強くした。
作品の解説にもはっきりイエスノーがあり、もう一度購入した本を読み直せればと思うが、時間がなく無理だろう。
購入していた「大江健三郎再発見」が取り上げられているのも嬉しい。
些末なことだが、倉橋由美子は明治学院大学卒と思っていたが明治大学卒だった。
また、大江は松山高校卒かと思っていたら松山東高校卒で、ネットで調べたら松山高校は存在感しない。著者も大江の年譜では松山高校としている。
この本を借りるのではなく購入し、大江の部分を再読したい。
江藤淳についての評価が低いが、新聞の江藤の書評欄では優れた分析力に感心した思いがあったので少しは読んでみたいと思う。あの政治思想(?)には辟易するが。2015年8月12日
芥川賞受賞作のもうひとつの作品、羽田圭介作スクラップ・アンド・ビルドを読む。
祖父、母、僕三人の介護の小説だ。かって介護に関する受賞作があったと記憶している。
祖父の死を願い、運動不足にするため懸命に介護補助する。喜劇かも。
丹念に描かれている。僕が就職のため家をでることによって終わる。
バラバラな家族、それでも家族。
火花にも献身的(?)女性が登場する。二人とも逃げて行く。両受賞者はそのような女性を願望しているのか。
2015年8月11日
又吉直樹の火花を読む。
火花は文學界に掲載され、その後単行本も刊行され、出版社の戦略で話題になっていた。
火花(イスクラ)はレーニン、クルスプカヤの出していた雑誌の題名であり、小説の題名には、これを使うのか!との異和感があった。
話題になったからと云って読んでいたら切りがないので読まずにいた。
この作品が芥川賞を受賞し文藝春秋に掲載され、雑誌ならば安く購入でき読むに至ったのである。
面白い。
人生論などを小説にはめ込むと失敗になるのだが、漫才師の世界、関西弁の世界で語ると妙に小説になる。
ここでまんざいしをどう書くのか小説をチェックしたら漫才師だった。
関西弁はアクセントがあって関西弁なのだから、アクセントなしの早口にはわかりにくいところがある。
一読は薦める。今までの受賞作は薦めがたいのが多かった。
これから選評を読んでみよう。
宮本輝がひたきさを評価している。納得できる選評が多く、村上龍の長すぎるも納得、島田雅彦の一発屋、次から書いて行けるんだろうか、私もこれを強く感じている。
総じて悪くない、悪くないから受賞したわけだが。2015年8月10日
「芥川賞の謎を解く」を読む。
倉橋由美子のパルタイは落選だったのか。
高校生の頃、金はなく買う本は文庫本か雑誌だった。初めて書った単行本がパルタイで黒地に赤くパルタイと題名が印刷されていた。
謎を解くほどのものではないが面白い。
著者が読売新聞文化部記者であり、何かと言えば読売新聞の記事とか読売文学賞が出てきて、やはり読売新聞の記者かと思ってしまう。
石原慎太郎にそれなりのページを割き、大江健三郎の審査員辞退に触れないのは嫌な感じだ。2015年8月8日
「沈みゆく大国 アメリカ」を読んで。
著者堤未果の格差社会を訴える本は以前にも読んだことがある。
本書は一般論でなく、実際の生活にかかわるアメリカの医療制度、健康保険制度に関するもので格差がわかりやすい。
アメリカの健康保険は複雑でわかりにくいが、オバマ大統領の保険制度は日本の皆保険制度とはほど遠いものである。
オバマが保険会社、製薬会社等に妥協した結果、例えば薬価は製薬会社がかってに決められる。
がん治療薬ひと月4000ドル、安楽死薬は50ドルで自己負担なし。
医師がワーキングプアになり、弁護士が金持ちになる社会がアメリカだ。2015年8月6日
出版社のPR誌はまさに新刊のPRなのだが、ちくま7月号に於いて、小林健治著「部落解放同盟「糾弾」史ーメディアと差別表現」に対し、角岡伸彦氏が「(組織の)弱体化の原因は、抗議しやすい企業、宗教、メディアにたいしてのみ糾弾を行い・・・本来の対象である権力に対する糾弾を回避するようになった」と分析する。著者もその一員ではなかったかと思わないでもない。と書いている。
この著書に「・・・抗議すべきは、差別語を使用した差別表現にかぎられる」とあるようで、一安心。
集落を意味して、通常「部落」と言っていたのを一寸気にしていたのだが、当然問題ないわけだ。2015年8月2日
大江健三郎と古井由吉の対談集、「文学の淵を渡る」を読んでいると
この二人、読んでも理解できる訳はないが、古井由吉は学生の頃のドイツ語の先生 、印税の半分は先生に入るのだろう。
一寸は理解しょう。2015年7月31日
目取真俊の「水滴」は文春文庫を借りて読んだわけで、他の作品、風音、オキナワ・ブック・レヴューを読む。
オキナワオキナワした作品だ。
又吉栄喜が豚の報いで芥川賞を受賞の際、大江健三郎が沖縄が描かれていないと批判したのに対して石原慎太郎が大江を批判したのを思い出す。2015年7月27日
目取真俊(めどるましゅん)の「水滴」を図書館から借りて読む。
芥川賞受賞作なので読んだはずだが、ブログ「海鳴りの島から」の主催者の作品として読む。
足が突然膨れ上がるの書き出しでカフカを連想させる・・ここまではかって読んだ記憶と合致するが、他は殆ど覚えていない。
2015年7月24日
鴎外の阿部一族を読む。
かって読んだこともあるような気もする。映画にもなったような、TVドラマにもなったような。
鴎外のサラリーマンの苦しさを反映しているわけか。
安倍一派が気に入らないので気分転換のつもりだったが、鴎外は重い。2015年7月21日
読んだと言って良いのだろうか、
「沖縄「辺野古の海」は、いま」を読む。
目取真俊氏がブログを開設していることを知る。2015年7月15日
坂井豐貴著「多数決を疑う」ー社会的選択理論とは読む。
ポスト資本主義に次いで新書版だ。
新書は入門書なのだが、理解が進まない。
最尤法など新書では説明できないことが多い。
ノーベル経済学賞受賞者の研究が絡み、深い研究分野である。
憲法改正条項の衆参三分の二以上の賛成は厳しいものではない。
二〇一四年の十二月の衆院選挙で自民党は投票者の約48%の支持で約76%の議席を獲得した。・・確かに。2015年7月7日
広井良典著岩波新書「ポスト資本主義」
を読む。
現資本主義からスーパー資本主義社会か、持続可能な福祉社会かを検討し、人類の長い歴史の中で福祉社会の必然性を語っている。
新書版一冊で理解できるものではないが、示唆に富む本である。
そもそも、経済成長率年1%で100年経ったら100%、現在より生産量が倍になる。購買量も倍になる。
一部後進国ではあり得ようが。
化け物ような金融資本、資本主義矛盾の中で自滅するのか。
この本、市場経済と資本主義とは違う、マックのハンバーガーが世界に広がるのがグローバル化ではないなど、知識の浅い私には新鮮である。
基本の資本主義には是であるようだ。2015年6月23日
これが読書と言えるか不明だが、新潮社のPR誌「波」に連載していた池上彰の超訳日本国憲法を時々読んでいたので、新書で発売された「超訳日本国憲法」を購入し読了(?)。
憲法を見るのに六法全書を開くのは面倒、この本を本棚に置く方が簡単に取り出せ、分かり易い解説があり便利だ。
一家に一冊「超訳日本国憲法」w2015年6月20日
ジョアンナ・ラコフ著井上里訳「サリンジャーと過ごした日々」を読む。
サリンジャーは人と会わないはずだが。
出版エージェンシーに勤めていた著者がアシスタントしてエージェントとしてサリンジャーに接触していた頃の話である。
今まで知らなかった出版エージェンシーとは何なのか一寸分かった。
ニューヨークの一面を知ることできる。
サリンジャーと触れた自慢話ではない。著者の青春記である。
サリンジャーは私が大学に入って初めて知った作家だ。
英語の授業で「バナナフィッシュ」が教材として使われた。教えてくれた大場先生はニコ中で煙草を吸いながら講義していた。2015年6月12日
行方不明と思っていた藤原作弥著の「聖母病院の人々」が壁とベットの間から出てきたので、中途から読み出す。
私も入院経験は豊富だが、時代の違いか、別世界の感がする。
その病院名の通り、特殊な病院かもしれないが、新聞記者の入院で一寸違った人間関係がこの作品になったのだろう。はっきり言えば特別扱い。
出版年月日から長女は高校生の頃、読んだわけだろう。
その後、著者が日銀副総裁になったのを知ってるんだろうか。
著者は仙台一高新聞部で井上ひさしの3年後輩になる、ということは菅原文太の4年後輩になるわけだ。2015年6月10日
遅ればせながら、矢部宏治著「日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか」を読む。
昭和天皇にまで因を求めなければ理解できない深さがあるのだ。
「壁」厚い!崩れない壁はない。
一読の価値あり!
オキナワ≒フクシマと私も考えていたが、県民の意識は大きく違う。
私は人生下り坂、日本も精神下り坂か。2015年6月7日
図書館から借りた池田健太郎訳のオネーギンを読む。
オネーギンには悪霊のスタヴォローギンを想わせるところがある。
プーシキンも官憲から監視されてる身、レベルは違うだろうが、ドストエフスキーと共通する面である。
オネーギンおける「あの足が大好きなのだ」「あの足に口づけしたい」・・・今の時代ならば猥褻になりそう。
池田健太郎訳は散文訳なので、木村彰一訳の韻文訳を覗いたところ、別な作品を読んでるような。2015年6月1日
長女が読んだのだろう、藤原作弥著の「聖母病院の人々」があったので読んでいた。
落としてしまったか、途中まで読んで行方不明になってしまった。
新聞記者の入院エッセイで私の入院とは較べようがないが、これが宗教関連の病院かと、一寸面白い。2015年5月31日
太宰治についてもうひとつ
「直筆で読む人間失格」が出版された時、人間失格は高校時代に数回読んでいたので、懐かしさもあり購入して読んだ。
こちらの感性の低下もあり、違和感を感じていた。
印象深かった「庭の夾竹桃も僕が植えたのだ、青桐も僕が植えたのだ」、これは人間失格で精神病院に運ばれる時のものかと思っていたが、そうではなかった。
恐らく「晩年」の中に出てくるのかと思い、図書館で調べたら、「晩年」は短編集だ。
ネットで調べたら、「十五年間」となっている。
図書館から借りてそれを読むと「・・・私は、たのむ!もう一晩この家に寝か
せて下さい、玄関の夾竹桃も僕が植えたのだ、庭の青桐も僕が植えた・・・」と書かれている。
十五年間には津軽に疎開する時の状況が細かく描写されている。
だが、
読んだ記憶はない。
夾竹桃云々をネットで調べたが、他の作品に描写されている情報はえられなかった。2015年5月30日
「生くることにも心せき、感ずることにも急がるる」
太宰治のどの小説か、図書館で調べたが分からず、ネット検索で「懶惰の歌留多」であることが判明した。
冒頭句ではなく、カルタの「い」であった。
代表作の冒頭にあったと記憶していたのが。
2015年5月28日
高校生の頃太宰治に傾倒していた。
「生くることにも心せき感ずることにも急がるる」の言葉を借りて、寄せ書きなどに使った。
それでこの言葉を覚えているのである。
後年オネーギンを読み、序詞の借用であることを知った。何時、何故オネーギンを読んだのかは定かではない。
今回オネーギンを読むに当たって、ひとつにはその序詞を再確認したかったのである。
岩波文庫、
池田健太郎訳(1962年)
「世渡りも大あわて、恋の道も大急ぎ」
木村彰一訳(河出書房新社1972年)では
「生きることにも気ぜわしく 恋をするにも大急ぎ」である。
木村浩訳(集英社1991年)
生きることにも忙しく、恋することも急がるる。
いずれも太宰治、私の記憶にあるそれとは異なっている。発行年度から当然であるが。
私が読んだのは、今は絶版となっているが、米川正夫訳(1953年新潮文庫・・ネット調べ)ではなかったろうか。2015年5月25日
古本屋で購入した岩波文庫の神西清訳スペードの女王、ペールキン物語を読む。
そもそもプーシキンを読むのはドストエフスキーがプーシキンを畏敬しているからでもある。
スペードの女王、高校生の頃読んでもいい題名だ。どうも記憶にない。
ここからドストエフスキーは賭博者を書き、ラスコルニコフの想を得たか。
ペールキン物語ではオーヘンリーを読んでいた時代を思い出す。2015年5月10日
「人間の絆」を読み終える。
ゾラの居酒屋とは打って変わって、一部下層社会を描いているものの中流階級の小説である。
読み終わり「絆」は男と女の切れにくい絆を意味するのかと思って解説を読んだら、
情念に支配された人間、その絆からの解放の小説である。
主人公フィリップの悪の女性ミルドレットから理想の女性サリーに至るまで。
どろどろした男女関係の絆、読み間違いではない。
題名の出所はスピノザの「情念」であるとのことだ。
悩める青年、文学は青年のものである。
振り返ってみると、
最近読んでいるのは高校時代に読んだものの延長でしかないような気がする。2015年5月6日
言葉「絆」があふれているようなので、絆ですぐ連想できる小説、サマーセット・モームの「人間の絆」を読む。
これも図書館から借りてである。
中野好夫訳、中野好夫氏の講演会を高校生の頃聴いたことがある。
安保の前だったか後だったか。2015年4月26日
居酒屋で飲む機会もある。チェーン店もあり、居酒屋はありふれたものになっている。
ところがエミールゾラの「居酒屋」を読んでないので、図書館から借りて読むことにした。
19世紀パリの下層社会が克明に表現されている。
堕ちて行く女性のジェルヴェーズの物語、酒と堕落の精細な表現に気分が悪くなる。
文庫本でも600ページあり、明るい結末は予想できない小説で、暗い気分になる。
ところで小説の中の居酒屋、汚く、アル中の溜まり場で入りたくない場所だ。
ジェルヴェーズの娘がナナで、これが小説「ナナ」で、これは高校時代に読んだ。2015年4月17日
佐藤紅緑の「ああ玉杯に花うけて」を読む。
何故今読むのか、
天皇のパラオ訪問のニュースを聞いて、近くにはトラック島も近くにあるのを古い記憶から湧き出てきた。
小学生の頃か、トラック島で父が戦死した貧しい少年を主人公にした少年小説を読んだ記憶がある。
それがこの小説ではないかと思ったのだが、昭和3年の作で時代に合わない。
図書館でこの本をちらっと覗くと浦和中、現在の浦和高校を舞台にしている。それで読もうと思ったわけである。
当然浦和町の裏門通り地名、調宮神社などが出てくる。浦和中の場所も現在の浦和高校とは異なる。
また、レーニン、トロツキーの名前も出てくる。
この本、小学生の頃読んだのだろうか。
マントを着た学生が表紙だった記憶がある。ネットで調べるとそのような本はない。
読みやすく小学生向けに書き直したものだったのかもしれない。貧乏な少年の話で貸本屋で借りて読んだ記憶は間違いない。
2015年4月15日
図書館に半年ほど前に予約しておいたアスラン著の「イエスキリストは実在したのか?」を読む。
原題は「Zealot-The Life and Times of Jesus of Nazareth」である。
この関連の書籍は読んでいないのでイエスの時代への理解が深まる。
もう一つのキリスト教の本質か。オーバーだな。2015年4月5日
ローザルクセンブルクのロシア革命論を読む。
若い時に読んでいればよかったと思う。
民族自決権の否定、プロレタリア民主主義、かって頭の片隅で考えていたことにマッチする。2015年3月26日
重松清の「おかあちゃん」を読んだ。
図書館でみて、二冊ありどれもがそじており、最も読まれてるようなので借りて読んだのである。
内容は題名とは異なって(?)、いじめが中心で、人は謝罪できるのかがテーマになっている。
少年の心理表現には優れたものがあり、読みながらどうなるんだろうとドキドキする著作である。
TVドラマの流星ワゴンにもどうなるんだろうとドキドキするところがある。2015年3月22日
TVドラマで重松清原作の流星ワゴンを面白く観ているので、10年程前に読んだ「きよしこ」をまた読んでみた。
胸が痛くなる。2015年3月20日
古本屋で粟津則雄著の「ランボオとボードレール」を100円で購入し読んだ。
出版社が第三文明社で一寸気に入らなかったのだが。この辺が私の偏狭さだ。
家にあるランボオ全作品集も粟津則雄訳で、裏表紙を見たら、鉛筆で1,600-と書いてある。即ちこの本も古本屋で購入したわけだ。なお、小林秀雄訳はある。
肝心の内容については、現在詩を読む(?)感性を喪失しているので難解である。実は元々感性はなかった。
かって漠然と読んでいたランボオへの理解がな深まりそうだ。2015年3月9日
古本屋で210円で購入しておいた大岡昇平の「少年」を読む。
この本、蔵書印がありでそれで安いわけなのであろう。
ところが頁の天が今まで開かれてなかったように軽くくっついていて、剥がすようにして頁を繰って行く。
栞紐も丸く挟まっており読んだ形跡がない。帯はついてない。
それはともかく、「少年」は著者の渋谷近辺に在住時の回顧であり、細かい地名番地、近所の家の形の記述が続き地理に疎い私には読み込みにくい点が大いにある。
まして転々と引っ越ししている。
母親が芸妓、東大の農学部(東京農科大学)が駒場にあったのも初めて知る。
同じ著者の「幼年」は詠んでないが、大岡昇平のイタセクスアリスといえよう。2015年3月6日
Twitterをチェックしていたら(happyさん←いとうせいこうさん)、島尾敏雄の墓が福島県相馬にあることを知る。
てっきり鹿児島の方にあるかと思っていた。
埴谷雄高と島尾敏雄とは同郷、埴谷雄高の墓が相馬にあることはないだろう。2015年3月1日
カラマーゾフの兄弟の「大審問官」の部分を読み直す。
カラマーゾフの兄弟はあれで前編で未完成、後編はどんな風に構想されていたのだろうと思うといまだにゾクゾクする。当然、前編以上の長さになるのだろう。
拘らずに亀山郁夫著『『カラマーゾフの兄弟』続編を構想する』を読んでみるか。
私にとって、マルク〜レーニン、トロツキー〜ローザルクセンブルグ〜〜ドストエフスキーは脳底に薄暗く沈殿にしたままなのである。2015年2月28日
伊藤成彦著「ローザルクセンブルグの世界」を読む。
ローザずいてるのは、ローザのレーニン、トロツキーへの批判に納得する故である。
無制限な出版・集会の自由、自由な論争が必須なものである。
学生の頃、読んでおきたかった。
ハイネの「一八五三・五四年詩篇」を読んでみよう。2015年2月18日
今期の芥川賞受賞作品「九年前の祈り」を読む。
文章もしっかりしている。作品の構成もいい、時代との同期性もある。
でも、次の作品を読みたいとの気分にはなれない。
作者は小野正嗣氏。2015年2月14日
贋作ドン・キホーテを読む。
ドン・キホーテは瘋癲病院入院させられ、快癒し再度旅に出たとか、サンチョはドン・カルロスに留まり羽振りが良くなっている。
1614年発刊の贋作が今も残っている。その不思議。それをまた読んでみようとする不思議。
セルバンテス作の後編の方にはドン・キホーテ、サンチョに対する作者の愛情が感じられる。
なお、真作ではほとほとの体で村に戻っている。2015年2月13日
フランクルの夜と霧、霜山徳爾訳と池田香代子がある。霜山訳は市立図書館の個人の不用本置き場にあったのを手に入れたものである。
霜山訳のこの本は中学生の頃に家にあって強い印象を受けた一冊だった。
今ある本の裏書きを見たら初版1961になっている。それなら高校生時分になる。
そんなわけはないだろうとネットで調べたら1956年初版となっている。
本の表紙は全く同じようなのだ。
印版を1961年に作り直したということなのだろうか。2015年2月1日
新聞小説を読むのは苦手で、週一編のはいいが毎日のは駄目である。一度も読んだことがない。
ぐうたら、3日坊主が原因だが、ローザルクセンブルグは「新聞小説を読むのは、多くの場合、五つ六つ、またはそれ以上の小説を一時に頭の中に入れておかねばならないから、自分にとってはとても「つらい」といって、こぼしていた。」ようだ。2015年1月23日
ローザ・ルクセンブルグの資本蓄積論(上)を図書館から借りて覗く。
本の題名だけは知っていたが、内容はまるっきり知らないので一寸読んでみようと思ったわけである。
アダム・スミスからマルクスまでの経済学書である。
マルクスへの批判もあるのだが資本論もろくろく読んでないのでどうこう言えない。
経済学のいい教科書(?)と思えるのだが、1934年第一刷の本なのである。2014年12月29日
ドン・キホーテの正編は堀口大学訳で読んだので、後編もと思い探したところ堀口大学訳の後編はなく岩波文庫の牛島信明訳をだらだらと読んだ。
後編は正編より完成度は高いと思えるが正編には時代性が強く感じられ面白い。
後編には贋作ドン・キホーテを批判しているところがあり、贋作を読んでみようと思う。
新規に本を買うには金がなく家が狭く置くところなく、ないないづくしで後編は図書館から借りたもので贋作も借りるつもりである。
若い時、新鋭の文芸評論家として名前だけは知っていたものの、全然読んでなかった。
また新鋭なので私より若い世代と思っていたのにネットで調べたら私より三歳上だった。
@資本=国民=国家が最終の形でで、あるのはその比重の違いであるとの考え、今の日本もそうである。
Aプロレタリア独裁、共産主義社会。
これはロシアスターリニズム、マオイズム、クメールルージュの失敗で、ドストエフスキーの予言通り、不可能であることが明らかになった
そしてAは@になってしまった。
これらを超克できる社会の可能性のヒントがあるのではないかと思いこの本を読んだわけである。
マルクスが原始共産性を高次元で回復するように、×××を高次元です回復することが展望を開くもの。・・・こんな読み方でいいんかいな。
全く
帝国と帝国主義の違い。
民族自決主義はヨーロッパがオスマン帝国、清を崩壊させるためのアイディア・・納得できる。共産党の民族主義には異を感じていたのである。
生産様式でなく交換様式で世界を見て行く考え、納得できる部分もある。
プロレタリア、労働者の姿が見えてこない、そこに疑問を感じるが、階級を超えた著述でもあるわけだ。
なお、難しい本で読みこなせているわけではない。
2014年11月9日
佐藤優がこれほど深く資本論を読み込んでいたのか。びっくりである。
まあ、佐藤優の本は全然読んでいなかったのである。
佐藤優が浦高2年の時、社青同の同盟員で北浦和の労働会館の労働大学で鎌倉孝夫の 資本論の勉強会に参加していた。
この労働会館、若い現役の頃、ここは組合の執行委員会が開かれたり、労働関連講座を受講した場所なのである。
資本論に関してはちらっと覗いた程度でこれは革命ではなく経済学の本だな思ったものである。
この本、資本主義を超え、スターリン主義を超え、どのような社会が望ましいのか、明確な解答はない。
結構長かったので読み終えたとの気分になる。
堀口大學訳を昭和40年代古書店で購入し、当時パラパラと拾い読みしただけだった。
完全に騎士世界の妄想の中にいきるドン・キホーテ、サンチョはリアリストだが富についてはキホーテの妄想に重なってしまう。
そのやりとりが面白い。
当時のキリスト教圏とイスラム教圏の境界がどうなっているのかわかる。地中海が海賊だらけだったことも。
今回読んだのは正編で続編も読む気になった。
知らない地名、人名が多く出てきて読みにくいのは確か。
どのように表現されているのか芝居のラ・マンチャの男を観てみたい。
それで中卒、私が高校生、学生の頃、口を糊すべく働いていたのだ。
20代の頃、新日本文学に神聖喜劇を連載しておりその時大西巨人の名前を知った。
実際、神聖喜劇を読んだのはカッパノベルズで出版されてからである。
軍隊の詳細についてはこの本でも理解が進む。
徴兵検査で甲、乙、丙、丁、戊まである。
この本は読んでいない「大西巨人文選」の後を継ぐもので理解不十分で
あるが、野間宏の真空地帯にこれほど批判的とは思わなかった。
軍隊の見え方は違って当然で肺浸潤なのに召集された桂三枝の御尊父にはどんな見え方だったろうか。
巨人の博識には相変わらず驚く。
戦前の新聞は夕刊を翌日付けで発行されていたということも初めて知った。
原発に肯定的なのにはがっかりする。
赤人も困っているようだった。
映画の話について長い頁を割いているが戦前の映画でよく解らん。
8300円の本だ、貧乏老人の身にはそうそう買えるものではない。
800頁の本だ。返却の二週間後までに読まなければならない。
ウム、読まなければならないーそんなことはないはずだ。
上巻を読み終わって、賭博のシーンで興奮した。
以前読んだ時はそんな風に感じなかった、ロシア人名の迷路にはまり込んでいたのだろう。
賭博者ももう一度読めばかなり興奮するのかもしれない。
遅まきながら芥川賞受賞作「春の庭」を読む。
相変わらずもうひとつと思ってしまう。
こじんまり感は何だろう。
表現する対象が狭くても、文学としての深さ広がりが欲しい。
昭和33年の作、芥川賞を取ったときの作か。かなり多作だ。
ネットで調べたら33年の1月の受賞、ということは私が中学1年生の時、実はてっきり2年生の時と思っていた。
受賞後も話題になっていて勘違いしたのかも知れない。
これで未成年が詠み込めるかは??
長編である。
社会党の没落、歯止めとしての村山談話、社会の右傾化、集団的自衛権。
日本は何処へ行くのか。大きく考えなくても、孫はどうなるのか。
サリンジャーが本に解説を付けるのを拒否したのでこうなったのである。
余りにも戦場体験が生々しかったので、所謂反戦小説を書かず、「キャッチャー・・」を書くのが反戦なのだ。
大場先生といって、ニコ中で授業中も煙草を放せなかった。
ホールデンがしょっちゅう煙草を喫っているのと関連がありそう。
1964年に白水社から世界の文学の一冊として「ライ麦畑・・」の翻訳が出たようだ。
白水社の世界の文学は一時買っていたが、記憶がないからサリンジャーは買わなかったのだろう。
若い時分に購入した本には行方不明になってるのが多い。
家にある白水社Uブックスライ麦畑は1985年発行者1989年第31刷である。
購入の動機は思い出せない。
ライ麦畑を読んだのはこの時だろう。
選集の一冊で古本屋で求めた「大工よ屋根の梁を高くあげよ」があったが、欲しい人がいたのでその人にあげた。
歳をとった現在の方が良く読める。感動的に読めるというわけではないが。
新書判があったはずと思い、探したら白水社の野崎孝訳があった。
表には一切出してないが、続編もあるのではないかと思うのだが。
読書力が衰え、600ページを越える訳書できちんと読み込んだとは言い難い。
何故作家活動を停止したのかに関心が強かったのだが、改めてキャッチャー・イン・ザ・ライを読みなおしてみよう。
ライもバナナフィッシュもただ読んだだけに過ぎなかった。
その後、また凄惨な戦闘を経験する。
有能な下士官だったが、彼がいた連隊は約3000人、生存は約500人、40年以上の沈黙に関わりはあるだろう
若い時代、作品の登場人物そのものを彷彿させる。
サリンジャーがノルマンディー上陸作戦に参加し、それも最も戦死者の多い部隊の下士官だったとは。
よくぞ生き残ってくれた。
映画 The longest day をもう一度観てみたいものだ。
あの頃、学生で政治的なものに関心が強く、党派のどうのこうのに考え方が巻き込まれていた。
当時、大江健三郎の講演を聴いたが、全然覚えていない。想像力に関することことだったか。
能弁でない彼が講演して回ったのは出版社の依頼だけでなく、伝えたい想いが強かったのだろう。
大江健三郎の芯はずれていない。
その少女時代を描く。
黒人社会で必ずしも貧困家庭で育ったわけではないが、極めて別世界である。
恥ずかしながら、初めて知った作家(?)である。
二グロの言葉もこの書籍の中で久々(?十年ぶり)に触れた。
単行本はあるが電車で読む都合があり、図書館から文庫本をかりて読む。
偽自伝小説で、読み直しになるが過去に読んだ記憶が極めて薄い。
ただ、ダンテを読まないと理解が薄くなるなとの記憶があり、また大江健三郎の背中が遠くなったなあとの記憶がある。
今読み終わっても引用も確認してもっとじっくり読まなければと思う。
餃子を食べるシーンをもっと感動的に書いてもらいたいなあ。
図書館に順番で予約してあった六草いちか著「それからのエリス」が借りられるとの連絡が入った。
半年くらい待った訳である。
鴎外はほとんど読んでないのだが、これは面白い。
エリスは戦後まで生存者していたのか。鴎外も歴史上の人物と思っていたのだが。
エリスに鴎外の子がいたのか、送金していたのか、まだまだ興味が出てくる。
六草とはどういう人なのだろう?
独占的政治制度、経済制度に対する包括的政治制度、経済制度によって説明している。
国内の貧富差に視点が行き易いが、国家間の格差の方がはるかに大きいのだ。
蒸気機関発明のワットの前にトマス・ニューコメン、ドニ・パパンがいることを知る。
Wikipediaで調べるとドニ・パパンが成功しなかったのは経済制度ではなくそのシステムのためのようだ。
機会があったら下巻にも目を通してみよう。
読み始めたばかりだが、貧困国家が何故貧困かがわかり始める。
2010年発行で最新の本ではないが、私の考えを補強裏付けしてくれる。
福島原発以降ならば差別のテーマに取り上げられていただろう。
関連書籍:「すべての人が戦争について知るべきこと」「戦争と憲法」「沖縄に基地はいらない 元海兵隊員が本当の戦争を語る」「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?ベトナム帰還兵が語る「ほんとうの戦争
」
運動は息の長いものでじっくり構える必要がある。
バラバラなのをネットワークで結ばなければならない。
色々考えさせられる事が多い。
この本に載ってる地図、人物相関図を見ながら「罪と罰」を読めばスムーズに読めることは確か。
また、分かり難い森の中を彷徨うのも読書であろう。
といいながら「雨の木」を聴く女たち を読んでいた。
単行本が出た時に読んでみて、変に長編に均されていたせいか全く面白くなく、一寸読んで止めてしまった作品である。
今回も雨の木をうまく掴む(感じとれる)ことができなかった。
大江健三郎もドストエフスキーの周辺のような気がする。
例によって図書館から文庫本を借りて読む。
初めて読んだのは二十代前半の頃で、大江健三郎が三十歳でこのような小説を書き、自分の三十歳はどうなるんだろうと思ったものである。思い返せば情けない三十歳だった。
この講談社の文庫本は解説や年譜がついていて有り難い。
覚えているのは僅かだが、大江健三郎の大きな変換点であることは確かな記憶だ。
「マルクスの予測は1848年の共産党宣言以来外れっぱなしである。」はこの著作であったか。
ソビエトスターリン共産党、中国農民共産党、クメールルージュ、確かに。
旧かなずかい、伏せ字があるかと思ったが、戦後著者が手を入れて変更したとのことである。
高校生の頃を考えれば、40年程前の作品、何処かに身近なものを感じていたのだろう。
ノーベル賞の候補になっていたのは情報公開により新聞で知っていたが、ネットで調べると、文学賞に二回、平和賞に三回候補なっている。
生協の創始者でもある。
読んでよかった、だからといってキリスト教社会主義に傾倒することはない。
何か、ドストエフスキーの周辺を読んでいるような気がする。
高校生の頃、なんとなく話題になっていた作品であり一度読んでみたいと思っていた本である。
ネットで調べるとその頃亡くなっているのである。
読んで面白い、この当たり前が久々に感じられる作品だ。
きちんと描写される主人公の私、それ故にどうなるんだろうと引き込まれて行く。
何かが起こって何が起こったのか分からない。
現実から幻想の世界に、いつの間にか行ったり来たりする。
子供たちが賑やかに遊んでいる夢の世界、何処かで読んだような気がする。
それで気になって、太宰治賞第1回候補作の作者、熊田真記はどうしてるんだろうと思ってネットで調べたが、ヒットしない。
候補になった熊田真記は高校生だったはず。
第1回の受賞者だと思っていて、ネットで調べたら、受賞作なしで候補だった。
「地下室の手記」、面白くないと書いいたが、ドストエフスキーの思想哲学文学の基本が示されている。
全く否定的な人間が主人公になる。そこに人間の本質に迫るところが怖いくらいだ。
前半で人間否定の独白、後半に若き時代の生活、もう一度前半に戻る必要があり、これも再読構造だろう。
再読構造というのをはじめて知った。
どうも面白くない。
高校の頃読んで、あの頃どこまで理解していたのだろうか。
スターリン主義も知らなかった頃だ。
粛清とシベリア抑留には疑問をもってはいた。
こんな青年の心の深みを描く小説だったのか、若いときはこの表現を読みとることができなかった。
この昭和56年出版の文庫本には作者のあとがき(?)もある。
そこで両親の退廃を描くのが万延元年のフットボール、子供が育ち父親を支えるのが洪水はわが魂に及ぶ、子供は壮年に父親がハイティーンにがピンチランナー調書、この辺り全然覚えてない。
マルクス、トロツキーに関心が行っていたせいか。
サルトルにも興味を持っていた。
ドストエフスキーもそうだが、この歳になって本を読めるようになった。ーーーーような気がする。
電車で読めるので文庫本の方がいい。
初期の作品は貧しき人々をかって読んだのみ、他の作品も読んでみよう。
昭和43年以前に文庫本で読んだ記憶があるのだが、初版は昭和47年になってる。それならば確実に家にあるはず。
短編集で7作品掲載されており、空の怪物アグイーとアトミックエイジの守護神は題名の記憶がある。
発表時の雑誌で読んだのだろうか。
空の怪物アグイーを読みなおしてみると全然覚えてないことが明らかになってしまった。
これを読んで大江健三郎に障害のある子供がいるのかと何となく思ったのも信じられない。
後から読んだものでそう思い込んでしまったのかもしれない。それにしても空の怪物アグイーが強く印象に残っているのだろう。
アトミックエイジの守護神、こんなストリーだったのか、まるっきり記憶の圏外である。
更に解るにはサイード他も読んでおく必要があり際限がない。
この新潮の発刊日は2005年、サイードが亡くなったのは2003年、この解離は何なのだろう。2013年12月30日
サイードは「晩年のスタイルに関する考察」、大江は「『後期の仕事(レイターワーク)』に希望があるのか?2013年12月30日
空の怪物アグイーの他に万延元年のフォットボール、個人的な体験、厳粛な綱渡りが実家に あるはず、処分されたか。
食べ物を減らして購入した本のだ。大学に入った時の体重57kが51kgに減らして(減って)かったのだ。
ダメもとで喜多方に電話帳してみるか。
実家といっても私の産まれた場所でもない、育った場所でもない。お袋がいた家である。2013年12月29日
大江健三郎のインレートスタイルを再読する。
再読しても以前に読んだ本の内容をよく覚えてないので、読み終えたとは言い難い。
空の怪物アグイーなどは実家に置いたまま行方不明になっている。
空の怪物アグイーはフィクションなのにこれを読んで大江健三郎の子供に障害者がいるんだと知った記憶がある。
文庫本だった気がする、それならかなり遅れて出版されるはず、学生の頃だったが。
ドストエフスキー同様、大江健三郎の作品は再読の要がある。
再読するにしても神曲など読んで知識を深めておく必要がある、でも間に合わない。2013年12月27日
ちくまで愛読(?)している原詩生活、著者の井坂洋子をネットで調べたら山手樹一郎の孫で1949年生まれだった。
山手樹一郎ってそんな歳だったのか。2013年12月13日
大江健三郎のインレートスタイルを一度読み、もう一度読み返している。2013年12月8日
録画しておいたTVのカラマーゾフの兄弟の最終回を見る。
原作では有罪になる長男が無罪になる。
ここはどんな風にドラマ化するのか期待していたのに、原作「カラマーゾフの兄弟の」とは言い難いだろう。
「カラマーゾフの兄弟の」の雰囲気を表現しているのは確かだ。2013年11月16日
ゆっくりと「晩年様式集」を読んでいる。
久々の大江健三郎だ。大江健三郎の作品も読み返しが必要だ。2013年11月11日
また、原発関連、「原発ホワイトアウト」、作者は?の高級官僚。小説(大衆小説)として、やや完成度は劣るかもしれないが、東電-政治家-官僚の結び付きを的確に表現している(古賀茂明氏が本当のこととネットで語っている。)。
フィクションの力である。
事故調にもこの辺りことも調査してもらいたかった。2013年11月4日
原発関連でtwitterでフォローしていたHAPPY11311氏のtwitterを本にした「福島第一原発作業員日記」を読む。
早川博信氏が幹事になっている「専門家が答える暮らしの放射線Q&A」を拾い読み中。今日の新聞で田中俊一規制委委員長が「20mSyまで許容範囲」。
なんだこれは(怒)?2013年10月23日
山口果林著「安部公房と私」を読む。
安部ねり著「安部公房伝」には山口果林が一行も書かれてなかった。
実に女の執念を感じる。2013年10月21日
古本屋で購入した中野孝次の「ブリューゲルへの旅」を読み終わる。
画集の絵を見ながらで、絵の見方も深まる。
以前は解説書(?)は影響を受けるので読まない方がよいと考えていたが、今はそうではない。2013年10月19日
読書ではないが、録画しておいたTVドラマのカラマーゾフの兄弟を見る。
まずは4回分、全部見てるわけではないが、これもカラマーゾフなり。2013年10月15日
図書館に返さなくちゃと思い、謎とき「白痴」読み終わる。
美は世界を救い得るか。救い得ると提案し、そして救い得ないと結論づけようとしいているのだ。2013年10月11日
悪霊下、読了、カラマーゾフと繋がるところがある。
謎とき「白痴」読み始める。図書館から借りてる本なので早く読まなくちゃ。2013年9月12日
今、悪霊の下、及びドストエフスキー人物辞典を読んでいる。
この人物辞典、各作品の登場人物を関連付ける趣旨の本なのだが、人物を決めつけているようなところが気になる。
悪霊3回目になるが、益々解らなくなってくる。
ちくま連載の「戦場体験者の記憶と記録」、価値あり、戦友会とはそういうものだったのか。2013年9月12日
一昨日、図書館に一年以上前に予約しておいた「下町ロケット」が取り置いてますとのメールがあったので、借りて一昨日から今朝にかけて読む。
確かに面白い、痛快経済小説といったところか。主人公は最後に勝つ。大衆小説の面白さに久々に触れた。
もう少し、ドキュメンタリータッチのものを想定していたのだが。2013年9月9日
スマホの使い方とかがあって、本から遠ざかっていたが、悪霊の上は読み終えた。
「死の淵を見た男」吉田昌郎と福島第一原発の500日を読む。これが現場だとの強い思いがある。
私もデスクワークの人間でなく現場の人間、メディアでは知ることができないことがここがある。
この本、図書館に予約して、半年後の八月末に準備できたもの。家が狭く本を買っても置く場所がないので借りることが多い。2013年8月12日
謎とき「悪霊」読了、亀山郁夫は「カラマーゾフの兄弟」の翻訳で批判を浴びたが、この本を読むと、
創作ノート、文献を深く読み込んでおり、これも数回読み重ねる必要がありそう。
私なぞは「悪霊」は読み込み不足であっても、自分なりに読み取り、それが文学たる所以だろう。
ドストエフスキーは時代とともに成長する作家であり、読者ひとりひとり読み取る幅が多様な作家だろう。
謎とき「悪霊」、江川卓の謎ときとは異なり、これ自身完成した文学論(?)だ。
芥川賞受賞作藤野可織「爪と目」を読む。掲載されている作者の写真が「=爪と目」のようだ。2013年8月10日
三日坊主で書いてなかった。
のんびりと謎とき「悪霊」を読みながら、「悪霊」も読んでいる。買ったスマホの使い方に時間を取られ、かなり遅読になっている。
その間、松本清張賞を取った山口恵以子の月下上海を読んだ。2013年7月5日
東京国際ブックフェアでドイツ反原発運動小史を二割引で、新共同訳聖書3750円を1000円で購入。2013年6月27日
カラマーゾフの兄弟、一応三回目の読了。
記憶力が弱いせいか、もう数回読まなきゃならないような気がするが。
明日から謎とき「悪霊」を読もう。亀山郁夫著である。2013年6月17日
父の日プレゼント貰った綿矢りさの本、大江健三郎賞受賞の「かわいそうだね!」と「亜美ちゃんは美人」が載っている。
読了、女性の心理は読みきれない。
若い女性の心理を描く作品、ストリーはこの後どうなるのか、想像を刺激する。
綿矢りさを読むのは芥川賞受賞作以来になる、同時受賞だったので綿矢りさと金原ひとみを勘違いしていた。2013年5月17日
カラマーゾフの兄弟に一寸引用されてるのでこの数日読んでいたシラーの「群盗」読み終わる。2013年5月9日
カラマーゾフの兄弟読み始める、かなり遅々に、体調次第で。
2013年5月8日
ちらちらと読んでいた古い時分に購入した「謎とき「カラマーゾフの兄弟」を読み終え、明日から「カラマーゾフの兄弟」の再々読に入るか。2013年5月7日
医院での待時間などを利用して「火の山」を読了。
登場人物が多く、人間が関係、フランス、アメリカ、日本の関連性に分かりにくいところがあるが読み進むに連れて、
それぞれの主張する人物が明らかになってくる。
昭和二十二(三)年は大変な年だったのだ。
高校時代傾倒した太宰治への思いからミーハー的に読んでいたわけでもあり、一寸恥ずかしい。
TVでは原作ではなく原案となっているのでドラマ化ではないが、どんな風に参考しているのか興味ある。<
TVドラマ「純情きらり」を見続けよう。
内容は覚えていない。何せ高校生の頃。その後佐古純一郎の人間疎外に関する本を読んだ記憶がある。
井伏鱒二、この名前もすぐ忘れてしまう。
火の山、再読の価値ありだ。2013年5月4日
「火の山-山猿記」下巻借りて読み始める。2013年5月1日
図書館から予約した本が用意できましたとのメールが入る、
2013年4月30日
昼の外食で待ち用にちょこちょこ読んでいたモリエールのドン・ジュアン、読み終わる。
2013年4月29日
図書館に「火の山-山猿記」上巻を返し下巻を借りに行ったら貸し出し中、ネットで予約する。
謎ときを読み続けるか。2013年4月26-28日
病臥中で意欲減退で「謎ときカラマーゾフ」を時々覗く。
ドクトルジヴァゴの新訳が出たようだ。2013年4月26日
山猿記、上巻読了、下巻はこれから借りて読む予定にしているが、今日は風邪で臥せっており借りるのは明日以降になる。
TVドラマは原案で明らかに違う。TVも見たり見なかったりで明言できないが、脚本家はこの本に惚れ込んだであろうことは理解できる。
下巻でモデルの太宰治の死はどのように表現されているのだろうか。2013年4月20日
通勤前に見ているBS3の朝の古いドラマの再放送、題名は何だっけれネットで調べる。「純情きらり」だ。
その原案が津島佑子であり、津島佑子はほとんど読んでないがこんなTVドラマであるはずがないだろうと、
「火の国から-山猿記」を図書館から借りて読み始める。
金はないし、狭い家で置く場所もなく、できるだけ図書館から借りるようにしている。2013年4月19日
若い時分に購入して置いた「謎ときカラマーゾフ」を読み始める。
ドストエフスキーの主要な作品に関して昔読んだのは読み直し、読んでないのはあらためて読むということで一旦は読了。
「罪と罰」で「謎とき罪と罰」(江川卓)を読んでからの「罪と罰」がまた面白く、今回都合夫々を三回読んだことになるか。
おまけにペテルブルグの地図まで買ってしまった。
「謎とき罪と罰」は家にあったはずだがと思い探したら見つからず、図書館で二回借りて読み、三回目は買って読んだ。
その後、若い時分購入した「謎とき罪と罰」が出てきた。
なお、数重ねて読むということは記憶力が弱い理解力が足りないことで自慢にならないことである。
外国文学は原語とキリスト教の理解がなければ本当に味わうことはできないと過っては考えていたのだが、今は面白ければ良いと考えている。
解説本を読んで読むこと自体邪道だろうが、解説本も面白いし解説本を読んだ後に本をよむとまた面白いのである。(BR)
江川卓の領域を一歩も出れないことになるわけだが、江川卓に一寸近づく、それでいいのだ。
ドストエフスキー、難しそうなのを読んでいるのだどうだと自慢たらしいことが裏面にあるのだろうがそれも含めてか面白いのは面白いのだ。
「罪と罰」は高校生の頃読み、主人公の名前を暗記し、ソーニャを理想の女性と考えていたのである。2013年4月18日
今日は日帰り人間ドッグだというのに夜中一時半に目覚め一作くらいは読んでおかないとまずい(?)と思って「オリンポスの黄昏」と一緒に図書館から借りていた
田中光二のミステリー「熊野古道に消ゆ」を読む。本来はミステリーではなくSF作家である。2013年4月17日
前から読みたいと思いやっと今になったが田中光二の「オリンポスの黄昏」を図書館から借りて読む。
英光の評伝かと思い期待もしていたのだが、内容は父と子の関わりで許し、和解への過程である。
父の文才を受けついだのでエンターテイメント作家になれたと書いてあるのは率直でほっとする。
田中光二はワープロで原稿を書くのか。
英光の他の子供たちはどのような思いを持っていたものなのだろうか。
田中英光のオリンポスの果実を読んだのは高校一年生の頃だったと思う。
後年古本屋で購入した田中英光の全集があり、全集で全部読んだのはこれだけである。