瘋癲読書日記

瘋癲読書日記

読んだのを書き止めて置かないと読んだかどうかも忘れてしまう侘しい瘋癲老人の遅読読書メモ。
スマホで書くのでミスタッチが避けられないのは残念だが便利(週一日記もスマホ)


[2019年12月23日]
MAURICR SENDAK 「OUTOSIDE OVER THERE(まどのそとの そのまたむこう モーリス・センダック さく・え わき あきこ やく)」を読む。
大江健三郎の「取り替えっこ」に関連して度々この作品が登場してくるので、何と、大江健三郎は読者に絵本まで読ませる。

When Papa was away at sea→パパは うみへ おでかけ。
and Mama in the arbor→ママは おにわの あずまや。
Ida played her wonder horn to rock the baby stillーbut never watched.→アイダは あかちゃんの おもり。まほうのホルンを ふいてあげよう。だけど、あかちゃんを みないでいたら、
So the goblins came. They pushed their way in and pulled baby out,leaving another all made of ice.→ゴブリンたちが やってきました。おへやにはいった ゴブリンたちは、こおりの にんぎょうを かわりにおいて、あかちゃんを かかえて でていきました。
Poor Ida,never knowing,hugged the changeling and murmured:”Hoe I love you.”→アイダは なんにもしらずに にんぎょうをだきしめ、「だいすきよ」と、ささやきました。
Thr ice thing only dripped and stared,and Ida mad knew golbins had been there.→ところが こおりは ぽたぽた とけだし、アイダは きがついてかんかんに おこりました。
”They stole my sister away!”shi cryed,”To be a nasty golbin’s bride! "Now Ida in a hurty→「ゴブリンたちが ぬすんだんだわ!およめさんにしようと おもっているのね!」さあ、いそがなくてはなりません。
snatched her Mama's yellow rain cloak, tuched her horn safe in a pockey, and made a serioud mistake.→アイダは ママの きいろいレインコートに くるまり、hornを おちないように ポケットに つっこみ増した。所が そのあとが しっぱいでした。
She climbed backwards out her window into outoside over there→アイダは うしろむきになって まどわくをこえ、まどのそとの そのまたむこうへ でていったのです。
Foolish Ida never looking,whirling by thr robber csves,heared at last from off the sea her Sailor Papa’s song:→アイダは なにもみないで ふわふわとんで、どろぼうたちの どうくつのそばを とおりすぎてしまいました。けれど そのうち とおいうみから、ふなのりのパパのうたが きこえてきました。
”If Ida backwards in the rain would only turn around again and catch those golbins with a tune she'd spoil their kidnap hoheymoon!" →「うしろむきでは なんにもならぬ くるり まわって ホルンをおふき あかんぼさらいの ゴブリンたちのけっこんしきが はじまるよ!」
So Ida tumbled right side round and found herself smack in the middle of a wedding. →そこで アイダは くるりとまわり、たちまち けっこんしきの まっただなかに とびこみました。
Oh.how those goblins hollered and kicked,just babies like her sister!→ところが、ゴブリンたちときたら いもうとみたいな あかちゃんばかりで、あしを ばたばたさせては はなを ぶうぶう ならしていました!
”what a hubbub,"said Ida sly,and she charmed them with a captivating tune→「なんて うるさいんでしょ」と、アイダは いってやりました。そして、すぐに うっとりするような おんがくを はじめました。
the goblins.all against their will,danced slowlly at first,then faster until they couldn’やt breathe.→ゴブリンたちに じぶんでも しらないうちに おどりだしてしまい、どんどん はやくなる おどりに たちまち いきがつけなくなってきました。
Those goblins pranced so fast.they quick churned into a dancing stream.→ゴブリンたちは ぐるぐるまわって おどりながら、とうとう みんな かわにはいり、うずまくみずと いっしょになって すぐに みえなくなってしまいました。
Except for one who lay cozy in an eggshell,crooning and clapping as a baby should.And that was Idas sister.→でも ひとりだけ たまごのからに すっぽりおさまり、ふんふんうたったり てをたたいたりしている あかちゃんがいました。そして、それこそ アイダのいもうとに ちがいありませんでした。
Noe Ida glad huggef baby tight and she followd the stream that curled like a path along the broad meadow→アイダは おおよろびで あかちゃんをだきしめ、こみちのように うねうねとながれる おがわにそって、のはらを あるいてかえりました。
and up the ringed-round hill to her Mama in the arbor with a letter from Papa,saying:→そして とうとう、こんもりまるい おかのうえまで もどってみると、ママのは あずまやにいて、そこには パパのてがみが きていました。
”I'll be home oneday,and my brave,bright little Ida must watch the baby and her Mama for her Papa,who loves her always."→「パパは そのうち かえりますが、それまでは パパの いさましい ちいさなアイダが、いつも アイダのことを おもっている パパのために、あかちゃんと ママとを みていてくれることと おもいます」
Which is just what Ida did.→アイダは ちゃんと そのとおり やったのでした。

絵本の翻訳も難しそう、絵はブリューゲルを連想させるところがある。

長女は一冊の絵本をじっくり何回も見る子供だった。このような絵本はぴったりだったな。と思う。1983年出版だから間に合わなかったか。

[2019年12月18日]
毎日新聞夕刊

国境なき医師団に寄せる。
   谷川俊太郎

傷ついて赤い血を流し
痛みに悲鳴を上げるのは
敵も味方もいないカラダ
ココロは国家に属していても
カラダは自然に属している

肌の色が違っても
母の言葉が違っても
信ずる神が違っても
カラダは同じ
ホモ・サピエンス

いのちがけで
いのちを救う
カラダに宿る
生まれながらの
見えない愛

国境は傷
大地を切り裂く傷
ヒトを手当てし
世界を手当てし
明日を望む人々がいる

国境なき医師団の宣伝のわけがあるのかもしれないが、そのようなことは感じられず、谷川俊太郎の詩である。
国境は傷/大地を切り裂く傷
激しい言葉である。
この詩を載せると著作権法に触れると考えられるが。

[2019年12月8日]
今日の毎日新聞、今週の本棚
2019年この3冊に40人が書いている。
私の読んだのは、鴻巣友季子が選んだ川上未映子著「夏物語」のみ
関心が強いのは中島岳志選のシャンタル・ムフ著山本圭ほか訳「左派ポピュリズムのため」出蟻、山本太郎現象を読み解く際に必須の一冊。ポピュリズムは「大衆迎合主義」ではなく、少数者支配を打破する民衆ムーブメントである。重要なのは対立すること。争点を明確がし、戦いを挑むことで、政治的なるものを回復すべきだと主張する。ーーと書いている。

[年月日]
橘 曙覧(たちばなのあけみ)
越前国 歌人、国学者
歌集 独楽吟
たのしみは 朝おきいでて 昨日まで 無かりし花の 咲ける見る時
福井県市出身広島市在住故そらさんから紹介されて知る。

[2019年12月17日]
開高健著「輝ける闇」新潮社昭和四十三年発行昭和四十六年八刷を読む。
ベトナム戦争は、1975年(昭和五十年)終戦。ベトコンにとって勝利だろうがアメリカでは敗戦、終戦どちらか。
学生時分、ベトナム戦争反対!としていた、今、冷静に読める。
高校生の頃、スタインベックを好きでよく読んでいた。ところが学生の頃、スタインベックはベトナム戦争の従軍記者(?)となり、そのレポートが日本の新聞(誌種は記憶なし)に掲載され、アメリカ軍を賛美するような内容なので、がっくりしてそれ以来スタインベックは読んでいない。

開高健は左翼、革新というわけではない、右翼、保守とも考えていない。そんなことは考えずに「輝ける闇」を読む。
フィクション、ノンフィクションでもない、ネットでチェックするとノンフィクション小説の用語がある。するとこれに属するか、レベルは異なるが、トルストイの「戦争と平和」もそういうことになるか。
ウェイン大尉が愛飲するのは《ジャック・ダニエル》p3
映画《ロリータ》があったのか。(1962年のイギリス映画、)p36
「パスカルは国境というものについて顔も言葉も同じ人間が岸のあちらとこちらにいると違いだけで殺し合いをするという感想を書き付けたことがある。」p38
パイプにしなさい、肺ガンになるよp40、この頃すでに煙草は肺ガンになるよといってたわけか、アスベストが肺ガンになることについては、スティーブ・マックイーンが1980年になくなった時が明らかな記憶として残っている。
マーク・トウェインの空想小説・・闇両替屋のキシナニ氏の店でガーネット訳の『白痴』と『チェーホフ短編集』を買って・・p56
デトビア物語p63??
USIS p65
女の歌声が流れてくる。
わたしゃ十六 満州娘・・・p105
オーデン「新年の手紙」p137
公開処刑 青年二十歳 p161
公開処刑 十八歳p166
レーニン通りと叫ぶと、すかさず誰かがレーニンのお尻・・・スターリン、スターリンのお尻、ショパン、ショパンのお尻、コンラッドのお尻、アポリネールのお尻、バデレフスキーのお尻・・p170
メリナ・メルクーリが《日曜はダメよ》をうたっていた。p176
『天官賜福』P180
老人がつぶやいた。「いつでもホーが残るんじゃ、・・・誰もが勝てん、勝てんといいながら負けるわけにもいかんというておる。わしらには負ける勇気がない。・・・どんな軍隊でも外国へきたら堕落する。きっと堕落する。・・・」p196-p198
「戦争が終わったとき私は十四歳(開高健は1930年生まれ)、中学三年生であった。チャンが父に見送られつつ素蛾(トーガ)といっしょにサイゴン行きの難民船にハイフォンからのりこんでのもその年頃だったろう。《モロトフの花籠》が滝のような音を立てて降ったあとの大阪は見わたすかぎり赤い荒地であった。・・・p204、花籠でなくパン?
私は妊娠していた。p217???
敗走
・・・切り裂かれたオリーブ・グリーンの野戦服のなかにはじけかえった黒い穴がある。じゅくじゅくの大きな海綿のかたまりをおしこんだように見える。別の兵の砕けた頭は魚屋の内蔵桶のように見えた。・・・p251

今、ベトナムは?

[2019年12月7日]
余り読みたくない本を読む。
「大江健三郎 作家自身を語る」新潮文庫令和元年八月二刷である。
映像化され読売新聞からDVDが販売されているとのことで、それがこの本の元なのだろう。文芸
文芸誌「新潮」平成年十七年十一月号(大江七十歳(大江は昭和十年一月三十一日生))に「大江健三郎、語る」インタビュアーは尾崎真理子があり、それにプラスアルファしたものだろう。
大江健三郎の小説はフィクションとして読んでいた。
私の読み方は作家自身の考えとは異なり、自分自身の浅い読み方を指摘されるのだろう。 もともと、大江健三郎の私生活には関心がなく、私生活との関連で読むことはなかった。
初期の作品に大学はでてくるけども、私生活をぶった切るものと考えていた。ただ、雑誌で「空の怪物アグイー」を読んだときは大江健三郎には障害を子供が入るのかと、なんとなく感じていた。
大江健三郎ファン(?)のインタビューは好意的過ぎる。
読売新聞に対する偏見か、私は偏狭な人間!
少年の頃、読売新聞は正力松太郎がどうしたこうしたが一面に載り、読売家庭新聞と揶揄されていた。超(?)保守的な叔父が読売新聞を購読していたこともあろう。
浦和でも神保町の古書店でも単行本「大江健三郎作家自身を語る」が売られていたが、買いはしなかった。小野正嗣が引用してるし、文庫本なので購入して読む気になったわけである。本は文庫本になった方が解説があったり、第一電車の中でも読める。
NHKの100分de名著の番組で「燃え上がる緑の木」がとりあげられ、関連の文庫本が増刷され、「空の怪物アグイー」等を購入した。「燃え上がる緑の木」は、文庫本第一部第三部を異なる古書店で購入し、第二部は大手の書店でも古書店で見つからず、長らく半端になっていたのが、新本で購入できた。

第一章 詩/はじめての小説作品/卒業論文
オコフクについてp19、小野はここから引用している。
内子高校から松山東高校への転校は、予科練に行っていた上級性グループ、野球部の不良グループに睨まれて、母親に相談しての転校  p30
前田陽一先生p40
「渡辺一夫架空聴講基」p46
「マルゴ公妃のかくしつきスカート」p48、読んでないな。

第二章 「奇妙な仕事」初期短編「叫び声」「ヒロシマ・ノート」個人的な体験」
岸田衿子p59とはどういうきっかけで知り合ったんだろう。
大江「「日常生活の冒険」など・・技法、人物のとらえ方など、小説の基本レヴェルを満たしていない。」p65
尾崎「大江健三郎という、とてつもない才能を持つ作家が現れて、同世代の作家志望の青年たちは筆を折ってしまったんだ」p70私も記憶がある、芥川賞該当作なしもあった。
大江「「鳩」「死者の奢り」「セヴンティーン」・・どんなに観念的だと思っても・・・読むに値する具体的な姿が描けていたんですね。・・・・とくに「人間の羊」は、・・・ある程度成功した作品だと思います。・・・」p71
se d・passer≒頑張る、超えるp77
肥田舜太郎p92
大江「・・朝倉季雄先・・ゆっくりと「あ・な・た・は、台湾からきたひとですか?」。・・・」p85(大江は頭の回転が速く、発語が追いつかないのだろう。その悪さから講演を聴くとき、真剣に集中してしまう。私自身、発語機能が悪いのだが、人間の中身がない。滑舌という言葉を聞くだけで 縮んでしまう。)
千九百六十三年 長男・光誕生p98
大江「自分の生活と無関係なところにイマジネーションを広げていく仕事をしてきたら、いまとは別の作家であり得たのじゃないか、という気持ちはあります。」p105

大江「・・・おれの倫理はこの子供と生きていくことだと思ってね。・・・」p109
第三章 『万延元年のフットボール』『みずから我が涙をぬぐいたまう日』『洪水はわが魂に及び』『M/Tと森のフシギの物語』p113、ここから『』になる、どうでもいいか
尾崎「「ずらし」と「反復」」p134
大江「鷹四・・暗い個人生活・・本当に暗い・・「本当のことをいおうか」」、ある事実に対していうのではなく、暗さの表現としてのフレーズと考えれば納得できるのだが
谷川俊太郎の詩からの引用なのだが、「私の妹は、もう六十年も前に、私がよく使っていた言葉が、二冊の本に出て来ない、あれはなぜだろうか?・・・私が妹から聞き出したのは、・・・ー本当、というものでした。」(「「話して考える」と「書いて考える」」集英社文庫p126)
「言葉で何かを表現すると、どうしても現実にある「本当のこと」からはズレてしまう。」p135、これが大江健三郎の「ズレ」か、全く理解してたなかったな。
大江「『同時代ゲーム』・・「小宇宙」ミクロコスム・・「人間」のことです。」p144
尾崎「「壊す」という字と、「懐かしい」という文字は、本当によく似ています。」p148、私もそう思っていた。
「文化と両義性」、そこで取り上げられてる本を英語とフランス語・・・三年ほどかけて読み続けた・・p151、当然、私には読めるわけではないのだ。しかし、大江はしつっこい人間だな。
大江「・・『洪水はわが魂に及び』も『同時代ゲーム』も、・・コンパクトなかたちにして発表すべき・・・読者が少なくなって・・・私のせい・・」p154

第四章 『「雨の木」を聴く女たち』『人生の親戚』『静かな生活』『治療塔』『新しい人よ眼ざめよ』p173
大江「大新聞の誰でも知っている花形ジャーナリスト・・・『大江健三郎の人生 』・・」p184、本多勝一。ここまで書かれると本多勝一も名誉(?)だろう。
大江は本多に痛いところ突かれたわけだ。
大江「・・『さようなら、私の本よ!』でも、青年たちの発する悪意の台詞にはみな、モデルがあります。」p210

第五章 『懐かしい年への手紙』『燃えあがる緑の木』三部作 『宙返り』p223
尾崎「『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』とか「狩猟で暮らしたわれらの先祖」など、作品のタイトルにオーデンからの引用」p236、私は作品の題名にはいつもも驚嘆していたものだ。
大江「両性具有・・エリアーデ・・美しいトカゲ・・」p260
(「『懐かしい年』から返事は来ない」)p277
大江の詩はどうなんだろう。

「・・『燃えあがる緑の木』あたりが特にそうで、悲しみからの癒しとか、信仰のない者の救いとかいわれたが、実は大江の小説にとってそんなものは表看板でしかなく、大江自身がそういうことを言ったとしても、あまり本気にしてはいけないのだ。」(江藤淳と大江健三郎/小谷野敦 p196)と考えるのが妥当であろう。

第六章 「おかしな二人組(スウード・カップル」三部作 『二百年の子供』p279
大江「『個人的な体験』・・《おれは赤んぼうの怪物から、・・》・それが「アレ」が来た瞬間・・・・・」p286
大江「・・センダック・・スティーヴン・グリーンプラット・・・「アレ」が来た・・」p291
大江「いままでのところ『さようなら、私の本よ!』が大人の小説として、『二百年の子供』が子供たちのためのものとして、一番仕上がりいいと考えています。」p300
大江「古義人・・・そのようにして自分が造形したモデルである自分と、それを書いている自分とのズレ、自分の周辺にいるモデルになった人物たち、それに対応する様ざまな作中人物とのズレ、私はそれを書いていきます。そのズレこそが、しばしばリアルな一瞬を創り出すということが、現にあると思うからです。・・・・・」p309、読者はモデルになった人物知らないので、ズレを感じようがないのだが。
大江「・・たいていの私小説家は、どこかナルシスト的なところがある。・・・ところが私が書いている古義人という人物には、魅力がありません。それでかれに陶酔することは、作者としてもできない。」p313
大江「・・いま、宗教界の人々が核兵器の拡散、巨大暴力の肥大に反対する積極的な行動に出て行くことはない。・・」p319 ? 
尾崎「ギュンター・グラス・・・「ナチスの武装親衛隊」・・・」p326
大江「二人とも敬愛する友人です。・・」p326
大江「・・サルトル・・「飢えた子供たちの前で文学は可能か?」・・・」p331
尾崎「・・『晩年様式集』で意外だったのが、最後に置かれた「形見の歌」 」p360
大江「・・七十歳だった自分から、今の私への手紙のように思います。」p361
大江「『ロリータ』を書いたナボコフを絶対許さないーー米原万里 ・・」p365(p245)

大江健三郎、106の質問に立ち向かうp380
44、「嫌いな人間のタイプ」として反射的に浮かぶのは、どんな人ですか。
蓮實重彦についてどう考えるかを訊いてもらいたかった。
58、もし、1億円ありましたら、何をされますか。
大江「スイーディッシュ・アカデミーから一億円もらった時、『ヒロシマ・ノート』以来の友人の編集者安江良介に使い方を託したところ、きみには二度とこれだけの金は入ら3ない、と返却されました。・・」p398、大江と安江はこれほどの親友だったのか、うれしく思う。
61、お好きな俳優、歌手などはいらっしゃいますか。
大江「井上ひさしさんの新作がでるたびに、そこで光り輝く一人ないし二人に夢中なります。気が弱いので、直接にお話をしたことは一度もありません。」、吉永小百合「四万年前のタチアオイ」は対象外なんだ。

本文庫本は平成二十五年(七十七歳)発行
本書は二〇〇七年五月(七十二歳)、新潮社刊「大江健三郎 作家自身を語る」の増補・改定
こういう本を読んでいると、自分が大江健三郎作品、関連作品について無知であり、(「大江健三郎」を読んでます」なんていえなくなってしまう。益々、人間卑小になってしまう。

それでも初期から晩年様式集まで語られているので、この本をチェックしてしまう。

DVDは絶対買わないぞ!

本多勝一の「「大江健三郎の人生」貧困なる精神X集」(一九九五年発行)について、発刊当時、こんな見方もあるのか、と思った程度だった。大江文学の一ファン(卑小な)としても、それほど反発を感じなかった。

大江健三郎の芥川賞選考委員辞任はネットでチェックすると円満に行われたようになっているが、当時、文藝春秋社への批判に拠るものと記憶していた。
「「大江健三郎の人生」貧困なる精神X集」をチェックしたら、満更記憶違いではなかったようだ。

[2020年8月8日]
図書館に予約してやっと順番がきた「サピエンス全史(上)」を読む。
第一部 認知革命
第一章 唯一生き延びた人類種p14
不真面目な秘密
アウストラロピテクス、ホモ・ネアンデルターレシス,ホモ・ソロエンシス、ホモ・デニソワ、ホモ・ルドルフェンシス、ホモ・サピエンス
思考力の代償p20
直立歩行、腰回り細め、赤ん坊が小さいうちに出産→子育てに年月p22
100万年前、人捕食者を恐れて暮らしていた。p23
第二章 虚構が協力を可能にしたp34
認知革命、新しい思考と意志疎通の方法、七万年前から三万年前p35
軍の部隊は、互いに親密に知り合い、噂話をするという関係に主に主に基づいて、組織を維持できる。p42
何億もの民を支配する帝国・・・虚構の登場にある。膨大な数の見知らぬ人どうしも、共通の神話を信じることによって、首尾よく協力できるのだ。p43、共同幻想論だ。
ブジョーは私たちの集合的想像の生み出した虚構だ。法律家はこれを「法的虚構(法的擬制)」と呼ぶ。p45
サピエンスはこのように、認知革命以降ずっと二重の現実の中に暮らしてきた。一方には、川や木やライオンといった客観的現実が存在し、もう一方には、神や国民や法人といった想像上の現実が存在する。p49
ゲノムは迂回する。p50
二〇〇年前の突然変異でホモ・エレクトスが現れ、その後突然変異は起こさなかったp51
サピエンスの異なる集団の間での長距離交易p53
第三章 狩猟採集民の豊かな暮しp59
ベネズエラの先住民バリ族・・集団的父権制p61
古代の狩猟採集民が使った道具の大半は木・・p63
農業革命前夜・・狩猟採集民は何千もの別個の部隊に分かれ、何千もの異なる言語と文化を持っていたと考えるp64
原初の豊かな社会p65
「愚かなニッチ」、凡庸な人も、p70
パラグアイの狩猟採集民アチェ族p73、エンゲルスの原始共産制もまるっきり「嘘」とはいえないわけだ。
口を利く死者の霊p75
平和か戦争か?p81
沈黙の帳p84
第四章 史上最も危険な種p86
告発のとおり有罪p89
オーストラリア大陸、大型動物の滅亡p90 p92
第二部 農業革命p103
第五章 農耕がもたらした繁栄と悲劇p104
穀類に基づく食事は、ミネラルとビタミンに乏しくp109
DNAの複製が尽き果てれば、その種は絶滅する。p112
贅沢の罠p112
中東のレヴァント地方のナトゥーフ文化p114、農耕の始まり
聖なる介入p119
ギョベクリ・テペ遺跡p120
革命の犠牲者たちp121
動物の家畜化は、一連の残酷な慣行の上に成り立っており、そうした慣行は、歳月を過ぎるうちに酷さを増す一方だった。p123
図14 農耕民も過酷な労働p124
第六章 神話による社会の拡大p128
未来に関する懸念p130
旱魃,悪疫、洪水・・蓄えを残すp131
没収された食料の余剰が、政治や戦争、芸術、哲学の原動力になった。p132
想像上の秩序p132
フランス革命の先頭に立ったのは・・豊かな法律家だった。p133
人類の協力とネットワークの大半は、迫害と搾取のためにあった。p135
ハンムラビ法典、アメリカの独立宣言p139
私たちはみな本質において平等であると信じれば、安定し、繁栄する社会を築けるのだ 「想像上の秩序」p142
真の信奉者たちp143
人権も神話だということは聞きたくないですp143
脱出不能の監獄p146
キリスト教や民主主義、資本主義といった想像上の秩序の存在を人々に信じさせるにはどうしたらいいのか?その秩序を想像上ののものだとは、決して認めない。p146
a 想像上の秩序は物質的世界に埋め込まれている。p147
b 想像上の秩序は私たちの欲望を形作るp148
c 想像上の秩序は共同主観的である。p151
想像上の秩序から逃れる方法はない。監獄の壁を打ち壊して自由に向かって脱出したとき、実は私たちはより大きな監獄の、より広大な運動場に走り込んでいるわけだ。p153
第七章 書記体系の発明p154
「クシム」という署名p158
五〇〇〇年前、シュメールp159
官僚制の驚異p162
楔形文字p162
ワーグナーの楽劇p166、著者はワーグナーに対する拒否反応はないんだ。 数の言語p167
第八章 想像上のヒエラルキーと差別p170
だが、大規模な協力ネットワークの出現は、多くの人にとって、良いことずくめでななかった。・・ハンムラビ法典、上層自由人、一般自由人、奴隷p170
複雑な人間社会には想像上のヒエラルキーと不正な差別が必要なようだ。p174 悪循環p176
穢れと清浄の概念は、社会的区分や政治的区分を擁護する・・・ カースト制、カーストに入らなかったのが不可触民、不可触民はゴミ捨て場の廃品を漁る、これが差別の循環p177
アメリカ大陸における清浄p178
黒人の生徒・・裁判長が、ミシシッピ大学に入学を認められると考えるような黒人は精神異常に違いないという判決p182 男女間の格差p183
フランスのルイ14世の公式肖像画、バラク・オバマの公式肖像写真p190
男性のどこがそれほど優れているのか?p192
筋力p193
攻撃性p195
家父長制の遺伝子p198
ボノボp199
家父長制が生物学的事実ではなく根拠のない神話に基づいているのなら、娘の制度の普遍性と永続性を、いったいどうやって説明したらいいのだろうか?p200
第三部 人類の統一p201
第九章 統一へ向かう世界p202
そのおかげで膨大な数の見ず知らずの人どうしが効果的に協力できるようになった。この人工的な本能のネットワークのことを「分化」という。p202
イスラム教徒を最もよく理解できるのは、彼らが二つの原則の間で揺れている場所なのだ。p205
歴史は統一に向かって進み続けるp206
数回百年でなく数千年が見渡せるp206
馬を乗りこなすアメリカ先住民・・それは「純正」にほど遠くp211
第一〇章 最強の征服者、貨幣p215
物々交換の限界p216
貝殻とタバコp220
貨幣博物館どのように機能するのか?p223
金の福音p228
貨幣の代償p231
人々は貨幣に頼って、見知らぬ人との協力を促進するが・・貨幣が人間の価値や親密な関係を損なうp232
第一一章 グローバル化を進める帝国のビジョンp233
帝国とは何か?p235
悪の帝国?p237
「彼ら」が「私たち」になるときp244
ほとんどの帝国のエリート層は、貨幣帝国の全住民の全般的な福祉のために働いていると本気で信じていた。p245
今日のインド人やアフリカ人、中国人は、貨幣もとの西洋の支配者がもたらした帝国文化の多くを受け容れつつ、それを自ら乗りこなす必要性や伝統に即して形作ろうとした。p251
歴史の中の善人と悪人p251
文化の継承・・過去を単純に善人と悪人に分けたところでどうにもならないのを認めるのが代償一歩だろう。p254
新しいグローバル帝国p255
資本と労働力と情報の途方もなく強力な潮流が、世界を動かし、形作っており、国家の境界や意見は次第に顧みられなくなっている。
帝国の増を選ぶ人は、増加の一途をたどっている。

ハラリとはどういう人かと思い、 ネットでチェックすりと、「現在彼の夫であるイツイク・ ヤハフ・・・」、ハラリは男性女性?そんなことどうでもいいことだ。

[2019年12月3日]
ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史(下)」柴田裕之訳河出書房新社と二〇一六年発行を読む。
図書館に上下を予約していたら下が先に来てしまった。やむを得ず下から読む。
第三部 人類の統一
第九章、第十章、第十一章は上巻
第十二章 宗教という超人間的秩序p9
宗教は不統一の根元と見なされる事が多いが、人類を統一する三つの要素、貨幣、帝国、宗教、
神々の台頭と人間の地位p11
偶像崇拝の恩恵p14
神は一つp18
二元論の宗教、じつのところ一神教は、歴史上の展開を見ると、一神教や二元論、多神教、アニミズムの遺産が、単一の神聖な傘下で入り乱れている万華鏡
善と悪の戦いp22
自然の法則p26
これまで論じてきた宗教はみな、神あるいはそれ以外の超自然的存在に対する信仰に焦点を当てているのだ。
ゴータマ、仏陀は・・苦しみは渇愛から生まれるので、苦しみから解放される唯一の道は、渇愛から完全に解放去れること・・悟り
神々の崇拝を捨てることはなく・・さまざまな仏や菩薩を生みだした。
人間の崇拝p32
ソ連の共産主義は、狂信的で宣教を行う宗教、宗教ではなくイデオロギーと呼び続けてもかまわない。
自由主義的な人間至上主義(各個人の内なる核と自由を守る)、社会主義的な人間至上主義(平等)、進化論的人間至上主義(ヒトラー)
第十三章 歴史の必然と謎めいた選択p43
一 後知恵の誤謬P44
二 盲目のクレイオp48
第四部 科学革命p53
第十四章 無知の発見と近代科学の成立p54
無知な人p58
科学的な説を一つ選び、それが最終的かつ絶対的真理であると宣言する。ナチスと共産主義者が使った方法
科学界の教義p63
知は力p69
科学と産業と軍事のテクノロジーがようやく結びついたのは、資本主義と産業革命が到来してから
進歩の理想p76
ギルガメッシュ・プロジェクトp79
古代シュメールのギルガメッシュ神話、避けようのない人間の宿命としての死、不死を探求するギルガメッシュ・プロジェクト
科学を気前良く援助する人々p85
第十五章 科学と帝国の融合p90
なぜヨーロッパなのか?p94
ヨーロッパは近代前期の貯金、近代科学と近代資本主義
征服の精神構造p99
空白のある地図p103
コロンブス一四九二年アメリカ大陸発見
宇宙からの侵略p109
スペイン人の探検と征服、入植者は先住民を酷使、先住民が死ぬとアフリカの奴隷を輸入
日本、キスカ島とアッツ島を一九四二年に占領しただけ
帝国が支援した近代科学p116
第十六章 拡大するパイという資本主義のマジックp127
拡大するパイp133
コロンブス、投資家を探す
スペイン国王は借金は二の次、オランダ人は金融制度の信頼を勝ち取り、傭兵制度、軍隊、艦隊への投資を得、海上帝国になる。オランダ東インド会社
現状認識の甘さと大陸での費用でオランダ没落
フランス勃興、ミシシッピ・バブルで没落、ミシシッピ会社は国王ルイ十五世とのコネ、ルイ十五世破産状態、革命
大英帝国の勃興、大英帝国は民間会社によって建設、ロンドン会社、プリマス会社、ドーチェスター会社、マサチューセッツ会社、インド亜大陸はイギリス東インド会社の傭兵軍によって征服
資本の名の下にp152
一八四〇年阿片戦争、中国四千万人が阿片中毒
自由市場というカルトp155
資本と政治、市場は、詐欺、盗難、暴力から自力で身を守れない。
資本主義の地獄p157
大西洋奴隷貿易の興隆、奴隷貿易はどこからも管理されていなかった。
第十七章 産業の推進力p163
熱を運動に変遷するp165
エネルギーの大洋p169
ベルとコンベヤー上の命p172
ショッピングの時代p178
資本主義と消費主義の価値体系は、表裏一体であり、二つの戒律が合わさったものだ。富める者の至高の戒律は、「投資せよ!」であり、それ以外の人々の至高は「買え!」だ。
第十八章 国家と市場経済がもたらした世界平和p182
近代の時間p184
家族とコミュニティの崩壊p189.
産業革命以降、
王国の帝国の多くはじつのところ、巨大な用心棒組織と大差なかった。
国家や市場は、強大化する自らの力を使って家族やコミュニティの力を弱めた。
近代国家は、女性も自分自身の銀行口座を持ち、結婚相手を決められるだけでなく、離婚したり自活したりすることさえ選択できる。
想像上のコミュニティp196
国民と消費者という部族だ。
変化し続ける近代社会p200
現代の平和p201
帝国の撤退p205
イギリスの撤退、ガンジィーの非暴力の信念への賛辞の一部はイギリスにも
フランスは往生際が悪かった、ヴェトナム、アルジェリア、ソ連はすんなりと手放した。
原子の平和(パクス・アトミカ)p207
戦争の代償が劇的に大きくなった
一九四五年か六十二年にこの章が書かれていたら、おそらくはるかに陰気な内容になっていただろう。
第十九章 文明は人間を幸福にしたのかp214
農業革命で人類が農耕・牧畜の手法を取得したとき、周囲の環境を整える、集団としての能力は増大したが、多くの人間にとって、個人としての運命はより過酷になった。
セ 幸福度を測るp218
化学から見た幸福p226
快感、セロトニンが決めるのだ。 人生の意義p232
幸福は人生6の意義についての個人的な妄想を、その時々の支配的な集団的妄想に一致させることなのかもしれない。
汝自身を知れp234
麻薬を注射したときは、最高に幸せだと答える
第二十章 超ホモ・サピエンスの時代へp241
マウスとヒトの合成p244
ネアンデルタール人の復活p247.
あまりにも、ホモ・サoピエンスに手を加え過ぎて、私たちがもはやホモ・サピエンスでなくなる可能性はある。
バイオニックの生命体p250
別の生命p254l
特異点(シンジュラリティ)p256
フランケンウィニーの予言p259

フランケンシュタイン親和性は、終末が急速に近づいているという事実をホモ・サピエンスに突きつける。
「人間強化問題」
私たちが直前している真の疑問は、「私たちは何になりたいのか?」ではなく「私たちは何を望みたいのか?」かもしれない。
あとがきー神なった動物p264
自分が何を望んでいるかもわからない、不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか?。

読み終えて、資本と科学技術との関連性は明快に示されている。仏教をこのように評価するのか。共産主義も宗教とは?。植民地に関する概説は、このようなことを知っていれば世界史の勉強も楽だったと思う。丸暗記の世界史だった。

[2019年11月12日]
トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」高橋義孝訳新潮社昭和四十四年五刷を読む。
読むきっかけは何だったか。大江健三郎がトーマス・マンの「魔の山」を評価していたことは確かだ。
「魔の山」高橋義孝訳新潮社昭和四十四年発行印刷を購入して読んでいる。その関連か。読んでいるといっても今となれば頁をめくったに過ぎないが。
何か文壇(?)で話題になった記憶もあるのだが。
北杜夫のペンネームがトニオに由来するとは、ネットで調べて初めて知った。

読み始めても読んだ記憶が微かにも出てこない。
芸術とは何か?の関連だったのか

トニオ×ハンス、インゲ
父×母
トニオ×リザヴェータ
アーダルベルト『神よ、春を呪いたまえ。なんたる醜悪な季節だ。・・・』p39
トニオ、リザヴェータと芸術家について語る。
リザヴェータ「・・あなたはね、トニオ・グレーゲルさん、道を踏み迷った俗人です・・・」p54

気になるのは「いねましものを、踊らむとや」(シュトルムの詩の一節)の語句であるp27p91。舞踊会との関わりでの言葉であり、「心穏やかにしているのが踊らなければ」、の意味合いと考える。単にインゲへの恋の想いと考えたいが、俗人になれない芸術家の意味合いもあるのだろう。恋と芸術

シュトルムの詩は藤原定訳「シュトルム詩集」白鳳社一九七五年発行の中の「ヒヤヒンス」
ヒヤヒンス

遠くの方では音楽が けれどもここは静かな夜です。
あたりの木々が ぼくに吐きます まどろむようなあまい匂いを。
ぼくはいつも思いつづけてきた 君のことを。
ぼくは眠りたい、だのに君は踊らずにはいられないのだ。

踊りくるって やすむひまなく
ともしびが燃え ヴァイオリンがかん高く、 おどりの輪は とじたりひらいたり
みんな顔をほてらせてるのに 君ばかりがあおい顔して

どうしても踊らずにはいられない。男の腕が
君の胸にまきついている ああ、ひどい目にあいませんよう!
見えてくる 君のしなやかでやさしいからだが
白い服きて 飛びすぎてゆく。ーー

するといっそう 夜のかおりがあまやかに
ゆめ見るように 木々の花からわき出てただよう。
ぼくはいつも思いつづけてきた 君のことを。
ぼくは眠りたい、だのに君は踊らずにはいられないのだ。

一行だけ一節だけでよい思ったが、詩全体を引用しないと理解しにくい。

トニオ・グレーゲルは恋の小説である。難しく考える必要はない。

[2019年11月9日]
古い本、山口昌男著「文化と両義性」岩波書店昭和五十年発行を読む。
第一章 古風土記における「文化」と「自然」
「荒ぶる神」、素戔嗚尊、土蜘蛛 景行天皇
第二章 昼の思考と夜の思考
1双頭の神
「至高神は双面神」、夜は、昼の絶対的対立者でなく・・・仲介者的相貌、トゥヴァシュトリ、ヴィスヴァルバ、ヴリトラ、象徴群の複合であるシステムが問題
2神話の普遍文法
十の根本命題、争闘神話の命題、「エロス」(生)と「タナトス」(死)の相克
我々は総て「神話的人間」
ヨハネの死とキリストの死
第三章 記号と境界
1意味の多義性
音声的側面が意味限定性に優越している。
「記号の相互解釈の馴れ合い的関係」
「存在の両義性から意味性の多義性を開示するのが象徴の存在理由である」
「意味するものと」と「意味されるもの」
構造と出来事は基本的に相容れないものを持っている。
(3)徴のついたものとそうでないもの。
「不良少年」という表現(徴つき)はあっても、「善良少年」という表現はない。
「徴なし」に対して「徴あり」・・・「異化されたもの」と「自然的状態」
日本近代における「維新」現象には、こうした「意味論的凝縮の作用に秘められているとみてよかろう。
「タブー」を、リーチは連続体の中の「名づけられた」部分の承認を拒む行為であるという。
2混沌と秩序の弁証法
文化の秩序概念が、混沌と対の構造
「異和性」の儀礼
檜枝岐、ヒロシマ・・人里
道祖神(賽の神)、境界の神・神体は和合双体→多義性
3彼等ー異人
境界のイメージを・・浮かび上がせる・・ブリューゲルの幻想絵画
天界のイメージが強固に確立していない文化においては、地下界は、両義的に、つまり、災と共に福をもたらす領域・・・「鯰信仰」
第四章 文化と違和性
1文化のプラクシス
プラクシス≒観照に対立する自然への働きかけ、実践
二項対立は不断のモチーフである。
身体すらも、こうした秩序=混沌の分類に対して例外ではあり得ない。
2女のディスクール
ディスクール(discours)≒言説
或る意味では「タブー」の数の多さからいって、女性は・・・対極にある王に呼応する性格を備えているといえるかも知れない。
「犠牲者のでっち上げ」
トリックスター 野兎
分類されることによって各項は、いっそう一つのものの異なった現われ方をするということが明らかになる。・・・スターリン体制下における「トロツキスト」またはキリスト教国、特にナチスドイツにおけるユダヤ人・・
4排除の原則
「魔女狩り」
第五章 現実の多次元性
   ーA・シュッツの理論をめぐってー
1学の対象としての生活世界
はじめから類型(タイプ)として経験されている。
複数の主観的世界の集合体が客観的世界の全体性をを形創っているのである。
2妥当性(レレヴァンス)
「妥当性」の体系に対する拒否としての「自然的態度のエポケー」揚棄が必要とされる。
「空白」
「矛盾」が現実の中にに含まれているというよりも、人間が多次元の現実を生きることによって、彼自身が「矛盾」を内包した存在であるということになるのである
カーニヴァルは、日常生活の秩序を構成する正の徴しついた記号に、それが依拠している負の、そして陰の意味作用をを重ね、そうした対立項のつき合わせによる齟齬感を、遊戯性によって揚棄する場である。

3ムシル『特性のない男』における多元的現実
あらすじが両犠牲がらみで述べられている。
ドン・キホーテ的状況に近いという。「自分が属しない世界に帰って来て、牢獄の中におけるように日常生活の現実に取りかこまれ、最も残忍な獄史に責めさいなまれている帰郷者、この場合獄史というのは己の限界を知る常識的理性のことを指す。」 第六章 象徴的宇宙と周縁的現実問題 象徴の宇宙は、別な言い方では、分類の体型とも言いうるものであろう。
「過去的志向性」
『スワン家の方へ』
2周縁的現実としての夢
3社会における「中心」と「周縁」
第七章 詩的言語と周縁的現実
   ―両義性の彼方へ−
一九二〇年代のロシア・フォルマリズム、三十年代のチェコのプラーハ構造主義p245
ムカジョフスキー「社会的現象の領域は、各々独自の展開様式を持つ部分(構造)の複合的組み合わせから構成・・・」
トゥイニャーノフ「ドミナンタ」=主調
ミシェル・ボージュール「詩は否定である。・・」p249
シンタックス=統辞論(統語論、構文論)
ヤコブソン、潜在的な意味を表層に導き出す・・・言語を「見慣れぬもの」にしてp253
シクロフスキー、先ず芸術の目的は、我々に物事の表層を認知させるのではなく、その隠された意味を「見る」よう手助けするところにある。・・日常生活は、知覚の自動化=慣性化をもたらす・・「見る」ことをやめてしまう・・p254
見慣れたコンテキスト(文脈)から切り離して、
オストラーネ=異化
ケネス・バーグ、「非能率=まわり道」p255
トゥイニャーノフ、支配的要素(ドミナンタ)と従属的ヨウ素の相互作用、角逐によって芸術という形式がな精気を帯びるp260
多重機能の考え方は、・・・・人間が同時に、複数の現実に生きる可能性に対する寛容性を含んでいる。p263
我々が周縁性という主題の様々な変奏を繰り返しながら獲得しょうとしたのは、このような全体的意味の広さ、深澤に至る展望の手がかりである。p264

理解困難な書である。
記号論、構造主義には不案内であるし、登場する研究者たち、カタカナ用語も未知である。解らない用語はネットで調べたり、まさに百科事典的読み方しかできなかった。頭に何が残っているのか・・・

大江健三郎の周縁的というのが何となくわかるような気になった。

[2019年10月11日]
毎日新聞十月一日夕刊の読書日記に過日平田オリザが新訳ベケット戯曲全集1の「ゴドーを待ちながら」を「不条理劇 魅力的口語」と紹介していた。
(その裏面は、Interview 松岡茉優 切なさと高揚感表現 映画「蜜蜂と遠雷」で主演)
それで三千三百円で購入して読むことにした。
学生の頃、ベケットのノーベル賞受賞を知り(7月2日)と、書いたが、ネットで調べたら受賞は一九七〇年、二十六歳で既に就職している。ベケット戯曲全集1は一九六七年発行である。都合よく考えれば、当時購読していた「日本読書新聞」で、全集の発行も関連してベケットが話題になっており、それで購入した。県立美術工芸大学の演劇部が、話題になっていた「ゴドーを待ちながら」を公演した。ベケットがノーベル賞を受賞した一九七〇年に同年発行の「モロイ」を購入した。ということになるか。

前にも書いた繰り返しとなるが、
初めて「ゴドーを待ちながら」を読んだときはわけがわからなかった。ゴドーをゴッドに関連付けて考えたりしていた。「誰を」を意識して読んでいた記憶がある。
堀真理子著「改訂を重ねる「ゴドーを待ちながら」演出家としてのベケット」の購入前後に「ゴドー」を読み、今回四回目となる。長編ではないので数は問題ではない。
訳者が現代口語訳としており、ト書き(風?)も上手くはめ込み、舞台が目に浮かぶような感じがある。ラッキーの意味不明の長セリフは、役者いじめじゃないかと思ったりする(読者いじめ)。
今まで数回読んでいるのにベンチに座っている二人との記憶は誤りで土の上に座っている二人で、なんでこんな誤解をしたのか。

第四巻は小野正嗣が訳したとある。
スマホのタッチミスが多いのだが やくしたとある と打ったはずなのに 魔術の禁書目録 とでる どういうわけだ。


[2019年10月1日]
大江健三郎講演集「「話して考える」と「書いて考える」」が、
「NHK100分de名著 大江健三郎『燃えあがる緑の木』小野正嗣」に於いて紹介されているので、読んでみたところ、
●講演をまとめるに当たっての前口上
言葉のエラボレーション
T
「中野重治の美しさ」で「村の家」について語っている。「最後の小説」にも書いている。
中野重治に対する思いがこんなに強かったのか、「村の家」をもう一度読んでみう。
「五勺の酒」は読んではいない。そこで大江は民族道徳を肯定している。民族道徳?
「軍楽」は戦後解放を意味するものなのか。
『五勺の酒』《はずべき天皇制の頽廃から天皇を革命的に解放すること、そのことなしにどこに半封建制から国民の革命的解放あるのだろう。・・・》p30
佐多さんが「おもい」と書くと時
ー『夏の栞ー中野重治をおくるーにそくして
私は中野、佐多という本当に作家らしい作家たちが、時どきのマスコミの流行り廃りというようなこととは別に、同時代の波風を受けつつ、その本質的なものを正面から受け止めての、重くかつ美しい仕事をしていられるのを見つつ、自分もまた日本語の小説の仕事を始めました。p86
大江健三郎をノンポリというわけにはいかない。
高校生の頃、小林多喜二、徳永素直、中野重治を少々読んだが、「キャラメル工場から」は読まず終いだった。
U
子供の本を大人が読む、大人の本を子供と一緒に読む
『トムは真夜中の庭で』p97
子供らに話したことを、もう一度ーエドワード・サイードの死の後で
『「新しい人」の方へ』p130
癒やされるというのではなく、恢復するという言葉を使ってきました。p142
「夢を見る人」のタイムマシン
『二百年の子供』p154
この小説は読売新聞に連載されたもので、当時、大江健三郎が読売新聞に連載するとはと不快感をはじめとする感じたもので、まるっきり関心を持たない狭小な私である。大江は新潮社や講談社で出しているのではないか。
「想像力の勢い」p167
V
語る人、看護する人
Praxisプラクシス≒練習、実習、習慣、慣習、ギリシャ語の行なうことからp182
《隣人愛の極致は、ただ「君はどのように苦しんでいるのか」と問いかけることができるということに尽きる。・・・》p196p197
できない、信頼できる人間関係が構築された上で、可能な事柄であり、その関係が構築されたらその言葉は必要ないであろう。
病気と死についての深い知識の向こうにあるもの
暗闇を見えるものとするー精神医学の表現者の思い
『取り替え子』についての批評で、心理療法家の河合隼雄さんが、これは長い時をかけて人の死をいたむ、ということの一例だ、p244
デプレッションp244
W
タスマニア・ウルフは怖くない?
石原慎太郎・・日本国が滅びる、という警告・・p254
しかし、日本文化が滅びる、p254
マサオ・ミヨシ・・「日本文化の国際的影響力のほぼ完全な欠如」・・「文化言説における貧困なる退行現象と西洋依存」・・・日本の大新聞に載る書評の批評言語の衰弱・・・
確かにそうだ。書評が本の紹介で終わっている。それはそれでいいのだが
小泉は、・・内容をともなわない口頭表現の切れ味の良さ・・p261
会話主義の砂礫p265
あらためての「窮境(プロデイカメント)」よりー教育基本法、憲法のこと
丸山真男が「悔恨共同体」p284
教育基本法、憲法の「文体」ーさきの講演の補注(ノート)として
教育基本法にも憲法にも、小説同様「文体」がある。
エラボレーション後記ー講演集を文庫版にするに当たってのしめくくり

この本をよんだきっかけは「100分de名著」のはず。引用されているのはp194、p184、p7


[2019年10月1日]
大江健三郎の「最後の小説」を読んでいたら、「村の家」について詳説している。
転向について(一)(二)として、構造論(?)、記号論(?)的に書いている。


[2019年10月1日]
中野重治の「村の家」でヘラスの鶯という語句があり、図書館から借りて最近読んだ時に何かと思い調べたが、不明であった。
最近、ネットで調べ、
ヘラスの鶯は、ヘラス=ギリシャの古名、鶯=パンディオンの娘プロクネの意で、夫(テレウス)に裏切られ復讐(テレウスと自分との子供を料理しテレウスに食べさせた)したとの言い伝えである。
「命のまたけむ人は・・・うずにさせその子」は省略なしで「命の またけむ人は たたみこも 平群(へぐり)の山の 熊白檮(くまかし)が葉を 髻華(うず)に挿せ その子」でその意味は「命の無事な者は、幾重(いくえ)にも連なる平群山(=奈良県生駒郡平群村)の大きな樫の木の葉を かんざし(=当時は魔除けとして使われた。)として挿すがよい。」である。ヤマトタケルの望郷の歌である。


[2019年9月30日]
大江健三郎著「沖縄ノート」を読む。
なんで今!、本を読むのは「自由」なのである。「ヒロシマノート」は数回は読んでいるのに「沖縄ノート」はサラッと目を通した程度であり、しっかり読もうと思ったわけである。
先に結論をいうと、しっかり読んだという自信はまるっきりない。
〇プロローグ 死者の怒りを共有することによって悼むp1
古堅宗憲
〇日本が沖縄に属するp35
〇『八重山民謡史』'69p35
〇多様性にむかってp59
上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば・・・《部隊はこれから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》p69
日本的体制の中に積極的にくみこまれることによって歴史的後進性からの脱却?p76
〇内なる琉球処分p89
日本の「中華思想」的感覚
〇苦が世p111
「本土の沖縄化」p115
シュガーコートと恫喝p121
〇異議申立てを受けつつp133
〇戦後世代の持続p157
新川明氏は・・・《カンパ箱には、多くの市民あるいは労働者の無数の善意・・・善意の持ち主はその事によって全軍労の闘いと共闘・連帯したという自己充足に終わり、全軍労の闘い(そして沖縄の闘い)が、日本自身のの闘いと深くかかわっていることを見落す危険があるといいたいのである》とあらかじめ警告していたのであった。p160
高校教師は、・・・即ち一九三五年生れのかれが身をよせていた慶良間列島の渡嘉敷島でおこなわれた集団自殺を語った。本土からの軍人によって強制された、この集団自殺の現場で、祖父と共にひそんでいたひとりの幼児が、隣りあった防空壕で、子供の胸を踏みつけ、凶器を、すぐにもかれ自身の自殺のためのそれとなる凶器をふるう、ひとりの父親を覗き見てしまい、祖父と共に山に逃げこむ。そのようにして集団自殺の強制と、抗命による日本軍からの射殺と、p168
〇日本の民衆意識p181
南部戦線跡は本土のありとあらゆる都府県の名の冠せられた「塔」の荒野p191
沖縄人の行動様式の顕著なものとして事大主義と劣等感p194
〇「本土」は実在しないp203
子供を売って税金を納めろ!p219
言葉としての「本土」は・・・旅行者、そこに滞在する報道者が、・・一種くちごもるような躊躇をこえて、p222
沖縄ー内地、沖縄ー日本p222
消極的な動機で選びとられた言葉p224
「沖縄問題は終わった」×p228
(pは岩波新書版)

激しい告発の書、沖縄問題は大江健三郎にナイフ、日本人は日本で沖縄問題に対決する姿勢、・・・私自身枠外に置くようだが、現在にも通じる書である。


[2019年9月日]
あらためて
「NHK100分de名著 大江健三郎『燃えあがる緑の木』小野正嗣」を途中からはTVを見ながら読む。
はじめに
小野は『燃えあがる緑の木』を大江の後期の代表作としている。
私はそんな風には感じなかった。むしろ「万延元年のフットボール」「同時代ゲーム」「M/Tと森のフシギの物語」「懐かしい年への手紙」「燃えあがる緑の木」「宙返り」をどう関連づけるのがいいだろうか、そんなことを考えていたに過ぎない。

毎日新聞1999年6月10日の新聞記事の切り抜き―作家が語る 大江健三郎さん 新作長編「宙返り」(上・下)の背景―が挟んであった。
  「燃え上がる緑の木」を書いて小説をやめようと思ったと書いてあり、やはり代表作と言って良いのだろう。

はじめに
「障害を持った息子との共生と、作家自身の故郷の四国の森のなかの土地の神話や伝承という二つの主題が、作品ごとにていねいに深められています。」、大江健三郎が「ズレ」と言ったのはこうゆうことなのだろう。
第一回「四国の森」と神話の力p8
世界文学としての大江健三郎
「記憶してください、私は・・・」
「ドストエフスキーの小説があるのに、なぜきみは小説を書くのかね、」 「記憶してください、私はこんなふうにして生きているのです」(漱石(こころ))p11、 この時代のこの場所で「私たちがこんなふうにして生きている」ことの証言として読んでもらい、記憶してもらいたいと、いまを生きる私たちが自信をもって言える作品を「名著」(核時代の想像力/文学とはなにか(1) p58p60)
(「私たちがこんなふうにして生きている」ことの証言・・ならば、所謂日本の私小説が該当するのではないか。)
『核時代の想像力』p12、この本が引用される例はほかにもあった記憶がある。講演集で書かれものより軽くみていたのだが、二〇〇七年版の帯に、「この本でぼくが 考えたことは、すべて今に続いています。」書いている。
しかし、「核の新しいエネルギー源・・・核開発は必要だということについてぼくはまったく賛成です。このエネルギー源を人類の生命の新しい要素にくわえることについて反対したいとは決して思わない。」p120、これは今は続いてはいないはずだ。
作家の現実、小説の虚構
中学卒業後、地元の高校に進学するものの、上級者から暴力をたびたび受け、松山東高校に転入p13、なんとなくそう感じていたが、今回明確になった。母親の英才教育があったのかと思っていた。
『万延元年のフットボール』・・前半部の頂点を成す重要な作品p14、後期の作品の前半部でいいんだろう。
特定の二つの場所のあいだを行き来するp16
大江健三郎の主題
(二)ひろしまの被爆者たちとの出会い。
(三)障害を持って生まれた長男光さんとの共生。
(一)(三)の二つの主題は、いわば車の両輪p17、自己引用とか自己批評も、大江文学に顕著な手法p17
四国の森と魂のこと
「燃えあがる緑の木」主要登場人物p21
前史ー『懐かしい年への手紙』
最盛期・継承される「神話」p24
サッチャンは、おんなになることを選びとった人、両性具有者p25
「語る・書く」という役割が、これまでの語り手のK=大江健三郎からサッチャンにした・・大きな転換点p26、そいは?
奇跡のような治癒能力p30
糾弾される「救い主」p34
「テン窪」p36
第二回世界文学の水脈とつながるp38
自分自身を生きるとは?
サッチャンに二番目の転換p41
「燃えあがる緑の木」の教会p42
教会に集う人々p44
「揺れ動く」p49
「福音書」はいかに作られるかp53
大江文学の特徴は、つねに他の文学作品や芸術作品との関係において小説がかかれている・・コラージュ的な手法p56
「私という小説」の作り方p59
大江健三郎 略年譜p65
第三回信仰なき「祈り」は可能か?p66
魂の父と息子
「暗い谷」への帰還p69
場所の力・・桃太郎p71
遍在する分身p73
書き込まれる願いp76
大江光さんのCD・・子を愛する親の自然な心の発露p78
「永遠」に対抗しうる「一瞬」p78
「一瞬よりはいくらか長く続く間」p80
一瞬よりはいくらか長く続く間の眺めに集中、永遠に対抗するにはp82
世界の息が吹きとおる時間p83
死者とともに生きるp84
愛と憎しみ、善と悪、一瞬と永遠が共存しているp85
全体について包まれる個p87
ウグイの群れと一尾のウグイp88
ドストエフスキーの遠いこだまp89
「一瞬よりはいくらか長く続く間」の光景あるいは喜びは、「ソレコソぽじてぃう゛ナ生キ方ヲ伐リ拓イテ」ものだと思うのです。p89
『カラマーゾフの兄弟』、病没するイリョーシャと少年たち、親の家にいるころに作られたすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、あ健康で、ためになるものは何一つ無いのです。p90 兄と姉、女と男、母と父p92
シモーヌ・ヴェイユ「注意力とはもっとも純粋なかたちの祈りにほかならない」p93
「勉強する目的は、注意力を訓練することにあって、その注意力の訓練をすることは祈るために役にたつ」p94
「『話して考える」と「書いて考える』p97
第三回第四回はTVで見ており、小野は読書も集中であると語っていた。
イヌイットの神話・・「ーそうですか、それなら、烏にしなさい!・・」あちこちで読んだような気がするが、「「話で考える」と「書いて考える」」p194からの引用。<
第四回 一滴の水が地面にしみとおるようにp100
総領事の死と薔薇の香りの奇跡
ドストエフスキーとの響き合いp103
『「話して考える」と「書いて考える」』p185から、p103
サッチャンの出奔とアウグスチヌスp108
大江健三郎派『私という小説家の作り方』p75 のなかで、『燃えあがる緑の木』を書きながら・・本当の回心にいたる前に、・・アウグスチヌス・・p113
文学テキストが将来を予言するp113
エラボレーション(「話して考える」と「書いて考える」p5引用)p114
ギー兄さんを「救い主」として発見し・・自分の言葉を「甘美なうわごと」p116
反復のなかで変化する意味p119
予行演習としての行進p122
「さようなら原発一千万人アクションの呼びかけ人、鎌田慧、澤地久枝、坂本龍一、鶴見俊輔、大江健三郎p124、他のメンバー、内村克人、落合恵子、瀬戸内寂聴、辻井喬
アイデンティティの帰属先をひとつの土地に求めることの危険性p127
ここで大切なのは、「繋ぐ」という行為で有るかのようです。そしてぼくはここで、「救い主」という言葉の代わりに、「人間」という言葉をいれてもよい気がするのです。 p139
ーRejoice!(喜びを抱け)p138

後後期の小説について、丁寧な紹介はありがたい。カラマーゾフの兄弟と照応するのには納得だが、「魂のこと」「祈り」はまだわかりにくい。
大江健三郎論でもない、「燃え上がる緑の木」論でもないこのテキストに沿って「燃え上がる緑の木」を再再度読みたい思いになる。
小野正嗣の読み方には驚嘆の思いである。
蓮實重彦とは対極に存る。 大江健三郎への研究家、批評家ではなくフアン、それがいい。


[2019年9月16日]
NHKの100分で名著で大江健三郎「燃え上がる緑の木」を取り上げている。
放映は月曜日深夜で見るには一寸困難で、TVなら右の耳から左の耳なので、テキスト本を購入して読む。
NHK出版「NHK100分de名著 大江健三郎『燃えあがる緑の木』小野正嗣」二〇一九年九月一日発行
解説、むしろ紹介者、先導者は小野正嗣である。小野は芥川賞受賞となっており、それならあるはずともう一度読んでみる。

「九年目の祈り」一九一五年第152回芥川賞受賞。
さなえ(今年三五歳)が、ハーフの不安定な精神状態の希敏(ケビン)を連れて、大分南部の小漁村(村ではない町)の実家に帰り、回顧する物語である。
この母子家庭はこの後どのように生きて行くのか気にかかる。
九年目の祈りは、さなえが九年前の町の国際交流の一環として、みっちゃん姉たちと一緒にカナダ旅行した時にみっちゃん姉が教会でながく祈り続けたことに依る。
みっちゃん姉は息子の具合がかなり悪く、今、祈っているはずで、さなえも祈らざるを得ない状態にある。
この作品は受賞時に読んでおり、生意気にも、
「文章もしっかりしている。作品の構成もいい、時代との同期性もある。 でも、次の作品を読みたいとの気分にはなれない。」と書いている。ああ恥ずかしい。


[2019年9月16日]
ロ―ベルト・ゲルヴァルド著小原淳訳「敗北者たち 第一次世界大戦はなぜ終わり損ねたのか 1917-1923」みすず書房二〇一九年発行
プロローグ
第一部 敗北
シビックなナショナリズムとは正反対のナショナリズム・・p22
第一章 春の列車旅行p37
一九一七年四月十六日、レーニン、ペトログラードに到着p43
第二章 ロシア革命p44
ボリシュヴィキの権力掌握は、ほぼ無血で実現した。セルゲイ・エイゼンシュタインの有名な映画「十月」(一九二八年)が描いたような、大勢の革命的群集の関与はなかった。P57
レーニンは、約束の政権議会総選挙を一九一七年十一月開催するのを認める。
制憲議会一九一八年一月五日開会、ボリシュヴィキの二十三.五パーセントに対し社会革命党が四十一パーセント、の得票率を得ると、レーニンはペトログラードの制憲議会を解散(一月八日) P59
「『世界をゆるがした十日間』では、憲法制定会議は規定の日たる十一月十二日に行われれるべきこと。レーニン(上p229)、 ペトログラードの憲法制定会議の議員選挙はボリシェヴィキ―に圧倒的多数を与えた(下p115,p200)
『Wikipedia』では、憲法制定議会の解散、詳細は「全ロシア憲法制定会議」を参照(クリックしても内容は表示されない)、 ボリシェヴィキは臨時政府に対してその開催を要求してきたため、武装蜂起が成功したあとの10月27日に憲法制定議会の選挙を実施することを決めた。 しかし11月に行われた選挙では社会革命党が得票率40パーセントで410議席を得て第一党となり、ボリシェヴィキは得票率24パーセントで175議席にとどまった[22]。 レーニンは12月26日に「憲法制定議会についてのテーゼ」を発表した。憲法制定議会はブルジョワ共和国においては民主主義の最高形態だが、現在はそれより高度な形態であるソヴィエト共和国が実現している、としたうえで、 憲法制定議会に対してソヴィエト権力の承認を要求するものだった。一方、社会革命党は「全権力を憲法制定議会へ!」というスローガンを掲げ、十月革命を否定する姿勢を示した。 制定議会に対してソヴィエト権力の承認を要求するものだった。一方、社会革命党は「全権力を憲法制定議会へ!」というスローガンを掲げ、十月革命を否定する姿勢を示した。 
『武装せる予言者トロツキー』では、一月六日、彼がペトログラードへ帰る前に、議会は解消された。p395
(山川出版社刊「世界体系 ロシア史3 20世紀」p53では更に詳しく、選挙は予定通り、十一月十二日以降全国で行わられた。
ヨーロッパ・ロシア、シベリアからカムチャッカ、中央アジアまでである。投票率五〇パーセント弱・・・ カデット四.七パーセント、メンシェヴィキ二.七パーセント、ボリシェヴィキ二十四パーセント、エスエル四〇.四パーセント、
但し、兵士水兵の中ではボリシェヴィキ四〇.九パーセント、エスエル〇.1パーセント、都市ではボリシェヴィキ三十六.五パーセント、・・・・・・憲法制定会議一九一八年一月五日午後四時・・・午前四時四〇分閉会・・・ 夜のうちに解散の布告)」
第三章 ブレスト・リトフスクp61
第四章 勝利の味p66
第五章 運勢の反転P75
SPD共同代表のエーベルト( もう一人はシャディマン) はボリシュヴィキ革命を恐れていたp97
独立社会民主党USPD、多数派社会民主党MSPDp98
第二部 革命と反革命
第六章 戦争は終わらないp103
第七章ロシアの内戦p114
共産党指導部にユダヤ人が多かったことに刺激されて、反ボリシュヴィキ運動は間もなく、十月革命をユダヤ人の陰謀の結果と非難p131、確かにトロツキー、ジノビエフ、カーメネフもユダヤ人、反ユダヤ≒反革命となるわけでもある。
ソビエト連邦、人口一九一七年約一億四二〇〇万人、一九二二年一億三二〇〇万人、p137
国際連盟、難民高等弁務官にノルウェーのフリチョフ・ナンセンp139、あの探検家ナンセンか
反ボリシュヴィキを亡命ロシア人が宣伝、白軍暴虐を隠蔽。
帝政ドイツがツァーリ体制のロシアとは違っているp153
第八章 民主主義の見せかけの勝利p147
第九章 急進化P170 
一九一九年一月十五日、 リープクネヒトとルクセンブルクは拘束され・・ティーアガルテンまで連れて行かれ、そこで近距離から三発撃たれた。p182
スパルタクス団は国民議会を拒否p170
ミュンヘンは、ヴァイマル・ドイツのどこよりもナショナルスティックで、反ボリシュヴィキp190
クンが転覆しようとした政府は、彼が監獄で共産党の事務局を設立するのを許した。p192
右派のハンガリー民兵は、左派の支持者だけでなく、非政治的な中産階級のユダヤ人をも標的にしていた。p200
フラッシュ革命の古き三位一体「自由、平等院、博愛」を‥‥新たな三位一体「権威、秩序、正義に置き換えるp203
ユダヤ人をボリシュヴィキの牽引者にして最大の受益者だと見なす観念が作り上げられたのは明らかにロシア人においてであり、とりわけ白軍のプロバガンダにその揺らいがあるp204
偽書『シオン賢者の議定書』・・・ヘンリー・フォードが出版を援助p206
第十章 ボリシュヴィズムの恐怖とファシズムの勃興p219
バルセロナ、全国労働組合CNT、労働者総同盟UGTp219
アイルランド独立戦争p221
リパブリズミp221
第三部 帝国の崩壊
第十一章 パンドラの箱―パリと帝国問題p243
パリのリッツ・ホテルにあったベトナム料理店の副料理長グエン・シン・クンはウッドロウ・ウィルソンに自国の独立を求める手紙を書いた。ホー・ちー・ミンp249
イギリス軍の諜報将校であったトマス・エドワード・ロレンス(アラビアのロレンス)の指揮下に置かれたアラブ人非正規軍が、後にサウジアラビアとヨルダン、そしてシリアとなるでオスマン軍と戦った。p260、学生の頃、映画アラビアのロレンスを、情けないことに面白く観た。他のシオニズムの映画も。
第十二章 中東欧の再編p266
第十三章 敗れた者に災いあれ(ワエ・ウィクティーヌ)p283
第十四章 フィウーメp313
フィウーメ、現在のクロアチアのリエカ、フィウーメはイタリア読み
第十五章 スミルナからローザンヌへp323
国際赤十字の視察団・・ギリシャの占領軍の一部がムスリム住民の絶滅に駆り出された。 p339
キリスト教徒のオスマン臣民に対してケマルが行った仮借なき追放p351
エピローグ―「戦後」と二〇世紀半ばのヨーロッパの危機p353

ヨーロッパではドイツやイタリア、極東では日本といった修正主義p361> 「第五列」P363、ひさしぶりの言葉p363
伝統的な反セム主義や反スラヴ意識、P365
日本の統治は「ファシスト」とは見なせないが、共通点、自由主義的な政治秩序と ボリシュヴィキを拒否p369
ムッソリーニは、満州事変に対する西欧の反応(あるいは反応の欠落)を見て日本の例を後追い・・p374
一九一八年に遡ると、レーニンとウィルソンの民族自決や少数民族の権利についての主張、p379
第一次世界大戦後100年、シリア、イラクの内戦、エジプトの革命、パレスチナ問題をめぐるユダヤ教とアラブ人、p380

謝辞p381
謝辞が六ページにもなる。
訳者解題P387
歴史研究としての実証性の高さも評価されねばならない。P393
第一次世界大戦で主戦場にならず・・・アメリカ合衆国や中国、そして日本における 野蛮化を考えるにあたっても、別の論理が必要となろう。p395

厚い本だが、注、参考文献、索引で147頁もある。訳者の注本文中にある。労作、訳者の労作でもある。ナチスの反ユダヤ主義もこれら流れの中に蓋然性が高い。 ヒトラーに関する映画で、該当で首を吊られているボリシュヴィキを見た記憶がある。そういう状況だったのろうさくでもあるか。

トロツキーはユダヤ人、カーメネフ、ジノビエフも


[2019年9月13日]
9月13日(金)毎日新聞夕刊に吉見義明氏、慰安婦問題について語る。著書「草の根のファシズム」「日本軍『慰安婦』制度とは何か」「毒ガス戦と日本軍」「焼跡からのデモクラシー」、近著「買春する帝国」


[2019年9月1日]
夜叉ヶ池、加賀に近い越前にあるかと思っていたが、そうでもなさそうなので、泉鏡花「夜叉ヶ池」岩波文庫(一九八四年第一刷一九九〇年十三刷)を図書館から借りて読む。解説は澁澤龍彦が書いている。
場所 越前国大野郡鹿見村琴弾谷
ネットで夜叉ヶ池は福井県南条郡南越前町である。
旧の鹿見村は合併し→堺村→今庄町(南越前町)となっている。
越前でも若狭に近い方である。
大野郡にしたのは創作で、 琴弾谷も創作だろう。ネットではその地名の検索はできない。
三国ヶ嶽は西は近江、北は加賀、幽かに美濃山々p10、 ネットで三国獄(三国岳)は福井県、滋賀県、岐阜県の県境にある。
今庄駅から五里ばかりp26、南越前町鹿見だ。

次いで「天守物語」も読む。
(打見は二十七、八)岩代国猪苗代、亀の城、亀姫。
亀ヶ城のことだろう。
夜叉ヶ池まで参ったよ。p87、「夜叉ヶ池」と繋がる物語でもある。
二作品とも、妖怪、妖艶の世界を描く作品、劇ならばどのように演出されるのか興味がある。


[2019年8月24日]
アンネの日記を中学の時に読んだ。霜山訳の夜と霧を読んだのもその頃である。その後、池田香代子訳も読んだのにフランクルを忘れてしまっている。池田香代子訳で再挑戦する。

「夜と霧 新版」
心理学者、強制収容所を体験する
知られざる強制収容所
カポー、エリート被収容者、カポーはよく殴った。
上からの選抜と下からの選抜
生存競争の中で良心を失い、暴力も仲間から物を盗むことも平気になっている。
被収容者十一万九千百四の報告−心理学的試み
ほんの数パーセントの生き延びた元収容者と、彼らの特異で、心理学的に見てまったく新しい人生観への理解を助けることが、ここでの眼目なのだ。p8
拘禁にかんする心理学や精神病理学に寄与するものである。
経験者たちの露出趣味に抵抗感を覚えたからだ。p9
第一段階 収容
アウシュビッツ駅
恩赦妄想、死刑を宣告された者が処刑の直前に土壇場で自分は恩赦されるのだ、と空想p14
最初の選別
消毒
つまり、それまでの人生をすべてなかったことにしたのだ。
人に残されたもの−裸の存在
最初の反応
やけくそのユーモアの他に好奇心・・自分は命拾するだろうか、骨折するならば頭蓋骨だろうか・・p25
人間はなにごにもなれる存在だ、と定義したドストエフスキーがいかに正しかったかp27
「鉄条網に走る」?
収容ショック状態にとどまっている被収容者は、死をまったく恐れなかった。収容されて数日で、ガス室はおぞましいものでもなんでもなくなった。彼の目に、それは自殺する手間を省いてくれるものとしか映らなくなるのだ。
ムスリムとあだ名されている連中=やつれて、疲れきって、病人みたいに見える連中、痩せて、体がもう労働についていけない連中、遅かれ早かれがすに送られる。p30
第二段階 収容所生活
感動の消滅(アパシー)
内面がジワジワと死んでいったのだ。
苦痛
家畜に「働く義務」を思い起こさせるだ、罰をあたえるほどの気持ちのつながりなど「これっぽちも」もたない家畜に、と。
愚弄という伴奏
被収容者の夢p46
パンの、ケーキの、煙草の、気持ちのいい風呂の夢
飢えp47
最後のころには、一日一回、ほんの小さなパンが配給されるだけだったので、逸れをどう食べるのがいいとか悪いとか、わたしたちは、延々、議論した。p50
性的なことがらp52
非情ということp52
政治と宗教p54
降霊術p56
内面への逃避p58
内面生活も未熟な段階にひきずり下ろされたが、ほんのひとにぎりではあるにせよ、内面的に深まる人びともいた。p58
もはやなにも残されていなくてもp60
愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実。p61
壕のなかの瞑想p64
灰色の朝のモノローグp66
収容所生活の芸術p68
わたしのなかでも、なにかが泣いていた。・・その人はアウシュビッツ収容所のいずれかの棟にいた。・・わたしの手の届かないところに。その人とは、わたしの妻だった。p71
収容所のユーモアp71
「かまど」がないp74
刑務所の囚人への羨望p75
なにかを回避するという幸運p77
発疹チフス収容所に行く?p80
強制収容所の写真・・写っている人びとがこれっぽちも不幸だと感じていない・・p82
孤独への渇望p84
運命のたわむれp87
遺言の暗記p91
もとの収容所の最後の日々、死体の山から消えて鍋の中に・・p93
脱走計画p94
今まで通り患者のもとに残ると決心したとたん、やましさが嘘のように消えた。p98
ジュネーブの国際赤十字代表p100 
いらだちp104
精神の自由p109
人間の魂は結局、環境によっていやおうなく規定される、与えられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由p109だけは奪えない、p110
度数はこう言った。「わたしが恐れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ」p112
運命−賜物p113
暫定的存在を分析するp117
「無期限の暫定的存在」p118
目的をもって生きることのできない・・失業などでも起こりうる。トーマス・マンの「魔のは山」・・未来を失った・・
人間として破綻した人の強制収容所における内面生活は、追憶をこととするようになる。
おぞましい現在に高をくくれるという効果がある。p121
教育者スピノザp123
「苦悩いう情動は、それについて明晰判明に平声したとたん、苦悩であることをやめる」エチカp125
「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」ニーチェp128
いきる意味を問うp129
生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、p129
生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。p130
苦しむことはなにかをなしとげることp132
「どれだけでも苦しみ尽くさねばならない」リルケp132
なにかが待つp133
このひとりひとりの人間にそなわったかけがえのなさp134
時期にかなった言葉p135
居住棟の班長の中に公正な人物がいたが、その毅然とした、見ているだけでも勇気づけられる存在p135
班長が指名し、わたしが話すp134
医師、魂を教導するp137
人間が生きることには、つねに、どんな状況でも、意味がある、この存在することの無限の意味は苦しむことと死ぬことを、苦と死をふくむのだ、p138
収容所監視者の心理p141
強度のサディストがいた、選り抜きの監視隊を編成するときにはサディストが求められた、p141
解放後、ユダヤ人被収容者たちはこの親衛隊員をアメリカ軍からかばい・・・p143(p167訳者解説あり)
他方、監視者が示したほんの小さな人間らしさp144、この世には・・ふたつの種族しかいない、マトモな人間とまともでない人間と、p145
第三段階 収容所から解放されてp147
わたしたちが大喜びしただろうと考えるのは間違いだ。p147、「自由になったのだ」、と何度も自分に言い聞かせ、頭のなかで繰り返しなぞる。だがおいそれとは腑に落ちない。自由という言葉は、何年ものあいだ、憧れの夢野なかですっかり手垢がつき、概念として色あせてしまっていた。p148、うれしいとはどういうことか、忘れていた。・・強度の離人症p149
放免p152
ふるさとにもどった人びともいたのすべての経験は、あれほど苦悩したあとでは、もはやこの世には神よりほかに恐れるものはないという、高い代償であがなった感慨によて って完成するのだ。p157

中学生用の頃、ほんとうに読んだのだろうか、疑問を感じる。最後ページの写真を見ただけではないだろうか。この本でアウシュビッツを知ったのであり、当時の本はインクの臭いが強く、それを屍に関わるものと感じていたのは確実だ。


[2019年8月16日]
毎日新聞、今週の本棚、この3冊、松永美穂選、アンネフランクに平成二十二上期芥川賞受賞作「乙女の密告」が紹介されている。
アンネの日記は中学生の頃読んだきりだが、「乙女の密告」を図書館から借りて読む。
題名自体の少女趣味的様相、「乙女」頻出、「すみれ組」、「黒ばら組」、「麗子様」、まるっきり読んだ記憶のない芥川賞受賞作である。
アンネの日記の原題は「ヘト アハテルハイス」であることも初めて知る。オランダ語で後ろの家、秘密の家と言った意味合いである。
「メンチを切る」p14、未知の外国語かと思ったら、関西弁で睨みつけるの意味で、知らなかった〜、真面目にである。調べるのにスマホは便利である。
「・・誰もアンネの名前を騙ってはいけません。アンネの名前はアンネのものです。アンネだけのものです。」p108
松永美穂は「『アンネの日記』をコンテストの課題として暗誦する女子学生が、自分が密告の文化と無縁でないことに気づく。自身の加害者性に目を開かれる、深い洞察に満ちた小説だ。」 と書いている。
他の二冊に、小林エリカ著「親愛なるキティーたちへ」、今日マチ子著「アノネ、上・下」がある。


[2019年8月11日]
芥川賞受賞、今村夏子作「むらさきのスカートの女」を読む。
作者は太宰治賞、三島由紀夫賞、野間文芸新人賞を受賞しており新人ではない。最近はこの傾向がほとんどだ。
わたし(権藤)はむらさきのスカートの女を追い続けている。その詳細さはわたしがむらさきのスカートの女のようでさえある。
最後にはその女に裏切られるような形になるのだが、その女専用のベンチにわたしが座る。
わたしが他人のむらさきのスカートの女になってしまうような物語である。
切実さ緊張感が薄い。その女がわたしをどう見ているのかわたしが語らないことにもあるのだろう。それがこの作品の特徴なのだろうが、同じ職場にいてむらさきのスカートの女がわたしをまるっきり考えていないのは不自然過ぎる。


[2019年7月18日]
ランボーの「酔いどれ船」、この題名が当然と思っていたが、 粟津則雄は酔いどれ船、 小林秀雄は酩酊船、 宇佐美斉は酔っぱらった船。
なぜ「酔いどれ船」か、ネットで調べると
中原中也、「酔ひどれ船」、上田敏、「酔ひどれ船」がある。 むしろ、ランボーとは違うが、北杜夫の小説「酔いどれ船」で「酔いどれ船」を当然と思っていたのかもしれない。


[2019年7月24日]
原基晶訳「神曲 地獄篇」の「新訳刊行にあたって」に「見者」を唱えたランボーp619とある。
全然知らなかった「見者」を調べてみることにした。
私が持っているのは、小林秀雄訳、粟津則雄訳、宇佐美斉訳の三冊である。
宇佐美
酔っ払った船、脚注「船=話者=見者」p173/ジョルジュ・イザンバール宛、自分を見者にしようと努力している、p451/ポール・デメニー宛、見者であらねばならぬp457、彼が未知のものに到達して、気も狂わんばかりになり、ついには自分の見た現象の見分けさえつかなくなってしまったとしても、まさに彼は、それらの現象を見たことになるのです!p458、ーー男性に、女性が御役御免を言い渡すにおよんで、ついには女性もまた詩人となることでしょう!p462、ボードレールこそは第一の見者であり・・p465

小林
ドムニイ(デムニー)宛、千里眼でなければならぬ、p231、「地獄の季節」が・・文学への絶縁状・・「千里眼」・・・自らを殺す運命・・p252、ランボオが遺した書簡は・・無味乾燥・・??p253
解説類は、 一九六二年、一九三〇年、一九四八年、のランボウ論で解説とは別で、後記は一九三四年
友人の富永太郎への想いを滲ませている。
読めない漢字もある。

粟津
彼はおのれの詩法に関する爆発的なマニフェストとも言うべき手紙を年長の詩人ドムニイに書き送るに至る。p563、 見者の手紙p564、 詩人は、「見者」とならねばならぬ。p566、 「見者」としての詩人は、p567

ランボオ、見者については当然知っているべきことだったか。


[2019年7月20日]
原民喜の繋がりで峠三吉「原爆詩集」を読む。にんげんをかえせは知らぬ人もないくらいであり、初めは何時何処で読んだかも思い出せない。一方、詩集のそれしか読んでいないようなら気もする。
今回、岩波文庫「原爆詩集」峠三吉作二〇一六年七月初版の第三版を購入する。
詩集を通しで読むのは疲れる。
通しで読んだのは「地獄の季節」くらいのものだろう。これも疲れた。
高校生の頃、詩の数は少なかったが、石川啄木の「呼子と口笛」は疲れずに読んだ記憶がある。
あとがき
尚 つけ加えておきたいことは、私が唯このように平和へのねがいを詩にうたっているというだけの事で、いかに人間としての基本的な自由をまで奪われねばならぬ如く時代が逆行しつつあるかということである。p127(あとがき一九五二年五月十日)

解説1を大江健三郎が書いている。一つの読み方の指針になるだろう。
解説2はアーサー・ビナードである。未知の人である。
冷静に詩の形を紹介している。
オバマ大統領広島演説について、「だれかれのスピーツ」の一つに過ぎなかったとしているが、私としては大統領の限界と可能性を示したものと感じとっていた。


[2019年7月15日]
早川氏HPへのコメント
コメントしようと思っていたところ、大変なこと(追悼)が起こったようで、遅れて今頃のコメントに なってしまった。
貴兄の読まれた四冊の本は覗いたこともなく、いずれに対しても知識がない。 貴兄の読書量の多さには感服する。

国境なき医師団には、今はやめてしまったが,かって微少額の寄付していたので 関心はないわけではない。 (イトーセイコーは想像ラジオを読んだだけ。)

私が最近読んでいるのは古い本が中心である。 古書店で購入したガルシア・マルケスの「100年の孤独」(日本語訳初版1972年)、荒唐無稽と思われる一族の物語で、ラテンアメリカ文学の代表作である。
次いで、ベケットの「モロイ」(1969年日本語訳発行)、当時、 新本で購入し一寸覗いたきりで、読み直した。
結末もない、今読んでもよくわからない、不安に満ち満ちた作品であろうか。
両書とも人には薦める気はない。

最も最近は原民喜の「夏の花」である。
以前からしっかり読み直そうと思っており、 古書店に「定本原民喜全集」が5000円であったが、持ち合わせがなく翌々日買いに行ったら売り切れていた。
この際、読みたいと思っているだけでなく、読もうと、文庫本(岩波文庫「夏の花」2018年第11刷 )で購入した。ついでに岩波新書の梯久美子著「原民喜 死と愛の孤独の肖像」も購入した。
「夏の花」は凄惨さ、悲惨さ感情を込めて訴えるのではなく、 「私」が見た光景をそのまま書く、感情を抑えることにより訴える力がある。
どこを通って広島市内を脱出したのか広島市の地図を見て確認した。
小説を読んで地図で確認したのは「罪と罰」以来だ。 当然、この作品も古い、GHQの検閲の眼をのがれて三田文学に掲載されたのは1947年である。

振り返って、東日本大震災では遺体の話は出てこない。
メディアの配慮もあるのだろう。
浜には傷つき、衣類の剥がれた遺体が散乱していたことを想像しなければいけない。

人生の終局で何を読むか、
ダンテの神曲を考えている。
いや、読み直したい本もあるがきりがない。


[2019年7月7日]
梯久美子著「原民喜 死と愛と孤独の肖像」岩波新書二〇一八年発行を読む。
原民喜、人並み(?)の関心があり、浦和の古書店金木書店で定本原民喜全集が五千円で売っており、手に持って帰るには重いので、翌々日に自転車で行ったら売り切れていた。古くは芳賀書店の全集もあったのだが、神保町の芳賀書店 は零落している。
大江健三郎が将来を見つめた作家と書いており(どこに載っていたのか不明だったが、調べたら、「原民喜と若い人々との橋のために」(大江健三郎同時代論集2)、「死者たち・最終のヴィジョンとわれら生き延びつづける者」(同時代としての戦後))
いずれにしても原の「夏の花」は終わっていない。
「原民喜は口が利けないのか、利きたくないのか、利きようを知らないのか、それは判らないが、手足もうまく動かせないのである。・・・教練・体操のことごとくができない、・・・教師・生徒たちのなぶり者にされ、・・・」p8
「生キノビテコノ有様ヲツタエヨ」p160
能楽書林p15、p196、p203、九段下にある能楽書林がそうなのか、度々その前を通っている。謡本はわんや書店だけくらいと思っていた。
大江健三郎の「原民喜と若い人々との橋のために」は新潮文庫「夏の花」の解説らしい。p233
対極の人と想っていた遠藤周作と原民喜が、こんなの親しかったとは。
「・・虚無と絶望にあらがって、のちの世を生きる人々に希望を託そうとした。その果ての死であった。」p255
原民喜も近代文学の人であったか。

「夏の花」
泉邸→
「今、ふと己れが生きていることと、その意味がはっと私を弾いた。このことを書きのこさねばならない、」p14
泉邸、饒津公園、常盤橋p22、東照宮下から饒津p26、本郷町、広島駅、五日市、
Nは〜
唐突な最終ページだ。
妻の弟の本名は永井善次郎であり。旧姓は 永井、Nは妻貞恵の旧姓にかかわりのある人かと も考えられるが、本文中に従業員Kがあることから、社員の一人と考えるのが妥当であろう。
Nは以降二十行は、従業員Nから直接聴いた話と考えるの妥当ではないだろうか。
「夏の花」は私の体験を淡々と(?)書き連ねたきたのに、 Nさんから聴いた話が書かれ。違和感を覚えるのだろう。
「私」が見たものだけではない原爆の凄惨さ伝えたかったのではないだろうか。
特別な理由づけ、思いを込めないのが、この小説の優れた点で、逆に読む人に強く訴える。

「壊滅の序曲」
「森製作所の工場疎開はのろのろと行われていた。このことを」p108
ジイド「一粒の麦もし死なずば」p110

「氷花」
セルバンテス「ピイドロ学士」p180


[2019年7月2日]
サミュエル・ベケット著「モロイ」安藤信也訳白水社一九六九年十月十日発行印刷
T
私にはよくわからない、率直に言って。たとえば、母の死だ。私がここに来たときにもうまっていたのか?剃れども死んだのは もっとあとか? 埋葬できるように死んでしまったかどうかということだが、私にはわからないあるいはまだ埋葬はすんでないのかもしれない。p6ー実に曖昧模糊としか言いようがない。
AとB、二人の男p7ーゴドーを待ちながらに繋がる。
自転車・・・それはチェーンのない車輪がフリーになる自転車・だった。そんなのがあるとしたらだが。p19ー口絵の自転車にはチェーンがある。この本、装丁誰々口絵誰々とかのっていない。p19
わたしは自分の名前を思いだ出した。モロイ。わたしはモロイですと叫んだ。p29
ポケットから小石を出して、それを吸った。p34百年の孤独に土、壁を食べる少女がいた。
ロイ夫人とか、ラウス、名前の方はソフィーP46
私はいつも、言いすぎるか言い足りないかなのだ。p47、オウムは、ときどき、この一族売女の、助平の、糞たれの、たれ流しと言っていた。p52、この文章は精神錯乱だp64、 なにをしているのか、なんのためにしているのかわからないままになにかするということより悪いことなど、とても考えられはしなかったからだ。p65
ラウスの家にかなりの間いた。p73、ラウスに会うことも少なかった。p76、ラウスは異常なまで平板な女だった。p81
別の女だ、その女だって私の母にも、祖母にもなれたかもしれない、p82、彼女はルース・・たぶん、エディスという名かもしれない。、なんたる性行為、p82、別れも告げずにラウスのもとをはなれた。・・自転車は彼女に置いていった。p86
さらには母の近くに来ているのかどうか・・p94、おしゃぶり用の石、四つのポケットP101、p109、内陸へふたたびたどりついた。p111、足は短くp114、
尻の穴・・玄関口、口のほうが勝手口p117、 本質的なことに触れないでおくというのは、わたしのもっとも得意とするところp118、けっきょくのところ、母はなんでくたばったか。まったく、考えてしまう。p110、私には前もってしかわからなかったのだ。その時になると、もうわからなくなってしまったものだ。P121
これで七十年も若かったら、p123、モロイは何歳なのだ。
私はママの家へ向かっていた。p134 〜p136、ここでTが終わる。一つの文は短いが、ここまで改行なし。
モロイの森の中での彷徨は神曲煉獄篇に通じると感じる。

U
ここからは改行がある。
私はモラン、名はジャック、息子もジャックp137、マルトp139、突然現れるゲイバーP146、アンプロワーズ神父p143、ピイ先生p155
ラーガー・ビール(注あり)、ヴァレンシュタイン
私は筋道を立てて物を考えるたちp147
隣家エルスナー姉妹の料理女ハンナ、p158ズルーp159
ゲイバー連絡員、モラン調査員、p160 ユーディ、所長p162
彼は一生の間そればかりを待っていたのだ、p167
立ち上がって外へ出ると、すべてが変わってしまう。頭の中の血がからになり、いたるところから、事物の騒音が私を取り囲み、避け合い、混じり合い、爆発し、・・・からだじゅうの皮膚はそれぞれ別の指令を発し、私は現象の波飛沫の中に埋没してしまう。私は、これらの感覚の餌食になって、生き、働かなければならない。p167
モロイ、あるいはモローズという男は、p168
結局、三人の、いや、四人のモロイがいたわけだ。p174
あのとき、私が私が息子を愛していたのと同じくらい、p182、回想するのか。
彼は報告を求めた。p182?
息子との関係??たいていの場合、ゆっくりと、いやいやながらという様子で答えるだけだった。p185
今夜は私の筆が拒み続ける。しばらく前から、すでに、この告白が私をさいなんでいる。p186、告白小説か
シットから遠く離れたとき、p186、住んでるところはシット
・・私は自分の部屋に入った。・・モランが出発の用意をはじめたのだ、p188、モランと私、これがこの小説を難しそうにみせる。
目だつということ、それが私のしていた仕事では、技術のいろはだ。あわれみの情や寛大さに訴えること、爆笑や嘲笑をひき起こすこと、p189
モロイの国に着くまで・・p199、バリー、バリバ、バリババp203、
神さまのほかに見ているものもないのを利用して、自慰もした。p221
私は男が地面にのびて、頭がどろどろになっているのを見た。p230、殺してしまったか?
息子が自転車を押して戻る。p235、 息子が自転車で立ち去った・・莫大な金を持ち出して、p244
ゲイバー・・姓モラン名ジャック、上記の者はすべての仕事を打ち切り帰宅のこと。p284
私は八月、遅くても九月には帰るよう命令を受けた。家に着いたのは春だったp251、家を出たのはその前の夏か
息子は帰ってきた。p266

超長編詩のような小説、 読み疲れた
モロイもモランも最後にはまとも歩けない。
モロイ=モラン

解説では、「ゴドーを待ちながら」を書いたのが一九四八年、「モロイ」も一九四八年、相似性は明らか。ゴドー同様の難解さがある。
Wikipediaでは、「ゴドーを待ちながら」一九五二年仏、「モロイ」一九五一年仏となっている。一九六九年ノーベル賞受賞。
川島健著「ベケットのアイルランド」水声社二〇一四年二月発行の年譜では一九四七年では 「モロイ」執筆開始、脱稿。一九四八年、「ゴドーを待ちながら」執筆開始。翌四十九年脱稿となっている。

学生の頃、ベケットのノーベル賞を知り「ゴドーを待ちながら」(ベケット戯曲全集一巻)を購入し、美工大の演劇部が公演したと思っていたのだったが、ノーベル賞の一九六九年は就職した次の年だ。
戯曲全集の発行は一九六七年十月、大学五年?の時になる。これは動かせないだろう。発行自体が話題になっての購入かもしれない。
「モロイ」はノーベル賞受賞を知り購入者したと考えるのが妥当だろう。
かなりの記憶の摩滅がある。

一九六三年四月入学、一九六七年三月卒業、一九六八年三月卒寮、一九六八年四月入社。 振り返ると
一九五一年四月小学校入学、 一九五七年三月小学校卒業、 一九五七年四月中学校入学、 一九六十年三月中学校卒業、 一九六十年四月高校入学、 一九六三年三月高校卒業


[2019年6月21日]
G・ガルシア・マルケス著「百年の孤独」鼓直訳新潮社一九七二年五月十日発行十四刷
アウレリャーノ・ブエンディーア大佐
マコンド 地名
ルキアデス ジプシー
ホセ・アルカディオ・ブエンディーア
その妻 ウルスラ・イグアラン
子供 ホセ・アルカディオ十四歳
アウレリャーノはこの三月で六歳
ドン・ホセ・アルカディオ・ブエンディーア ウルスラの曾祖父が手を結ぶ
ブルデンシオ・アギラル ホセ・アルカディオ・ブエンディーアに殺される。
ピラル・テルネーラ
ジプシーの娘
アマランタ産まれる。p26
〜p31
ピラル・テルネーラと長男ホセ・アルカディオの男の子、ホセ・アルカディオorアルカディオ
ピシタシオン グアヒロ族の女
レベーカ、ウルスラのまたいとこ、コトコト音のする信玄袋
カタウレ、インディオの娘
レベーカ、不眠病
ドン・アポリナル・モスコーテ、町長
〜p48
ピエトロ・クレスピ 技師、後にレベーカと婚約
アンパーロ・モスコーテ、レメディオス
マグニフィコ・ビズバル、ド・マルケスーアウレリャーノの友人
〜p64
ニカノール神父
アウレリャーノ・ホセ、アウレリャーノとピラルの子
子供が生まれるレメディオスの死
阿片チンキp71
とらぎす?p73
ヘリネルド・マルケス、マグニフィコ・ビスパル
アリリオ・ノゲーラ医師
ぼくはアウレリャーノ・ブエンディーア大佐です。 〜p81
アウレリャーノ・ブエンディーア大佐、十七人の女に一人ずつ子供を産ませる。いずれも早死
ブルーノ・クレスピ、ピエトロの弟
ピエトロ・クレスピ自殺p87
アルカディオ処刑p93
マグニフィコ・ビズバル大佐死亡p99
ローケ・カルニセーロ大尉p100
カタウレ、ピシタシオンの弟
〜p111
ローケ・カルニセーロ大佐、ヘリネルド・マルケス大佐p114
ホセ・ラケル・モンカーダ将軍p115
教師メルチョル・エスカローナ、サンタ・ソフィア・デ・ラ・ビエダの産んだふたご、アウレリャーノ・セグンドとホセ・アルカディオ・セグンドp116
レメディオス、小町娘のレメディオスp116
アウレリャーノ・ブエンディーア大佐の子アウレリャーノ、教父モンカーダ将軍、アウレリャーノ・ブエンディーア大佐の子九人
ピラルとアウレリャーノ・ホセに七人の子供、ピラルの家「わたしは仕合わせなの。みんながベッドで楽しんでると思うだけで」p120
カルメリーク・モンティエル
モンカーダ将軍「・・銃殺は自然死と変わらないんだから」「・・軍人を憎みすぎたために、彼らをあまりに激しく攻撃したために、そして彼らのことを考えすぎたために、連中とまったく同じ人間になってしまった・・・」p123
〜p126
マルボロウ侯爵p129
テオフィロ・バルガス将軍p130
アウレリャーノ・セグンド、ホセ・アルカディオ・セグンドp135
妻のレメディオスでさえ・・p136
サンタ・ソフィア・デ・ラ・ビエダ
リンパ腺の摘出手術、赤チンp137
自決?p139
〜p141
アウレリャーノ・セグンドとフェルナンダ・デル・カルピオの子ホセ・アルカディオ、p142
アントニオ・イサベル神父、ホセ・アルカディオ・セグンドp145、ペトロニオ
フランシスコ・エル・オンブレp147
情婦ペトラ・コテスp148家畜もどんどん増やす
金貨が詰まった等身大の象p150
アウレリャーノ・セグンドがフェルナンダ・デル・カルビオと知り合った。p152
アウレリャーノ・セグンドはフェルナンダ・デル・カルピを我が家に連れ帰る。 〜p157 ドン・フェルナンド、フェルナンダの父p160
アウレリャーノ・セグンドの長女レナータ・レメディオス(メメ)p164
フェルナンダ=フェルナンダ・デル・カルピオ・ブエンディーアp165
アウレリャーノ・トリステ、アントニオ・イサベル神父p168アウレリャーノ・トリンテーノ、シャーベッドの製造p171
機関車P172
〜p172 ミスター・ハーバードp174ジャック・ブラウン氏p175
レメディオスの死を呼ぶ四つの事件p181
アウレリャーノ・セラドル、アウレリャーノ・アルカヤp183
アウレリャーノ・アマドルp185
〜p187
墓の下のレベーカp191
アウレリャーノ・ブエンディーア大佐死す。
〜p204 パトリシア・ブラウンp209
レベーカより早く死ぬはめにならないようにp211
アマランタの死後九日め・・p215
マウリシオ・バビロニア、メメの愛人p216
マウリシオ・バビロニアの死p221
〜p221
ホセ・アルカディオ・セグンドがバナナ会社の労務者を扇動p224
メメは修道院に入る、妹のレナータは黄熱病で死んだ、労働組合のことで駆けずり回っている義兄、
ホセ・アルカディオ・セグンド連行、同志アルミオ・クルズを見たロレンソ・ガビラン、
ジャック・ブラウン、ダゴベリトフォンセーカ
キヤノンp228、軟性下疳の痛み、
スト始まるp228、カルロス・コルテス・バルガス将軍、エンリケ・ガルシア・イサーサ少佐
ガビラン大佐p231
3,000人の虐殺p232
〜p236
ヘリネルド・マルケス大佐の葬列p241
フェルナンダ、アルバ侯爵の養女、貴族の娘p243、ドニャ・レナータ・アルゴーテとドン・フェルナンド・デル・カルピオの娘p244
ヨナの妻p245、ヨナが出てくるか
十年間の旱魃が始まった。p248
〜p249 ペトロニーラ・イグアラン、祖母トランキリーナ・マリアマニアータ・アルコーケ・ブエンディーア、曾祖父アウレリャーノ・アルカディオ・ブエンディーア、父アウレリャーノ・イグアラン、信心深かった母、豚の尻尾のいとこ、死んだ息子p255
ウルスラは息をひきとった。p256
アルヘニダ、忠実な女中p257
ドン・アウレリャーノとは言わず、ドン・プロビデンシアp262
〜p264
サンタ・ソフィア・デ・ラ・ビエダ、美女レメディオスとホセ・アルカディオ・セグンドの産みの母p266
二グロマンタ、娼婦p285アウレリャーノの最後の友人、アルバロ、ヘルマン、アルフォンソAでガブリエルp288
ガブリエルp288の曾祖父はヘリネル ド・マルケス大佐p289、三十七番めの悲劇的な場面を求めて・・p289
ピラル・テルネーラ、数年前に百四十五歳p292
アルフォンソ、マコンドを去る。p296アルバロ、マコンドを去る。p297
アマランタ・ウルスラ死す、p304その子も
〈この一族の最初の者は木につながれ最後の者は蟻のむさぼるところとなる〉
メルキアデス

これはなんという小説なのだろう。
百年の孤独が、誰を指しているのだろうか思い読み進めたが、幽霊になっているホセ・アルカディオ・ブエンディーア、長生きウルスラでもない、百四十五歳まで生きたピラル・テルネーラでもない。マコンドに現れ消えていく一族を示しているのだろう、コマンドも。余りにもの性的モラルの欠如は、娼婦であれ妻であれ平等性だろう。
解説では、作者の幼児の体験、見聞でないものは何とか、信じがたいが。
現実的な要素と非現実的・空想的な要素との異和のない共存
大江健三郎が影響を受けたのは確かだ。

登場人物に同名もありわかりにくい一族の複雑な家系、ネットで「百年の孤独 相関図」を検索したら、それがあった。先に調べておけばよかった。

最近ではなく、若い時分にランボーの酩酊船を読んだときの印象を連想した。


[2019年6月6日]
牧野登著「史伝 西郷四郎」島津書房昭和五十八年八月二十日刊を読む。
西郷四郎は柔道小説「姿三四郎」のモデルといわれ、会津の出身である。
その実像を知りたいと思い、読もうとしたわけである。
父は会津藩士百五十石取りの志田貞二郎、会津若松生まれで成長は出会津藩津川で、現在の新潟県東蒲原郡津川町、現在合併して阿賀町である。
上京し、開設したばかり講道館に入門し、経済的理由から講道館の書生となった。身長百五十一センチメートルの小躯、メキメキ上達し講道館の四天王となった。当時上京するのに十日かかった。
気になるのはその後である。
加納次五郎外遊中に留守を預かる責任ある立場にもかかわらず、長崎へ出奔してしまったのである。
本誌の後半、長崎では国士のような活動で、周辺についての記述はあるが四郎本人については少ない。
下級武士(?)の子が何故家老西郷頼母(保科近悳(ちかのり))の養子になったのかは結論づけられていない。
かなりの書である。


[2019年6月6日]
ネットに「大江健三郎の初期、中期小説における(政治的人間)と(性的人間)の止揚」ー金沢大学大学院人間社会環境研究が人間社会環境学専攻 ブシマキン・ハジム
題名が面白そうなので読んでみる。性的表現がそれぞれの作品でどのような意味合いを持つのか、興味あるのである。
序論
(政治的人間)と(性的人間)の芽生えを本論文の前半で研究対象とする。
第一章 問題の所在と論文の構成
第二章 (政治的人間)人間の成り立ち
「最近になって村の上空を通過しはじめた《敵》の飛行機もぼくらには珍しい鳥の一種に過ぎないのだった。」(飼育)
大江におけるアメリカ人対日本人の意識を形作る要因に鳴っているのが、この対立は後になって、(政治的人間)と(性的人間)の対立に発展する。
第三章 (政治的人間)の先駆ーアメリカ人像ー
「飼育」「不意の唖」「人間の羊」「暗い川、おもい櫂」「戦いの今日」「後退青年研究所」
アメリカ人の存在は結局プラスに働くのであり、アメリカの文化、さらにはより広く、外国の文化の影響を受けることは日本人にとってよいことである。こういった点がこの一連の小説からえられるメッセージであろう。
この初期小説の(アメリカ人=強者)と(日本人=弱者)の関係は、(強者)と(弱者)という観点への移動を見せないそのまま中期の(政治的人間)と(性的人間)の関係に移る。
第四章初期小説における(政治的人間)と(性的人間)のモチーフの再検討ー「飼育」のロシア語訳を中心にー第五章それんの評論における(政治的人間)と(性的人間)のモチーフー「セヴンティーン」の評論を中心にー
これらの小説がブシマキン・ハジムのの得意分野で、この論文のメインだろう。
第六章 同時代における(政治)と(性的)ー三島由紀夫を中心にー
両作家の(政治的人間)・(性的人間)というテーマの捉え方が全般においても類似性が見出される。
(蓮實重彦の説話論的に還元できる・・ということか。)
異同点は、作家が主人公に対して現す態度に見える。グロテスクな誇張で小説を満たし内面を露出する大江は主人公に批判的に見える。三島は主人公の内面的なドラマに同情的に見える。

三島由紀夫の「憂国」、高校時代に「文學界」で読みそのエロチシズムに甚く感動した記憶があり、初出を確認すると、「小説中央公論」三号冬季号昭和三十六年一月である。 高校一年の時になる。中央公論、未だに信じ難い。
主人公竹山信二中尉とその妻麗子の自決を重ならないはずの乃木希典夫妻の殉死と重ねて記憶していた。 「憂國」だった記憶はまるっきりない。記憶は常に曖昧なのである。
ネットで調べると「幸福な若いギリアク人」(小説中央公論)の記載がある、これで小説中央公論を購入し読んだわけだ。

第七章 大江の(政治的人間)と(性的人間)の止揚ー「性的人間」と「セヴンティーン」を中心にー
私には「セヴンティーン」も「政治少年死す」もごちゃごちゃ。
(性的人間)と(政治的人間)を対立矛盾するものとすれば、止揚aufhebenがあり得る。 大江の定義「政治的人間は他者と硬く冷たく対立し抗争し、他者を撃ちたおすか、・・・ 性的人間はいかなる他者とも対立せず抗争しない。」は対立するものとしている。
第七章の結論では、〈政治的人間〉と〈性的人間〉は互いを必要としている。常に変化しつつある〈止揚〉である。としている。

ドクター論文を読むのも、ネットで読むのも初めてだ。かなり大変だ。

ブシマキン・ハジム氏の深化を期待する。


[2019年6月5日]
「空の怪物アグイー」新潮文庫で「不満足」を読んだついでに「空の怪物アグイー」「アトミックエイジの守護神」以外を読む。

「スパルタ教育」一九六三年新潮二月号
新興宗教から脅迫を受けているカメラマンの物語。
妻は妊娠中。
ヒカリ館、カメラマンの同級生。
ここにヒカリが現れる。
昨夜らい、去っていた恐怖の鳥はふたたび、かれの横隔膜に足をふんばって鳴きはじめていた。
妻は小ロビンソン・クルーソーを産む。

「敬老週間」一九六三年文藝春秋六月号
三人の学生が九十歳の老人の話し相手のアルバイトをする。
明るい社会の未来、戦争のない社会を語るが矛盾に落ち込んでしまう。
老人の策略でもある。オー・ヘンリー的どんでん返しの短編、愚作?

「ブラジル風のポルトガル語」一九六四年世界二月号
深い森に囲繞された紡錘形の窪地を見わたした。・・・その後小説に度々出てくる。
森林監視員はブラジル風ポルトガル語を話す。
五十人近くの集落番内がソックリがら空きになる。
エヒノコックス
大江は「旅」(昭和三十五年)にエッセイ「エヒノコックスとギリアク人」を書いている。内容不明。

「犬の世界」一九六四年文學界八月号
洋書店の雑誌売り場の・・・「個人的な体験」でも洋書店が、
ギリアク人とモロッコ人の家を訪ねあるいた時に、弟が現れたと東京に呼び戻される。
題名は理解しにくかったが、にせ弟がぼくら夫婦の家を訪れる。にせ弟は、妻の子供の頃、近所にいた犬ルッキー、最後には噛み殺されてしまう犬にそっくりである。
鰐足

大江健三郎の結婚一九六〇年
長男の出産一九六三年

「空の怪物アグイー」新潮文庫は図書館からの借り物、帰さなくちゃ。
これらの短編は読んだ記憶の小片もなく、「空の怪物アグイー」は雑誌で読んだか。


[2019年5月31日]
蓮實重彦と筒井康隆の対談(群像二〇一八年八月号ー同時代の大江健三郎)で、「「不満足」があるんです。あれはリアリズムすれすれのシュールレアリスム、あるいはシュールレアリスムすれすれのリアリズム、ああいうものがよくかけたなと思います。」とあり、
「空の怪物アグイー」新潮文庫昭和四十七年三月三十日発行、平成十四年十八刷改番、平成一八年十九刷を図書館から借りて読む。「不満足」(初出一九六二年五月号『文学界』)はこの文庫本のトップに掲載されている。
僕十六歳、菊比古十五歳、鳥(バード)二十歳
僕と菊比古は朝鮮戦争に狩り出されるを恐れるている定時制高校性。
精神病棟から逃げ出した「この世は地獄かどうか」を聴き歩く患者を探。 
口笛を吹き、その歌の言葉を頭のなかにシメジのような多数塊状にもくもうはびこらせながら・・・
・・網文様の赤靴に小さなめんどりがとまろうとしているようだ・・・
いんばい
シュールな感じは確かにある、 もっと注目されてもよい作品だ。
登場人物名は「個人的体験」に引き継がれているが、内容的に予感させるものではない。
徒労に終わる小説でその点は「奇妙な仕事」「死者の奢り」に通じる。しかし、暴力的である。


[2019年5月30日]
昭和文学全集第十六巻に「われらの性の世界」と 「死者たち・最終のヴィジョンとわれら生き延び続けるもの」初出一九七三年一月「群像「文学'73年と「戦後」(特集)」」(ネット調べ)のエッセイ二つが掲載されており、「死者たち・最終のヴィジョンと・・・」も選ばれたエッセイ考えられ読むことにした。
死者たち、原民喜、梅崎春生、三島由紀夫の三人である。
原民喜、一九五一年三月十三日深夜、《愚劣なものに対する、やりきれない憤り》が沸きたっていたのではないかと恐れられる。
往生要集
梅崎春生、(滅亡が、何で美しくあり得よう)、埴谷雄高は《われわれのなかでの最初の出発者として先行して行った》と。
三島由紀夫、文学者の戦争責任、結局は、かれの構想のこやしになるであろう・・・、われわれを公然と侮辱していた。


[2019年5月19日]
大江健三郎のエッセイ「われらの性の世界」、関心があったので、探すと昭和文学全集第十六巻に掲載されているのを知り図書館から借りる。底本は「大江健三郎同時代論集」昭和五十五年になっている。この論集は四あ巻までしか買ってなかった。
よく調べたら昭和四十年刊「厳粛な綱渡り」に掲載してあった。ネット調べの初出は一九五九年十二月「群像」


性的存在の現代における滑稽と悲劇的緊迫感
陰湿なキリスト教社会をてらす光輝にみちた教育家の太陽(ロレンス)
検閲狂と戦った(ロレンス)
性の快楽、性の太陽的側面よりは、性の情熱の強烈な悲劇的固執(ヘンリー・ミラー)
闇黒の生の苦慮の深淵のなかで、不安な躰と心をよせあって耐えている、みじめではあるが真摯なわれわれの生の姿(ケルワック)
政治的人間は他者と硬く冷たく対立し抗争し、他者を撃ちたおすか、・・・
性的人間はいかなる他者とも対立せず抗争しない。
政治的人間と性的人間とが相対立する二要素として、現代の人間の精神と肉体の宇宙を構成している
東洋の一国家が、単純にいえば安全保障条約のもとにおいて、次第に性的人間の国家となった。
保守という抽象的なるがゆえに強力となる魔力
ぼくがめざしたのは、いかなる通俗的な者の眼にも時代通念にすぎないとうつる思想や感慨をしか、自分の頭にうかべることできない停滞の底にいる青年、独創とまったく縁のない場所にいる性的人間としての、現代日本の青年をリアリスティックにえがきだすことにあったのである。 [2019年5月16日]
 お笑いの 又吉直樹が毎日新聞の夕刊に「人間」の題で半年間連載していたのが今日最終回。
若い芸術論の世界から最後は沖縄に帰郷し家族愛の世界。
模倣と批判されようが、太宰治のあの雰囲気の小説であって欲しかった。


[2019年5月14日]
江川卓著「謎とき『白痴』」新潮社一九九四年刊を古書店で三百円で購入したので読む。「謎とき『罪と罰』」「謎とき『カラマーゾフの兄弟』」は購入済み。
T 「美しい人」の屍p9
U 驢馬と「哀れな騎士」P27
V 「黒馬と緑の衣」p46
「黒馬」「蒼白い馬」p52
ヨハネ黙示録、ロープシンの「蒼ざめた馬」、五木 寛之「蒼ざめた馬を見よ」
W 白痴と狂人p64
緑色のベンチp60
富岡道子「ドストエフスキーとラファエロ・・・「白痴」に見る《システィーナの聖母》のイメージ』p122
X 生命の源泉と死の源泉p83
Y 「復活のナスターシャ」p101
Z 世界を救うのは「美」・・p120
[ ドン・キホーテの再来p138
富岡道子p143
富岡道子p144
\ 病める獅子の放浪p155
マタイ福音書二六章三十八-39節・塚本虎二訳p160
] ロゴージンの謎p174
]T 悲劇的の重奏p187
「白痴」を読んだのはかなり前になるが、意外にスムーズに読めた。ブログを振り返ったら、「謎とき『白痴』」を六年前に図書館から借りて読んでいた。

[2019年5月11日]
柳美里のTV番組を観て、鷺沢 萠を思い出し、「帰れぬ人びと」文藝春秋社刊を見返していたところ、装丁が大江健三郎の本を装丁している司修だった。


[2019年5月6日]
早川博信氏に薦められ、川上未映子作「夏物語」前編文學界三月号、後編文學界四月号掲載。
久しぶりのド私小説だ。
「」内は大阪弁の自伝的私小説(勿論、フィクション)で、巻子と緑子が大阪からやってくる、という第一部は芥川賞受賞作「乳と卵」の焼き直しじゃないのか。
巻子の働いているスナックは、大阪の笑橋(しょうばし)という場所・・・」p21、しょうばしは何処?
「・・夏ちゃん・・・」P33、主人公は夏枝、夏子??
「夏子と飲むなんか久しぶりやな」p58、主人公は夏子か。
p79に限らず、生理、月経の話はあちこちに赤裸々に書いている。
第二部は作家になりたての夏子。
「夏目夏子さんというのは、ペンネームなんですか?」p116
「・・いま北京オリンピックとかいってますがあれは嘘、ちょっとの人だけの話で、ほとんどの人はお金なくて大変、・・・」p71
「お母さんは、」緑子は絞りだすように言った。「ほんまのことゆうてや」p101
「十二月になり・・・・・」p156、季節の夏の物語ではなく、夏子の「夏物語」か。
「・・こっちに越してきてからは(銭湯には)一度も出かけたことがなく・・・」p157、三ノ輪時代、p37で銭湯に行っている。

後編文學界四月号
ツイッター、クソリプp25?、リプライ≒返信でつまらない返信のことだ。一応ツイッターをやっているのに知らなかった。
『まんこつき労働力』p48
「・・ああいう身辺雑記を書いたら小説家なんかはそれで終わりですよね。」p46
AID p64、この小説の主題である。どう展開するのか楽しみしていて、それがAIDだった。
「十人の子どもはぐっすり眠っている・・・」p105
「・・たった死んだくらいのことで・・」p122
夏子がAIDで出産することで、この物語は終わる。
登場する人物にはそれぞれ魅力がある、仙川さんは死ぬ必要があるのか。

登場人物、夏子、巻子、緑子、仙川、 逢沢潤、善百合子、

毎日新聞二〇一九年七月二十八日書評欄、鴻巣友季子評「夏物語」
「・・受精・着床・・・全過程を物理的にはほぼ女性だけが担うことの、暴力性と不均衡に対する違和感、懐疑、問いかけを・・・集大成的な作品・・」

川上未映子「夏物語」、第73回毎日出版文化賞 文学・芸術部門 受賞、「作家の渾身作に与えられた賞にふさわしいと思っていただき、うれしく思う」と喜んだ、あり。(毎日新聞2019年12月5日夕刊)


[2019年4月30日]
蓮實重彦著「大江健三郎論(新装版)」一九九二年青土社刊
とりあえずの序章
101361407981 minus 00758 plus all ・・
これは何だ?、考える必要はない。
ネットで調べたら、ノーマン・メイラーの「月にともる火」だった。ネットは便利だ。(月にともる火 第一部 4 最も偉大な一週間 山西英一訳p123、アポロ十一号の交信担当官とオルドリンの交信である。
「月にともる火」を読んだわけではない。この部分をチェックしただけ。
第一章が数の祝祭に向けて、となっているが、序章に数字が踊り狂っている。
確かに大江の作品は数字を強調している感があり、フィクションにリアリティを持たせるものと考えていた。
七つも家庭教師のくちを見つけた(見る前に跳べ)の七にはリアリティはないが。
著者は通常とは異なる入り口から論じようとするのである。

第一章 数の祝祭に向けて
律義なる猥雑さp14
群れ集うあまたの言葉たちが、・・素肌をこすりあわせ・・低いつぶやきのようなものを洩らしはじめる。p14律義なまでの生真面目さを奔放さと・・p15
ピンチランナー調書、ピンチランナーと調書の組み合わせ、独自ながら言葉の戯れ、二重の錯覚(限界を踏み外せにいる、)p15
お前たちのような選ばれることをこばむ言葉は、・・せかせかと走り回って疲弊していくばかりだ。p19
選ばれぬ言葉の宿命。
選ばれることー選ばれぬことp20
「思考の罠」捏造された虚構の対立。p22
「「批評」は・・「作品」の言葉がどれほど抽象的な虚構に汚染し、またその汚染によって文学をめぐる曖昧な申しあわせのかずかずをいかに強固に支え、汚染する自堕落さの蔓延に加担してしまっているかを明らかにすることもまた使命であろう。」p23
「・・選ばれたと自認する言葉のうちに改めて特権的なものと凡庸なるそれとの対立を捏造することで、幻影たる自分を完璧なものとする不断の分割装置として機能として機能する点にあるといえるだろう。p25
文学ー幻影ー装置p25
文学、捏造された虚構。言葉、選択と無視と排除。p25ー26
「ピンチランナー調書」、政治的な文学的実践。p27
特権的知識人たる高名な「作家」(この嫌味たっぷり書き方が、蓮實が大江に嫌われる要因でもあろう。)p27
読むことの政治=文学性は実践たらざるをえず、・・実践とは、分割装置の選択=無視=排除機能の具体的行使による境界線の捏造・・p28
持続する低いつぶやき・・倒錯的に文学と呼ばれる幻影に汚染・・倒錯的戦略性p29
拘禁される「作品」p31
読むこともまた言葉の体験である。・・芸術という恥ずべき称号を・・・「ピンチランナー調書」もまた、・・貧しい言葉の幽閉意識へと読者を誘うことしかしない不自由な小説にほかならない。p31ー33
・・みずからの生の条件そのものを、言葉にとっては過剰なる何ものかとして「作品」のしかるべき部分に波及させようとしていることが如実に触知しうるが故に刺激的なのである。p34
『ピンチランナー調書』には、こうした過剰なるものの荒唐無稽なるものへの潜在的資質が備わっているかにみえる。だから途方もなく刺激的な「作品」と呼べるのである。p36
数に導かれてp36
二、十八、二、九、一、38-20=18、9+1=10、・・五億=零p41
『ピンチランナー調書』が刺激的な貴重さをはらみ持つ「作品」である最大の理由は、来るべき遭遇に向けて言葉を組織しつつある言葉ならざるものの跳梁ぶりがそこに生なましく息づいているという点に尽きるといってよいだろう。p41

第二章 統合の無限連鎖
数の道化とその戦略p44
説話とは、話者が、しかるべき視点にたって、題材にふさわしく物語の諸挿話を取捨選択して秩序づけてゆくやり方であり、語りと呼んでもよいものだ。語り。p47
物語の時間と説話的持続とは重なり会うことがない。p47
主題体系ー継起的な連鎖にはおさまりがつかぬ戯れの場
主題、「作品」と「作家」との意識を超えた葛藤が煽りたてる言葉の渦p49


休憩
主題論的体系、説話論的体系、??が多いので関連書、「映画監督 小津安二郎」「映画からの解放 小津安二郎『麦秋』を見る」を読む。
その他蓮實関連の著書に目を通すが、「説話」「説話論」「説話論的」「説話論的体系」「説話論的な磁場」等を定義付けることができなかった。定義付けること自体、蓮實が否定することだろう。

過剰と欠落p50
『ピンチランナー調書』は、何よりも数的存在の冒険譚として始まっているのである。p50
大江的「作品」とは、何にもまして驚きの文学だp54
逸脱と迂回の構造p57
『奇妙な仕事』・・・薄気味わるさは、もっぱらこの短編の数的構造にあるといえる。p62
? 『死者の奢り』もまた、『奇妙な仕事』同様に数の物語なのだ。p63
(蓮實は『死者の奢り』は『奇妙な仕事』の二番煎じというようなことはいってないな。)
等号、または意味の短絡p64
『ピンチランナー調書』と『奇妙な仕事』とを同時に肯定するものこそが、主題体系の無方向な磁力なのだ。p64
等号=イクォール(蓮實流表現?)p65〜
九プラス九イクォール十八という等式の人を小馬鹿にしたような単純さ・・・おそらく大江健三郎が口にする想像力とはこの幾何学な単純明確さを確信しうる資質の事であろう。・・・等式の成立を確信しえない不自由な精神の苛立ち・・・荒唐無稽な滑稽さへ行きつくほかはないだろう。p67
第三章 荒唐無稽な綱渡り
個人的な体験?p73
だから『個人的な体験』とは、人がいかにして畸型の怪物を肯定するかという決断をめぐって語られる物語なのだ。p74、(怪物:@あやしいもの。ばけもの。A普通とちがっている人物。/明解国語辞典)
このような書き方が大江に嫌われる理由の一つだろう。しかし怪物は『空の怪物アグイー』からきているのだろう。
しかし、世界の読者は大江の「私」のまるっきり外にいるのだ。歴史上の人物(?)のようでさえあるのだ。
(怪物:@あやしいもの。ばけもの。A普通とちがっている人物。/明解国語辞典)
言葉をめぐる大江健三郎的姿勢のすぐれて個人的な畸型性が露呈しているという点にこそ注目すべきなのだ。p76
鳥(バード)が怯えているものは・・・《双頭の鷲》とかアポリネールの肖像写真といった比喩を介してしか想像できぬ自分自身の想像力の貧しさにほかならない。p78
頭蓋骨の数的な物語p79
四週間イコール七百時間、p90、=ではなく≒なので、ピッタリ合わせず、切りのいい数字を大江は優先するのか、 アフリカの地図が大きな意味をもつのがこの書で再認識される。
数の試練p87
雨中の乱闘という数の儀式は、改めて頭蓋骨の主題を「作品」の言葉の磁場に導入し、・・・p98
数は、・・・荒唐無稽な等号によってありえない二つの数を調和せしめる。できごと=事件とは、この荒唐無稽な等号の出現ぶりにほかならない。p99
軽業師の上機嫌p97
第四章 説話論的な葛藤
静的な数=動的な数p101 ロマン主義的な数の優劣p108
『個人的な体験』を通過して以後の大江健三郎は、世界認識の深化とか文学的姿勢の前進などといういっぱい、時間軸にそって計測シウル相対的な発展とは異質の、比較を超えたほとんど絶対的とさえよべそうな変容をを実現しているからである。p110
三と四の葛藤p116
過去になってしまったある事件に関して、自分は相手の知らないことをどれだけ口にすることができるのか。三と四の葛藤・・・「ーー本当のことをいおうか!」p126
二つの物語p123
第五章 記号のメロドラマ
選択の道徳性p129
「夜明けの百分間の穴居生活」p129
複数化する単数p135
物語の優位p143
記号=距離=解読p147
葛藤の物語=物語の葛藤p151
第六章 脆弱な仮橋を渡る
百は増大するp158
数の祝祭の実演p166
役割と交換p171
『万延元年のフットボール』においてさえ、向う側へと跳ぶことの勇気の不在がな、物語の説話的な磁力として機能しつづけてもいるのだろう。・・「選択の道徳性」を基盤としたメロドラマ性・・p173
定員一の世界p177
「歴史」とは、・・・時間の連鎖を体験的に生きることというほどの意味にとっておこう。p178
定員を超えることp182
物語の葛藤は、ひとつの定員をめぐってくりひろげられたものだったのだ。p184
弟が発した「本当の事」を、物語、言葉の歴史として組織していく兄の分節化の作業と饗応することで、はじめて「歴史」への荷担ぶりを立正することに鳴るのだ。P187
第七章 不真面目な後継者
定員一を満たすことp189
「曾祖父の弟の生涯を模倣することをめざして生きた鷹四の最後の自殺についてもまた、発見された曾祖父の弟のidentityの光は、鷹四がそれによってかれの『本当の事』の全体を、生き残る僕に誇示した壮絶な最後の冒険だったという新しい色彩に染める」p190
反復とは、自己同一性によって保証される再現ではなく、その否定の上に築かれる起源を欠いたできごとだ。p191
核時代の不等号p194
「歴史」は動かなければならない。「作品」もまた、動かねばならない。p194
たとえば 、核物質プルトニウムの汚染という事態が絶対化する数の優劣は、『ピンチランナー調書』における原子力発電所反対運動のリーダーで、「義人」と呼ばれる「百戦錬磨の実践家」が、「一種沈着な昂揚を浮かべて」口にする、あの「大きい風穴がドンと抜ける」さきにひかえているという「万世一系の天皇ファミリィ」のエネルギーが絶対化する数の優劣と同じ構造を担っている。p202
プルトニウムと「純粋天皇」の数学的構造における等価性である。p204
たった一箇の化石が、残りの骨の断片のすべての位置と機能とを決定するという意味で、単数が複数に絶対的に勝利しているという構造がここに認められるのだ。
p204 ・・周辺的・・だからこそ、父親の伝記は完成去れては鳴らないのだし、・・・p207
自転車と黒眼鏡p207
黒眼鏡のレンズ・・・自転車の二箇の車輪・・・p209
『月の男』をチェックしたら、「101361407981 minus 00758 plus all ・・」が書かれていた。
三つの氾濫を超えてp216
「二つの三角形」p223
第八章 終末論的言説の零度
二つの「役割」とインプロージョンp226
大木勇魚p226
自己同一性を放棄した二度目の存在であること。同時に二つの「魂」の代理人を自称していること。隣接する二つの円環が、二重に配置されていること。p228
・・いわば、「縮ミニ縮ンデ内圧ノ高クナッタ」数なのである。『洪水はわが魂に及び』の説話的な持続は、この内圧の緩慢な高まりと同調しつつ挿話を綴りあわせてゆくだろう。p231
内部炸裂のエネルギーp231
鯨の樹と自転車p237
「オマンコ一発ヤッテミマショウヨ!」p238
「一発」「一発」p224
一発から零へと向けてp242
お前と銃声p245
伊那子の「一発」と大木勇魚の「一発」とが、その主題論的体系の統御からの自由になった大らかさで、炸裂シテイルノダ。p247
荒唐無稽p251
あらずもがなの終章p252

『大江健三郎論』の参考書として『同時代ゲーム』『現代伝奇集』p253
第一手紙「燃えあがる恥毛のカラー・スライド」p254、「小さなゴミのような点」p255
荒唐無稽p264

構造主義、ポストモダーン、記号論をパスしてしまった私には難解であった。
言葉尻でなく、数字尻を捉え、切り口を数にしたように感じられるが、大江健三郎の作品を解剖し得ている。背景、作者の生活、思想性を考慮せず、書かれたもの表記されたものを冷静に読む、好ましい。但し、怪物には同意し難い。
上っ面だけ読んだに過ぎないが、私にとって「謎解き大江健三郎」である。


[2019年4月20日 物語批判序説]
蓮實重彦著「物語批判序説」中央公論社発行昭和六〇年(1985年)二月十日発行
拾い読みだ。
「T」
T 無謀な編集者の死
倒錯的な辞典p5
失望という記号p11
知とその物語p19
主題と知っていると思う。知は、物語によって顕在化し、また、物語は知によって保証されもするわけだ。p18
知るとは、知識という説話論的な磁場にうがたれた欠落を埋めることで、p20、知るとは、あくまで過剰なものと唐突な出会いであり、自分自身のうちに生起する統御しがたいもの同士の戯れに、進んで身をゆだねることである。p21
; ギュスターヴ・フローベールの『紋切型辞典』と口にしただけで、人は、すでに饒舌な説話論的な磁場に身を置いてしまっており、p31
U 引用、または書き写すこと
説話論的な磁場p23
・・論じようとしているのは、あくまで、知と物語との相互保証という現象が体現する同時代的な歴史性である。この二つのものの補完作用を基盤として形成された説話論的な磁場の構造を、・・運動として体験し・・その生成の瞬間に注ぐべき視線を組織すること。P23
説話論的な磁場は、どこか自然の環境を思わせもする。p24
知と物語とは、・・・相互補完的な関係をとり結んだのだろう。その関係が成立する以前に、人は説話論的な磁場など持っていなかったのである。p25
ある点まで歴史を溯行すると、・・・・説話論的な磁場がそこで唐突に途絶え、その向う側には、知に従属することで物語が物語となる・・p27
そこでは・・・・陥没点の欠落を充てんするという平均化の運動に従って、不断に説話論的な分節化を蒙っているからだ。p27
説話論的な磁場の生成と同時的に実践され、今日もなお反復されている失望という記号の生産に加担しえた無謀な企てが現実に蒙っただろう困難なり不幸なりを、自分自身の歴史性としてうけとめることから始めてみたい。p29
(大江健三郎の分節化とはなんとなく違うのがわかる。)
現代的な言説p29
語ることが知っていることに従属するのをやめてしまった時=空に形成される説話論的なの、その表層に不断に織りあげられては解きほぐされてゆく物語の群を、とりあえず、現代的な言説と呼ぶことにする。p29
・・説話論的な磁場には、現代的な言説の生成と消滅とを操作する体系がまぎれもなく存在している・・p30
フローベルは同時代の支配階級への憎悪・・・・・ブルジョア憎悪を口にする・・『紋切り型辞典』の積極的な側面を強調しようとする者は、必然的に『紋切り型辞典』の物語に閉じ込められてしまう。p31
スタンダール(1783ー1842)、フローベル(1831-1880)をへだてる七月王政期(1830年 - 1848)第二共和制(1830年- 1848)にかけてのほぼ二〇年が、現代的な言説を準備、一八五二年がとりあえずのひとつの目安、ブリュメール十八日・・反復的な笑劇・・p32
編集者の消滅p34
『紋切り型辞典』『ブヴァールとペキュシェ』
二人の善良な独身者すらがその編纂者ではない彼らはただ書き写し分類するだけなのだから、・・p42
V 芸術、そして芸術家
制度化する芸術
装飾家たちの代表に「皇帝陛下が美術と工芸との間にどんな違いがあるのかを」をたずねる。p44
芸術は、農業がそうであるように振興の対象とされねばならない。そうした善意の確信が希薄に共有されてゆくとき、その現象を、われわれは芸術の制度化と呼ぶ。p48
語彙としての「芸術」p50
・・新語・・・特権化と排除・・P51
流行語という現象は、説話論的な磁場に、特権化と排除という二重の運動を導き入れる。p54
流行という軽薄な現象を・・・物理学用語の「運動」だのを、政治家たちが軽軽しく口にする現実を必須の条件としているのだ。そうした現象に顔を顰めてみせることは、逆に、軽薄さが演ずべき説話論的な機能に対する敗北の表明の一形態というべきかもしれない。p57
流行語そのものは、単語としてとどまる限り、説話論的な持続に変容をもたらしえないからだ。p58
それ自身がひとつの流行語にほかならぬ「芸術」は、特権化と排除の運動をあたりに波及させる典型的な語彙にほかならぬからである。p60
「芸術家」の誕生p61
「芸術家」の物語が「芸術家」を生み落としたのであり、その逆ではない。
「芸術家」はもはや持って生まれた才能の問題ではなく、集団的な欲望の次元で語られるべき現象となったのだといえる。p69
W 流行から問題へ
語ることと真実p70
匿名性と芸術p86
模写と複製p92
説話論的な偏差p101
予言者と流行語の時代から大衆と問題の時代への移行を促すものは、・・ほとんど社会構造の変化として感知しえないほどのわずかな説話論的な偏差である。p101
一八三一年・・・・・写真術は、物語としてあくまで知に従属していたといってよい。p102
ダゲレオタイプは文字通り鏡そのものである。
カロタイプ方式のネガの反転焼付による複製装置は、それが流通する段階で、決まって被写体としての現実に先行するのである。p104
コピーは、もはや代理物とは機能せず、新たな現実として物語の起源となる。
私の見た写真も、あなたの見た写真も実によく似ている。・・・重要なのは、この類似なのであって、・・私の見た写真がその被写体と類似している否かではないのである。こうした、匿名の複数性相互の類似によって形成された説話論的な磁場というものを、ダゲレオタイプの強力な援護者たちには、理解しえなかったはずである。
誰もが自分と同じことを知っているということが発話行為を支えることになる。 予言者と流行語の時代から大衆と問こうした説話論的な磁場の変容が・・・・・そこに認められるのは張ってんではなく寧ろ断絶に近い現象・・P105
X 現代的な言説
抑圧と無意識p114
現代的ながら言説は、個人という「問題」をを説話論的な主題に刷ることなく充分にに成立しうる他人の他人の物語菜のである。p114
あらゆる無意識は説話論的な構造を持ったなのだ。P118
作家の誕生=作家の死p120
自分の問題を自分で語るのが作家たることの証であるというなら、現代的な言説は作家の誕生を禁じる言葉ぼ環境というほかはない。p121
とりあえずの秩序p127
説話論的断層と歴史p133
もっぱら物語と呼ばれてきたもの、それは、言語記号のしかるべき配置によって何ごとかをかたるという説話論的な実践の意味を持つ体験のすべてを総称したものだ。
物語の生産を制御する説話論的な磁場とはたんなる幻想領域といったものではなく、言語的な実践と同時に機能する具体的な装置である。p134
たとえば今日のマルクス主義の「問題」、あるいは「問題」としてのマルクスは、明らかに「流行語」の時代の言説とは異なった物語をかたちづくっている。p138
残された問題p140
「U」
T プルースト または遊戯の規則
屈託のない預言者たちp147
死の宣告=長い不在p158
長いこと=短いことp173
王殺し=物語の終りp184
U サルトル そして終焉の儀式
「大戦の終末」p196
原子爆弾の炸裂もたらした「大戦の終末」はこうして人類を「その可能なる死滅の発見」へとみちびく。というより、「もはや人類というものはない」というべきだろう。みずからの言動の永遠の証人としては、神も人間も存在しないのである。p201
終わり、あるいは説話論的な権利の行使p202
人は、二つの大戦・・同じ物語をかたっているのだ。・・サルトルは、そうした説話論的な構造の反復をそのまま容認しはしない。p204 その意味で、『大戦の終末』は一つの説話論的な権利の行使といってよい。
説話論的な権利に従って間近に迫った人間の死を予言することの自然さ、もちろん、物語の罠に陥ることの甘美さの同義語にほかならない。p214
完璧な言葉=不完全な言葉p217
外部と体験p223
終末と脅迫反復p230
「紋切型」と神経症p238
B ロラン・バルト あるいは受難と快楽
浅さの美徳p247
作者を救うことp263
犠牲者の言説p277
排除=廃棄=抹殺p293
終焉の儀式p304
超=虚構に身を投ずることの魅力をまったく知らぬわけではないが、説話論的な技法の安易な援用だけは避けておきたい。P304
無謀な編纂者の計画した『紋切型辞典』の項目は、百年後のいまも着実に増殖しつづけることになる。

大江健三郎の作品にフランス文学がほとんど引用されないのは、大江の近くにフランス文学の優れた研究者たちがおり、引用を躊躇したのではないだろうか、ただ、大江の場合、「引用」とはニュアンスが異なると思う。 専門家がい過ぎるためではないのだろうか。

蓮實重彦著「表層批判宣言」(ちくま文庫一九八五年一刷)を読もうと思ったが、
表層批判宣言
言葉の夢と「批評」

T 批評と夢
書くこと=けすこと
 たとえば「批評」をめぐって書きつがれようとしながらいまだ言葉たることができず、ほの暗く湿った欲望としての自分をもてあましていただけのものが、その環境としてある湿原一帯にみなぎる前言語的地熱の高揚を共有しつつようやくおのれを外気にさらす覚悟をきめ、すでに書かれてしまったおびただしい数の言葉たちが境を接しあって揺れている「文学」と呼ばれる圏域に自分をまぎれこまそうと決意する瞬間、あらかじめ捏造されてあるあてがいぶちの疑問符がいくつもわれがちに立ち騒いでその行く手をはばみ、そればかりか、いままさに言葉たろうとしているもののまだ乾ききってもいない表層に重くまつわりついて垂れさがってしまうのではだから声としてひびく以前に人目に触れる契機を奪われてしまうその生まれたての言葉たろうとしているたちは、つい先刻マディソン、自分が言葉とは無縁の領域に住まっていたという事態を途方もない虚構としての忘却死、すでに醜く乾涸びたおのれの姿をもはや郷愁すら宿ってはいない視線で撫でてみるのがせいぜいなのだが、そんなできごとが何の驚きもなく反復されているいま、言葉たるために耐えねばならぬ屈辱的試練の嘆かわしい蔓延ぶりにもかかわらず、なお「批評」をめぐって書きつがれる言葉でありたいと願う湿った欲望を欲望たらしめているものが、言葉そのものの孕む不条理な夢の磁力といったものであり、しかも、その夢のめざすところのものが、言葉自身による「批評」の廃棄というか、「批評」からそれが批評たりうる条件をことごとく奪いつくすことで、「批評」を抹殺し、無効とされた「批評」が自分自身を支えきれずに崩壊しようとするとき、かりに一瞬であるにせよ、どことも知れぬ暗闇の一劃に、人があっさり「文学」と呼んでしまいながら究めたこともないものの限界、つまりはその境界線を投影し、かくして「批評」の消滅と「文学」の瞬間的な自己顕示とが同時的に進行すべく言葉を鍛えておきたいという書くことの背理の確認であるとすれば、誰しも、おのれ自身の言葉の幾重にも奪われているさまに改めて目覚め、書き、そして読むことの不条理に意気阻喪するのもまたまた当然といわねばならぬ。p12
初めの一文がこんなに長いのである、読む気にならない。
江藤氏の想像力が「海」、大江氏のそれが 「森林」・・「航海者」と「狩猟者」・・・二人の言葉の類似ぶりはただごとも思えないだが、・・・才能の点で自分たちより遥かに劣っているはずのあまたの「批評家」や「小説家」たちといともたやすく馴れあって、薄められた「貧しさ」としての「戦後文学」のうちに埋没してしまう自分に無自覚だという類似であろう。p24
文化的な「制度」としての「文学」が・・・p34
「真理」は、葛藤を虚構化するのに最も都合のいい「制度」的な円滑剤なのであり、・・p69
問題とは、「制度」の捏造する具体性を装った抽象に過ぎず、・・p124
おそらく、大江健三郎がしばしば口にする全体性の文学とは、こうして捏造された諸々の重要な問題に、某欠いているかにみえる方向と意味とを回復し、しかるべき中心のまわりに配置されるべく階層的秩序を確立し、すべてを万遍のない構図におさめ、総体的な視野のもとに世界を眺め、また眺めさせる文学のことなのであろう。
きみきも、僕が リー・リー・リーとピンチランナーに声援を送って・・・・・きみ、今日の文芸批評の問題ではないのかい、ha、ha。
p125p126
ピンチランナー調書の引用にみえるが、パロっているのだ。
江藤淳と同一とかパロったりしているので大江から、嫌われている、ありそうなことだ。
あとがきp240
たぶん嘘だと思うが、この書物の中にその名前が少なからずひかれている現代日本のもっともすぐれた小説家は、目次に蓮實重彦の名前が印刷してあるのを見ると、その雑誌を即座に屑籠に放りこんでしまうという。
文庫版あとがき
批判を盲信する者が導き出す結論、それは豊かな性体験を性器の露呈と勘違いすることに似て退屈で醜い。p245
わかりやすい!


[2019年3月28日 小説から遠く離れて]
蓮實重彦著「小説から遠く離れて」日本文芸社一九八九年四月十五日発行
説話論的還元について、ネットでみる。
平野啓一郎:物語のパターンに容易の「還元」されてしまう小説・・
村尾茂樹:いったん作品の細分化、言葉の手ざわりといったものを遠ざけて、形式的な作品の「構造」を取り出す作業である。そうすると、井上、丸谷、村上春樹のそれぞれの作品が、「宝探し」という還元されることがあきらかになる。ここで、物語と小説とはまったく別のものであるということが確認される。
山下晴代:「説話論的還元」とは、私なりの解釈では、紋切り型ということである。
東浩紀:説話論的還元で全然OKですよね。説話論的に還元されるからこそ人は読む。
そんなにシンプルでいいのか。

T世紀末的な恍惚に導かれて
説話論的な還元、変奏の多様性がかえって説話論的な構造の同一性をきわだたせてしまう・・p9
一篇の小説は決して物語決して重なりあうものではなく、p10
われわれがくり拡げようとしているのは形式の問題であり、文体だの思想だの・・無視することにする。p11

]]中継点としての長編小説
・・物語は・・前衛的な特権者の犠牲的な代弁者を語っていることになり、・・小説とは、その無根拠性において、反=前衛的なものであり・・p292
作家が作るのは芸術作品などではなく「交通」の装置なのであり、P293
・・成果をあげているとはいいがたいにせよ、大江健三郎の『懐かしい年への手紙』が目差しているのは、断じて自作に対する補足的な付加の試みではなく、みずから「交通」の装置となることで、言葉に文脈の踏みはずしを惹起せしめようとする秀れて小説的ないとなみなのだ。P294
われわれが何度でも同じ長編小説を読みうるのは、変容しつつ作動する装置がそのつど別方向に言葉を再分配しているからにほかならず、p294
偶然に同じ物語を語ってしまうことがしばしば起こりえても、偶然に同じ小説が係れることはありえないp294


[2019年3月28日 闇の中の男]
早川氏が衝撃を受けたという、ポール・オースター著「闇の中の男」柴田元幸訳新潮社二〇一四年五月三十日発行を読む。
早川氏への感想である。

早川様
「闇の中の男」読了。
久しぶりの最近出版の小説を読んだ。
小説はフィクション、虚構であり、更に小説の世界で内戦状態のアメリカ、パラレルワールド、虚構を描く。
興味深い構造である。
「自転車泥棒」等p18が取り上げられ、「大いなる幻影」「大樹のうた」は観てないので、観てみたい、「自転車泥棒」 ももう一度観たいと思う。
小津安二郎「東京物語」p91について、数ページわたり書かれている。
蓮實重彦に関心があり、蓮實重彦著「監督 小津安二郎」読んだばかりなので、 小津安二郎が国際的であることがあらためて認識させられる。
パラレルワールドと現実がどう交わるのかと期待したが、 オーエン・ブリックがオーガスト・ブリルの暗殺を試みる前に銃撃を浴びて死ぬ。p146
交わることはない。
「私は咳払いし、一秒後にはまた咳き込んで、・・・煙草をやめろ。そんなことはできるわけはない。・・」p158
初めに出てくるレンブランドの子息ティトゥスにちなむタイタス、 その凄惨な殺され方、小説とはいえ吐き気を催す。
イラク問題、ナチスドイツも書かれ、社会性は大きい、だれもが社会問題から逃 れることはできないのだ。
最後の「けったいな世界はころがっていくのよね」p224は現在のアメリカを明示して いるものであろう。
自伝的な部分もあるようで、ポール・オースターを読み続けている読者には理解できることなのだろう。
今のトランプ政権のイスラエル寄り、逆に反ユダヤ主義を広げる不安を感じる。


[2019年3月 19 日]
「群像」二〇一八年八月号
対談:蓮實重彦×筒井康隆「同時代の大江健三郎
ずっと大江健三郎の時代だった
蓮實:わたしたちは、まぎれもなく「大江健三郎の時代」を生きているのであり、
筒井:「ずっと大江健三郎の時代だった」というのは、あくまで私個人のことなので、
蓮實:私は少し目上の方・・大江さん・・山口昌男さん・・井上ひさしさん・・年齢的に若干上の世代の方々に絡んでやろうという、やんちゃな次男坊的な役割を自分にあてはめて一時期がありました。
筒井:荒唐無稽、『同時代ゲーム』は最高傑作
筒井:「政治少年死す」、主人公は英雄的に書かれている。
筒井:何で大江さんが戦後民主主義を擁護するのか、私にはいま一つわからない。
蓮實:ユマニスムの精神というものを、戦後日本の民主主義の中に探り当てようとしたのが大江さんなんだと思います。
蓮實:「九条の会」などという私の理解を遥かに超えた組織に入っていらっしゃいますが、・・・そうした政治的立ち位置とはまったく無縁に、大江文学はやはり偉大なんです。
筒井:「大江さんがやる独特の文学の不快さ」
蓮實:何かしら甘美で風俗的に身近なものを文学に求め始めるという傾向が村上春樹いらい・・
蓮實:大江さんが「私は弱ってきたら最後は詩を書くだろう」・・・・いまさら詩なんか書かれたら私は許さない、
筒井:私は詩というのは否定していますから。
筒井:『同時代ゲーム』の後は、ずっと全部読んでいるんですけど 、何か読み飛ばしているような気がするんです。
蓮實:『取り替え子』『臈たしアナベル・リイ 総け立ちつ身まかりつ』『水死』

この対談で、大江健三郎と蓮實重彦の関係がわかってくる。
「大江健三郎全小説」全十五巻、刊行記念の対談で悪口はいわないわけでもあろうが。

ひさしぶりの「群像」、李 恢成が連載しているのだ、石原慎太郎も。鳥居がエッセイを。


[2019年3月 19日]
「映画監督 小津安二郎」より説話論についてわかり易い本があると言うので、「映画からの解放 小津安二郎『麦秋』を見る」河合ブックレット14河合文化教育研究所一九八八年を読む。
河合塾の予備校生を聴講者とした講演内容でわかりやすい。
河合塾としてはあまりその名を口にしたくない作家が一人いるわけです。・・僕はその人を軽蔑しているわけです。p8
(大江健三郎のことか、故に「『表層批評宣言』であったか、大江が雑誌を見ていて蓮實の名を見つけるとゴミ箱へ放り込むという文章を見た蓮實が・・」(小谷野敦ブログ)、ということもあるわけか。)
「表象文化」・・あること示そうとする場合、そのもの自体は使われないで、必ず何かが代行的にあるものを表現するために使われるということです。p10
「いかに映画から解放されるか」ということが、今日の主題となるわけです。p14
映画の題材となっているものの中に流れているはずのじかん、これが映画の「物語」・・三ヶ月なら三ヶ月でもいい。p44
一時間五十分(映画で)と決まっているここのものを、・・一応「説話論的な持続」という面倒くさい言葉を使っています。p45説話論的な持続というのは可視的なもの・・・説話論的持続というのは上映時間が決まっているいう形で、・・p45
「「かわいい」という言葉を使う人は、大体みんな保守的かつ反動的な人です。・・・・とにかく形容詞というのは、非常によくないものです。p55
小津映画の実験性ー文法無視のあたらしさp56
「家と同じような家で・・小津の映画の場合ではうまく大和に引っ込んでくれた」p63、大和??
アクションつなぎの(カッテング・イン・アクション)意外性p65
「皆さんと一緒に考えてみましょう」・・それは多分、嘘だと思います。p78

解放としての倒錯性 石原開
ジョンフォードの『駅馬車』・・インディアンによって放たれる矢はすべて馬だけは避けて通り・・「不自然さ」(=「出鱈目さ」)を解放・・・蓮實氏が「倒錯的な戦略」と呼んでいるもの・・p97
第二帝政期(一八五二〜一八七〇年)以来感じ、誰もがすでに知っていることを確認しあうために物語るようになり、物語を通して知っているものしか知ろうとしない「説話論的な磁場」が形成されたと、説話論的な構造の変容について述べている。p98


[2019年3月 15日]
蓮實重彦の説話論と主題論の意味合いがわからないので、「監督 小津安二郎」ちくま学芸文庫一九九二年発行(一九八三年筑摩書房より刊行、もとはカイユ一九七八年、フィルムセンター一九八一年、映像学一九八一年、ユリイカ一九八一年)を読む。
(pは二〇一六年発行 増補決定版)
〇対立が融合へと向う運動、それが真の意味での小津の物語だ。この物語を、個々の作品の画面の連鎖を支える物語と混同しないために、説話論的構造と呼ぶことにしよう。そしてその構造が、一貫した持続として物語を異質の領域へと移動させる意義深い細部を主題と呼んでみたい。p046
〇・・ハンガーストライキという思いがけない手段で表現するにいたるという説話論的な必然性・・p055
〇この作品の説話論的な持続は、明らかに食べること、あるいは食べないことの主題をめぐって文節化されているのである。p056
〇青空のもとで食事することがたやすく想像させがちな開放感の的確な表現である以上に、説話論的な持続と主題論的な体系との甘味な同調ぶりの上に築かれた純粋に映画的解放そのものである。p057
〇外部から内部へ、あるいは内部から外部へと移動するとき、そこに何ごとかが起こるのであり、その何ごとかが、悲痛であったり滑稽であったりするというのが、小津安二郎の説話論的な特質と呼ぶべきものなのだ。p066
〇食べることはあくまで食べることになってしまう。・・同時に食べることならざるものとして起こっているときに、われわれは深く動かされる・・フィルムの断片の上に共存しているこのこの二つのものが、三つ四つと複数化されてゆくとき、スクリーンには豊かな意味作用の磁場が形成される。そこでは、主題論的体系と説話論的構造とが無方向に戯れあい、画面の連鎖を一つの物語に還元することをさまたげているのだ。p071
〇ここで重要なのは、衣裳そのものではなく、着換えることという身振りが説話論的な網状組織に波及させる主題論的な振動だからである。p075
〇着換えることという身振りが説話論的な網状組織に波及させる主題論的な震動だからである。p075
〇・・グレイの背広を身にまとって葬儀に参列・・縁側に腰をおろして墓石のつらなりに瞳を向ける・・小津の衣裳の主題体系が導きだす一つの必然・・p078
〇・・喪服・・墓石のつらなりに瞳を向ける・・小津の衣裳の主題体系が導きだすひとつの必然・・p078
〇・・着換えが大がかりに反復・・小津的な世界に、そうした説話論的な要素を介入させるにとどまらず、その空間的な 表情に一つの一つの主題論的な磁力を導入する契機ともなっているのだ。p097

「説話、広辞苑に@はなし、ものがたりA神話・伝説・童話などの総称・・とある。本書では、映像には存在しない、対立でない融合、食べることに対する食べないこと、階段、二階などに関するものがたりを意味するようだ。」

〇衣裳は、まぎれもなく説話論的な機能を演じているのだ。p092
〇着換えることの主題・・・・階段をのぼることの主題・・・p097
◎『戸田家の兄妹』・・革命幻想・・p123
〇小津の説話論的な構造は劇的な要素の排除の上になりたっている。p139
〇宙に浮かんだ空間が上昇という通過者を排除したが故に、「作品」の説話論的持続がその運動の契機を見失ってしま・チたのだ。p132
〇一篇の作品には説話論的な構造に同調したりさからったりもするいま一つの体系が存在する。それは画面の継起的な連鎖を超え、時間軸とは異質の領域で交錯しあう意義深い細部の表情といったもので、それをこれまで主題的な体系と呼んできたのだ。・・想像力を解放する場こそが主題論的な体系・・p140
〇・・小津の主題論的な体系がどれほど豊かなものであるかを感じとってみたい。それは、小津安二郎的な「作品」における壁の主題、視線の等方向性の主題の変容をあとづけ、その運動ぶりが抑制や洗練化といった神話をあからさまに嘲笑するものであることを確認することでなければなるまい。p142
〇主題論的な体系とは、選択可能な細部の潜在的な貯蔵庫ではなく、あくまで顕在的で、複数たることを容認された断片の群が戯れあう運動として生きられるものだからである。p145
〇・・『早春』・・『秋日和』・・断片・・主題論的体系なと呼んでいるものは、こうした遭遇と連帯・・p145ー146
〇庭とは、説話論的にも主題論的にも不在の空間である。p170
〇視線とその対象とが連続するショットとして示され、その因果関係があまりに明白であるとき、小津にあっては、必ず説話論的な事件が導入するされる。それは、別れであり、死であり、家族の崩壊である。p176
〇小津にあって特徴的なのは、こうした説話論的な凝縮現象が、その緩和現象ともいうべきものと親しく共存しあっているという点にある。p190
〇・・並んで立つ姿勢を崩さなければならない。そうした息苦しい思いが、こののどかであるはずの田園風景に一つの緊張感を導き入れる。この説話論的な凝縮現象が、・・p194
〇・・・・説話論的な持続から置いてけぼりをくわされた自分自身を発見して深くため息をつく。p200
〇いうまでもなく、ボートの転覆の直接原因が記念撮影であるはずはない。だが、説話論的な水準にあっては、明らかに記念撮影が死と別れの主題を導入しているのである。p205
〇記念撮影によって具象化される別離の主題論的な体系と、作品の説話論的な構造との関係が、現実とは転倒した象を結んでしまう・・p208
〇・・階段の主題と記念撮影の主題が・・一方は、二階と一階というより空間的な構造から導き出され、いま一方は、動くことと立ちどまることをめぐる運動の導き出され、いずれも、説話論的な持続を切断して物語を終わらせる役割を演じているのである。p212
〇繊細でありながらも大胆な小津の画面は、季節的な修辞学の抒情に湿ることは決してないし、その説話論的な持続は驚きたいというフィルム的欲望を置きざりにする。p223
〇小津が白昼のシネアストだというのは、それが晴れた日の暑さを説話論的な細部として必要としているというほどの意味にすぎない。p234
〇『浮草物語』に対して『浮草』・・『晩春』に対して『秋日和』・・だが、両者の人間関係を代置し交換しあってみると、そこにはほぼ主題論的な体系と説話論的な構造とが浮きあがってくるのだ。p238
〇・・石庭の、その石のイメージと壷とが饗応しあって・・・・壺の画面が担うこうした説話論的条件は、・・p325
〇・・父と娘が・・枕を並べて眠りにつくという点はあくまで例外的なのである。主題論的にいって、これはきわめて特殊なことだとさえいうべきだろう。p330
〇問題の画面を「壺の画面」と呼んで説話論的な持続から孤立化することがどれほど不自然なことか明らかだろう。p334
〇・・複数の視覚的情報は、説話論的な持 続を中断する「非=中心化」の機能を演じていないばかりか、説話論的な持続を分節化する機能を担ってさえいるのである。p334
自転車泥棒p303

説話論、主題論の語句が出てくるところをメインにメモったが、なんとなく感じるところがあったが明解には至らない。
小津安二郎がどう考えどう作品にしたかではなく、作品をどう見るか(蓮實流に)である。
説話論的構造、主題論的体系、蓮實独自の概念ではないのか、自分の概念で自分を語るってのには?。こんなことを書く自分の浅学非才を身に沁みる。 しかし小津作品の魅力を教えてくれるものであり、ビデオで見たくなった。この著書のような見かたはできないと思うが。
蓮實は一貫して、観るではなく、見るとしている。


[2019年2月 翻訳について]
早川氏のブログに対するコメント
貴兄が感想を述べている『Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち』は読んでいませんが、翻訳には関心があります。
外国文学をすらすらと読めれば、翻訳は必要なくなりそうだが、そんなわけにはいかないのが現状。
英和辞典を見ただけでも、一つの単語に多種の意味が書かれており、小説においては更なる深さ広さのある意味合いがあり、翻訳には畏敬の念を抱いています。まして詩であれば神技です。

翻訳本は読んでいても読み取っていない不安を感じますが、日本文学にしても繰り返し読むと味わいが異なってくる。
種々の読み方があるように、翻訳小説に関しても複数の訳があっても差し支えないはずだ。
複数の読み方があるように複数の訳があっても差し支えないはずと考えています。

翻訳で近年話題になったのは、 亀山郁夫訳の「カラマーゾフの兄弟」、誤訳も指摘されていますが、最新訳で書店で平積みされている。
私にとっては米川正夫訳、原卓也訳がなじみに深いのですが、米川正夫訳を書店では見ることがない。
古い訳本は、欠点もあるだろうが、新訳に駆逐されてしまうのだろうかと思います。なお、亀山訳は読んでいません。

比較的最近、ハーディの著作を読もうと思い、学生の頃英語の授業で教壇に立ってくれた大沢衛先生を思い出し、大沢先生訳の「帰郷」を読もうと思っても、書店では見つからない。
結局は図書館から借りて読んだわけである。
(ネットで購入すればないわけではないのですが)
授業で学んでいたとき、ヒースの荒地はてっきりスコットランドの風景と思っていたのが南イギリスだったのは、全く記憶はいい加減なものです。
古い訳本は消えてしまうのかさびしいものです。

最近とはいっても10年以上前ですが、話題になった訳本は、既に読まれてたと思いますが、サリンジャー作「The catcherin the rye」の村上春樹訳「ザ・キャッチャー・イン・ザ・ライ」白水社2003年刊です。
既に野崎孝訳「ライ麦畑でつかまえて」1964年刊(白水社)、新書版は1984年刊があり、これと比較されたことは記憶に新しいことです。
題名については原作が「The catcherin the rye」であることから、野崎訳より村上訳が正確といえましょうが。
「ライ麦畑でつかまえて」も作品の中で関連があり、場違いなものとはいえないものです。
作品中、I'd just be the catcher in the rye and all.を村上は「ライ麦畑のキャッチャー、僕はそういうものになりたいんだ。」(村上は親切に注に書いている。)
一方、野崎は「ライ麦畑のつかまえ役、そういうものに僕はなりたいんだよ。」と訳している。
しかし、大きな違いは野崎訳ではしゃべりまくるような文体なのに、村上訳では話す、あるいは日記のような感じかと思います。 野崎訳に馴れ親しんだ人にとっては違和感を憶えたかと思います。
作品が書かれ、完成し刊行したのは1951年、その時代の雰囲気を考慮にいれるか、時代を超える普遍性を考慮するかによっても変わるでしょう。
スマホのGoogle翻訳で「The catcher in the rye」が「ライ麦畑でつかまえて」となるのには笑ってしまいます。 マイナーなアプリでは「ライ麦の中の捕手」です。
村上春樹の「風の歌を聴け」が芥川賞候補になった時、選評で、井上靖ら他の選者は触れていませんでしたが、
丸谷才一は「・・アメリカ小説の影響を受けながら自分の個性を示さうとしてゐます」、 大江健三郎は「今日のアメリカ小説をたくみに模倣した作品もあったが、・・」と書いており、 村上春樹訳がなまなかのものではないと考えています。
村上春樹訳は単行本に解説を書くことサリンジャーから拒否されてますので、雑誌「文学界」に解説を書き、そこに「・・・新訳の依頼を受けたとき、野崎氏の翻訳をそのままのかたちで残すという前提で、喜んで引き受けさせていただいた。」とある。

サリンジャーについては高校時代には知らず、大学の大場先生の英語授業でサリンジャーの「A Perfect Day for Bananafish」を習ったときが、はじめてです。
大場先生がニコチン中毒であることは憶えていますが、先生の下の名前は憶えていないのが残念。


[2019年2月24日]
今期の芥川賞受賞作「ニムロッド」上田岳弘を読む。
IT企業(というよりサーバー管理会社か)に勤める僕、サーバー、ビットコイン、・・私の知らない世界、ノンフィクションのように進み、僕、ニムロッド(二室)、田久保紀子、三人の関わり合い。IT世界同様、人間は孤独であるということか。
僕=ニムロッドかと思っていたがそうではなかった。
上田は新潮新人賞、三島由紀夫賞受賞、ベテラン。
「1R(いちラウンド)1分30秒」町屋良平
ボクシングの世界を詳細に描かれ、そこに燃えるあるいは挫折しそうな青春がある。
氏は文藝賞を受賞している。
僅かだが両作とも性的行為の場面がある、それがないと表現できないのか

両作ともその分野にしっかりした知識があり、それが作品の完成度を高めているように思える。フィクションであるのでその必要はないのかもしれないが、そこに間違いがあったら作品として破綻してしまうだろう。
ニムロッドは背景が現在的であり、IT技術が変わったらどうなるのであろう。
両作とも読者を驚かす作品ではない。


[2019年2月8日]
ユナイテッドシネマで映画「翔んで埼玉」の予告宣伝をしていたので、漫画「飛んで埼玉」魔夜峰央作を読む。作者は一九五三年生れ、一九八二〜三年に「花とゆめ」に掲載された作品である。
埼玉を「いじる」作品であり、奇想天外、荒唐無稽。
このようなことを描けるのが漫画の世界、是非とも映画を観る。映画は実写である。


[2019年1月27日]
毎日新聞の日曜版に池辺晋一郎が、
「ベートーベンの「悲愴」は重く、ショパンのワルツは甘く。「重いといっても グラム単位で数値化されているわけではないし、甘さも糖度では示されない。音 符の連なりや調性、楽器の絡みなどから読み解きます。この曲は明るいのか、太 いのか細いのか。音符は単なる符号ではなく、尾庵額まとう空気までをしまって いるもの」。暗号を解読するように音を再現するのが、演奏の楽しみだ。」と語っ ている。
[2019年1月7日]
「叫び声」講談社学芸文庫(ルビ付き)一九九四年七月二二日第二刷(初出、一九六三年一月講談社刊)
本は前から順に読んで、最後に解説を読む。このパターンできたが、今回は解説類を読んでから本文を読む。
著者から読者へ「最初の人生の難所の思い出」大江健三郎p211
「・・このように小説を書きつづけることで、自分は、この自分自身の人生を、一体なんのために使おうとしているんだろう?」
この作品の翌年「障害を持った長男の誕生」

解説「誰かひとりハルカナスクイをもとめて叫び声をあげる時」新井敏記
第一章 小さい頃の神様
第二章 愛する女のようにかなえてくれそうな夢
第三章 悲しい優しい滑稽な話
三人の高校生の短編小説である。

「叫び声」
僕は二十歳の学生で梅毒恐怖症、虎はハーフ(母親はいま奥只見の山奥でマタタビの実を採集してくらしていた、)で十七歳、アル中状態、呉鷹男十八歳は朝鮮人でオナニイの熟練者。
猫、ロビンソン
虎、アフリカへの希望が消え、アメリカ兵の外套と靴を履き玩具の自動小銃抱え、警官と憲兵に撃ち殺される。
呉、強姦し、殺してしまう夢に苛まされる。
「・・僕は漠たる恐怖からのがれることができなかった。恐怖といってもそれが僕の意識のなかの荒野を雨季の川のように黄色く暗く轟々とつねに流れているのではなかったが、・」p9、こんな文章が私を酔わせるのである。
珸瑤瑁水道p28
「・・死刑というのは処罰だからね、償いではないからね、・・」p183
小松川事件(一九五八年)の李少年、大島渚監督の「絞死刑」があったのも記憶にある。
第五章の後半、「僕」はダリウス・セルベゾフを訪ねてパリに行く。惨憺たる貧乏旅行なのだ。
毎日新聞一月十日朝刊の余録に、兼高かおるの訃報に関して、渡航制限時代の一九五九年 の外貨持ち出した限度額は一日あたり十七ドルと書いてある。
一ドル三六〇円で換算すると六一二〇円、貨幣価値が異なるが、貧乏旅行は現実である。