瘋癲読書日記

瘋癲読書日記

読んだのを書き止めて置かないと読んだかどうかも忘れてしまう侘しい瘋癲老人の遅読読書メモ

読んでないのに読んだつもりの本もある。   

2015年12月28日

 SEALDs編著の「民主主義ってこれだ!」を読む。
思想、イデオロギーの本ではない。
SEALDsメンバーのエッセイと対談である。
奥田愛基、参院での意見陳述全文掲載。
写真が多く、そこには生き生きした若者が写っている。
民主主義とは立憲主義である。これだけで他に難しい話しはない。
何故これほど広がったのか、「何かおかしいと」の思いが非党派性非イデオロギーのSEALDsへの参加となったのだろう。
ネットをみると短絡的な発想で批判するのがいる。
このようなシステムが継続することを期待したい。
「「デモなんてやって大丈夫かな?」と、やるまでビビりまくっていた・・・」、よくぞそこを超えてくれた。

12月26日

 鶴見俊輔著の「教育再定義への試み」を読む。
三省堂本店にも丸善OAZO店にも在庫はなく神保町の信山社で求める。
この本について、大江健三郎が次の三点を語っていた。「死ぬことの準備を自己教育とする」p164、「人間の総体はどんな偉大な個人よりも偉大」p165、「人類は人類を滅ぼそうとしているが、人間の総体は滅びてはならない」p26、 と。
実は自分ではメモも取らずはっきり覚えてなかったので、北野隆一氏による11月16日のtwitterから引用である。
それ以外に、まなざしp13、ひとつの問題に対しひとつの答だけではないp15、偶発性教育p35、失敗した100年間の英語教育p37、学校以外で学ぶことが多い、教育する者が教育を受ける者から教育を受ける、等々教えられるものが多い。
自分の知識の狭さ卑小を知らされる。
77歳の鶴見は「もうろくをくみこんで、今これからの自己教育の計画をたてることが必要だ。」と書いている。
私は?

12月20日

 大江健三郎の「M/Tと森のフシギの物語」を読む。
この大分前に北浦和の古書店で購入した本である。大分前は数十年前のことでまだ読んでなかった。
「同時代ゲーム」と重なるような本で本格的に森の中の集落が舞台になる作品で物語は継承されて行く過程で虚構が神話になって行く。
神話の独立村落共同体の歴史だ。
遠野物語にも現実性がある。
比較的平易な文章で書かれている。「同時代ゲーム」と比較すれば良いかもしれないが殆ど忘れてしまっている。

小谷野敦が子供向けに書かれたものと言う。文庫本400頁を読まなければならない子供は可哀想だ。
分かり易く他の本の入門書になるように思える。
やっと読んだ私は子供以下の読書力ということで納得できるが悲しくもなる。

毎日新聞2021.1.23オピニオン。
加藤陽子の近代史の扉 天皇のあり方熟議のとき 神話の国で「自分の木」を思う において
「M/Tと森のフシギの物語」について、「国家の神話を相対化しうる観点を物語に埋め込んでいた。」と評している。
そこで、西川祐子氏の「大江の用いた二項対立的な性差のメタファーを批判し、そのような叙述は結局、 国家の神話に対してネガとポジを反転させたに過ぎないとした。」にうならされたと書いている。

12月19日

 TVで原節子追悼の主演映画を放映しており、その中でどのように映画化されているのか関心があり、「白痴」を観る。
はっきり言って黒澤明の失敗作である。
ドストエフスキーの映画化には難しいものがあるのに、「白痴」の映画化は更に難しいものがある。
原節子の美貌をナスターシャに重ねたかった思いは分からないわけではないが、主人公はムシューキンなのだ。

2015年12月7日

 「ピンチランナー調書」を読んで。
「万延元年」以降、四国の森の物語に入って行ったと記憶していたが、勘違いで革命組織の「自由航海団」「ヤマメ軍団」を書いている。
「ピンチランナー調書」が発表されたのは1976年10月、1975年の内ゲバ死亡者数はネット調べで21人と最大である。
パロっている部分はあるが、これを何とか越えるものをと文学者の立場からのメッセージと考える。
勿論各党派は何も感じはしないだろうが。
共通性を考えるのではなく差異を強調する体質、商品経済の差別化に繋がってしまうような気がする。

11月30日

 ピンチランナー調書を例によってのんびりと読んでいる。
ウィスキーをビールで割って飲むフレーズがあり、義叔父もそうだったなと思い出す。
11月26日

 「洪水はわが魂に及ぶ」を読んで。
人類滅亡に関わる題名なのだが、「自由航海団」が革命小グループを連想させ、悪霊との類似性を観てしまう。
昭和48年9月30日発行であることから昭和47年の浅間山荘事件を参考にしているのは明らかである。
樹木の魂、鯨の魂には大江健三郎の大きなテーマであると思われる。
万延元年でジンは密三郎の家の女中であったが、洪水では障害を持つ子となっている。
関連性は見つけにくいがそれぞれが重要な役割を担っている。
洪水のジンは救い主の面影がある。

11月22日

 大江健三郎の洪水はわが魂に及ぶを読んでいる。
鳥の声の記述のある時は、スマホで鳥の声を検索しその声を聞きのんびりと読んでいる。
今までどんな鳴き声に関心を持たずに読んでいたのは実に浅い読み方でしかなかった。
プリズム双眼鏡7×50 73° はネットで見つけられなかったが数十万円くらいのものだろう。
カラマーゾフの兄弟からの引用も原卓也訳で確認した。

11月16日

 11日、TVでNHKを見ていたら、100分で名著でサルトル「実存主義とは何か」を放映していた。
これが面白く分かり易い。それでそのテキストを購入して読んだ。
久々のサルトルだ、自分はサルトルを殆ど理解してなかったとの思いになる。
TVも観よう。

サルトルの母親とシュバイツァーはいとこ同士になる。
ガンジー、シュバイツァー、賀川豊彦が三大偉人との本がアメリカで戦前出版されたそうだ。
賀川豊彦
Three Trumpets Sound: Kagawa-Gandhi-Schweitzer. Hardcover-1939 である。

11月14日

 大江健三郎再発見を読み終える。
以前、買っただけで読まなかったのかも知れない。
今まで読んでいた小説の記憶が薄く何が再発見かもよく分からない。
これから読み直して行くので、この本に戻ることがありそうだ。
大江健三郎の思想は不明だ、実存主義とはおさらばしたのか。
ネオプラトニスムとは何なのだ。
この本には八頁に渡って大江健三郎関連の写真が載っている。
小説を全くのフィクションとしての読んでいたがこれからプライバシーを一部念頭に置き再読しよう。

2015年11月7日

 読書力がないのでじっくり一行ずつ追って「万延元年」を読み終える。
魅力あるというよりも魔力ある文体にも魅せられる。
複層した構造、読み切ったとは到底いえない。

10月31日

 「万延元年のフットボール」論の感想を團野光晴先生にメールし、再度(再々々?)「万延元年のフットボール」を読み始める。

10月26日

 團野光晴の「万延元年のフットボール」論を読む。
化学系は別として文系の研究の別刷りを読むのは初めてである。
10月21日

 ゆっくり読んでいた「万延元年のフットボール」を読み終わる。
戴いた團野光晴の「万延元年のフットボール」論の別刷りを読み始める。

10月11日

 浦和の古書店、利根川書店で、文庫本の万延元年のフットボールを200円で購入。 あったはずの単行本が行方不明なのである。松原健一の大江健三郎論が100円だったので同時に購入した。
この書店、店内狭く所狭しと紐で括った本が積んであり、古書展で販売するのが主としているそうだ。
万延元年を読み始める。三回目になる。
2015年10月8日

 Wikipdeiaの英語版をKenzaburo Ooeを検索すると代表作とは思えない「恢復する家族」の表紙絵がupされている。
図書館から借りて読むことにし、読んでないこの本にははっきりした記憶がある。
発行年月日などによりノーベル賞受賞後発売され三省堂で平積みになっていたのがこの本であることが確認できる。
大江ゆかり画の共著が大江健三郎の小説からは遠そうだったので積極的に購入しなかった記憶がある。大江健三郎の著書が発売される度に購入するほどの経済的余裕、読書能力、置く場所が限定されているのでもある。
大江健三郎に対する思い入れは強いのだが、ノーベル賞受賞万歳の気分にはなっていなかった。サラリーマン仕事の中での悩みに支配されていたわけでもあるが。
 基本は家族を描くエッセイ集である。
子育てと言ってもよいのだろうが、光との関わり合いの形は文学への関わり合いが強く、通常の子育てとは大きく意味合いの異なるものである。
文があって絵が描かれたのではなく絵があって文が書かれた作品との思いになる。
「日常的な会話の言葉は、あいまいさ、不透明さにみちていてp160」「暗いほど落ち着きp140」 が印象に残るフレーズである。
「渡辺一夫が重ねた石板の塊をノミで彫り城を造るp142」「渡辺一夫は東大では個室がなかったp144」、そんなことがあるのか。
「癒される者(あいまいな日本の私)p29」 では重籐医師が自殺した若い医師に 「「目の前に苦しんでいる人が達がいる。そのとき自分らにかれらを治療するほかないではないか」、自分はそうそういおうと思っていた」とある。
一方「恢復する家族p32」では、 「・・・いま眼の前にこれだけの数の傷ついて苦しんでいる人たちがいる以上、自分たちとしては、かれらを治療するようつとめるほかないではないか、と答えれた・・・」とある。
些細なことだろうが。
私は埼玉県障害者交流センターでパソコボランティアをしていると、当然知的障害者を見かけることがある。
「恢復する家族」はどこまで有効なのだろうか、それを問うのは検討違いなのだろうが。
大江文学の代表作とは言えないが、大江文学、大江健三郎を知るエッセイ集である。
「癒やし」を使い始めたのは大江だったように思う。
大江ゆかり画も家族への思いに溢れている。
問題になった「沖縄経験」の著述に沖縄出身者の言葉を引用した件について軽率であったとしている。p145

ザルツベルグのコベンツルホテル、娘夫婦が利用したことがあるのでは。

なお、この作品は評伝「大江健三郎と江藤淳」には引用などされてはいない。

9月××日

 学生寮、北斗寮のホームページを作成している関係から、大江健三郎の研究家である石川高専教授の團野光晴先生を知ることになり、大江健三郎の読み返しをする気になった。
手始めに「大江健三郎と江藤淳」を自前で購入し再読しながら、この本は作家、学者の索引が20頁もあるので健三郎の作品名の索引を作る。
さらっと目を通す読み方、そうしないと引用部分を読み飛ばしてしまう。
ちなみに引用が最も多いのが「万延元年のフットボール」で15回で、一方引用されていない著書も多い。

9月××日

 長女の残した本、岩波新書「歌舞伎のキーワード」を読む。
花道などの歌舞伎由来の言葉を解説しながら歌舞伎入門書となっている。
著者は服部幸雄千葉大の教授で1991年発行の書だ。
長女が講義を受けた先生なのだろう。

今、歌舞伎に入り込み余裕はない。

9月10日

 「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」を読み終える。
なんやかやあって新書版をやっと読み終える。読書力の衰えのような気がするが、本来のものだろう。
『カラマーゾフの兄弟』は未完成で後編はどう著されるのか誰もが興味深く思っているはず。
後編はどう構想しているのか思いながらもう一度「カラマーゾフの兄弟」を読んでみたい。

 
9月4日

 大江健三郎集の解説は平野謙が書いている。
平野謙は文芸評論家として超一流と謂うわけはないだろうが、かって読者層代表と書いていたことがあり、分かりやすい批評だったと思う。
図書館から亀山郁夫著「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」を借り読み始める。

9月3日

 1991年発行の古い本だが、「客家(ハッカ)」を読む。漢民族の多様性, 力をみることができる。
世界に、特にアジアに広がっている客家、アジアの経済を動かす力、軽んずるべからず。
高木桂蔵著。

9月2日

 図書館で新潮日本文学の大江健三郎集を借りて「奇妙な仕事」を読む。
病院の屋上で犬が吠えてるような記憶があったのだが、全然違った。
病院の屋上で犬が吠えてるわけはないか。
死者の奢りの前駆となる作品である。
高校の頃、文庫本で販売されていた気配はないので読んでいなかったんだろう。

2015年9月1日

 古本屋で買った、丁寧にいうと、古書店で税込み百円で購入した新潮文庫の「死者の奢り・飼育」を読んだ。
大江健三郎は中学時代に知り、環境からも著書を読む機会がなかったが、会津若松市の高校に入り初めて購入した大江健三郎の著書だった。
これ以降大江健三郎にのめり込むことになるのだが、この本に六編入っているのに記憶にあるのは死者の奢りの一部に過ぎない。
単行本を購入する金はなかったので文學界を購入し、雑誌で大江健三郎を読むことになるのだが。
今回読み直してみて、やはり大江健三郎は天才だ。
飼育は映画で観た記憶はあるが内容は定かでない。

如何に記憶がなくなっているか。

私を僕と書くのは新鮮だった。

8月31日

 「さよならだけがな人生だ」、太宰治か田中英光の小説で馴染んでいた言葉だが、新聞のコラムを読んでいたら、漢詩の「人生足別離」を井伏鱒二が意訳したもであることを知る。
8月20日

 小谷野淳著の「江藤淳と大江健三郎 戦後日本の政治と文学」を図書館から借りて読む。
実に面白い、著者の政治的立場に疑問を持たないわけではないが、文学論でもない作品論でもない伝記であると称しているが、伝記に絡む作品の解説があり、読んだつもりでいた大江健三郎を読んでなかったとの思いを強くした。
作品の解説にもはっきりイエスノーがあり、もう一度購入した本を読み直せればと思うが、時間がなく無理だろう。
購入していた「大江健三郎再発見」が取り上げられているのも嬉しい。
些末なことだが、倉橋由美子は明治学院大学卒と思っていたが明治大学卒だった。
また、大江は松山高校卒かと思っていたら松山東高校卒で、ネットで調べたら松山高校は存在感しない。著者も大江の年譜では松山高校としている。
この本を借りるのではなく購入し、大江の部分を再読したい。
江藤淳についての評価が低いが、新聞の江藤の書評欄では優れた分析力に感心した思いがあったので少しは読んでみたいと思う。あの政治思想(?)には辟易するが。

著者は細かい資料までよくぞ読破したと思う。むしろ踏破だ。

8月12日

 芥川賞受賞作のもうひとつの作品、羽田圭介作スクラップ・アンド・ビルドを読む。
祖父、母、僕三人の介護の小説だ。かって介護に関する受賞作があったと記憶している。
祖父の死を願い、運動不足にするため懸命に介護補助する。喜劇かも。
丹念に描かれている。僕が就職のため家をでることによって終わる。
バラバラな家族、それでも家族。
火花にも献身的(?)女性が登場する。二人とも逃げて行く。両受賞者はそのような女性を願望しているのか。
8月11日

 又吉直樹の火花を読む。
火花は文學界に掲載され、その後単行本も刊行され、出版社の戦略で話題になっていた。
火花(イスクラ)はレーニン、クルスプカヤの出していた雑誌の題名であり、小説の題名には、これを使うのか!との異和感があった。
話題になったからと云って読んでいたら切りがないので読まずにいた。
この作品が芥川賞を受賞し文藝春秋に掲載され、雑誌ならば安く購入でき読むに至ったのである。
面白い。
人生論などを小説にはめ込むと失敗になるのだが、漫才師の世界、関西弁の世界で語ると妙に小説になる。
ここでまんざいしをどう書くのか小説をチェックしたら漫才師だった。
関西弁はアクセントがあって関西弁なのだから、アクセントなしの早口にはわかりにくいところがある。
一読は薦める。今までの受賞作は薦めがたいのが多かった。
これから選評を読んでみよう。
宮本輝がひたきさを評価している。納得できる選評が多く、村上龍の長すぎるも納得、島田雅彦の一発屋、次から書いて行けるんだろうか、私もこれを強く感じている。
総じて悪くない、悪くないから受賞したわけだが。

8月10日

「芥川賞の謎を解く」を読む。
倉橋由美子のパルタイは落選だったのか。
高校生の頃、金はなく買う本は文庫本か雑誌だった。初めて書った単行本がパルタイで黒地に赤くパルタイと題名が印刷されていた。
謎を解くほどのものではないが面白い。
著者が読売新聞文化部記者であり、何かと言えば読売新聞の記事とか読売文学賞が出てきて、やはり読売新聞の記者かと思ってしまう。
石原慎太郎にそれなりのページを割き、大江健三郎の審査員辞退に触れないのは嫌な感じだ。

8月8日

「沈みゆく大国 アメリカ」を読んで。
著者堤未果の格差社会を訴える本は以前にも読んだことがある。
本書は一般論でなく、実際の生活にかかわるアメリカの医療制度、健康保険制度に関するもので格差がわかりやすい。
アメリカの健康保険は複雑でわかりにくいが、オバマ大統領の保険制度は日本の皆保険制度とはほど遠いものである。
オバマが保険会社、製薬会社等に妥協した結果、例えば薬価は製薬会社がかってに決められる。
がん治療薬ひと月4000ドル、安楽死薬は50ドルで自己負担なし。
医師がワーキングプアになり、弁護士が金持ちになる社会がアメリカだ。

八大低賃金サービス業、ウェイトレスやウェイター、調理人、販売人、用務員、介護士、レジ係、メイド。

8月6日

 出版社のPR誌はまさに新刊のPRなのだが、ちくま7月号に於いて、小林健治著「部落解放同盟「糾弾」史ーメディアと差別表現」に対し、角岡伸彦氏が「(組織の)弱体化の原因は、抗議しやすい企業、宗教、メディアにたいしてのみ糾弾を行い・・・本来の対象である権力に対する糾弾を回避するようになった」と分析する。著者もその一員ではなかったかと思わないでもない。と書いている。
 この著書に「・・・抗議すべきは、差別語を使用した差別表現にかぎられる」とあるようで、一安心。
 集落を意味して、通常「部落」と言っていたのを一寸気にしていたのだが、当然問題ないわけだ。

2015年8月2日

 大江健三郎と古井由吉の対談集、「文学の淵を渡る」を読んでいると
この二人、読んでも理解できる訳はないが、古井由吉は学生の頃のドイツ語の先生 、印税の半分は先生に入るのだろう。
一寸は理解しょう。

7月31日

 目取真俊の「水滴」は文春文庫を借りて読んだわけで、他の作品、風音、オキナワ・ブック・レヴューを読む。
オキナワオキナワした作品だ。
又吉栄喜が豚の報いで芥川賞を受賞の際、大江健三郎が沖縄が描かれていないと批判したのに対して石原慎太郎が大江を批判したのを思い出す。

7月27日

目取真俊(めどるましゅん)の「水滴」を図書館から借りて読む。
芥川賞受賞作なので読んだはずだが、ブログ「海鳴りの島から」の主催者の作品として読む。
足が突然膨れ上がるの書き出しでカフカを連想させる・・ここまではかって読んだ記憶と合致するが、他は殆ど覚えていない。
7月24日

 鴎外の阿部一族を読む。
かって読んだこともあるような気もする。映画にもなったような、TVドラマにもなったような。
鴎外のサラリーマンの苦しさを反映しているわけか。
安倍一派が気に入らないので気分転換のつもりだったが、鴎外は重い。

7月21日

 読んだと言って良いのだろうか、
「沖縄「辺野古の海」は、いま」を読む。
 目取真俊氏がブログを開設していることを知る。

7月15日

 坂井豐貴著「多数決を疑う」ー社会的選択理論とはを読む。
ポスト資本主義に次いで新書版だ。
新書は入門書なのだが、理解が進まない。
最尤法など新書では説明できないことが多い。
ノーベル経済学賞受賞者の研究が絡み、深い研究分野である。
 憲法改正条項の衆参三分の二以上の賛成は厳しいものではない。
二〇一四年の十二月の衆院選挙で自民党は投票者の約48%の支持で約76%の議席を獲得した。・・確かに。

2015年7月7日

 広井良典著岩波新書「ポスト資本主義」 を読む。
現資本主義からスーパー資本主義社会か、持続可能な福祉社会かを検討し、人類の長い歴史の中で福祉社会の必然性を語っている。
 新書版一冊で理解できるものではないが、示唆に富む本である。
そもそも、経済成長率年1%で100年経ったら100%、現在より生産量が倍になる。購買量も倍になる。
一部後進国ではあり得ようが。
 化け物ような金融資本、資本主義矛盾の中で自滅するのか。
 この本、市場経済と資本主義とは違う、マックのハンバーガーが世界に広がるのがグローバル化ではないなど、知識の浅い私には新鮮である。
基本の資本主義には是であるようだ。

簡単に書いたが示唆されることは多い。

6月23日

 これが読書と言えるか不明だが、新潮社のPR誌「波」に連載していた池上彰の超訳日本国憲法を時々読んでいたので、新書で発売された「超訳日本国憲法」を購入し読了(?)。
憲法を見るのに六法全書を開くのは面倒、この本を本棚に置く方が簡単に取り出せ、分かり易い解説があり便利だ。
一家に一冊「超訳日本国憲法」w

6月20日

 ジョアンナ・ラコフ著井上里訳「サリンジャーと過ごした日々」を読む。
サリンジャーは人と会わないはずだが。
出版エージェンシーに勤めていた著者がアシスタントしてエージェントとしてサリンジャーに接触していた頃の話である。
今まで知らなかった出版エージェンシーとは何なのか一寸分かった。 ニューヨークの一面を知ることできる。
サリンジャーと触れた自慢話ではない。著者の青春記である。
サリンジャーは私が大学に入って初めて知った作家だ。
英語の授業で「バナナフィッシュ」が教材として使われた。教えてくれた大場先生はニコ中で煙草を吸いながら講義していた。

6月12日

 行方不明と思っていた藤原作弥著の「聖母病院の人々」が壁とベットの間から出てきたので、中途から読み出す。
 私も入院経験は豊富だが、時代の違いか、別世界の感がする。
 その病院名の通り、特殊な病院かもしれないが、新聞記者の入院で一寸違った人間関係がこの作品になったのだろう。はっきり言えば特別扱い。
 出版年月日から長女は高校生の頃、読んだわけだろう。 その後、著者が日銀副総裁になったのを知ってるんだろうか。
 著者は仙台一高新聞部で井上ひさしの3年後輩になる、ということは菅原文太の4年後輩になるわけだ。

6月10日

 遅ればせながら、矢部宏治著「日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか」を読む。
昭和天皇にまで因を求めなければ理解できない深さがあるのだ。
「壁」厚い!崩れない壁はない。
一読の価値あり!
オキナワ≒フクシマと私も考えていたが、県民の意識は大きく違う。
私は人生下り坂、日本も精神下り坂か。

2015年6月7日

 図書館から借りた池田健太郎訳のオネーギンを読む。
オネーギンには悪霊のスタヴォローギンを想わせるところがある。
プーシキンも官憲から監視されてる身、レベルは違うだろうが、ドストエフスキーと共通する面である。
オネーギンおける「あの足が大好きなのだ」「あの足に口づけしたい」・・・今の時代ならば猥褻になりそう。
池田健太郎訳は散文訳なので、木村彰一訳の韻文訳を覗いたところ、別な作品を読んでるような。

6月1日

 長女が読んだのだろう、藤原作弥著の「聖母病院の人々」があったので読んでいた。
落としてしまったか、途中まで読んで行方不明になってしまった。
新聞記者の入院エッセイで私の入院とは較べようがないが、これが宗教関連の病院かと、一寸面白い。

5月31日

 太宰治についてもうひとつ
「直筆で読む人間失格」が出版された時、人間失格は高校時代に数回読んでいたので、懐かしさもあり購入して読んだ。
こちらの感性の低下もあり、違和感を感じていた。
印象深かった「庭の夾竹桃も僕が植えたのだ、青桐も僕が植えたのだ」、これは人間失格で精神病院に運ばれる時のものかと思っていたが、そうではなかった。
恐らく「晩年」の中に出てくるのかと思い、図書館で調べたら、「晩年」は短編集だ。
ネットで調べたら、「十五年間」となっている。
図書館から借りてそれを読むと「・・・私は、たのむ!もう一晩この家に寝か  せて下さい、玄関の夾竹桃も僕が植えたのだ、庭の青桐も僕が植えた・・・」と書かれている。
十五年間には津軽に疎開する時の状況が細かく描写されている。
だが、 読んだ記憶はない。
夾竹桃云々をネットで調べたが、他の作品に描写されている情報はえられなかった。

5月30日

「生くることにも心せき、感ずることにも急がるる」  太宰治のどの小説か、図書館で調べたが分からず、ネット検索で「懶惰の歌留多」であることが判明した。
冒頭句ではなく、カルタの「い」であった。
代表作の冒頭にあったと記憶していたのが。
5月28日

 高校生の頃太宰治に傾倒していた。
「生くることにも心せき感ずることにも急がるる」の言葉を借りて、寄せ書きなどに使った。
それでこの言葉を覚えているのである。
後年オネーギンを読み、序詞の借用であることを知った。何時、何故オネーギンを読んだのかは定かではない。
今回オネーギンを読むに当たって、ひとつにはその序詞を再確認したかったのである。
岩波文庫、
池田健太郎訳(1962年) 「世渡りも大あわて、恋の道も大急ぎ」
木村彰一訳(河出書房新社1972年)では
「生きることにも気ぜわしく 恋をするにも大急ぎ」である。
木村浩訳(集英社1991年)
生きることにも忙しく、恋することも急がるる。
いずれも太宰治、私の記憶にあるそれとは異なっている。発行年度から当然であるが。
私が読んだのは、今は絶版となっているが、米川正夫訳(1953年新潮文庫・・ネット調べ)ではなかったろうか。

なお、この序詞はプーシキンのオリジナルでなく、ピョートル・ヴャーゼムスキの長詩「初雪」からの引用である。

オネーギンは韻文詩であり、木村彰一訳は詩として行分けされいるが、他は散文のように行分けされずに印刷されている。

5月25日

古本屋で購入した岩波文庫の神西清訳スペードの女王、ペールキン物語を読む。
そもそもプーシキンを読むのはドストエフスキーがプーシキンを畏敬しているからでもある。
スペードの女王、高校生の頃読んでもいい題名だ。どうも記憶にない。
ここからドストエフスキーは賭博者を書き、ラスコルニコフの想を得たか。
ペールキン物語ではオーヘンリーを読んでいた時代を思い出す。

5月10日

「人間の絆」を読み終える。
ゾラの居酒屋とは打って変わって、一部下層社会を描いているものの中流階級の小説である。
読み終わり「絆」は男と女の切れにくい絆を意味するのかと思って解説を読んだら、 情念に支配された人間、その絆からの解放の小説である。
主人公フィリップの悪の女性ミルドレットから理想の女性サリーに至るまで。
どろどろした男女関係の絆、読み間違いではない。
題名の出所はスピノザの「情念」であるとのことだ。
悩める青年、文学は青年のものである。

モームは吃音だったとのことである。

モームは高校時代に月と六ペンスを読んで以来だ。
振り返ってみると、 最近読んでいるのは高校時代に読んだものの延長でしかないような気がする。

2015年5月6日

 言葉「絆」があふれているようなので、絆ですぐ連想できる小説、サマーセット・モームの「人間の絆」を読む。
これも図書館から借りてである。
中野好夫訳、中野好夫氏の講演会を高校生の頃聴いたことがある。
安保の前だったか後だったか。

4月26日

 居酒屋で飲む機会もある。チェーン店もあり、居酒屋はありふれたものになっている。
ところがエミールゾラの「居酒屋」を読んでないので、図書館から借りて読むことにした。
19世紀パリの下層社会が克明に表現されている。
堕ちて行く女性のジェルヴェーズの物語、酒と堕落の精細な表現に気分が悪くなる。
文庫本でも600ページあり、明るい結末は予想できない小説で、暗い気分になる。
ところで小説の中の居酒屋、汚く、アル中の溜まり場で入りたくない場所だ。
ジェルヴェーズの娘がナナで、これが小説「ナナ」で、これは高校時代に読んだ。

4月17日

 佐藤紅緑の「ああ玉杯に花うけて」を読む。
何故今読むのか、
天皇のパラオ訪問のニュースを聞いて、近くにはトラック島も近くにあるのを古い記憶から湧き出てきた。
小学生の頃か、トラック島で父が戦死した貧しい少年を主人公にした少年小説を読んだ記憶がある。
それがこの小説ではないかと思ったのだが、昭和3年の作で時代に合わない。
図書館でこの本をちらっと覗くと浦和中、現在の浦和高校を舞台にしている。それで読もうと思ったわけである。
当然浦和町の裏門通り地名、調宮神社などが出てくる。浦和中の場所も現在の浦和高校とは異なる。
また、レーニン、トロツキーの名前も出てくる。
この本、小学生の頃読んだのだろうか。
マントを着た学生が表紙だった記憶がある。ネットで調べるとそのような本はない。
読みやすく小学生向けに書き直したものだったのかもしれない。貧乏な少年の話で貸本屋で借りて読んだ記憶は間違いない。
4月15日

 図書館に半年ほど前に予約しておいたアスラン著の「イエスキリストは実在したのか?」を読む。
原題は「Zealot-The Life and Times of Jesus of Nazareth」である。
この関連の書籍は読んでいないのでイエスの時代への理解が深まる。
もう一つのキリスト教の本質か。オーバーだな。

2015年4月5日

 ローザルクセンブルクのロシア革命論を読む。
若い時に読んでいればよかったと思う。
民族自決権の否定、プロレタリア民主主義、かって頭の片隅で考えていたことにマッチする。

3月26日

 重松清の「おかあちゃん」を読んだ。
図書館でみて、二冊ありどれもがそじており、最も読まれてるようなので借りて読んだのである。
内容は題名とは異なって(?)、いじめが中心で、人は謝罪できるのかがテーマになっている。
少年の心理表現には優れたものがあり、読みながらどうなるんだろうとドキドキする著作である。
TVドラマの流星ワゴンにもどうなるんだろうとドキドキするところがある。

「そじる」の漢字が分からないのでネットで調べたら「傷む」の会津弁だった。

3月22日

 TVドラマで重松清原作の流星ワゴンを面白く観ているので、10年程前に読んだ「きよしこ」をまた読んでみた。
胸が痛くなる。

3月20日

 古本屋で粟津則雄著の「ランボオとボードレール」を100円で購入し読んだ。
出版社が第三文明社で一寸気に入らなかったのだが。この辺が私の偏狭さだ。
家にあるランボオ全作品集も粟津則雄訳で、裏表紙を見たら、鉛筆で1,600-と書いてある。即ちこの本も古本屋で購入したわけだ。なお、小林秀雄訳はある。
肝心の内容については、現在詩を読む(?)感性を喪失しているので難解である。実は元々感性はなかった。
かって漠然と読んでいたランボオへの理解がな深まりそうだ。

3月9日

 古本屋で210円で購入しておいた大岡昇平の「少年」を読む。
この本、蔵書印がありでそれで安いわけなのであろう。
ところが頁の天が今まで開かれてなかったように軽くくっついていて、剥がすようにして頁を繰って行く。
栞紐も丸く挟まっており読んだ形跡がない。帯はついてない。
それはともかく、「少年」は著者の渋谷近辺に在住時の回顧であり、細かい地名番地、近所の家の形の記述が続き地理に疎い私には読み込みにくい点が大いにある。
まして転々と引っ越ししている。
母親が芸妓、東大の農学部(東京農科大学)が駒場にあったのも初めて知る。
同じ著者の「幼年」は詠んでないが、大岡昇平のイタセクスアリスといえよう。

3月6日

 Twitterをチェックしていたら(happyさん←いとうせいこうさん)、島尾敏雄の墓が福島県相馬にあることを知る。
てっきり鹿児島の方にあるかと思っていた。
埴谷雄高と島尾敏雄とは同郷、埴谷雄高の墓が相馬にあることはないだろう。

2015年3月1日

 カラマーゾフの兄弟の「大審問官」の部分を読み直す。
カラマーゾフの兄弟はあれで前編で未完成、後編はどんな風に構想されていたのだろうと思うといまだにゾクゾクする。当然、前編以上の長さになるのだろう。
拘らずに亀山郁夫著『『カラマーゾフの兄弟』続編を構想する』を読んでみるか。
私にとって、マルク〜レーニン、トロツキー〜ローザルクセンブルグ〜〜ドストエフスキーは脳底に薄暗く沈殿にしたままなのである。

2月28日

 伊藤成彦著「ローザルクセンブルグの世界」を読む。
ローザずいてるのは、ローザのレーニン、トロツキーへの批判に納得する故である。
無制限な出版・集会の自由、自由な論争が必須なものである。
学生の頃、読んでおきたかった。
ハイネの「一八五三・五四年詩篇」を読んでみよう。

2月18日

 今期の芥川賞受賞作品「九年前の祈り」を読む。
 文章もしっかりしている。作品の構成もいい、時代との同期性もある。
でも、次の作品を読みたいとの気分にはなれない。
作者は小野正嗣氏。

2月14日

贋作ドン・キホーテを読む。
ドン・キホーテは瘋癲病院入院させられ、快癒し再度旅に出たとか、サンチョはドン・カルロスに留まり羽振りが良くなっている。 1614年発刊の贋作が今も残っている。その不思議。それをまた読んでみようとする不思議。
セルバンテス作の後編の方にはドン・キホーテ、サンチョに対する作者の愛情が感じられる。
なお、真作ではほとほとの体で村に戻っている。

2月13日

 フランクルの夜と霧、霜山徳爾訳と池田香代子がある。霜山訳は市立図書館の個人の不用本置き場にあったのを手に入れたものである。
 霜山訳のこの本は中学生の頃に家にあって強い印象を受けた一冊だった。
今ある本の裏書きを見たら初版1961になっている。それなら高校生時分になる。
そんなわけはないだろうとネットで調べたら1956年初版となっている。
本の表紙は全く同じようなのだ。

訳者あとがきは1956年になっている。
印版を1961年に作り直したということなのだろうか。

書店にある最新刊の裏書きには初版1956年、新装版1985年と書いてある。

2015年2月1日

 新聞小説を読むのは苦手で、週一編のはいいが毎日のは駄目である。一度も読んだことがない。
ぐうたら、3日坊主が原因だが、ローザルクセンブルグは「新聞小説を読むのは、多くの場合、五つ六つ、またはそれ以上の小説を一時に頭の中に入れておかねばならないから、自分にとってはとても「つらい」といって、こぼしていた。」ようだ。

2015年1月23日

 ローザ・ルクセンブルグの資本蓄積論(上)を図書館から借りて覗く。
本の題名だけは知っていたが、内容はまるっきり知らないので一寸読んでみようと思ったわけである。
アダム・スミスからマルクスまでの経済学書である。
マルクスへの批判もあるのだが資本論もろくろく読んでないのでどうこう言えない。
経済学のいい教科書(?)と思えるのだが、1934年第一刷の本なのである。

2014年12月29日

 ドン・キホーテの正編は堀口大学訳で読んだので、後編もと思い探したところ堀口大学訳の後編はなく岩波文庫の牛島信明訳をだらだらと読んだ。
後編は正編より完成度は高いと思えるが正編には時代性が強く感じられ面白い。
後編には贋作ドン・キホーテを批判しているところがあり、贋作を読んでみようと思う。
新規に本を買うには金がなく家が狭く置くところなく、ないないづくしで後編は図書館から借りたもので贋作も借りるつもりである。

ドストエフスキーも完成度に劣るところがあっても面白い。

2014年12月14日

 市立図書館に予約していた柄谷行人著「帝国の構造」を読む。
若い時、新鋭の文芸評論家として名前だけは知っていたものの、全然読んでなかった。
また新鋭なので私より若い世代と思っていたのにネットで調べたら私より三歳上だった。
@資本=国民=国家が最終の形で、あるのはその比重の違いであるとの考え、今の日本もそうである。
Aプロレタリア独裁、共産主義社会。
これはロシアスターリニズム、マオイズム、クメールルージュの失敗で、ドストエフスキーの予言通り、不可能であることが明らかになった
そしてAは@になってしまった。
これらを超克できる社会の可能性のヒントがあるのではないかと思いこの本を読んだわけである。
マルクスが原始共産性を高次元で回復するように、×××を高次元です回復することが展望を開くもの。・・・こんな読み方でいいんかいな。
全く 帝国と帝国主義の違い。
民族自決主義はヨーロッパがオスマン帝国、清を崩壊させるためのアイディア・・納得できる。共産党の民族主義には異を感じていたのである。
生産様式でなく交換様式で世界を見て行く考え、納得できる部分もある。
プロレタリア、労働者の姿が見えてこない、そこに疑問を感じるが、階級を超えた著述でもあるわけだ。
なお、難しい本で読みこなせているわけではない。

私有財産は麻薬か。
2014年11月9日

 鎌倉孝夫/佐藤優の「はじめてのマルクス」を読む。
佐藤優がこれほど深く資本論を読み込んでいたのか。びっくりである。
まあ、佐藤優の本は全然読んでいなかったのである。
佐藤優が浦高2年の時、社青同の同盟員で北浦和の労働会館の労働大学で鎌倉孝夫の 資本論の勉強会に参加していた。
この労働会館、若い現役の頃、ここは組合の執行委員会が開かれたり、労働関連講座を受講した場所なのである。
資本論に関してはちらっと覗いた程度でこれは革命ではなく経済学の本だな思ったものである。
この本、資本主義を超え、スターリン主義を超え、どのような社会が望ましいのか、明確な解答はない。

2014年11月5日

 セルバンテスのドン・キホーテ読み終えた。
結構長かったので読み終えたとの気分になる。
堀口大學訳を昭和40年代古書店で購入し、当時パラパラと拾い読みしただけだった。
完全に騎士世界の妄想の中にいきるドン・キホーテ、サンチョはリアリストだが富についてはキホーテの妄想に重なってしまう。
そのやりとりが面白い。

挿話の軍隊生活では自伝的部分がある
当時のキリスト教圏とイスラム教圏の境界がどうなっているのかわかる。地中海が海賊だらけだったことも。
今回読んだのは正編で続編も読む気になった。
知らない地名、人名が多く出てきて読みにくいのは確か。
どのように表現されているのか芝居のラ・マンチャの男を観てみたい。

2014年11月3日

 出久根達郎のエッセイなど、面白く読んでおり、どんな人かネットで調べたら1944年生まれ、私と同じではないか、3月31日の早生まれで、吉村さんが近い。
それで中卒、私が高校生、学生の頃、口を糊すべく働いていたのだ。

2014年10月4日

 日本人論争を読んで、
20代の頃、新日本文学に神聖喜劇を連載しておりその時大西巨人の名前を知った。
実際、神聖喜劇を読んだのはカッパノベルズで出版されてからである。
軍隊の詳細についてはこの本でも理解が進む。
徴兵検査で甲、乙、丙、丁、戊まである。
この本は読んでいない「大西巨人文選」の後を継ぐもので理解不十分で あるが、野間宏の真空地帯にこれほど批判的とは思わなかった。
軍隊の見え方は違って当然で肺浸潤なのに召集された桂三枝の御尊父にはどんな見え方だったろうか。
巨人の博識には相変わらず驚く。
戦前の新聞は夕刊を翌日付けで発行されていたということも初めて知った。
原発に肯定的なのにはがっかりする。
赤人も困っているようだった。
映画の話について長い頁を割いているが戦前の映画でよく解らん。

2014年9月21日

 県立図書館に予約しておいた「日本人論争 大西巨人回想」が準備できてるとのメールが入り借りて来る。
8300円の本だ、貧乏老人の身にはそうそう買えるものではない。
800頁の本だ。返却の二週間後までに読まなければならない。
ウム、読まなければならないーそんなことはないはずだ。

8月31日

 読書から遠ざかってはいるが、未成年を ボツボツと読んでいた。
上巻を読み終わって、賭博のシーンで興奮した。
以前読んだ時はそんな風に感じなかった、ロシア人名の迷路にはまり込んでいたのだろう。
賭博者ももう一度読めばかなり興奮するのかもしれない。

2014年8月22日

 帯状疱疹、帯状疱疹後神経痛で読書から遠ざかっていた。
遅まきながら芥川賞受賞作「春の庭」を読む。
相変わらずもうひとつと思ってしまう。
こじんまり感は何だろう。
表現する対象が狭くても、文学としての深さ広がりが欲しい。

7月26日

 大江健三郎の見る前に跳べ、どんな小説だったのかまるっきり忘れてしまったので読む。
昭和33年の作、芥川賞を取ったときの作か。かなり多作だ。
ネットで調べたら33年の1月の受賞、ということは私が中学1年生の時、実はてっきり2年生の時と思っていた。
受賞後も話題になっていて勘違いしたのかも知れない。

7月25日

 読書力低下気味、未成年は再読だが、混迷の森、少し明快にするつもりで中村健之介緒のドストエフスキー人物事典の未成年の項を読む。
これで未成年が詠み込めるかは??

7月12日

 文學界平成15年6月号サリンジャーの特集の鼎談で沼野充義がキャッチャーはドストエフスキーの未成年に似たところがあると語っているので、「未成年」をもう一度読んでみる。
長編である。

7月11日

 村山談話が話題についてなることが多い、一方、自社さ政権は社会党の墓堀でしかなった思っていたが、見直してみようと思い、「「村山談話」とは何か 村山富市 佐高信」を読む。
社会党の没落、歯止めとしての村山談話、社会の右傾化、集団的自衛権。
日本は何処へ行くのか。大きく考えなくても、孫はどうなるのか。

7月9日

 村上訳の「キャチャー・イン・ザ・ライ」を購入した時、「サリンジャー再び 村上春樹」を掲載してあった文學界も購入してあったので、これも読む。
サリンジャーが本に解説を付けるのを拒否したのでこうなったのである。
余りにも戦場体験が生々しかったので、所謂反戦小説を書かず、「キャッチャー・・」を書くのが反戦なのだ。

7月8日

 そもそもサリンジャーの作品に出会ったのは学生の英語の時間に教材にbananafishが使われた事にある。
大場先生といって、ニコ中で授業中も煙草を放せなかった。
ホールデンがしょっちゅう煙草を喫っているのと関連がありそう。
1964年に白水社から世界の文学の一冊として「ライ麦畑・・」の翻訳が出たようだ。
白水社の世界の文学は一時買っていたが、記憶がないからサリンジャーは買わなかったのだろう。
若い時分に購入した本には行方不明になってるのが多い。
家にある白水社Uブックスライ麦畑は1985年発行者1989年第31刷である。
購入の動機は思い出せない。
ライ麦畑を読んだのはこの時だろう。
選集の一冊で古本屋で求めた「大工よ屋根の梁を高くあげよ」があったが、欲しい人がいたのでその人にあげた。

2014年7月6日

 「サリンジャー生涯91年の真実」を読んで、○年ぶりに「ライ麦畑・・・」を読む。白水社の野崎孝訳があるのだが、村上春樹訳が出たときに購入したのが読まずにあったので「キャチャー・イン・ザ・ライ」を読む。
歳をとった現在の方が良く読める。感動的に読めるというわけではないが。
新書判があったはずと思い、探したら白水社の野崎孝訳があった。 表には一切出してないが、続編もあるのではないかと思うのだが。

6月23日

 「サリンジャー生涯91年の真実」ケネス・シラウェンスキー著田中啓史訳を読み終わる。
読書力が衰え、600ページを越える訳書できちんと読み込んだとは言い難い。
何故作家活動を停止したのかに関心が強かったのだが、改めてキャッチャー・イン・ザ・ライを読みなおしてみよう。
ライもバナナフィッシュもただ読んだだけに過ぎなかった。

6月20日

 パリ入城でヘミングウェイにも会っている。
その後、また凄惨な戦闘を経験する。
有能な下士官だったが、彼がいた連隊は約3000人、生存は約500人、40年以上の沈黙に関わりはあるだろう

6月15日

 サリンジャー生涯91年の真実を読んでいる。
若い時代、作品の登場人物そのものを彷彿させる。
サリンジャーがノルマンディー上陸作戦に参加し、それも最も戦死者の多い部隊の下士官だったとは。
よくぞ生き残ってくれた。
映画 The longest day をもう一度観てみたいものだ。

6月15日

 大江健三郎再読読書日記の一つとしてヒロシマノートを読む。
あの頃、学生で政治的なものに関心が強く、党派のどうのこうのに考え方が巻き込まれていた。 当時、大江健三郎の講演を聴いたが、全然覚えていない。想像力に関することことだったか。
能弁でない彼が講演して回ったのは出版社の依頼だけでなく、伝えたい想いが強かったのだろう。
大江健三郎の芯はずれていない。

6月8日

 先月末に亡くなり、ニュースにもなり、facebookにもその死亡の書き込みがあったMaya Angelou(マヤ・アンジェロウ)の「歌え、翔べない鳥たちよ」を読む。
その少女時代を描く。
黒人社会で必ずしも貧困家庭で育ったわけではないが、極めて別世界である。
恥ずかしながら、初めて知った作家(?)である。
二グロの言葉もこの書籍の中で久々(?十年ぶり)に触れた。

2014年6月2日

 「懐かしい年への手紙」読み終わる。
単行本はあるが電車で読む都合があり、図書館から文庫本をかりて読む。
偽自伝小説で、読み直しになるが過去に読んだ記憶が極めて薄い。
ただ、ダンテを読まないと理解が薄くなるなとの記憶があり、また大江健三郎の背中が遠くなったなあとの記憶がある。
今読み終わっても引用も確認してもっとじっくり読まなければと思う。

この小説で大江健三郎が餃子を初めて食べたのは松山の高校に入ってから、私が初めて食べたのは大学に入ってからで餃子を食べたのも10年以上遅れているわけだ。
餃子を食べるシーンをもっと感動的に書いてもらいたいなあ。

2014年5月25日

 4月29日以来、本を読んでないのか。
図書館に順番で予約してあった六草いちか著「それからのエリス」が借りられるとの連絡が入った。
半年くらい待った訳である。
鴎外はほとんど読んでないのだが、これは面白い。
エリスは戦後まで生存者していたのか。鴎外も歴史上の人物と思っていたのだが。
エリスに鴎外の子がいたのか、送金していたのか、まだまだ興味が出てくる。
六草とはどういう人なのだろう?

4月29日

 「国家はなぜ衰退するのか」
独占的政治制度、経済制度に対する包括的政治制度、経済制度によって説明している。
国内の貧富差に視点が行き易いが、国家間の格差の方がはるかに大きいのだ。
蒸気機関発明のワットの前にトマス・ニューコメン、ドニ・パパンがいることを知る。
Wikipediaで調べるとドニ・パパンが成功しなかったのは経済制度ではなくそのシステムのためのようだ。

自由主義経済の制度化が繁栄を導くとのことだが、本当にそうなのか。全ての国がアメリカ、日本になり得るのか。国内的に敗者を産んでるように、国際的にも敗国を産むシステムではないのだろうか。
機会があったら下巻にも目を通してみよう。

4月21日

 図書館に予約してあった「国家はなぜ衰退するのか」(上)が順番待ちで入ったので、借りて読み始める。
読み始めたばかりだが、貧困国家が何故貧困かがわかり始める。

4月21日

 Twitterで紹介されていたC・ダグラス・ラミス著「要石:沖縄と憲法9条」を読む。
2010年発行で最新の本ではないが、私の考えを補強裏付けしてくれる。
福島原発以降ならば差別のテーマに取り上げられていただろう。
関連書籍:「すべての人が戦争について知るべきこと」「戦争と憲法」「沖縄に基地はいらない 元海兵隊員が本当の戦争を語る」「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?ベトナム帰還兵が語る「ほんとうの戦争 」

4月18日

 以前一寸読んで中止していたドイツ反原発運動小史を読む。
運動は息の長いものでじっくり構える必要がある。
バラバラなのをネットワークで結ばなければならない。
色々考えさせられる事が多い。

4月8日

 NHK講座になった100分で名作のテキスト「罪と罰」亀山郁夫を読む。
この本に載ってる地図、人物相関図を見ながら「罪と罰」を読めばスムーズに読めることは確か。
また、分かり難い森の中を彷徨うのも読書であろう。

2014年4月5日

日付をみると最近本を読んでない。
といいながら「雨の木」を聴く女たち を読んでいた。
単行本が出た時に読んでみて、変に長編に均されていたせいか全く面白くなく、一寸読んで止めてしまった作品である。
今回も雨の木をうまく掴む(感じとれる)ことができなかった。
大江健三郎もドストエフスキーの周辺のような気がする。

2月30日

 万延元年のフットボールを再読する。
例によって図書館から文庫本を借りて読む。
初めて読んだのは二十代前半の頃で、大江健三郎が三十歳でこのような小説を書き、自分の三十歳はどうなるんだろうと思ったものである。思い返せば情けない三十歳だった。
この講談社の文庫本は解説や年譜がついていて有り難い。
覚えているのは僅かだが、大江健三郎の大きな変換点であることは確かな記憶だ。

2月30日

 梅本克己の唯物史観と現代を読み返してみる。
「マルクスの予測は1848年の共産党宣言以来外れっぱなしである。」はこの著作であったか。
ソビエトスターリン共産党、中国農民共産党、クメールルージュ、確かに。

2月17日

 死線を越えてを読み終えて、 自伝的部分の多いのだろうと思う。
旧かなずかい、伏せ字があるかと思ったが、戦後著者が手を入れて変更したとのことである。
高校生の頃を考えれば、40年程前の作品、何処かに身近なものを感じていたのだろう。
ノーベル賞の候補になっていたのは情報公開により新聞で知っていたが、ネットで調べると、文学賞に二回、平和賞に三回候補なっている。
生協の創始者でもある。
読んでよかった、だからといってキリスト教社会主義に傾倒することはない。
何か、ドストエフスキーの周辺を読んでいるような気がする。

2月15日

 賀川豊彦の死線を越えてを読み始める。
高校生の頃、なんとなく話題になっていた作品であり一度読んでみたいと思っていた本である。
ネットで調べるとその頃亡くなっているのである。

2月12日

 芥川賞受賞作の「穴」を読む。
読んで面白い、この当たり前が久々に感じられる作品だ。
きちんと描写される主人公の私、それ故にどうなるんだろうと引き込まれて行く。
何かが起こって何が起こったのか分からない。
現実から幻想の世界に、いつの間にか行ったり来たりする。
子供たちが賑やかに遊んでいる夢の世界、何処かで読んだような気がする。

2月11日

 文藝春秋芥川賞受賞作読む前に、150回を記念する対談などが載っており、結構面白い。
それで気になって、太宰治賞第1回候補作の作者、熊田真記はどうしてるんだろうと思ってネットで調べたが、ヒットしない。
候補になった熊田真記は高校生だったはず。
第1回の受賞者だと思っていて、ネットで調べたら、受賞作なしで候補だった。

2月10日

 都知事選、反原発系が敗北し、気落ちしていた。
「地下室の手記」、面白くないと書いいたが、ドストエフスキーの思想哲学文学の基本が示されている。
全く否定的な人間が主人公になる。そこに人間の本質に迫るところが怖いくらいだ。
前半で人間否定の独白、後半に若き時代の生活、もう一度前半に戻る必要があり、これも再読構造だろう。

文藝春秋掲載の芥川賞受賞作を読もう。

2014年2月3日

 何故か、図書館から借りた「「福音書」解説「復活」物語の言語学 溝田悟士」を読む。
再読構造というのをはじめて知った。

1月21日

 地下室の手記の再読を始める。
どうも面白くない。

1月19日

 数十年前まとめて購入した文庫本の中に共産党宣言をさらーっと読んでみた。
高校の頃読んで、あの頃どこまで理解していたのだろうか。
スターリン主義も知らなかった頃だ。
粛清とシベリア抑留には疑問をもってはいた。

1月18日

書評誌「未来」12月号、「オリンピックの落とし穴」町田幸彦

1月17日

 「個人的な体験」を読む。
こんな青年の心の深みを描く小説だったのか、若いときはこの表現を読みとることができなかった。
この昭和56年出版の文庫本には作者のあとがき(?)もある。
そこで両親の退廃を描くのが万延元年のフットボール、子供が育ち父親を支えるのが洪水はわが魂に及ぶ、子供は壮年に父親がハイティーンにがピンチランナー調書、この辺り全然覚えてない。
マルクス、トロツキーに関心が行っていたせいか。
サルトルにも興味を持っていた。
ドストエフスキーもそうだが、この歳になって本を読めるようになった。ーーーーような気がする。

「個人的な体験」、この題名の意味合いも考察する必要があるが、主人公の名前、鳥(バード)は「・・カラスが・・・光が全世界に満ちた。」(新しい光の音楽と深まりについて)のカラスを暗に示していたと考えられる。

1月13日

 学生の頃単行本で買ったはずだが行方不明で「個人的な体験」の文庫本を図書館から借りる。
電車で読めるので文庫本の方がいい。

1月12日

 ドストエフスキー人物辞典の初期作品関連を読む。
初期の作品は貧しき人々をかって読んだのみ、他の作品も読んでみよう。

1月11日

 図書館から新潮社文庫の空の怪物アグイーを借りる。
昭和43年以前に文庫本で読んだ記憶があるのだが、初版は昭和47年になってる。それならば確実に家にあるはず。
短編集で7作品掲載されており、空の怪物アグイーとアトミックエイジの守護神は題名の記憶がある。
発表時の雑誌で読んだのだろうか。
空の怪物アグイーを読みなおしてみると全然覚えてないことが明らかになってしまった。
これを読んで大江健三郎に障害のある子供がいるのかと何となく思ったのも信じられない。
後から読んだものでそう思い込んでしまったのかもしれない。それにしても空の怪物アグイーが強く印象に残っているのだろう。
アトミックエイジの守護神、こんなストリーだったのか、まるっきり記憶の圏外である。

カバーの端(製本関連の用語も忘れてしまった。)に載っている大江健三郎の写真が再版時の平成の写真で若い時分の写真を載せて欲しかった。

2014年1月3日

 新潮のサイードと大江、これを読むとインレートスタイルを著した理由が一寸解る。
更に解るにはサイード他も読んでおく必要があり際限がない。
この新潮の発刊日は2005年、サイードが亡くなったのは2003年、この解離は何なのだろう。

2013年12月30日

 大掃除のメインのひとつとして少ない本を整理してたら新潮創刊1200号記念誌にサイードと大江健三郎が寄稿している。読んでないか。
サイードは「晩年のスタイルに関する考察」、大江は「『後期の仕事(レイターワーク)』に希望があるのか?

2013年12月30日

 空の怪物アグイーの他に万延元年のフォットボール、個人的な体験、厳粛な綱渡りが実家に あるはず、処分されたか。
食べ物を減らして購入した本のだ。大学に入った時の体重57kが51kgに減らして(減って)かったのだ。
ダメもとで喜多方に電話帳してみるか。
実家といっても私の産まれた場所でもない、育った場所でもない。お袋がいた家である。

2013年12月29日

 大江健三郎のインレートスタイルを再読する。
再読しても以前に読んだ本の内容をよく覚えてないので、読み終えたとは言い難い。
空の怪物アグイーなどは実家に置いたまま行方不明になっている。
空の怪物アグイーはフィクションなのにこれを読んで大江健三郎の子供に障害者がいるんだと知った記憶がある。
文庫本だった気がする、それならかなり遅れて出版されるはず、学生の頃だったが。
ドストエフスキー同様、大江健三郎の作品は再読の要がある。
再読するにしても神曲など読んで知識を深めておく必要がある、でも間に合わない。

2013年12月27日

 ちくまで愛読(?)している原詩生活、著者の井坂洋子をネットで調べたら山手樹一郎の孫で1949年生まれだった。
山手樹一郎ってそんな歳だったのか。

2013年12月13日

 大江健三郎のインレートスタイルを一度読み、もう一度読み返している。

2013年12月8日

 録画しておいたTVのカラマーゾフの兄弟の最終回を見る。
原作では有罪になる長男が無罪になる。
ここはどんな風にドラマ化するのか期待していたのに、原作「カラマーゾフの兄弟の」とは言い難いだろう。
「カラマーゾフの兄弟の」の雰囲気を表現しているのは確かだ。

 
2013年11月16日

 ゆっくりと「晩年様式集」を読んでいる。
久々の大江健三郎だ。大江健三郎の作品も読み返しが必要だ。
大江健三郎,自作を語る。毎日新聞2013年10月27日
大竹まことゴールデンラジオに大江健三郎がゲストとして出演していて、一緒に出演していた室井卯月が「晩年様式集」にサインをもらっていた。

2013年11月11日

 また、原発関連、「原発ホワイトアウト」、作者は?の高級官僚。小説(大衆小説)として、やや完成度は劣るかもしれないが、東電-政治家-官僚の結び付きを的確に表現している(古賀茂明氏が本当のこととネットで語っている。)。
フィクションの力である。
事故調にもこの辺りことも調査してもらいたかった。

2013年11月4日

 原発関連でtwitterでフォローしていたHAPPY11311氏のtwitterを本にした「福島第一原発作業員日記」を読む。
早川博信氏が幹事になっている「専門家が答える暮らしの放射線Q&A」を拾い読み中。今日の新聞で田中俊一規制委委員長が「20mSyまで許容範囲」。
なんだこれは(怒)?

芥川賞落選の「想像ラジオ」を読む。選者の嫉妬が落選させたのではないか。

2013年10月23日

 山口果林著「安部公房と私」を読/む。
安部ねり著「安部公房伝」には山口果林が一行も書かれてなかった。
実に女の執念を感じる。

2013年10月21日

 古本屋で購入した中野孝次の「ブリューゲルへの旅」を読み終わる。 画集の絵を見ながらで、絵の見方も深まる。
以前は解説書(?)は影響を受けるので読まない方がよいと考えていたが、今はそうではない。

2013年10月19日

 読書ではないが、録画しておいたTVドラマのカラマーゾフの兄弟を見る。
まずは4回分、全部見てるわけではないが、これもカラマーゾフなり。

2013年10月15日

 図書館に返さなくちゃと思い、謎とき「白痴」読み終わる。
美は世界を救い得るか。救い得ると提案し、そして救い得ないと結論づけようとしいているのだ。

2013年10月11日

 悪霊下、読了、カラマーゾフと繋がるところがある。
謎とき「白痴」読み始める。図書館から借りてる本なので早く読まなくちゃ。

2013年9月12日

 今、悪霊の下、及びドストエフスキー人物辞典を読んでいる。
この人物辞典、各作品の登場人物を関連付ける趣旨の本なのだが、人物を決めつけているようなところが気になる。
悪霊3回目になるが、益々解らなくなってくる。
ちくま連載の「戦場体験者の記憶と記録」、価値あり、戦友会とはそういうものだったのか。

2013年9月12日

  一昨日、図書館に一年以上前に予約しておいた「下町ロケット」が取り置いてますとのメールがあったので、借りて一昨日から今朝にかけて読む。
確かに面白い、痛快経済小説といったところか。主人公は最後に勝つ。大衆小説の面白さに久々に触れた。
もう少し、ドキュメンタリータッチのものを想定していたのだが。

2013年9月9日

   スマホの使い方とかがあって、本から遠ざかっていたが、悪霊の上は読み終えた。
「死の淵を見た男」吉田昌郎と福島第一原発の500日を読む。これが現場だとの強い思いがある。
私もデスクワークの人間でなく現場の人間、メディアでは知ることができないことがここがある。
この本、図書館に予約して、半年後の八月末に準備できたもの。家が狭く本を買っても置く場所がないので借りることが多い。

2013年8月12日

 謎とき「悪霊」読了、亀山郁夫は「カラマーゾフの兄弟」の翻訳で批判を浴びたが、この本を読むと、
創作ノート、文献を深く読み込んでおり、これも数回読み重ねる必要がありそう。
私なぞは「悪霊」は読み込み不足であっても、自分なりに読み取り、それが文学たる所以だろう。
ドストエフスキーは時代とともに成長する作家であり、読者ひとりひとり読み取る幅が多様な作家だろう。
謎とき「悪霊」、江川卓の謎ときとは異なり、これ自身完成した文学論(?)だ。
芥川賞受賞作藤野可織「爪と目」を読む。掲載されている作者の写真が「=爪と目」のようだ。

2013年8月10日

 三日坊主で書いてなかった。
のんびりと謎とき「悪霊」を読みながら、「悪霊」も読んでいる。買ったスマホの使い方に時間を取られ、かなり遅読になっている。
その間、松本清張賞を取った山口恵以子の月下上海を読んだ。

2013年7月5日

 東京国際ブックフェアでドイツ反原発運動小史を二割引で、新共同訳聖書3750円を1000円で購入。

2013年6月27日

 カラマーゾフの兄弟、一応三回目の読了。
記憶力が弱いせいか、もう数回読まなきゃならないような気がするが。
明日から謎とき「悪霊」を読もう。亀山郁夫著である。

この日記、あれを読んだこれを読んだだけで感想文ひとつないのだからあきれる。

2013年6月17日

 父の日プレゼント貰った綿矢りさの本、大江健三郎賞受賞の「かわいそうだね!」「亜美ちゃんは美人」が載っている。
読了、女性の心理は読みきれない。
若い女性の心理を描く作品、ストリーはこの後どうなるのか、想像を刺激する。
綿矢りさを読むのは芥川賞受賞作以来になる、同時受賞だったので綿矢りさと金原ひとみを勘違いしていた。

2013年5月17日

 カラマーゾフの兄弟に一寸引用されてるのでこの数日読んでいたシラーの「群盗」読み終わる。

2013年5月9日

 カラマーゾフの兄弟読み始める、かなり遅々に、体調次第で。
2013年5月8日

 ちらちらと読んでいた古い時分に購入した「謎とき「カラマーゾフの兄弟」を読み終え、明日から「カラマーゾフの兄弟」の再々読に入るか。

2013年5月7日

 医院での待時間などを利用して「火の山」を読了。
登場人物が多く、人間が関係、フランス、アメリカ、日本の関連性に分かりにくいところがあるが読み進むに連れて、
それぞれの主張する人物が明らかになってくる。
昭和二十二(三)年は大変な年だったのだ。
高校時代傾倒した太宰治への思いからミーハー的に読んでいたわけでもあり、一寸恥ずかしい。
TVでは原作ではなく原案となっているのでドラマ化ではないが、どんな風に参考しているのか興味ある。<
TVドラマ「純情きらり」を見続けよう。

小説に出てくる田村さんは山岸外史とは違うのだろうか。太宰治の評論では奥野健雄、佐古純一郎を読んだ。
内容は覚えていない。何せ高校生の頃。その後佐古純一郎の人間疎外に関する本を読んだ記憶がある。
井伏鱒二、この名前もすぐ忘れてしまう。
火の山、再読の価値ありだ。

2013年5月4日

 「火の山-山猿記」下巻借りて読み始める。

2013年5月1日

 図書館から予約した本が用意できましたとのメールが入る、
2013年4月30日

 昼の外食で待ち用にちょこちょこ読んでいたモリエールのドン・ジュアン、読み終わる。
2013年4月29日

 図書館に「火の山-山猿記」上巻を返し下巻を借りに行ったら貸し出し中、ネットで予約する。
謎ときを読み続けるか。

2013年4月26-28日

病臥中で意欲減退で「謎ときカラマーゾフ」を時々覗く。
ドクトルジヴァゴの新訳が出たようだ。

2013年4月26日

 山猿記、上巻読了、下巻はこれから借りて読む予定にしているが、今日は風邪で臥せっており借りるのは明日以降になる。
TVドラマは原案で明らかに違う。TVも見たり見なかったりで明言できないが、脚本家はこの本に惚れ込んだであろうことは理解できる。

淡々と繊細な文体、ファンがいるのは理解できる。
下巻でモデルの太宰治の死はどのように表現されているのだろうか。

2013年4月20日

 通勤前に見ているBS3の朝の古いドラマの再放送、題名は何だっけれネットで調べる。「純情きらり」だ。
その原案が津島佑子であり、津島佑子はほとんど読んでないがこんなTVドラマであるはずがないだろうと、
「火の国から-山猿記」を図書館から借りて読み始める。
金はないし、狭い家で置く場所もなく、できるだけ図書館から借りるようにしている。

2013年4月19日

 若い時分に購入して置いた「謎ときカラマーゾフ」を読み始める。
ドストエフスキーの主要な作品に関して昔読んだのは読み直し、読んでないのはあらためて読むということで一旦は読了。
「罪と罰」で「謎とき罪と罰」(江川卓)を読んでからの「罪と罰」がまた面白く、今回都合夫々を三回読んだことになるか。
おまけにペテルブルグの地図まで買ってしまった。
「謎とき罪と罰」は家にあったはずだがと思い探したら見つからず、図書館で二回借りて読み、三回目は買って読んだ。
その後、若い時分購入した「謎とき罪と罰」が出てきた。
なお、数重ねて読むということは記憶力が弱い理解力が足りないことで自慢にならないことである。
外国文学は原語とキリスト教の理解がなければ本当に味わうことはできないと過っては考えていたのだが、今は面白ければ良いと考えている。
解説本を読んで読むこと自体邪道だろうが、解説本も面白いし解説本を読んだ後に本をよむとまた面白いのである。(BR) 江川卓の領域を一歩も出れないことになるわけだが、江川卓に一寸近づく、それでいいのだ。
ドストエフスキー、難しそうなのを読んでいるのだどうだと自慢たらしいことが裏面にあるのだろうがそれも含めてか面白いのは面白いのだ。
「罪と罰」は高校生の頃読み、主人公の名前を暗記し、ソーニャを理想の女性と考えていたのである。

2013年4月18日

 今日は日帰り人間ドッグだというのに夜中一時半に目覚め一作くらいは読んでおかないとまずい(?)と思って「オリンポスの黄昏」と一緒に図書館から借りていた
田中光二のミステリー「熊野古道に消ゆ」を読む。本来はミステリーではなくSF作家である。

2013年4月17日

 前から読みたいと思いやっと今になったが田中光二の「オリンポスの黄昏」を図書館から借りて読む。
英光の評伝かと思い期待もしていたのだが、内容は父と子の関わりで許し、和解への過程である。
父の文才を受けついだのでエンターテイメント作家になれたと書いてあるのは率直でほっとする。
田中光二はワープロで原稿を書くのか。
英光の他の子供たちはどのような思いを持っていたものなのだろうか。
田中英光のオリンポスの果実を読んだのは高校一年生の頃だったと思う。
後年古本屋で購入した田中英光の全集があり、全集で全部読んだのはこれだけである。


   


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