瀬戸内晴美に対して愛読(?)に行かないまでも時たま読んでいた。 その激しい女性のどろどろを描く瀬戸内晴美をかっていたのに仏門に入ってしまった。宗教に助けを求めるようになったのか、あのどろどろから逃げてしまったと思い、急速に関心を失ってはしまっていた。 瀬戸内寂聴著で「諧調は偽りなり」を二〇一七年二月一六日岩波現代文庫から出したので、女のどろどろをいまだに抱えているぞと思い、読んでなかった「諧調は偽りなり」を読んでみることにした。 野枝はブスだブスだといわれており(?)、伊藤野枝全集の写真を観ると、そうではないだろうと考えていた。 色の黒い目の大きな、魅力的な方でございましたよ。p29、薄汚いような感じで、だらしない風・・・p34、活々とした、充実した、肉の豊かな、それで居て理知に富んでいる顔・・・p81 大杉栄が惚れたんだから、かなり魅力ある女性だったんだろう。 写真の中の野枝の眼はキラキラしている。 知らなかったが、エンゲルスは二十カ国語でドモッたが、大杉は六、七カ国語ドモッたようである。p98 化学工学の平井先生も英語をドモッてでいた。 「所謂左傾した作家という連中の小説は、どうしてああ退屈なのだろう・・・」p170大杉はそんなことをいっていたのか。 原敬が殺されたのを知った時。「遣ったのは子供なのだね」と沈黙したそうだ。p175
読み進むのに分かり易いように事件と発生年を記す。
「諧調は偽りなり」下を読む。
「平気でうそをつく人たち」の関連で香山リカの『<私>の愛国心』をチェックする。 二〇〇四年出版のちくま新書、いやあ何も覚えていない。 石原慎太郎は「自己集約」型(吉田司)、即ち少数者をかまってはいられない。p31 自分以外はみんな「バカ」p41 「自分はバカではない=「負け組」ではない」と自己確認p71 "他人事感覚"→「解離」p81 内的不安の打ち消しや自己肯定の欲求→他者の攻撃や排除p90 小泉の憲法理解→断片化し、記憶や意志、自己連続性が失われる→「解離」p117 境界例者(?)→「黒か白か」、「考える前にとにかく行動」p149 現代社会→境界例→左右二分型スピリットp159 「ぽち保守」p159 自分の内部にある不安や弱さを見ないようにするため→「昔からあった日本の伝統を大切にしよう」「日露戦争当時の誇り高き日本を取り戻そう」p163 「壊れた帝国・アメリカ」p173 状況は更に極端化して、トランプ、安倍晋三になってしまった。この著書は残念ながら現在も有効なのである。
解説で
その後、香山リカは「がちナショナリズムー「愛国者」たちの不安の正体」を二〇一五年に同じ筑摩書房から上梓している。
「愛郷心」にしても「愛国心」にしても、それは生得的に備わっているものではなく・・・」p113
カズオイシグロについてのTVを録画したのを観る。 「カズオ・イシグロをさがして」の題で2011年6月に放映されたのが12月9日再放映され、それを録画したものである。あの震災の年に放映されていたのだ。 今年のノーベル賞受賞まで、カズオイシグロについては全く無知で、TVを観て奥深さを知った。 何せ、「日の名残り」を読んで、他の作品も読みたいと思った作家なのだ。
カズオイシグロは「記憶」の作家で、次元が異なるだろうが、我思うゆえにわれありで、自分が古い体験、人間関係とうについて考える、そこに自分が存在することは確かだ。死後どうなるのか、家族あるいは他人が亡くなった自分について考える。
カズオイシグロがノーベル賞を受賞したので、一作くらい読んでおこうと思い、どの作品にするか悩んだが、結局映画にもなった「日の名残り」を読むことにした。 ファラディ様、ご配慮、だったと存じます・・という敬語で語られ、アキバのメイド喫茶を思い浮かべてしまった(入ったことはないが)。 執事が一九二〇、三〇年代を振り返る小説である。 執事、少年の頃読んだ江戸川乱歩の小説で触れ、しつじかひつじか、東北訛りの少年には不思議な存在であった。 今(一九五〇年代)はアメリカ人の所有になっている名家ダーリントン・ホール(貴族の館)の執事スティーブンスの独白体である。 この小説が出版されたのは一九八九年(wikipedia) ○○様、存じます等の敬語が最後まで続く。大英帝国時代の終わりを懐かしむ小説かと思えるがそれだけではない、それだけならノーベル賞は貰えないだろう。 ダーリントン・ホールのある地、コーンウォールは地図ではイギリスの南西に位置する半島にある。 コーンウォールから西は大西洋で、西部地方への旅P11p32p309とあるのはフィクションであることを表しているのだろう。 かって同僚でコーンウォールを一九三六年に去ったたミス・ケントンを訪ねる旅でもある。 「ボルシェビキ・ロシアの無礼無作法と変わりなくなる」p47 偉大な執事は、紳士がスーツを着るように執事職を身にまといます。「品格」p61p280、執事論も多く語られる。 日本では差別ごになっている「女中」p253が使われ、それが小説にはしっくりしている。 この旅での風景の描写も敬語でもって表現されると更に美しく想像されるが、旅の途中で思いだすダーリントン卿時代の大晩餐会p99はこの小説では大きな位置を占めている。 ドイツの諸問題、ヒトラーの出現と、時代の背景も描かれる。 「・・・あなたが“アマチュアリズム”と軽蔑的に呼ばれるものを、ここにいるわれわれの大半はいまだに“名誉“と呼んで、尊んでおります」p148 銀食器磨きは・・・執事の重要な任務p190、執事の食器室だけは、プライバシーと孤独が保証される場所p233、執事とはそういうものでもあるのか。 ダーリントン・ホールにバーナード・ショーp192が訪れたこともあるとあり、ということはこの小説の登場人物は著名人かそれを擬した人物なのか、注がほしいものである。 女中頭ミス・ケントンがスティーブンスに言う「相手が容易に見つからなかった時は相手のみ部屋のドアの下にでも押し込んで置くようにシマショウ・・・」p248、こんなにひろいのか。 ソーンリーブッシュp274? 回顧しているのは,、議会政治、「母親の会が戦争の指揮をとるようなものだ・・」p286の時代でもある。 スティーブンスは「ご主人様によいサービスを提供する・・」p288「執事として脇にひかえ、常にみずからの職業的領分にとどま・・」p291る人である。 夕方は一日で一番楽しめる時間・・P351、それで日の名残りの題名になり、スティーブンスの生活について重なる。 終焉を意味するのではなく、「残された時間を最大限に楽しめ・・」P351でもある。 原文は知らないので(知っても)何とも言い難いが、優れた翻訳と思う。読んでいて原文はどうなんだろうと思うのが度々である。 一九二〇、三〇年代の落日の貴族の、執事の特殊な世界を特殊な文体で描き、従来にない作品であろう。カズオは他にどんな作品を書いているのか関心がある。貴族社会は性に合わないが。
「平気でうそをつく人たち」M・スコット・ペック著/森英明訳/草思社を読む。 刊行されたり当時(一九九六年)、話題になり、当時読んだはずだがほとんど覚えていない。 その後、草思社の倒産も話題になった。 在任中に解決する、丁寧に説明するとか平気でうそつく人間がいるので、もう一 度読んでみようと思ったわけである。 基本は「虚偽と邪悪の心理学」の副題があるとおり、心理療法と悪についてである。 邪悪な人間が自分から進んで心理療法の対象になることはほぼ皆無p124 あるものに適切な名称を与えることによってわれわれは、それに対応策する際の力を相当程度に得ることができる。・・邪悪p128 人間の悪の心理学的問題の中核を成しているのが、ある種のナルシシズムである。p140 ヒトラー、悪性のナルシシズム、うぬぼれ=「悪性のナルシシズム」P143 他人をスケープゴードにする、p134p229 良心もしくは「超自我」をまったく欠いているように思われる人間・・邪悪にあてはまらないp137 強力な意志を持って生まれてきた人達p142 病気とは、苦痛を苦痛を受け入れるよりも苦痛を拒否することだ、p236 恐怖・・・ナルシシズムが、それを認識することを彼らに禁じているのである。p239 邪悪というのは一種の病気p260 精神医学の世界で使われる「共生」は・・・相互に寄生的な、破壊的な結合関係p264 邪悪性「・・・精神的成長を妨げるために政治的な力を行使するーーーすなわち、あからさまな、あるいはひそかな強圧をもって、自分の意志を他人に押しつける」、シャーリーンは政治的力をほとんどなかったp353 第5章 集団の悪について ソンミ村虐殺事件 ジュネーブ協定p358と繰り返されるが、ジュネーブ条約のことだろう。 人間の集団の行動は、人間の個人のそれときわめて似たかたちをとるP363 集団の中の個人の役割が専門化しているとき・・・集団全体の良心が分散、希釈化・・・個々の人間が、それぞれ自分の属している集団ー組織ー全体の行動に直接責任を持つ時代が来るのを待つ以外に道はない。p366 集団の責任 ストレス下の個人 不快な状況に長期間置かれている人間は、当然のことながら、ほぼ不可避的に退行を示すものである。p370 「精神的まひ」p372 ハエの羽をむしり取る、四歳の子どもは、注意されることがあっても、それは単なる好奇心・・十二歳の子供がしたら心配の種・・大人ならサディスティックP374 小集団の中ににリーダーになる、なりたい人がいるが、大半の人はリーダーになるよりは追随者になることを好む。P376 集団ナルシシズムのかたちが、「敵をつくる」こと、すなわち「外集団」にたいして憎しみをいだくことである。p380 邪悪な人間は批判に耐えることができない。邪悪ながら人間がなんらかの形で攻撃的になるのは、自分が失敗したときである。p382 軍人というものはつねに戦争を支持し、戦争の側に立つものである。p399 アメリカのベトナム介入は一枚岩的共産主義の脅威が現実的なものと思われた一九五四〜五六年、非現実的なったとき、戦略の変更ができず逆にエスカレート、著者は怠惰とナルシシズムが原因と考えるP409 ナルシシズムにとらわれている個人や国家には、自分の考えやものの見方が間違っているかもしれないと想像する事さえできない・・・p411 おまけに、われわれアメリカ国民は、ジョンソンのテキサス魂的中ナルシシズムがを共有していた。p415 国家レベルのナルシシズムp425 集団の悪を防止するには 怠惰とナルシシズムを根絶、あるいは、少なくとも著しくげんしょうさせる必要・・・P430 道徳的判断に伴う危険性 科学的思考というものが趣味や好みと同様にそのときの流行に左右されるものだ、p442 愛の道は、対立するもののあいだの動的バランスであり、安易なる両極端の道ではなく、その中間にある不確実性の苦痛を伴う創造的緊張の道である。
以前読んだ時は、コルサコフ氏病等を予想しており、そうでなかったこと、著者はクリスチャンで宗教が絡むことで、記憶が薄くなったのだろう。
あらためて『ゴドー』を読む。 ゴドーは存在しないはずなのに気にかかる。 ゴドーの使いの男の子p96p184もいるし、ゴドー縛られている?p35、はあ、それが・・・ちょっとした知り合いで。p40、しかしゴドーは存在しない 曖昧さが特徴である。 自分自身に振りかえって、老人になった私、死を死神を待っているいることは確かだ。迎えてはいない。 『ゴドー』は何かを待っているようで待っていない「憂鬱な老人」にもつながるものである。 ト書き、エストラゴンは、頭を両足のあいだにつっこんで胎児のような格好になる。p136、の注をみると、『神曲』浄罪編第四歌・・・となっている。 浄罪とは煉獄か、大江健三郎が愛読している山川丙三郎訳では浄火なのに大江は煉獄を使っている。どうでもいいことか。 奇妙な二人組、ヴィラジーミルとエストラゴン ヴィラジーミル「・・・人類はすなわちわれわれ二人の立場は・・・どうだね?」 エストラゴン「聞いてなかった。」p156 この人間関係、一方、スターリンを模した?ポッツオ、その奴隷ラッキーの二人組
最後に やはり、『ゴドー』は芝居で観たいものだ。
「改訂を重ねる「ゴドーを待ちながら」演出家としてのベケット」堀真理子著藤原書店二〇一七年九月三十日発行を読む。 不条理演劇とは、絶望的な人間の状況を笑いに変えてその無意味さを訴えかける演劇p18・・・分かり易い。 ベケットがドイツ占領下のフランスで、ナチ秘密警察の逮捕を恐れて、ジーッと隠れていたのが背景にある。p34 飢餓、靴も体験に根ざしたものだ。p35 「・・・観客にじかに伝わる作品だ。」(ルビー・コーン)、サンフランシスコの刑務所で、p68 刑務所での日々が『ゴドー』の世界p71 絶望の淵で生きている被災者に寄り添うものp76 最大の疑問「ゴドーとは何か」、「わからない」のだから「わからない」ものとして受け止めほしいP77ーーーベケットの思いにあるようだ。 ポッツォをヒットラーとみるかスターリンとみるか、p130、ヒットラー≒スターリンとの見方は割合普通のことだったか、私には≒とは思えないが。 「自分の殻の中に閉じこもって仕舞うしかない宿命にある人間たち・・・」p137 「心理的摩擦に自然主義的悲壮感はない。」p139、「あなたはゴドーさんじゃないですよね?」、「確信」というものを排除・・・p163、これらも『ゴドー』の特徴なのだろう。 一九三六年、ソ連を訪問したアンドレ・ジッドが「ロシアには共産主義はもはや存在しない。スターリンがいるだけだ」と述べていたのかp206、その頃だろう、ベケットがエイゼンシュタインに映画のシナリオ作りと編集の勉強をしたいと手紙を出したが返事はなかった。しかしエイゼンシュタインはその手紙を大事にとっておいた・・・P32 戦後の混乱するフランスにへの考え方におけるサルトルとの違い、「過去の過ちを悔い改めよう」がベケットで「悔い改めるのをやめよう」がサルトルP214 「何も持たない浮浪者を主人公にし、社会的な生活と無縁な、無力な人間たちを描いたのは、・・・ドイツの占領という屈辱を忍の一字で耐えていた人びとが、戦争が終わったとたんにそんな過去を忘れたかのように、・・・弱肉強食と自己満足、物質主義と利己主義に走るのを目の当たりして、そんな社会への落胆と皮肉を込めて『ゴドー』を書いたのではないだろうか。」p218と著者は述べる。日本にはベケットは現れなかったか。 ゴドーを待つことは「行動しないこと」、行動するかどうかーハムレットのパロディp220 ラッキーはポッツォに「お払い箱」にされないよう、「よい印象」を与えようとしている、この「縛られている関係」p229 ベケットはモダンとポストモダンの間にあるのかp234 「不在」の中心にいる「他者」に目をくれる人びとはどれだけいるだろうか。p241
ゴドーはゴッド連想され救い主に近いようなものと考えていたが、この戯曲は待っていることを描いた作品で、当時の時代背景はあっても高い普遍性がある。
ベケットがノーベル賞を受賞し、「ベケット戯曲全集T安堂信也・高橋康也共訳」白水社一九六七年発行を購入し「ゴドーを待ちながら」を読んだが、解らなかった。その学生演劇を観たがやはり理解できなかった記憶がある。 「改訂を重ねる「ゴドーを待ちながら」演出家としてのベケット」堀真理子著藤原書店二〇一七年九月三十日発行が出版され、これを読めば理解が進むかと思い、まず「ゴドーを待ちながら」を読み、次いで堀真理子著を読むことにした。 「ゴドーを待ちながら」 何十年も前同様、「わからない」が感想だ。 本来観るべきを読むのは難しいのだろう。 「・・おれがいないほうが便通がいいんだ、おまえは。」p112が印象に残るのみ(笑)
趣を変え、「ドイツ社会民主党とカメーネフ」山本左門著一九八一年北大図書刊行会 を読む。 トロツキー、ローザの本は覗いたことがあるが、(マルクス=エンゲルスの第一の理論的後継者であることを自他ともに認めていたp103)カウツキーに関する書籍は読んだことがない、カウツキーと対立するローザ・ルクセンブルクがカウツキー夫人とは親しく、また社会民主主義に関心があり読むわけである。 一九世紀中期後半、ドイツはボナパルティズム、保守的なユンカー層、政治的に脆弱なブルジョアジー、プロレタリアと特有な構造がある。 工場労働者が先頭に立ち、商業労働者・・農業労働者・・・p77 プロレタリアと一括りに考えないことは重要だ。現代日本では労働者相をどう位置づけするのか難しい。 資本金の側でも、株主、投資家、投資機関、銀行、国家と難しいのでは。 確かに、プロレタリアの動向の中から「未来の社会をつくる能力と意欲」をできるだけ見つけ出すことは、重要であろう。しかし、それは実際のプロレタリアの一側面・・・p83 「資本主義固有矛盾の激化の不可避性」を「傾向」とし、「カタストロフェ的事態出現」の現実性を否定し、・・・社会改良の前進を・・・一時的・・・容認p104 マッセンストP113、ゼネストのことなのだろう。 「ミリタリズムと国際紛争」「植民地政策」p123 「植民地開花論」p125、そんなものがあったのかと思うが、朝鮮併合についてそのようなことを言っているのがいるな。 一〇九七年エッセン党大会、カウツキー「SPDの運動の革命的、インターナショナル的性格が今までと同じく確認された満足すべきもの」を著者は一貫したオプティニズムとする。p131 ルクセンブルグやレーニンを喜ばせた「革命の時代に入った」というカウツキーの主張も具体的な運動の次元では、「原則」と「今までの戦術」の堅持以上のものを生み出さなかった。p146 一九一一年第二次モロッコ事件 具体的取り組みを行わず、むしろルクセンブルクを批判。p157 カウツキーはマッセンストを否定し続ける。p159 一九一〇〜一一年、SPD改良至上主義、現状維持、革命主義に分化。p165 〜一九一四年、「鉄鎖以外失うべきものなきプロレタリアート」→「資本主義の平和的進展に期待するプロレタリアート」p200 一九〇九年までのカウツキーは「エルフェルト原則」に忠実p205 一九一四年「八月4日」戦争協力p212 一九一六年「スパルタクス政治通信」p262 リープクネスト「本当の敵は自国にいる、革命を!」、ドイツ国民は「戦争中止、豊かなパンを」p273 一九一七年ロシア革命、カウツキーはボルシェビキ独裁を「民主主義の否定」と批判。p282 階級としての独裁は考えられない、階級は支配するだけで統治しえないp285 一九一八年ドイツ革命、本著では触れられていない。 当時のドイツは大統領制であり、ヴァイマール共和国議会、プロイセン等の邦議会があり、状況は現代とは異なる。 一九一九年一月五日、ローザ・ルクセンブルク、リープクネスト暗殺。 SPDはヒットラーに対し、ファシズムとして強く批判、ボルシェビキも左のファシズムとして批判。p320 ヴァイマール共和国の崩壊はヴェルサイユ条約等にあるにしても、責任政党のSPDが「安楽な政策」を選びとったこにある。 本書を読むにあたって、カウツキーの考え、SPDの考え、著者の考えを混乱することなく読むことが必要、ドイツ史、SPDについては知識があることが前提。 巻末の付表、人口、就業者構成などは本書を理解するうえで重要なものだ。 三六〇頁の厚い本であるが、注を飛ばしたので大雑把な読み方で最後まで読めた。
大江の「読む人間」が引用されている例がたまたまあり、読まんとして図書館から借りて少し読み、ひょっとして文庫本が書店にあるのではないかと丸善に行ったらあるのではないか、集英社文庫版である。 久々の大江健三郎本の書店購入で、新潮文庫では書店にあることは少なく、過去の作家となってしまったかと思っていたら、集英社文庫、朝日文庫ではそれなりに並んでいる。 文庫本は通勤の電車の中でも気軽に読めるのがいい。 「読む人間」は二〇〇七年発行なのに文庫本は二〇一一年九月二五日第一刷とあり、離れ過ぎと漠然と思っていたところ、第二部に「読むこと 学ぶこと、そして経験」スバル二〇一一年が収録されてこの年になったと判明、むしろ文庫本化するに当たって追加したことなのだろうが。 読んでいると、ジュンク堂書店池袋本店大江健三郎書店のコーナー二〇〇六年 半年間設けられ、そこで月一回講義しその講義録がこの本のようである。大出版社とのつき合いとか、売れ行きを気にする商業主義的なところが気にはなる作家でもある。 高校生の頃、日夏耿之介訳のポー詩集に親しみp30、それで「揩スしアナベル・リィ総毛立ちつ身まかりつ」を書いたわけだ。 原書の読み方p47についてはあちこちで詳しく触れており、そのような読み方で大江健三郎を読まなければならないのだろう。何せ何年もかけて書きあげた本。 翻訳複雑さについてはp67以降にも。 大江が推薦する本は「エドワード・W・サイードの本」p50、サイードこそ全然読んでいなくて、大江の作品から想像している人物である。小説の登場人物のように。 第二部「死んだ人たちの伝達は火をもって表明される」でサイードについて更に詳しく記述される。 Hさんp88は他にも出てきて、誰かを以前に調べたような記憶があるが思い出せず、ネットで調べたら堀田善衛だった。 5 本のなかの『懐かしい年』p124以降、「懐かしい年への手紙」の読書案内になる。 『神曲』に関し、寿岳訳をすすめている。p139 6 ダンテと『懐かしい年』p149は分かり易い『神曲』の解説になっている。「懐かしい年への手紙」に沿ってだが。 「懐かしい年への手紙」を再読したくなった。 7 仕様がない! 私は自分の想像力と思い出とを、葬らねばならない! これはランボーの詩「別れ」の一行である(宇佐見訳)。 ベケットについて語られる。p193 ベケットは私が学生の頃ノーベル賞を受賞し、「ゴドーを待ちながら」を購入し、学生芝居も観た。解らなかった面白くなかった。今なら読め込めそう、もう一度チャレンジしよう。 U− 1 「後期のスタイル」という思想p204、大江が書く「晩年様式集」はサイードに導かれてことなのだろう。 『晩年のスタイル』大橋洋一訳岩波書店p211 「エドワード・サイード OUT OF PLACE」(佐藤真、中野真紀子)みすず書房p234 U-2 読むこと学ぶこと、そして経験 が文庫本になる際に付け加えられた章で、3.11以後の講演である。 なお、単行本にはあとがきとして「私は「読む人間」として生きた。ーおそらく最終の読書講義のあとに」がある。 そこにはマサオ・ミヨシに絶縁されたことが記され、それに対し「爽快さもあじわって・・人生におけるひとつの終わりを認めた・・・」とあり、 「ハックルベリー・フィンの口真似になりますが、ーじゃあ、よろしい、私はこのような人間として生きよう!・・・」とあるが、一寸違うでは無いのだろうか。 いろいろ読んでいると、大江健三郎の配偶者に優れたものを感じる。
井上ひさし、大江健三郎、筒井康隆鼎談「ユートピア探し 物語探し」岩波書店一九八八年五月三〇日発行 を読む。 季刊「へるめす」に一九八四、一九八六、一九八八年に掲載されたもの。一時、「へるめす」を読んでいた。 「同時代ゲーム」「懐かしい年への手紙」に触れることが多い。 同時代ゲームをドジ・ダイゲームといったのは山口昌男か。p15 確かにフィクションを否定してノンフィクションもフィクションの内か。p24 懐かしさ・・・を書いたのは浪漫主義の詩人、現代ではSF作家、猿の惑星はパロディ化p65 同時代ゲームの第一章が全体の枠組み、それが分かれば面白い? 「SFファンがみな大喜び・・」p72? 「僕が東京に来てびっくりしたのは、最後までおもしろくないことをしゃべる人がいる・・」大江P102 「遅れてきた青年」、キリスト教の伝説集のフランス語訳かららしいp128 大江のエッセイ『新しい小説家のために』『群像』(八七年六月号)p189、単行本ではどれに載っているのだろう。 世界の全体像を把握するただ一本の小径は哲学だ・・・それが駄目になり、文学だ・・・無理だ。p218 怖かったけど面白かったを「僕はすこしずつズレを含みこんだくり返し」の手法 と大江は語っている、(笑)ありで。p220 「僕たちの次の世代は、逆になんだか保守的になって狭い範囲のものしか読まなくなるんじゃないか・・・」p222、確かに。 大江は『泉鏡花全集』を何度も読んだこともあるp224・・・私もどういうわけか高校生の頃、泉鏡花を一寸だけど読んでいた。 ペレストロイカが核体制から引き返せるんじゃないかp234 顔の見える農産物・・・理想社会に通じるp236 おのずとブレインがおり、道化がおり・・・共同体が成立する。 役割理論p245 筒井康隆、井上ひさし、特に筒井康隆を読んでいなかったのを残念に思う。
三遊亭円朝作「牡丹灯籠」岩波文庫を読んで。 これも古書店です50円で購入、そうでもないと牡丹灯籠を読む機会がない。 円朝の執筆ではなく、(據若林○(王偏に甘)蔵筆記)とあり、若林の速記である。 全編幽霊お露で占められるかと思うと、孝助の仇討ちが多く語られる。 お露がどうして亡くなったのかも曖昧である。噺す時によって変化するのであろう。 解説は奥野信太郎が書いている。言文一致文学のはしりである。
細井和喜蔵著「女工哀史」岩波文庫を読んで。 今更「女工哀史」、実はこの著名な書を読んでいなかった、古書店で百円だったので購入した。 三百五十六頁、こんな長編だったのか。 生糸の製糸工場ではなく、綿、羊毛の紡績女工、織布女工についてであり、著者は遺憾としている。 本作品は女工の哀しみを語るだけでなく、紡績業全体を俯瞰しており、実際の企業名、工程の詳細が書かれ、鐘紡、東洋紡、富士紡・・今でも残っている企業である。 著者の関わりの深かったのは東京モスリンでネットでチェックすると、ダイトウボウ株式会社なっているようだ。 女工の詳細は更に詳しく、娼婦にはどの程度堕ちるのか、宿舎の実態とそこでの女工の性生活 基本的に資本家を糾弾しているのだが、女工の実態をも書くことにより、評価され読み継がれているのだろう。 朝食の例、菜汁、香々P172、私の学生の頃寮の朝食はもやしの味噌汁とたくわん二切れだった。味噌汁が豆腐の時は早起きした寮生に鍋の中の豆腐を食べ尽くされ、本当の味噌汁だった。 「技術家たる前に、先ず人たれ!」p250 賀川豊彦氏も其著「貧民心理の研究」・・p310と賀川豊彦も引用されている。 これほどの本を書く細井和喜蔵、どれほどの人か、ネットで調べると、一九二四年にこの本を書き、二五年に二八歳で亡くなっている。 奥さん(内縁の妻)も運動家で女工、共著といっても良いのだろう。女工の実態は奥さんからの情報に拠るものだろう。
新聞の書評欄に魅せられて、山口裕之著「「大学改革」という病」明石書店二〇一七年七月二五日初版第一刷を読む。 第一章 日本の大学の何が問題なのか 注、引用文献の記載がしっかりしている。これだけでも良書(?)といえるだろう。 著者は論文の書き方マニュアルを出版しているp192。当然か。 「日本の入試制度は企業の雇用制度、さらには政府の社会保障制度とも強く関係する。p29 二〇〇四年国立大学法人化により、大学運営にかかる交付金が毎年一%自動的に削減p30。 第二章 なぜ巨額の税金を使って「学問の自由」が赦されるのか 科学研究の中心がドイツからアメリカに移ったのは、研究者がドイツからアメリカに亡命したからと思っていたが、そうではなく、ドイツでは国家権力による 管理、特権的自由を持つ正教授p72、一方アメリカでは企業の高額の寄付p80及び「テニュア」と「学問の自由」P83による。 第三章 大学の大衆化と「アカデミック・キャピタリズム」 第一節 大学の大衆がと機能分化 三段階節、エリート段階、マス段階、ユニヴァーサル段階 無償教育ー国際人権規約p105 第二節 一九八〇年代以降の展開 "株式会社アメリカ"化する大学 「現代における高等教育機関の本質と機能・・民主主義的な市民社会を支える機能・・実現するために「学問の自由」や「大学の自治」も必要なのである。」p146 「国民は正当に選挙された代表者を通じて、かれらが財政的に維持する教育機関の方針を決定する権利を持つ」を「俗流民主主義」として切り捨てる高柳を著者は支持する。P147 第四章 選抜システムとしての大学 「民主主義の本質は多数決でなく、合理的な根拠にもとずく主張をする人同士の冷静な話し合いによる合意形成・・・」P147注 「入試システムは・・・・日本社会のなかで他の社会システムズと強固に組み合わさっている・・」p157 教育システムの二つの機能ー教育とスクリーニング 選抜システムとして、即ち旧帝大、旧官立大学、新制大学・・が、偏差値が社会システムズと連動している。 「できん者はできんままで結構」ー保守指導層が考える入試システムp167p168 著者は試験として「論文」を書くことを提案している。p191 大学で職業教育には労働三法を、本当は、高校までにやっておくほうがよいp223、もっともで私も同意見である。 第四節 どんな職業に就いても(あるいは就けなくても生きていける社会を 第五章 競争すればよくなるのか 第一節 教育は競争で改善するか 受験生獲得者競争にオープンキャンパスがあるが、大学を遊園化するだけのものと著者は断じるp245 教育はスポーツではない、競争は必要なしと断じる。 研究についても「STAP細胞」などの不正論文事件から過度な競争には批判的である。p269 金は出すが口を出さないがいい研究を生み出すであろう。 おわりにー大学になにができ、なにができないか 学校での教育には人材が必要で、小学校で英語教育が導入されても、現場が悩むだけである。 「相手の言い分をよく聞きながら、相互理解を進めていく・・」ことで、金の力で・・・発揮できるわけがない。 読み終えて 一読二読に値する示唆に富む良書である。 社会全体の関わりにあるので、入試制度それ自体をいじってもなんら改善しない。 費用関しては福祉についても触れており、幅広い知見に基づき進められた論である。
毎日新聞の八月一日から連載の新聞小説「我らが少女A」を読んでいる。 作者は高村薫、挿絵監修多田和博、高村を読むのは初めてだ。挿絵に監修もあるのか。 そもそも新聞小説は苦手で読んでいなかった。思うに若い時分、少しずつ読むのは次を待ちきれなくなっていたのが、年齢を経て七十代で本をゆっくり読む習慣もできてきた影響なのだろう。 新聞の日曜版小説は五、六年前から読んでいて、現在柴崎友香作「待ち遠しい」が連載、三三回目になっているがどう展開するのか見当がつかない小説である。
秦郁彦がノンフィクション、そのままだとしている石川達三の「生きている兵隊」読む。 社会派作家の第一号は石川達三だと思っている。 「生きている兵隊」は文庫本で書店に並んでいるかと思ったら、書店にはなく全く過去の作家となってしまったようだ。 図書館で中公文庫の(伏字復元版)を借りて読む。 著者は序で検閲を考慮してだろう、創作だとしている。それでもって発禁処分を喰ったのだが。 秦が十六師団をそのまま書いていると評し、軍の侵攻の様子はそのままようだ。 「何人切った?」「何人か分からんです・・滅茶〃〃でした。」p53「彼は数珠つなぎにした十三人を方ぱしから順々に切って行った。」P115、百人切りもあり得るな。
「・・・抵抗する者は庶民と雖も射殺して宜し」p113
解説は編集者として付き合いのあった半藤一利が書いている。
なお、私が読んだのは現代語、旧題名は「生きてゐる兵隊」である。
南京事件、一著書を読むだけでは片手落ちになるだろうと思い、秦郁彦著「南京事件ー増補版」中公新書を図書館から借りて読む。 笠原は南京大虐殺としているが、秦は殺害だけでなく強奪、強姦を含むことから南京アトローシティとしている。 殺害などを読み続けていると気分が悪くなる。 本の頁数が異なるので、比較しにくいが笠原は南京城区だけでなく南京城までの近郊農村(南京特別市)も書き、一方秦はに南京攻略の日本軍について詳細に書いている。いずれも新書版であることから省略があるのはやむを得ないだろう。 石川達三の「生きている兵隊」を実質的にノンフィクションとしている。p20 「空疎な理想主義は往々にして、冷酷なレアリズムよりも悪い結果をはじめとする招く。」P37 ○○事件○○事変とかにし、○○戦争にしないのは戦争を隠蔽するものと考えていたが、アメリカのモンロー主義による戦争国への輸出禁止措置があるからだとしている。p58 ABCD包囲網はすでにあり、疑問があるところである。 曲がりなりにも中国の首都を攻めいるのに宣戦布告ないのは参謀本部の意向を無視して上海軍が進撃したことにあるだろう。 歩兵第六五連隊の活躍ぶり(?)も書いてある。p140 南京事件論者(?)の 基本的違いは不法殺害者数で、「大虐殺派」=「市民運動左派」、「マボロシ派」=「市民運動右派」、「中間派」=「学術研究優先派」と分類し、p 殺害者数、笠原、十数万〜、東中野修道、0〜、秦、約4万としている。p318 しかし、ゼロ、数十名までを入れて同じ土俵で見解の違い、分析の違いとしているが、それは南京事件研究に退廃を招くものでしかないだろう。 強姦された女性、強奪放火された家屋も考えなければいけないだろう。 大体、中国人を何万人もやっつけたと威張りたいのは右翼の本音じゃないのか。それで不法殺害者ゼロというのは異常だ。 ちなみに、東京空襲、ヒロシマナガサキも不法殺害だ。 なお、日本の政治的な保守化を背景に「大虐殺派」に元気がなく、次の世代(笠原の後継者)が未だ出現していない。「マボロシ派」には大変な勢いがあり、田中正明から東中野修道などへの世代交代に成功した。とのオーストラリア人の歴a史家アスキューの二千五年の論文を紹介している。p320 難民区の広さがよく分からなかったが、南北三キロ東西二キロp6、城内の八分の一 p319
8月27日毎日新聞書評欄に笠原十九司著「日中戦争全史」 高文研が載っており、良さそう内容で、この本を読む前に同著者の「南京事件」岩波新書を読む。 著者の誕生日は私と同年同月。 南京事件への必然性が見えてくる。 「現地調達」、この言葉を出張先で物品で購入する場合に冗談半分で使ったことがあるが、何万もの軍隊が「現地調達」 となれば、食料、女性・・暴行、強奪、強姦、必然だろう。 私の出身地は会津、会津若松市の歩兵第65連隊も参加しており、叔父も係わっていたことになるのか。p80 十二月一日大本営南京攻略を正式決定p16 報道規制が強かったからだろうが日本国内での南京陥落祝賀行事が陥落前に行われていたのはまさにメディアの軍隊迎合体質。
国谷裕子著岩波新書「キャスターという仕事」を読む 著者がキャスターを担当していたNHK 「クローズアップ現代」は見ることが多かったので、実に興味深い。キャスターが何かも少し分かった。 テレビ報道、三つの危うさp12 @「事実の豊かさを、削ぎ落としてしまう」という危うさ A「視聴者に感情の共有化、一体化を促してしまう」危うさ B「視聴者の情緒や人々の風向きに、テレビの側が寄り添ってしまう」危うさ 宮川泰夫氏の講演会でキャスターから「のどじまん」司会者への配転にショックを受けたと語って話いたのも了解できる。
「日陰者ヂュード」上中下(下1970年)、一応読了。 Jude the Obscure、大沢が日陰者と訳した。 登場人物、ヂュードはオックスフォード憧れるキリスト教信徒の石工、オックスフォードを目指す教師のフィロットソン、アンチキリストとまでにはいかないがギリシャ文化信仰ヂュードのいとこのシュー(近代文明の産物、中P36) 、あばずれ女のアラベラ、これだけでも十分にドラマになる。 「・・心の曲ったユダヤ人・・」上p33、ドストエフスキーもそうだが、ユダヤ人に対する偏見は色濃く存在しているものと考えられる。 ポーの詩「大鴉」が二行上p176に引用されており、他の訳詩と比べるとそれぞれ異なるが、気味が悪いことだけは確か。 訳註は丁寧で第何節何行まで記載されている。 林檎酒にサイダーのルビ中p188、今ならシードルと書くのだろうが、林檎酒を飲んだ経験はない。 「・・子供たちは・・すべての大人から保護される権利を持っている・・」下P36、現代に通じることで、訳註ではプラトンからの引用であると書いている。 大江健三郎が書いている「老人でありながら少年、少年そのものでありながら老人、『日陰者ジュード』」、これはヂュードことかと考えていたが、そうではなく突然現れたヂュードとアラベラの子供で「彼は「子供の仮面をつけた「老人」だった。下p41の大沢訳に相当するものであろう。 少年の名は『ちびの時爺や』下p47(原文 Little Father Time 下p271) 禁酒旅館(temperance・inn)下p99はあちこちに出てくるのだがイメージを掴め難い。 「でもぼくらは生んでくれとたのまないでしょう?」p149 「ええ、確かに。」p149 末の2人の子供(ヂュードとシューの)がトランクの紐を巻きつけれてぶらさがっていて、少年もぶらさがっていた。p143 この小説のクライマックスである。 ハーディは此処まで書くのか。 最後にヂュード死んでしまう。
大沢は田舎の老婦人の言葉を方言を使って訳している。 日陰者ジュードには昭和六三年(一九八八年)千城出版小林清一訳がある。あとがきで小林清一は大沢衛訳には一言も触れていない。大沢訳は良くないということか。
大江健三郎の分節化とは何だったのかと思い返し、「小説の方法」の読み手とイメージの分節化を読み直す。 『ヴェニスに死す』トーマスマンをテキストに選んで・・検討し・・とあり、ヴェニスに死すは読んだはずだと思い、この日記を振り返ったら記録がない。 一応「ヴェニスに死す」を読んでいるのでその分だけ分節化が分かり易い。 読む立場として、文節、文章のイメージ(想像力的なものの喚起)を促す部分をブロックとして捉える、その様なことでよいのだろう。よりイメージ化できる。 単に、この文は前の何ページに関連すると考えるのではなく、ブロックとブロックの対立、ズレ、深化を意識することが必要なのだろう。 はずれるかもしれないが、小説を読む際、面白い面白いと、章のタイトル、節のタイトルをほぼ無視して読み進んでいる。 ブロック化を考えればこれから(今更遅いが)章、節を強く意識して読むことにしよう。 今以上にゆっくり読むことになるだろう。 持っている「ヴェニスに死す」高橋義孝訳は昭和四二年九月二五日発行昭和四四年十一月三十日第五刷新潮文庫で「小説の方法」の引用と一致する。
私が初めてハーディに触れた大沢衛訳「歸郷」を読みたく、「日陰者ヂュード」を中断し、図書館から昭和三十年三月十五日初版発行「世界文学全集(第一期)Uハーディ(三段組)を借りて読む。 文庫本もあったはずだがとっくに絶版だろう、さいたま市の図書館にはない。 第一篇 三人の女 まず、私が如何にぐうたら学生であったか、「歸郷」の描かれた地が南イギリスなのに私はスコットランドと思い込んでいた。 「十一月の、とある土曜日の午後、それもたそがれに近づくにつれて、エグドン・ヒースとして知られるこの邊一帯の廣々と果てしない荒野原は、刻々に焦茶色に變っていった。仰げば虚ろなしらけ雲が空一面を掩いとざし、ヒース全軆を底邊として張られた天幕とも見えた。」 この書き出し、スコットランドの荒地と勘違いしてもやむを得ないだろう。 小説家「歸郷」は初めにヒース全体のあれちを描き、荒野のあちこちで篝火が焚かれる篝火祭り、ひとつの篝火の周りで村人が噂話を交わして行く。 映画のような進み具合である。 教会での結婚式を挙げずに村に戻ったヨーブライト婦人、その姪のトマシン、淑女亭のワイルディーブ、ワイルディーブに恋していたユウステシア、誰が主人公になるのかはっきりしない。 長襦袢(スモッグ)p38、差掛け小屋(リネイ)p81、翻訳の難しさが散見される。漢字は旧漢字で、大沢訳は古く新訳が出るのは避けられないものだろう。 学生の頃(S38,39年)、文庫本で一部読んだ記憶ではこんなに旧漢字であった記憶はない。 しかし、ハーディは忘れられた作家か、店頭で訳本を見ることはない。 p72爐隅(ろずみ)があり、人の話し聲が煙突から筒抜けに聞こえて来る。 大江健三郎の「燃えあがる緑の木」第一部に囲炉裏のふいごから、外の声が聞こえる・・を連想した。 第二篇 到着p71でヨーブライト家の若旦那クリムがかえってくる。題名の「歸郷」となる。 第三篇 魅惑p107 p109「彼は階級を犠牲にして個人を高めるよりも、個人を犠牲にして階級を高めたい」クリムの思想が語られる。 グリムはユウステーシアと母の出席しない式を協会で挙げる。 P142博打の場面は引き込まれる。 第四篇P148 p157・・こんな日陰者の美空で・・ 「日陰者ヂュード」を連想する。 三人の男性、クリム、ワイルディーブ、ヴェンの絡み合い。 ヨーブライト婦人の死が物語の屈曲点となりクライマックスへと展開していく。 p186第五篇 發覺 ヨーブライト婦人の死にユウステシアが原因を成したことになり、ワイルディーブと海外に逃れようとするが、自尊心もあり大堤に飛び込んでぢしまう。 それを助けんとワイルディーブが飛び込み、更にクリムも飛び込み、ユウステシアとワイルディーブは亡くなってしまう。 クリムは母ヨーブライト婦人とユウステシアの責任あるものと捉え悩む。 p227第六篇 後日物語 トマシンは紅殻屋から酪農場経営者となったヴェンと結婚し、クリムは説教師となる。 「歸郷」の題名からクリムが主人公である思えるが、極めて個性的に魅惑的に描かれているのは恋多いユウステシアである。
ハーディの「日陰者ジュード」 ハーディについては五十年以上前に大沢衛(先生)の授業をに受けたことがある。 その頃大沢先生はハーディの権威といわれており、ネットで「日陰者ジュード」大沢訳をチェックすると今は絶版のようだ。 岩波文庫大沢訳ではジュードではなくヂュードであり、大江は何を根拠にヂュードではなくジュードにしたのだろうか、恐らく読むのは原書であろうし、そのまま訳した結果の題名だろうが。 図書館に岩波文庫日陰者ヂュードはあるが禁帯出になっている。 三省堂4Fの古本フロアーで 岩波文庫「日陰者ヂュード」大沢衛訳、上中下三巻を650円で求めた。 奥書は上は一九五五年一〇月五日第一刷発行、一九九一年三月七日第一〇刷発行で、これも発行者安江良介となっている(下は一九七〇年)。
ハーディを途中ではあるが、文藝春秋に掲載された第一五七回芥川賞受賞作「影裏」を読む。 岩手県に住む釣り好きのわたしが、友人(?)日浅との係わり合いを描いていく。 釣りと関係する優れた自然の描写が、久しぶりに落ち着いた安心できる作品になっている。 突然仕事を辞め、互助会の仕事で旧同僚に契約したり金を借りる日浅、最後には3.11に会い行方不明になるようだが、それも不明のままに終わる。 性同一障害の和哉が出て来たりするのだが、「わたし」が今ひとつ印象が薄い。 しかし、好短編といっていいだろう。
読み終わって、題名の「影裏(えいり)
」は「電光影裏斬春風」からだろうが何なのだろう。
アナベル・リィのつながりで吉田次郎訳「ミシャエル・コールハウスの運命」を読む。 岩波文庫、一九四一年第一刷発行、一九九〇年第五刷である。 発行者が安江良介となっている。安江は金沢大学卒で大江と一緒にヒロシマを廻った岩波書店の編集者である。 作者はハインリヒ・フォン・クライスト(一七七七年〜一八一一年)、帝政ドイツ以前の劇作家である。 この小説の時代は一六世紀で、選帝公によって支配されている神聖ローマ帝国の時代である、地名等分かりにくさがある。 事件が起こったのはサクソニア選帝侯国、コールハウスの住んでいるのはブランデンブルグ選帝侯国で複雑さがある。地名を実際の地図と照合させながら読むのも面白いだろう。 博労コールハウスが公子ウェンツェル・フォン・トロンカに騙され、蜂起していく物語である。 蜂起=暴動がその実はともあれ裁判で裁かれる状況、信じがたい体制である。 作品発表当時、政治的反抗でなく経済的な反抗の故、上演も許されたのだろう。 なお、コールハウスは最期には死刑になってしまう。 女性としてコールハウスの妻リースベトの役割が大きい。 リースベトは国君に嘆願書を持って行くが挫傷を受けp28、亡くなってしまう。 訳者は不自然な部分としているジブシー女が係わる後半部分。 コールハウスは妻のリースベトに似ているp100と感じ、刑場に進む途中、老婆から間接的に渡された紙片に、「・・あなたのエリーザベトより。」p105とある。 英和辞典(RANDOM HOUSE)ではあるが、Lizbeth、Elizabethの別称とある。 十六世紀の物語で、このような部分が混在する時代と考えてもよいのではないだろうか。魔女狩りの時代でもあろうから。 マルチン・ルターの登場p41する小説である。神聖ローマ帝国の実態を理解するのに役立ちそう。 サクソニアはザクセンのラテン語読み、 日本での反逆劇、革命劇を上演が、凶暴罪法に触れる時代がくるのを予感した。
結局、「・・アナベル・リ・・」は二〇〇七年十一月二十日発行の新潮社刊で読む。 息子の光p6、渡辺一夫教授p27と意外に本名で出てくる。 アナベル・リィはポオ詩集p16p31からの引用で、所有のポオ全集では福永武彦、入沢康夫が訳している 、題名はアナベル・リィ。 大江の引用の日夏耿之介訳でかなり趣が異なっている。 日夏耿之介、漱石と龍之介をもじったような筆名と思っていたが、実際はどうなのだろう、古い過去の人になってしまったか。 ポオは女性を唄う詩が多い、詩は女性が絡むもの、当然か。 アナベル・リィをイメージしてさくらさんを設定したのだろう。 「熾天使」の言葉があったはずと、かなり気になって戻って読んだが見つからない。 序章 なんだ君はこんなところにいるのか ・・Little GiddingのWhat are you here? 棒を持って散歩する私と光。p6 駒場の学生時代から三十年ぶりに木守に会い物語が始まる。 サクラさん、塙吾郎p9 エリオットの四重奏曲西脇訳p10 『形見の歌』p15p35は「晩年様式集」の最後に載ってる詩と同じなのだろう。 ロリータの新訳(新潮文庫平成十八年) の解説p16p35を大江は確かに書いている。 ロリータは学生の頃、河出書房のサングラスをかけ口紅を縫っている女の子が表紙の本を読んだ。 当時はロシア人が英語で書いた小説として話題になり、私はサガンの少年が中年女性が好きになる悲しみをこんにちはに対して中年男が少女に夢中似なる小説として読んでいた。誰が言い出したのか「ロリコン」でこんなに著名になるとは想像もしていなかった。 このロリータの初めにアナベルが書かれている。 そんなわけもあり大江が解説を書いたのだろう。 老人でありながら少年、少年そのものでありながら老人、『日陰者ジュード』トーマス・ハーディーp20 『ミシェル・コールハウスの運命』クライスト岩波文庫p32 第一章 ミシャエル・コールハウス計画 大江健三郎は、逮捕され死刑判決を受けた韓国の詩人金芝河の釈放を目指して数寄屋橋でのハンストに参加、そこに木守とサクラさんが訪れる。 これは一九七五年で明らかに記憶があり、金芝河詩集も購入した。ぐうたらでハンストには参加せず。 後年、金芝河はパククネを支持する。 この小説が連載されたのは一九七八年、確かに三十年になる。 ケンサンロウp33、塙吾郎とは別に木守に伊丹十三の影がある。 「M計画」p34、ミシャエル・コールハウス計画であり、クライスト生誕二百年に向けて各国で「ミシャエル・コールハウス」の運命を映画化する。 第二章 芝居興行で御霊を鎮める メイスケさんp86 笏p96は男子生殖器のことか。 第三章 You can see my tummy 「アナベル・リィ映画」無削除版 コギーp147 第四章 終章 月照るなべ/臈たしアナベル・リィ夢路に入り、星ひかるなべ/揩スしアナベル・リィが明眸俤にたつ この章名大江の小説はポーの詩に依ったものと考えられるが、ポー詩集の対訳で英文を読むと比較的平易な英語で、むしろ「日夏耿之介のアナベル・リィ」依った作品である。 棒を持って散歩する私と光、そこに木守も加わっている。 第四章から更に三十年たって、サクラさんと木守が来日し、「ミシェル・コールハウスの運命』に沿って四国の山あい集落を舞台にして映画を製作することになる。 そぎへに居臥す身のすゑかもp185、日夏のアナベルだ。 フィッツジェラルドp193の小説、大型タンカーに体当たりして破損し死者を出した駆逐艦の名がフィッツジェラルド2017/6/17、意味合いは不明だが一般的な名前のようだ。辞書では男子の名になっている、船には女性の名をつけるものと思っていたのだが。 マージュリー(?)p193 映画製作は木守の急死で失敗に終わりそうな気がするが、可能性をしっかり残し、このような結末は大江文学では珍しいのではないか。
題名、第四章の章名によりこの作品は日夏耿之介訳ポー詩集「アナベル・リィ」を柱にしたもので新訳「ロリータ」発行平成十八年からすぐに書かれた作品になろうか。 読者は気軽でいい。 この本、図書館から借りてのもので傷んでいるのは構わないが、薄い醤油を垂らしたような淡褐色の汚れのある頁がある。何たることか。
「美しいアナベル・リィ」新潮文庫は、題名を批判的されヤケになってこんな題名にしたのではないのか、日夏耿之介賛歌ではなかったか。
「揩スしアナベル・リィ総毛立ちつ身まかりつ」 何なのだこの題名は。 新潮2007年(平成の十九年)6月号があり 作家生活50周年記念小説(短期集中掲載1(序章、第一章) )がある。この後の号がないところをみると余り面白くなかったのではあるまいか。 この変わった題名、挑戦する価値ありだろう。作者も長い題名で自分でも言い難かったのだろう、文庫本では美しいアナベル・リィと改題している。 臈、題名ではつきへんではなくくさかんむりになっている揩ナある。 大奥物語などで上臈、中臈とか記憶があっても臈の意味を知らず、大字典で臈を調べるとラフ(名)僧徒ノ位次二功を積ミタル年ヲ數フル語と記載されている。
他の短編も読みたくて図書館から講談社文庫「河馬に噛まれる」を借りて読む。 「河馬に噛まれる」 河馬に噛まれた青年は連合赤軍の山中アジトで便の処理に専念した少年でp23、連合赤軍事件を背景にした短編集である。 「河馬の勇士」と愛らしいラペオ」 姉が「しおり」、自分が「ほそみ」、もう一人女の子がいたら「さび」p49、この意味合いも知らなかったなあ。 「しおり」はリンチ殺人の被害者である。 「河馬の昇天」 アフリカのほそみさんから手紙にエリオットの詩「河馬」が書かれp72、河馬がエリオットと関連して題名に使かわれたのだろう。 (T・S・エリオット、私のイニシャルがTSなので、TSオットセイとダジャレていた時があった。) それで「河馬」を読む。 なお、「僕」は「うつろなる人々」を読むことが多かった。p77 M・Tp75は森恒夫をYp83(NYp94)は永田洋子を示するものであろう。 京浜安保共闘には従来の学生運動にはないものを期待していたのだが。 河馬の勇士が「・・みっともなく生き延びた河馬がいいね・・」p87とほそみと別れたのが河馬の昇天なのだろう。 「四万年前のタチアオイ」 ここで、 「タカチャン」といういとこ(?)が現れて来る。大江文学では今までになかった存在である。 吐魯番には女優Y・Sさんと一緒の旅行(当然、残念ながら、二人だけので旅行ではない)に行く。ここでのYさんは吉永小百合。 「・・北風のなかに、春までいよう!」p110、どう考えても吉永小百合の「寒い朝」だ。 Yさんが・・タチアオイが好きです・・と、大江は吉永のファンなんだ。私もだけど。 タカチャンはリンチ殺人の指導者と殺された女性に独自の救援活動を組織したいと考えてもいるがp125、身体は極めて弱っている。 四万年前の洞窟に埋葬されたネアンデール人のそばにタチアオイの花粉ないし花片・・p130、で四万年前のタチアオイ。 「死に先だつ苦痛について」 この編は最も長く百十頁に及び、死及びリンチについて語られる。 小説に何度も出てくる「僕」の母の死とヒカリさんの対応。p133 父の死p138 「引きかえしようのない苦痛のコースから、なんとか離脱して死をかちとるため、発病まで立派に養われてきた肉体を・・」破壊しようとしているH君。p140 「ータケチャンがどのように死んだか・・」p144 「僕」が二十代の頃、濃密な関係にあったタケチャンを中心に流れて行く。 タケチャンにとって「僕」は「あにさん」p146である。 以下、体育クラブのロッカールームで「僕」に出会った倉本君の語りになる。 「師匠(パトロン)」p155 『個人的な体験』のバードの赤ちゃんの死と生について語られる。p160 タケチャンは「全共闘」の指導部格になっていたようだ。p173
タケチャンは結党し、伊豆山中に拠点をつくる。そこに後から加わったキイッチャンがリンチ殺人の対象となってしまう。
タカチャンとタケチャン、その繋がりは読めとれなかった。
今、読んでいるのはあの事件から五十年くらい経っている。
それで、河馬を読む。 短編集「河馬に噛まれる」が出版されたのが1985年(雑誌には1983年掲載)、私が四一歳の時、長女13歳、次女10歳、本離れしていた時だったか。
短編集中の「河馬に噛まれる」と「「河馬の勇士」と愛らしいラペオ」を読む。
自選短編集あとがき
また、漱石の「こころ」の百年に係わり漱石を注意深く読み直すと、若い頃国家主義的だと思っていたのが、明治という時代の「人間の精神」を「明治の精神」と言っているのだと。
大江健三郎自選短篇集(岩波文庫)にどの作品が選ばれているのか、関心があり図書館から借りて調べみた。(末尾の○は読んだ(はず)、×は持っていない本) 奇妙な仕事○、死者の奢り○、他人の足○、飼育○、人間の羊○、セヴンティーン○、空の怪物アグイー○ 頭のいい「雨の木」○、「雨の木」を聴く女たち○、さかさまに立つ「雨の木」、 無垢の歌、経験の歌○、怒りの大気に冷たい嬰児が立ちあがって×、落ちる、落ちる、叫びながら×、新しい人よ眼ざめよ○、静かな生活○、案内人○、河馬に噛まれる×、「河馬の勇士」と愛らしいラペオ× 「涙を流す人」の楡×、ベラックヮの十年×、マルゴ公妃のかくしつきスカート×、火をめぐらす鳥×
「奇妙な仕事」の同工異曲と批評された「死者の奢り」も選んでいるのは初めての芥川賞候補作となったこともあろうが、私にとって初めての大江健三郎であり嬉しいものである。単なる二番煎じとは考えていない。死者は人間である。
「ピンチランナー調書」に野球の「リー、リー」が出てくる。
本の少ない本棚を眺めていたら、対談鶴見俊輔・大江健三郎「『揺すぶり読み』の力」-『宙返り』を語る」(群像 7 1999)があるではないか。 「宙返り」を読む前にこれを読んでいればよかったが。 鶴見俊輔についてはよくしらないが、二人の親密な関係がわかり、更に大江は武満徹と親密な関係であることが知らされる。 対談中に現れる哲学者名について全然知らず(全然知らずとはいいたくないのだが)、両人の知識の広さ深さには全然ついていけない。なお、単に知識としてあるものではない。 肝心の「宙返り」、「転向」「ジョセフ・ロートブラット」「敗戦」「サヴァタイ・ツェヴィ」・・・ 棒読みではない「揺すぶり読み」 鶴見は、小説「宙返り」の「・・童子の蛍の少年が子供、幼児と一緒に手をつないで、灯火を灯して行進する。・・」「上品な婦人たちが糞をした場所として言いつたえられて、そこにその当事者達が行って、土地の人と一緒に草を摘んだりする。これは素晴らしいイメージです。」と語っている。 スピノザを読んでみたくなったが、その時間はないだろう。
「遅れてきた青年」第二部 一九五*年 東京 を読む。 第一部の最後に「わたし」は救護院に入り、第二部は救護院から東大に入った「わたし」が救護院で講演することから始まる。 大江の作品には大学がでる場合、ほとんどが東大である。しかし不良少年の収容所と東大には無理を感じる。 スタンダールの引用p192、今になると珍しい。かって浦和にジュリアンとソレルというバーがあった。 「わたし」の村近くでバスの同乗者に「・・終点までは三時間もあるでしょうよ・・」と話しているp205、太平洋に行ってしまうではないか。フィクション性を与えるためとしても私には違和感があり過ぎ、同乗者(あるいは読者も) をからかっていることなのか。 ギリアクやオロッコp219、久しぶりの民族名だ。「若きギリアーク人」の題名の小説高校生の頃読んだはずとネットで調べたら「幸福な若いギリアク人」、ネットは便利だ。しかしこの題名は何だ?。 「・・電車をいくつもおいこして・・」p227、東京に路面電車があった時代だ。 「・・大学病院・・犬の吠え声・・」p250、ますます「奇妙な仕事」だ。 「・・戦う日本の会のトロツキスト・・」p260、 「・・キリンみたいに注目のまとなるだろう」p291、「目を伏せて空へのびゆくキリンの子 月の光はかあさんのいろ」を連想。 小説の末尾に1960〜61 東京、Sophiaの記述があり、全学連が社学同から革共同に移行する時期を捉えているのではないかと思ったが、これは書かれた時期で、第二部の時期は大江が大学に入学した一九五四年と考えるべきだろう。 第一部は明確に一九四五年を示しているのに第二部は一九五*年と曖昧にしている。 汚点を抱えアップビートを狙う。松本清張の「砂の器」を連想してしまった。但し、一九六二年の作である。 エピローグでこの作品は麻薬中毒の治療受けている修道院での「わたし」の手記となっている。太宰治の「人間失格」も精神病院に入院しての手記である。 「私という小説家の作り方p160」ではこの小説を「・・かたちがよくとえられていない・・」と書いているが、文庫本自作解説では「いま一九七〇年代の青年に向けて、この文庫本を刊行・・」と自信たっぷり(?)である。 思い返せば、「自分自身を安保に遅れてきた青年」と口にしながらもこの本を読んでなかったのかもしれない。 田舎で学生が保守政治家に繋がりとか学生運動の表現に違和感があり、題名以上のものを受け止め得なかったのかもしれない。 一九四五年の明快さに比べて一九五*年は、やはり*である。
大江健三郎が「私という小説家の作り方」に失敗作と書いた「遅れてきた青年」を読む。 私は六十年安保闘争に遅れてきた青年、大江は小説の題名の付け方がうまいと思ったものだ。 この本の単行本は行方不明でその後古書店で求めた文庫本(新潮文庫平成七年六月十日二十六刷)で読む。文庫本で448頁でこんな長編だったのか、大江の初めての長編ではないだろうか。中編と長編の境目はどこにあるのかは別として。 わたし小説なので当然だろうが極めて饒舌な作品である。 第一部 一九四五年夏、地方 を読んで。 終戦或いは敗戦を小学生で迎えた大江だからこそ書けた作品である。 天皇絶対性の崩壊、昨日まで白が今日は黒くなる時代、一部自伝的部分を含めて一九四五年をよく表現している。 大江の父の死は何となく戦後と思っていたのにこの作品では終戦直前で、大江健三郎再発見で確かめてみると昭和十九年に祖母と父を喪っている。 昭和十九年は私の父が死に私の産まれた年である。 兵隊にいけなかったぼうやp20、これが本書の題名「遅れてきた青年」の主意であろう。 犬殺しp41は「奇妙な仕事」に繋がるもので、大窪(おおほと)p131も他の作品に繋がる。 《囲いのなかの谷間》p112は後の作品の甕村になる。 大怪物p15、澱p127は大江らしくない表現だ。 《大日本帝国を真に愛するものよ!戦友を裏切るな、英霊を裏切るな!・・・・戦争はこれから始まる!我らの軍に参加せよ!》p149 何故、敗戦後旧軍人は立ち上がらなかったのか、中国でゲリラを知ってるはずなのに、何故復員しおとなしい兎になってしまったのか。 現在の右翼、ネトウヨを含めて、アメリカにべったり、皇国の地をアメリカ軍に汚されて喜んでいる。 右翼は今も理解し難い。 ?
野村萬斎の「子午線の祀り」を観劇しようと、木下順二作「子午線の祀り」(河出書房新社)を読む。 (何たること!PCの操作ミスか、チケットは取れてなかった。) 読むに連れ芝居で観たくなる。 読み終えると、よくは知らないが野村萬斎にぴったりの芝居、萬斎の当り狂言(??)、一生ものになるのではないかと思う。 あらためてあとがきの公演記録を義経を野村万作が演じている。ゲゲゲーッだが、常識なのか。
趣向を変えて、 図書館に予約した鈴木亘著「経済学者 日本の最貧困地域に挑むーあいりん改革3年8カ月のぜんきろく」(2016.10.20/東洋経済新聞社)が貸し出しできますとのメールが入り借りて読む。 半年くらい前、毎日新聞の書評を読み、買うほどのことはあるまいと思い、図書館に予約し順番で半年後読むことになった。 困難の基本は役人の縦割り行政と地域住民への説得である。 眼には見えないが前者はかなり大きな壁でやはり市長府知事の力が必要だったろう。 後者に本来の著者の力(知識経験と人脈を含めて)を発揮できた分野である。 著者が橋下市長のブレーンでありp165、「市長に直訴してご聖断を仰ぐ」p252姿勢に疑問を感じるが。 毎日新聞が好意的に取り上げたのは毎日新聞の誤報p395が影響したか。 なお、私自身知識もなく釜ヶ崎へは一度も行ったことがない。 今日の毎日新聞の書評欄の著者紹介に「貧困と地域 あいりん地区から見る高齢化と孤立氏」の著者白波瀬達也がとりあげられており、そこに『福祉の街』に衣替えしたとある。 また、全国各地の困窮者支援のあり方を同時に鍛えないと、問題は隠蔽されるだけ・・とある。
「小説の方法」関連で、新潮文庫「私という小説家の作り方」を読む。 最後まで読んで、新潮社刊「大江健三郎小説」全十巻1956,7年の月報をまとめたものであることを知る。 大江健三郎のなんとか集というのは金がなくまるっきり購入したことがないので月報には不案内であるが、この文庫本はあり、どういうわけか反っていて水に濡れて乾いた状態、中表紙がクチャクチャクチャになっていた。 「オコフク」p14の言い伝え。漢字にルビを使って言葉の異化。 大江はルイス・キャロルは都会の中流階級以上のものとの印象があったせいか愛好するものとならなかった。宮沢賢治にも同様の印象を持ったようだ。p30 レベルは違うが私にも同じ岩手県出身の啄木に比べて都会的宮沢賢治に苦手意識がある。 ニルヴァーナという言葉には丸みがあるのに、涅槃と漢字で書くと角ばっている・・p38 三章 ナラティヴ、つまりいかに語るかの問題 高校一年の時、大江を初めて読んだ「死者の驕り」の「僕」に新鮮な驚きを感じていたので興味深い。 「死者の驕り」が「奇妙な仕事」の同工異曲p54と批判されているのには納得しがたい思いがあるのだが。 四章ではブレイクの長編詩予言詩p68に触れているが、知らないのが残念。 医院が引っ越してゆくのに、三輪車と足で漕ぐ自動車のどちらかをあげるといわれ、三輪車といってしまう・・太宰治が父に東京土産はなにがいいかと問われ、自分の本当に好きなものではなく父好みの子供らしいものをいってしまう・・を連想した。p121 かなり名の知られた小説家として集会やデモのかざりあつかいをされる・・p162、例によっての大江流の諧謔。 九章、「遅れて青年」は失敗p160、そんなことをいわれても困る。
シクロフスキイのロシアフォルマリズムについて、トロツキーはどう批判しているのかと思い、「文学と革命」(桑野隆訳)を覗いてみた。 当然、批判的で「フォルマリストには早熟な司祭めいたところがあり・・・・かれらにとっては「初めに言葉ありき」である。だがわれわれとっては初めに行為があった。言葉は行為のあとに、行為の音響的な影としてあらわれた。」P251 「異化」について記載がない。この論が書かれたのは一九二四年、シクロフスキーが「異化」の概念を「手法としての芸術」で発表したのは一九二六年、その辺り事情もあるか。 一九三〇年代以降、ソ連体制に従わないのはフォルマリズムと反フォルマリズム・キャンペーンがあった(ロシア・アヴァンギャルド/亀山郁夫著)。p96 体制に従わないのは一様にトロッキストして粛正したのと同一だ。 本来、ズレついての考察だった。小説は対立だけで成り立つものではない。ズレがあってあるいはズレてきて進展していくもので、当然の条件であり検討はやめた。
「小説の方法」岩波現代新書を読む。 きっかけは「取り替え子ーチェンジリング」にー「小説の手法」p335に「ズレを含んだ繰り返しいう考え方との記載があるためである。 わたしの持っている「小説の方法」、読んだ記憶は薄いのに結構傷じている。 T 文学表現と「異化」 シクロフスキーによる「異化」の定義を、われわれ共有の道具にしたいと思う。p2 U 構想の様ざまなレヴェル 語a'から語a"へ、更にa(nプライム)へ、の前進運動、この書き手内部の運動を「構想」でもって明らかにする。 それをムジールの『特性のない男」に沿って検討していく。p25 conception(構想)は妊娠をも意味する。p27 『特性のない男』第三部の後半に決定稿、未定稿、草案があり、構想が伺い知れるようだ。 V 書き手にとっての文体 狭山事件の石川被告がかいたとされている脅迫文をまな板に乗せ、文体は人なりを明確に解説している。 W 活性化される想像力 大江は想像力については若い自分からその重要性を訴えていた。 バルザックの『浮かれ女盛衰記』について語られるが、恥ずかしながらこの作品については全く無知である。 想像力は読み手の問題だけでなく、書き手の問題でもある。 X 読み手とイメージの分節化 Wまで読んできて、「分節化」が判らない。 分節、広辞苑ではA[心]統一的構造をもつものの中で、独立の要素に分けられず全体との関連において捉えられる構成部分、とある。 映画のカット<シーン<シークエンス<ストリーのシーンくらいと考えたいのだが。 「・・筋みちを単純化したい・・分節化できるもの・・」p98 「僕はこのようなレヴェルでのイメージのを、小説の散文の流れのうちにはっきり分節化することを、小説の方法としたいと考えている。その分節化したイメージのブロックを、意識的に構成していくこと・・」 トーマスマンの『ヴェニスに死す』に沿って検討していく・・p100 《グスタフ・アシェンバッハ・・・・》 イメージの分節化、この句は・・まさに想像力的な動きをおこさせる役割・・ 「このように分節化されて小説を構成するイメージを、意識的に読みとることによって、読み手は当の小説の構造体に参加する。しかもいちいちの分節化されたイメージを読みとる読書の過程のなかで、自分自身それらをブロックごとに切りはなし、その上でブロックをダイナミックにつなぎ合わせつつ読み進む時、もっともよく読み手は、その小説に参加することになろう。」P121 大江が読み手について書くのは希である。私がよい読み手出ないことは明らかになってしまった。 Y 個と全体、トリックスター トルストイの「戦争と平和」を材料にして検討される。 表現とは本来人間を、全体へとおもむかしめる人間の仕業である。P123 複数の登場人物の個性と戦争への関わり方にしたがっての多様な戦争の見方・考え方→戦争の全体を見る眼の創造。P127 「戦争と平和」ではピエールである。 世界を掻き乱す道化、悪戯者(妖精)、大江文学の作品の中で誰がトリックスターかと考えると、壊す人、おしこめ、シン等が浮かび上がるがぴったりした感じはない。 大江健三郎自身がトリックスターと考えるとなんとなく納得できる。 Z パロディとその展開 ドン・キホーテである。 私はサンチョ・パンサが好きである。 [ 周辺へ、周辺から 周辺、メキシコのポサダの仕事、一九七六年のバンコックのクーデター、一九七五年のひめゆりの塔、周辺が全体を表現する。p177 四国の山奥を描いた小説も同様である。 \ グロテスク・リアリズムのイメージ・システム 深沢七郎の「風流無譚」を連想した。あれはどんな小説だったか。 ] 方法としての小説 他人の言葉の支配構造が・・「自動化作用」を強制している。p225 文学と芸術の「第三階級」p230 小説は人間的諸要素をその全体において活性化する仕掛けである・・p235
十項目に別れて書かれいるが、それぞれが繋がっている。 「ズレを含む繰り返し」について、大江は「懐かしい年への手紙」の付録で触れているが。 「新しい文学のために」岩波新書にはミラン・クンデラ短編集「笑いと忘却の本」について、それは切実な主題をめぐる個々の作品が、それぞれかさなりつつ、また、微妙に深まります、反転され、ズレをかさねるようにして進行する、p8、とある。
「取り替え子ーチェンジリング」を読む。 この作品から主人公が古義人となる。 コギトはデカルトの概念、大江健三郎がサルトルからデカルトに宗旨替えしたとは思えないのだが。大江文学は哲 学に拘るものでないので、考えるのはやめよう。 吾郎との存在、魂を信じるからコギトが必要なのだろう。 一方、配偶者は千樫、歌人の古泉千樫は無関係だろう。 コギトの観念的存在に対して千本の樫の木、しっかりした実在を配置したか。 広い知識を有する大江健三郎、謂われがあるのかもしれない。 田亀、タガメような形のヘッドフォンを想定するのだが、子供の頃付き合っていたあの水性昆虫のタガメと亀は結びつけにくい。 なお、広辞苑では田龜、水爬虫となっている。 実は子供の頃子供同士で、タガメを女性の生殖器を意味する○○○バサミと呼んでいた。 この作品は伊丹十三の自殺に対する追悼作品である。
この作品絡みの時系列を書いて置こう。
序章 田亀のルール
実際、大江と伊丹にはそれなりの成功者(?)になった後濃密な交流はなかったと思うが、伊丹の死を悼む作品はこのようになるのか、実に大江文学らしい。 伊丹十三の自殺について、当時TV、週刊誌には関心を持たなかった。持たないようにしていたようにも思う。
PR誌「ちくま」五月号の「帝国軍人は何を書き残したか11 瀬島龍三『幾山河』/保坂正康」に「シベリア抑留で・・将校として収容所では一般兵士よりは肉体的に苦労はしていない・・」とあり、一番苦労したのは軍属か。 高校生頃、ソ連社会は理想の一片を持っていたと思っていたのだが、粛清とシベリア抑留が大疑問であったのだ。 小学生の頃、シベリア抑留の映画があったような記憶があったのだが。 映画「人間の条件」の最終部にはシベリア抑留が描かれていた記憶がある。
大江健三郎、古井由吉対談集「文学の淵を渡る」を読む。 再読ではない、積んで置いた本の初読である。 明快にして難解な言葉 明快×説明 結び目を作り結び目を解く。 嘉村磯多は結び目だらけ。 「特性のない男」、読んだ記憶があるのだが。 百年の短編小説を読む 「新潮名作選百年の文学」に掲載された鴎外から中上健次までの短編小説についての対談で、これに沿って作品を読むのも面白いだろう。 詩を読む、時を眺める 古井の「詩への小路」について語られる。 言葉の宙に迷い、カオスを渡る ギリシャ悲劇は文学の基本 「・・散文は無駄な部分が生命・・」 文学の伝承 「古事記」あるいは「源氏物語」、声を出して読む、韻を踏まえてこそ現代語訳になる。 大江:自分の小説・・こういうものを、他人に買ってもらい読んでもらっていたのかと反省しました・・p225、納得だ。 「晩年様式集」p195,p220、「大江健三郎自選短編」(一部手直し)p221、「古井由吉自選作品」p221 嘉村磯多は最後の私小説家p230
読書案内になる対談集である。
単行本「みずから我が涙をぬぐいたまう日」に併載され た「月の男(ムーンマン) 」を読む。 こっちの方が分かりにくい。 アポロ11号月面着陸の時代である。 僕、作者。 ムーンマン、NASA有人宇宙船から逃亡した宇宙飛行士。 女流詩人、ムーンマンと同棲、ムーンマンの子を孕みアメリカに移住する。 スコット、鯨保護運動家 細木、「新左翼」の活動が、イルカの格好をして疑焼身自殺を図る。 ここでは「あの人」は天皇であり、ムーンマンは現人神に会いに来日し、僕は白いイーグルス号に「あの人」が乗っている夢を見る。 アメリカに戻ったムーンマンは人力飛行機で月に行こうとして、人力飛行機に熱中する。 ドストエフスキーの、大暗黒のなかを歩いて天国に行く男同様・・p248、ドストエフスキーのどの作品?
久々に大江健三郎に帰って、「みずから我が涙をぬぐいたまう日」を読む。平野謙が週刊朝日の匿名書評(週刊朝日1974年11月10日号)で書いたのを誤読(遺言代執行人を看護婦と読む) だと大江健三郎に批判され、平野謙は書評から降りたという話題の作である。 単行本には「月の男」併載され、序に「二つの中編をむすぶ作家のノート」がある。 そこでは『政治少年死す』の詩の一行「純粋天皇の胎水しぶく暗雲星雲を下降する」の意識の暗いところに「みずから・・」を、明るいところに「月の男」を書いたとある。
ゴシック体で「あの人」p12が出てきて、神か天皇か父親か、曖昧な感じが読み進むうちに父親であるとはっきりしてくる、暗喩とは別に。 文体がこねくり回したようになるのはこの作品の頃からか。八月十六日に決起する「あの人」とゴボー剣の少年、お笑いを悲劇にするにはこのような複雑な文体も必要なのかもしれない。
「遺言代執行人」に注目して読んだので妻であることは明白であるが、作品の本質に目を逸らしがちになる。
林京子氏の逝去を知ったのは後からだったと思っていたので新聞を見直すと、亡くなったのが2月19日で毎日新聞に掲載されたのが3月2日でそもそも後から知ったわけになる。 やすらかにねむり給わんことを祈る。
林京子を悼んで、芥川賞受賞作「祭りの場」を当時の文藝春秋で読む。 作者の長崎原爆被爆の経験を下に書かれた作品で訴える力はやはり秀逸だ。僅差の受賞だったようで選評では、「祭りの場」をとる井上靖、人を打つ力大岡昇平、冴えた筆瀧井孝作、肉筆の味中村光夫は新人賞としては「祭りの場」、「浄徳寺ツアー」「真夜中のパズル」に好感永井龍夫、「暮色の深まり」「家の光景」丹羽文雄、林京子の力作舟橋聖一、該当作見当らず安岡章太郎、感想いろいろ吉行淳之介。 名詞「勤労動員」を「勤労動員した」との動詞として使うのは問題と、中村、安岡が指摘しているが、今の時代だからそう思えるのか違和感なく読めた。
「同窓会名簿をくると、一頁三十六名中一九名まで死亡した頁がある。」、卑小な話になってしまうが、私関連の同窓会名簿は卒業者名簿で、在学中に死亡した者、退学、転校した者は載っていない。日頃それを残念に思っている。
島尾ミホの作品も読まなければと思い、幻戯書房二〇一五年八月十五日刊「海嘯」を読む。 ハンセン病患者の不気味さが描かれ、 ハンセン病に差別があるのではないかと疑念もあるが、それは別として「です」「ました」の穏やかな文体が返って「怖さ」を強調する。 どうなるのかと読み進んだ。。 主人公は貧しい漁師の一人娘で幼少の頃、ハンセン病を伝染され、成長して発病した女性、スヨ。 幼なじみのミナは屋敷の一人娘で東京の女学校を出ている。 作者のモデルのようでもある。 コバルトブルーと群青の海の色調p94 南島の風景描写は私の知らない世界、鋭い記憶力、観察力が知らされる。 スヨが荒天の中、ヤマトニセに会いに行くp132のはミホが島尾隊長に会いに行った経験からきてるのであろう。 部分的に重要な箇所では方言が使われ共通語のルビが振られている。方言を読みながらルビも読むのだが、リズム、アクセントがまるっきり分からない、まさに方言である。 分からなくても方言も読むことにより、意味合いの強さを感じる。 スヨはヤマトニセ(大和人)に恋するようになり、悩んだ末にハンセン病であることを打ち明ける。 ハンセン病の全ての患者を根こそぎ強制収容したのは1931年の癩予防法。 島尾ミホは1919年生まれ、ハンセン病患者の実体は知識の中にあったわけだ。 二人は塩焼き小屋に住むようになるのだが、この小説は未完である。 島尾ミホにしか書けない小説である。 解説はミホの孫にあたるしまおまほが書いている。 解説というより思い出であり、怖いお祖母さんだったようだ。 なにせ、島尾敏雄没後、喪服で過ごしたお祖母さんなのだから。
p61にアンプルから注射するまでの詳細な記述があり、私の就学前、虚弱体質で保健婦さんにビタミンを射ってもらっていたことを思い出す。
夜、TVでブラタモリ奄美の森を観る。ハブについては島尾ミホが書いている通りである。
毎日新聞夕刊に「南スーダン陸自撤収 」関連で記事 派遣部隊の内部文章に『・・「特定の人をスケープゴード(いけにえ)にすることで集団の安定を図ろうとする動き」が内部で出ることを最も警戒すべきだ・・』とある。 いけにえで団結を図るのはドストエフスキー「悪霊」であり、連合赤軍派のリンチ事件であり、左右を問わずか。 軍隊では常在のものであったのだろう。
「狂う女」を読んだ後、島尾敏雄について触れてみたくなり、群像1987年1月号追悼特集島尾敏雄を取り出して読む。 島尾の没が昭和六十一年(1986年)十一月十二日、遺作含め44頁分しかないのかと思ったが急遽組まれた特集、やむを得ないだろう。同号は円地文子追悼も組んでおり、こちらは32頁分、円地が上田万年のお嬢様とは知らなかった。津島祐子も追悼文を書いている。 「狂う女」を読んでいると島尾敏雄はミホに支配され、一挙手一投足管理されてる上下の関係ように考えられ、追悼特集には芸術選奨「ミホがもらえといったから・・」と話していたとの追悼文もあるが、島尾敏雄は島尾敏雄であり、ミホとの関係を含めた上に島尾敏雄として存在していた。 ミホを抱え込んでの全身小説家だろう。 しかし島尾敏雄であり島尾敏雄、島尾ミホは島尾ミホであることを「狂う女」で知った。 敏雄の没後、ミホは喪服を着続けて敏雄の全ては私のものと考えていたにしても。 山周も島尾敏雄を評価していたのか。
持っている数少ない島尾敏雄の著書を調べると新潮社一九六四年二月五日印刷二九日発行の「出発は遂に訪れず」がある。
梯久美子著『狂うひと「死の棘」の妻・島尾ミホ」を読む。 面白く読めるのに評伝があり、本を購入しても置く場所もなく、死後紙屑同然されるだろうし、年金生活の身、図書館に何十人待ちの予約をし、借りて読む。661頁の大冊である。 「死の棘」は仕事絡みで製本途中の本を入手し、自分なりに製本したのを読んでいる。 その奥書には昭和五十三年八月十日二十三刷とある、作家島尾敏雄の存在を知ったのこの頃だろうか、埴谷雄高の隣村(相馬郡小高)出身であることから知ったのだろうか、記憶が定かではない。 強く印象に残り、TVであるが映画も観た。
この評伝を読むことより小説の上だけでなく、実際の島尾敏雄の家庭が実際如何に凄まじいかを知る。 埴谷雄高が可愛がっていた長女のマヤさんはもう亡くなっていたのか(平成十四年五十二歳)。
長男の名は何故伸三なのだろう、「死の棘」では伸一なのに。
読書日記にはならないが映画「静かな生活」をあらためて観る。 生活を忠実に描かれているが、タルコフスキー、セリーヌに関する部分が省略され、六編の事件を中心に映像化されている。 映画ではヨット殺人事件、女性殺人事件、身替わり自殺、マーちゃんが襲われる事件の結びつきがわかり易くなっている。 事件を中心にもってくるには伏線が必要であろう。 人は人を救えるかの問題を問うには。 イーヨーはゆったりした身のこなしのはずなのに渡部篤郎のキャスティングには違和感を持つ。 基本的に文学と映像芸術は別物であり、当然であるが。 この映画が小説の本質を描いているのかもしれない。 「家族は父の小説を読みませんから」とのマーちゃんの台詞がある、本当のような嘘のような。 大江健三郎は日本文学からの引用は中野重治くらいで少ないが、日本の小説もよく読んでいるのは確か。 勃起するイーヨー、障害者が幼児に悪戯するうわさ、少年が性犯罪を起こし身代わりに頸を吊る中年男・・・大江の長男が性犯罪を犯した場合、自分自身が頸を吊る・・それができるか・・微妙な意識を内在させた作品であると、後に理解。不安を抱え込んだ静かな生活。
大江健三郎の「静かな生活」が伊丹十三監督で映画化されているが観てなかった。 ケーブルテレビで放映があったので録画しておいたのを観てから「静かな生活を」読む。
1990年12月8日毎日新聞夕刊「大江健三郎氏に聞く」において、
「静かな生活」は六編の短編小説よりなる。購入した時は一編の「静かな生活」しか読んでいなかったような気がする。 大江は「家族の小説を書いた」のであって「家族を書いた」のではない。
イーヨーもマーちゃんもオーちゃんも今ではかなりのおじさんおばさんになっているのだろう。
短編集とは短編を集めたものとしか考えていなかったが、「静かな生活」ではそれぞれ繋がっており、全体を構想し短編が書かれたことが伺える。
芥川賞受賞作「しんせかい」山下澄人を文藝春秋で読む。 作者は倉本聰の富良野塾の二期生で、二期生時代を軽い文体で描いていく。 登場人物が多く分かりにくい面がある一方、人物像について忘れしまってもどんどん読み進めていける。 又吉直樹の火花は漫才師の泥臭い世界を泥臭く書いたのに、真冬の塾生活を山下はあっさりと青春小説のように書いていく。 最後の「どちらでも良い。すべては作り話しだ。・・」は余計だろう、倉本聰に遠慮したか。 芥川賞候補四作目の受賞で、以前の作はどんな風だったのだろうか。 今更だが、芥川賞の上半期下半期がよく分からなかった。今回のは平成28年下半期となる。
「偉大なる憤怒の書」は埴谷雄高訳なので埴谷雄高の「ドストエフスキー全論集」講談社刊に関連のエッセイがありそうで、「偉大なる憤怒の書」訳本p170があった。 「・・連合赤軍事件が起こったとき、私は大江健三郎君と「世界」で『革命と死と文学』という対談をしたのですが、そのとき、その「みすず書房」からでた『偉大なる憤怒の書』を大江君が持参してきたのでした。・・」とある。
系統はまるっきり異なるが、日本会議が話題になっているのに単なる右翼団体との認識しかなかったので、「日本会議の正体」青木理著平凡社新書を読む。 題名は編集者が付けだのだろう。 生長の家、元民族派学生、神社本庁が絡んだ組織である。 生長の家を出版宗教というのか。 組織活動を左翼に学んだとか、左翼が内ゲバをやってる間に着々と組織拡大をしていたのである。
「宙返り」で引用されるのは1943年版のようで、私の持っているのはみすず書房の改定第5刷。 「悪霊」の中心人物主人公、スタヴォロージンについては不分明な印象が強く、数回読んだはずなのに掴み難い人物、むしろそのような存在であると考えてもよさそうだ、薄っぺらと考えることもできるのだが。 怒れるヨナは誰なのか、憤怒の書「悪霊」を書いたドストエフスキーである。 登場人物それぞれについては「悪霊」の読み方が浅かったこと知る。「悪霊」も何度も読む価値のある文学である。死ぬ前にもう一回くらい読めるだろうか。
パトロン、木津、育雄達が四国の森に移住していく。そこでは大江文学の馴染み深いサッチャン、アサさん達が待ち構えている。 かっては「下」を途中までしか読んでいなかった。と確実にいえるのはウォルインスキイの「偉大なる憤怒の書」p329、「カラマーゾフ万歳」p443の記憶がないのである。 幾らか読みが浅くても目を通しただけでも記憶に残るはずものである。 「上」の育雄の表情「亀のような額、窪んだ大きい眼窩、そして幅の広い鼻梁と厚い脣、耳から頬、顎へと皮のベルトをしめたようなにくづきと、・・」p61は「偉大なる憤怒の書」の挿し絵にある予言者ヨナなのである。 「下」にもギーとサッチャンの子(?)であるギー登場して来る。少年グループ童子の蛍のリーダーを担っているが、ギー兄さんのような立場にはなっていない。パトロンが期待する新しい人になるのであろうか。
木津の描く三枚続きの絵(トリプテイク)が物語を象徴する。
大江は無神論者のはずだが、antiであれ、anteであれ、極めてキリスト教に近づいてきている。 大江文学自体の「宙返り」が怖い。
p367「・・どちらもメイスケさんと繋がりのある二度の一揆に始まって、さきのギー兄さんの根拠地、新しいギー兄さんの「燃えあがる緑の木」の教会に至るまで、それぞれがわずかにズレを含んだ繰り返しでした。ズレが生産的なんです。」
一つの作品を読み重ねることは重要だが、一連の作品を読み続けることも価値ある。 私のような読む力の弱い人間には一冊の本を読むことの方がいいだろうが。 「宙返り」の下に入る。
出版社が高知であることから地元性のある本である。 「万延元年・・」「懐かしい・・」「燃え上がる・・」それぞれ作品から想像される地形地勢を提案されて入るのかと思ったがそうではなかったのが残念。 まあ、こちらの勝手なミーハーな思い込み。 大江健三郎の出生地大瀬の集落は以前googleで見ていた。添付された地図を視ると予想していたのより大きな集落である。 「燃え上がる緑の木」第一部の記号化された場所に対する考察がある。 ザッカリーにより記号がされた場所が三十一項目にまとめられ「燃え上がる・・」p203、p204には三十項目しか記載されていないのが問題になっている。確かに大江は数字に厳密なはずなのだが。空行の後の「百草園」p206を加えてはまずいのだろうか。 三十項目の場所が現実のどの地に対応するのか論じられている。 テン窪はどこから発想されているのだろうか検討されているが、牽強付会はない。 「「記号化された場所」はあらかた歩き終わって、ザッカリー自身が説明してくれたら言葉から、私はやっとかれの態度を理解するようになったと思う。」p204についてもどのように理解するようになったのか、読み解くことが多い。 このような本と接すると、読み飛ばしていて、読みが浅いことが思い知らされる。 もっと詳細な地図があったら、地獄絵図の図版も大きくカラーであったらと思う。 大瀬が山中であることがこの本で改めて知ることになり、文学が地域起こしに繋がるものではないとしても、大江文学がなければ殆ど知られることがなかった内子町大瀬が著名になったのは明らかである。
文章の緻密性に比べると曖昧に思えるの は単に読書力不足とはいえないと思うのだが。 大江文学の登場人物は大江の配偶者だったり、妹だったり、娘だったりが文学的人物に創造されて行く。 但し、長男に関してはリアルに表現されていると勝手に理解している。 同じように四国の山中の集落が文学的空間となるのには私の想像力が欠如して読み取れない。四国の山中に拘り過ぎか。 疑わしさはあるが、当然作者本人には明確なイメージがあるのだろう。 大江健三郎ファン(?)は少なくないので、想像地形図、地勢図をネットで紹介されているのではないかと調べたが、意外に無いのである。 人工池の広さは何平方メートルか、私はこう考える等々・・面白そうに思えるのだが。 分かりきったことなのか、ミーハー過ぎるのか。 また、ネットになるのだが、「大江健三郎研究 四国の森と文学的想像力 Field Work」大隅満・鈴木健司編著/リーブル出版、まさにお誂え向きの本があることを知り図書館から借りて読むことにした。
群像に掲載された短編で、戦後日本を代表する短編小説というわけではない。 太宰治「トカトントン」、原民喜「鎮魂歌」、大江健三郎「無垢の歌、経験の歌」を読む。 雑誌は一寸丸めたりして読むので本を傷めそうでこれだけ読んで返すことにした。 太宰、大江は一度読んだ記のある作品。 民喜は短編小説というよりも長編詩であり、題名は確かに鎮魂「歌」。 鎮魂歌には「嘆き」「救いがない」が繰り返され、大江は悲嘆を書く。 大江の樹木に対する表現にはやはり素晴らしいものがある。 両氏とも題名に歌が入っている。 原民喜が自殺したのは1951年3月13日、峠三吉の病没は1953年3月10日、太宰治の心中は1948年6月13日。
宙返りとは疑似転向のようなものか。 宗教団体の教祖パトロンとガイドがケツをまくり、10年間地獄にいて、パトロンが教団の再生を四国で展開して行こうとするのが上である。 大江健三郎は無神論者のはずだが、唯一者≒神、神を信じているのだろうか、これは下で明らかになるのであろうが。 画家の木津が中心(?)となり物語が進む。 「燃え上がる・・」ではイェーツの詩に沿って物語が進む様相があったのが、この作品ではR・S・トーマスの詩p114が引用される。ヨナ書も。
大江には、「・・嫉妬の暗いとどこおり・・」p163「・・陽気な仮面めいた微笑・・」p221などの独特の表現があり、これが大江文学の魅力だろう。
「・・バッハだかモーツァルトだかの断片みたいな音楽・・」p385、大江光の曲にはこのような批判があったのだろうか。
プロレタリアの意識向上先進化を先鋭的運動で果たすのに重なるのである。 光の粒子/波動 p230 光は粒子でもあり波でもあることについて、その物理的特性があることを理解するが理論的にはどうも理解できない、これも大江の両義性になるのか。
9条が何故定着したのかをカント、フロイトから解き明かしており、興味深い。 柄谷とはこんな面白い人だったのか。 「9条の実行」を掲げており、私も9条を護るのではなく、展開をと考えていたので嬉しくなる。 新聞に登場したときは新進気鋭の文芸評論家と思っていたのに肩書きは哲学者になっている。私より年長ではあるが。 中上健次を評価していた記憶がある。 香山リカにも愛国主義を心理学の面から分析してい著書があった。
「おかしな二人組」の題名の本があったはずと思い、スマホで調べてみると―ー最近では本を読みながら不明なところがあると直ぐにスマホで調べるのが習慣になっているのだーーこの題名の本はなく、「取り替え子」などの三作品の特装版に作者と古義人の対話編を付けて、「おかしな二人組」の題で出版したのだ。この題に記憶があるというのは出版を知っていたわけか。 ガイドの動脈瘤は破裂しているので、二人組は成立しないか。
闘病中の武満を見舞いに行き、小説はもうやめると話し、武満から続けるように説得され、完成したのがこの作品である。
「燃え上がる緑の木」を書いて小説をやめようと思ったと書いてあり、「燃え上がる・・」は万延元年からの集大成と感じ、この先ギー兄さんを再生させたとしても新しい展開は困難であろうと思っていたのも的外れではなかった。 ただ、ギー兄さんが殺されてしまって、人々がばらばらに出発し、未来への道は見えてはこない、結末はない。 読者自身が切り開くものなのか。 社会として、 スターリン主義社会、マオイズム社会、 山岸会、クェーカーの様な宗教コミュニティーを知識と知らない訳ではない。 それらはカラマーゾフの兄弟の大審問官を否定するものではない。 また、ローザの「プロレタリアデモクラシーはブルジョワデモクラシーより優れたものではなければならない」に応えるものではない。 大江健三郎はそれを宗教ではない「祈り」に求めているようだが。
その生活が何ページも続くのである。 「知恵後れの子供をメシの種にしている・・・」p105にはギョッとする。 「死刑台の諧謔」の見出しも意味が捕り難い。死刑台は直ぐにドストエフスキーと繋がってしまう。 ギー兄さんが襲われ怪我したことを知り、サッチャンこと私は四国の森に戻る。 ギー兄さんは再度襲われて亡くなってしまう。 学生運動の内ゲバがテーマでもある。ドストエフスキーの小説で無神論者が登場するのと類似はしている。党派活動は永遠のテーマでもあるか。 それらを救うものとして「魂のこと」p158への専念が措定される。 魂の字、スマホと書籍では何か風合いが異なる。「魂」、使い古され手垢に汚れた言葉のようで抵抗を感じるが。 無神論者大江健三郎の行き着いてしまったところなのであろう。 ギー兄さんは亡くなり新たなギー兄さんにバトンタッチされ、更に継続して行く。「継続」は大江健三郎の理念でもあろう。 教会がメディアのバッシングを浴びる。「イエスの方舟」事件を思い出してp396にくると、そこに「イエスの方舟」の記載がある。 大江健三郎の作品は特有の構想された世界を描いているばかりでなく、現実とも呼吸しているのである。 大江健三郎は「救い主」を求めてはいない。 「青い鈴のように垂れさがっているクコの老樹に・・」p329とあるが、クコは赤い実のはず、間違えたのではなく神話の世界であることを示しているのか。 後で気がついて後書きになるが、赤い実は熟したもので熟する前は青いはず。熟する前のクコの描いたものでこちらの知識不足か。 でも、クコ=赤い実、と考えるのが小生レベルの常識だろう。また、実際にクコの成長を見ていない経験不足がミエミエであった。
記憶がないと書くと恥ずかしいので薄いと書く。 雑誌で読むというのは第三部を期待してわけでもあるのだろう。 今回読んだのは古本屋で50円で購入した文庫本で、文庫本には解説があるのがいい。 解説は「たった一羽の蝶がこの地球の全重量を支えている」から始まり、いい解説だ。いい解説と思ったのは初めてのような気がする。 解説の川本三郎、どんな人かと思って、スマホで調べたら1944年の私と同年生まれ。 1944年生まれは大江健三郎にコンプレックスを抱く世代と思っていたが、そうでもなさそう。
短歌に強く惹かれたのは啄木以来だ。 凄絶なる生い立ち、それを表現方法する歌は、個から出発して五七五七七に拘らず独自の領域まで持って行く。 買ったのは五刷、それなりに売れていることでホッとする。 この後、どんな作歌活動に入っているのか、難しさがあるが、この一冊だけでも悲しく素晴らしい。 俵万智は幸せ過ぎる。
「燃え上がる緑の木」第二部の題名が「揺れ動く〈ヴァシレーション〉」であることから、更にイェーツに暗示されるように物語が展開される。 第一部でギー兄さん(救い主?)は殴られ、森の会は縮小となる。 第二部ではギー兄さん再生し協会が建設される。 私が同工異曲と捉えていたが、再生であることを知る。 イェーツの「動揺」を読んだが解りにくい詩である。詩は解るものではなく感ずるもの。 一連目一行目の「人は二つの極のあいだにいて」、二連目一行目「煌々と燃え盛る火炎、あとの半分は緑色につつまれて、」、「燃えあがる・・」との関わりの強さが感じられる。 「あいまいな日本の私」を見直したら、イェーツのひそかな弟子と語り、その全詩集が徹底して「燃えあがる・・」に影を投げかけている、と語っている。p7 大江健三郎のテーマは「再生」ということではなかろうか。 第二部でギー兄さんは復活する。その父で総領事が亡くなる。総領事は「火山の下」の領事と結びつくなのだろうが、結びつけて読むことができない、領事職からドロップアウトしたのは共通だろうが。 総領事は大江健三郎のSF作品「治療塔・・」の第三部書くことになるが挫折してしまう。p143 「治療塔・・」は三部作の予定だったのか。 教会が建設されて順調そうにみえたが最後にはギー兄さん自体説教の言葉を失なってしまう。 P 大江健三郎の作品は読んでは忘れ読んでは忘れが多いのにこの第二部は意外に記憶に残っている。 従来大江健三郎の作品は個から出発し、その個、僕は大江健三郎なのだが、この作品ではサッチャンから出発し、大江健三郎はKちゃん、K伯父さんとして客観的(?) に表現されているのが興味深い。
結局「燃えあがる・・」第二部の文庫本が見つからず、は単行本で読むことにした。通販で購入することも可能なのだが。 第二章の題名の「中心の空洞」は何もない教会を意味する。かって読んで時は目を通したに過ぎないことを実感する、何も感じずにいたのだ。
「燃えあがる・・」一部三部の文庫本は古本屋で購入したので、二部の古本を神保町で捜しても見つからない。 まあ、そうはいくまいと思い、文庫本の新本を求めようと考えたが、丸の内の丸善にない、神保町の三省堂にもない。八重洲のブックセンターにもないのである。 出版時に買った単行本で読むしかないか。
コクトーの「バッカス」を読む。 コクトーは「恐るべき子供たち」を読んだだけ、絵画展のようなのをみた記憶があるが。 バッカスは渡辺一夫と山崎庸一郎の共訳である。当然、大江健三郎は原書からの引用でvacchusとなっている。 大江健三郎はフランス文学専攻だったのに、英文学からの引用が多く、仏文学からは少ないような気がする。 バッカスの舞台は1523年、16世紀だ、大審問官もその頃ではないかと確認すると、「舞台は16世紀」となっている。 第二幕六景のハンスの台詞に「地獄廻り」があり、神曲からのもので、「ただ彼の身代わりになれるだけだ。」は「燃えあがる・・」の「・・自分のいのちよりも、あなたのいのちが大切・・」に繋がるのだろう。p238 中野重治の『春先の風』は短編で、警察に捕まり、その間子供を失い、《わたしらは侮辱のなかに生きています。》と書く。 中野重治全集の一巻に載っているので本当に初期の短編である。 書き出しが3月15日・・となっている、これは3.15事件を書いたのだ、後から気がついた。 埋もれているような作品が生き返ってくる。大江健三郎も埋もれつつあるか。 引用の作品を読むとそれが引適切なのにはうなってしまう。 「燃えあがる・・」は第一部のみでひとつの作品として読み得る。 それを考えると同時代ゲームも六つの作品として読むことできる。それぞれの作品が競争している、これがゲームなのか。
「燃えあがる緑の木」第一部を読み終える。
文庫本の第一部、第三部は古本屋で買ったので第二部の古本はないかと今日、神保町の古本まつりで捜してみたが、やはりなかった。
ところで「燃えあがる緑の木」第二部、
「燃えあがる緑の木」第一部
p322ふいごから、男の声が・・、p228風の音がふいごから・・
原基晶訳の神曲地獄編を書店で捜したら、丸の内丸善、浦和パルコ紀伊國屋、須原屋、三省堂にもない、あっても煉獄編、天国編だけなのだ。 そうなると、益々欲しくなる。 遂に見つけた、書泉グランデにあったのである。 1430円、今まで購入した文庫本では最も高価、但し1983年に購入した岩波文庫野間宏の青年の輪(1)が850円、今だったら幾らになるのだろうか。(1)の途中までで挫折した本だ。
16日、毎日新聞の書評欄に「『神曲』とは何かと」(村松真理子監修/別冊宝島)が載っており、紀伊國屋で求め読む。 ムック本を購入するのは初めてような気がする。 図版が多く、ブレイクのもある。 ページ数がすくないので超要約となっている。それでも丁寧に読まないと理解し難い。歴史が動いている動こうしている時代なので初めて聴く登場人物も多い。 肝心の神曲、図書館からかりるのではなく、購入したいものだ まるっきり口語体だけど講談社学術文庫の原基晶訳がいいだろう。文語体は大江健三郎の小説で読むとして。
隠遁者ギーが亡くなり、ギー兄さんが亡くなり、「燃え上がる緑の木」に再登場してくる。 文庫本の「燃え上がる緑の木」一部三部は古本屋で購入している。それならば二部の古書もどこかにあるはず。
久しぶりに安部公房の「砂の女」を読んでみた。 古本屋で100円で購入したものだ。 学生の頃映画にもなって話題になった。 当時、小市民化を促すものと共産党は批判していた記憶がある。 スターリン社会のもう一つの面、大審問官の裏からの表現になる。 安部公房特有の文学空間、その構想力 は確かにノーベル賞ものだろう。
「懐かしい年・・・」を読むのに遠回りしていた。戻れなくなってしまいそうだったが、何とか読み終えた。 キュウリをキウリにしたのは中野重治を参考にしたようだ。p165 p320の「受け身はよくない」も中野重治からのもので、中野重治がどこで使ったのか調べるのは容易でないだろう。 松山から隣町まで汽車に載る、p263、途中まではあれ汽車に乗って谷間に行くのは初めて出てくると思う。 5,6歳年上のAさんp286、岸田今日子かと思っていたら、p289に宝塚出身のAさんとある、そうすると新玉美千代のことか、信じ難い。 この小説は自伝的な要素が深く、私個人からfictionの世界への形を採るのが大江の特徴、事実から真実へと言い換えることもできるか。 この作品の重要な存在がギー兄さんと妹で、実際に妹がいたのか、年譜をみると確かに存在している。 小田川p233も確かに実在の川だ。今頃になって調べている。 長い間、実在の個人から出発して文学の世界を構築して行く大江文学をその個を含めて意識的にfictionと考えて読んできたので、年譜を見たり家族を含めた写真を見るのも最近のことである。 ギー兄さんは伊丹十三がモデルとなろうが、大江健三郎の分身であることも間違いなく、ギー兄さんの「死者の奢り」p276、「個人的な体験」p371に対する批評は出版当時あったもので大江健三郎自身その批評を納得もしていたことになるのだろうか。 故郷を懐かしむ、ブレイク詩「Under Saturn」から始まり、ダンテで終わって行く。 私のダンテへの理解が浅く、読み切ったとは言い難いのが残念。 「懐かしい年・・・」を読むのは今回で三回目のはずだが、全くいい加減だった。若い時分は時間があるのに走り読みし、時間がない今になってゆっくりと読んでいる。不思議なことだ。 森を「・・放射能の灰とラジオ光線の毒とに/ありとある市 ありとある村の/人間 家畜 栽培物が浸食される時/森におこっているのは驚くべき/生命の更新である。森の力は強まり/・・」書いて入るが、除染されずに残っているフクシマの森を大江はどう考えているのか、既に発言されていて私が知らないだけか。
相変わらずの猥雑さには疑問を感じる読者も多かったろう。
「懐かしい年・・・」読書を再開。
「「罪のゆるし」のあお草」を読む。 ブレイクのピカリング稿本中の「知の旅人」(松島正一編では精神の旅人)は奇妙な恐ろしい叙事詩である。 作品での僕の罪は何なのか、少年時の父に対する思い、ヒカリに対する思いか。 少年時の「神隠し」も関連してくるのだろう。 ブレイク詩集の編者が他の作品でなく、「「罪のゆるし」のあお草」を紹介したのには納得するものがある。 新しい人よ眼ざめよも読みなしておきたい。
更にネットで「われらの狂気を・」のオーデンの詩を検索していたら次の詩がみつかった。 ぴぴんさん訳で良さそうだ。
Night falls on China, O teach us to outgrow our madness. Ruffle the perfect manners of the frozen heart, And once again compelp it to be awkward and alive… Clear from the head the masses of impressive rubbish; Rally the lost and trembling forces of the will, Gather them up and let them loose upon the earth… And now I hear the hum of printing presses; Turning forests into lies…
・ “Night Falls on China,” by W.H. Auden
「われらの狂気を・・」を読む。 詩と小説の関係には了解されるものがある。 詩を小説に利用するのではなく、詩に拠って喚起させられる小説、詩に拠って深められる小説、詩人がブレイクでありオーデンであることから外国語に翻訳された場合、理解され易いだろう。 全然視点は異なるが、第三部 父よ、あなたはどこへ行くのか?について ここに父が大きい背を向けて録音機に向かって過ごし、スパイとの疑いが記されるシーンがある。p337 このようなシーンを「万延元年・・」と重ねて記憶しており、「万延元年・・」を読み返してもそのシーンはなく、何だったのかと思っていた。 雑誌で「父よ、あなたはどこへ行くのか?」を読んでいたのかもしれない。 ブレイクの詩 My mother groan'd! my father wept.・・ は岩波文庫対訳ブレイク詩集に Infant Sorrow の第で乗っていた。 排骨湯麺が美味しいと書いてあり、どんな麺かと調べたら、パイコー湯麺、 これなら食べたことがあるはず。 「父よ、・・」を読んで、強く感じたのは私自身の父はどんな風だったのか、父の亡くなった年齢35歳を過ぎてから思うことが多かったのだが、母に訊かず仕舞いなのが残念である。 私は父の倍以上の年齢を生きている。
「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」の第三部はオーデンとブレイクの詩を核とする二つの中編となっており、ブレイクに目を通さねければならない。 古書店で買った岩波文庫の「ブレイク詩集」のまえがきを読むと、大江健三郎氏の短編「「罪のゆるし」の青草」に影響を与えたとある。 私は読んでいない。大江作品を余り読んでいないことがバレてしまう。 この作品、ネットで調べてもどこに収載されているのか不明である。 レーンツリーを聴く女たちに載っているように書いてあるのがみられるが、そのようなことはなく、ネットで更に調べると短編集「いかに木を殺すか」に収載されているのが判明した。 運良く、文春文庫の「いかに木を殺すか」を古書店で50円で購入していた。 「われらの狂気を・・」の後の作品なので、「われらの狂気を・・」を読んでからにしようと思っている。
そんなわけで、短編集「われらの 狂気を生き延びる道を教えよ」を読む。 「核時代の森の隠遁者」が「万延元年・・」の後編になるものであることを知る。 7但し、坊さんがぼくとなる。 「生け贄男は必要か」p192に魯迅の狂人日記の引用があり、狂人日記を読む。
「懐かしい年への・・」 「万延元年・・」ともうひとつの短編p16とあるのに、その短編が不明で調べてみると「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」にあるようだ。 この本購入していたつもりだったが見あたらず、文庫本一冊50-100円の古書店にもなく新文庫本で購入した。 今は大江健三郎の人気はなくなり文庫本は古書店のワゴンで買っていた。 「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」に依ると、この題名はオーデンの詩から選ばれたもので、それではとオーデン詩集を借りて読もうと思ったが、深瀬基寛訳はなく、中桐雅夫訳を借りたが、当該題名の詩はない。 だが、解説を読むと、「見るまえに跳べ」「狩猟で暮らしたわれらの先祖」はオーデンからの引用となっている。 特有な題とは思っていたが、そこまで考えるには至らなかった。 中桐雅夫訳の一番初めに出てくる「きょうは顔をあげて、ぼくたち、おなじような夕方を/思い出してる、小川が砂のうえを流れ、はるかに/氷河を望む風のない果樹園を一緒に歩きながら。」は大江健三郎の初期作品を連想させる。 肝心の大江が題名に引用した詩は載っていない。 例によってネットで調べる。
「狩猟で暮したわたしたちの先祖は」W.H.オーデン
ブログの本買記には見る前に跳べが載っていた。
われらの狂気を脱する道を教えよ/W. H. オーデン
「中国に夜が来る
Don't Let Me Downのブログでは なお、html文書なので分かち書きはいい加減である。 大江文学の題名には異様な魅力を感じていた。それを検討するのも別な意味で一興になるものである。 knifeを持っていたのにnaif(仏語)とあだ名されてる云々は、以前は読み飛ばしていた。p193
「懐かしい年への・・」に戻って、 実に遅読、遅読を自慢にしてもいいんだが。 p136にモームの「人間の絆」に関するところが出てくる。読んでおいたので良かった。 ディケンズといい、大江健三郎は英文学との繋がりが強い。 大学ではフランス文学が専門なのに、サルトルなど思想的にはフランスなのか 「燃えあがる 緑 木」はp142辺りに出てくる。
図書館に予約しておいた岩岡千景著「セーラー服の歌人 鳥居」KADOKAWA刊が取りおきされてるとのメールが入り借りて読む。 歌人の鳥居、現実が酷くても短歌(居場所)があれば生きていける。 現代の短歌はこんな風なのかと一寸知る。 鳥居の作品から私の選んだ一首 「包丁のひかりを帯びて一筋の冷たい風が研ぐ冬の街」 寂し過ぎる。 芸術は弱い人のためにある。太宰治の「畜犬談」、読んでなかった。 私も高校生の頃、幾首か書いたはずなのにほとんど憶えていない。
「懐かしい年への手紙」を再読(再々?)するに当たって、W.B.YeatsのUnder Saturnを読んでおいた方が良いのではないかと思い、ネット(余白氏のHP)でダウンロードし読んでみる。(1921年出版の詩集Michael Robartes and the Dancerに収録)。 Do not because this day I have grown saturnine Imagine that lost love, inseparable from my thought Because I have no other youth, can make me pine; For how should I forget the wisdom that you brought, The comfort that you made? Although my wits have gone On a fantastic ride, my horse's flanks are spurred By childish memories of an old cross Pollexfen, And of a Middleton, whose name you never heard, And of a red-haired Yeats whose looks, although he died Before my time, seem like a vivid memory. You heard that labouring man who had served my people. He said Upon the open road, near to the Sligo quay -- No, no, not said, but cried it out -- 'You have come again, And surely after twenty years it was time to come.' I am thinking of a child's vow sworn in vain Never to leave that valley his fathers called their home. 余白氏訳と鈴木弘訳を参考にして読んだ、大江健三郎訳も。 詩の翻訳は神業だ。 「懐かしい年への手紙」の出だしに、 I am thinking of・・が大きな意味あるのだろうが、イェーツに対し理解不十分であり、何ともいえない。 今回、イェーツを一寸知ったのは成果か。
「カラマーゾフの兄弟」からの引用もある。
「懐かしい・・」の付録のインタビューで大江健三郎が「・・宗教を持つ人たちと、宗教を持たぬ人間とが、なんとか協同して、ひとつの祈りをおこなう・・」と語っているのは「カラマーゾフ・・」とゾシマ長老と関連付けられる。
こんな本あったのかと思い図書館借りて読む。 埴谷雄高編「内ゲバの論理」1974年三一書房刊。私が30才の頃か。 高橋和己「内ゲバの論理は越えられるか」、これが掲載されているのか、「わが解体」に書かれたものだ。ー主要打撃論理と人民戦線路線、大衆の参加しない組織。 「暗殺の美学」埴谷雄高ーマクベスートロツキー「テロリズムと共産主義」、「暗殺の哲学」高橋和己ーカミュ「正義の人々」、「憎悪の哲学」埴谷雄高、「目的は手段を浄化しえるか」埴谷雄高、「リンチの思想」鶴見俊輔、「市民的権利の立場から」久野収 あとがき「内部からの声を」ー似而非革命ーを埴谷雄高が書いている。 人は何故、人を殺すのか。
短編コレクションTに金達寿の「朴達の裁判」も載っている。 著名な作品なので読んだような読んでなかったような。 阿Q正伝を思わせるような小説である。
ガッサーン・カナファニー著岡真理訳「ラムレの証言」を河出書房新社刊世界文学全集V-05 短編コレクションTで読む。 パレスチナを忘れてはいけない。 この作品の書かれた時分(?)、映画「栄光への脱出」「情婦マノン」を面白く観ていた自分が情けない。
今期の芥川賞受賞作、村田紗耶香「コンビニ人間」を読む。 面白い、ユーモアがあって面白い。三島由紀夫賞など受賞しており、新人ではない文章が力になっている。 表題通りのユーモア性があるのだが、最後には恐ろしくなってくる。
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ著松本妙子訳「チェリノブイリの祈り」を読む。 著者はノンフィクション作家で2015年のノーベル文学賞受賞、書店にはたまたま無かったので市立図書館に予約しておいた。半年以上経って図書館から取り置きしましたとのメールが入ったのが前月、退院直後知り合いに図書カードを預け借りて来てもらった。 チェリノブイリ事故のベラルーシの被害者何十人にも対する聞き取り、ドキュメンタリーなのにフィクションと思わせられような凄惨さ、淡々と記されているような中の凄惨さが恐ろしい。 「事実は小説より奇なり」のレベルの話ではなく、人間の精神状態の複雑さである。 チェルノブイリは1600レントゲン、毎時3000マイクロレントゲン、50キュリーの世界。 フクシマは年間10ミリシーベルト、約7000ベクレルの世界。 単位換算換算 1キュリー = 3700ベクレル 1シーベルト = 100レム、 1レム = 10ミリシーベルト 1 Sv = 100 rem[1] = 100,000 mrem (ミリレム)(ネットより) だからと言ってフクシマは安全度が高いと言う気は毛頭ない。 チェルノブイリ、フクシマも終わってはいないのだ。
整形外科に入院中で痛みがあって、読書三昧と言うわけには行かない。 その点、子規はすごいな。 「火山の下」で読書に疲れた。 一度は目を通したいと思っていた「コーラン」(上)井筒俊彦訳(岩波文庫)を読む (?)。 旧約聖書、新約聖書の後を継ぐ書であろうが、そこに描かれているのは神話の世界ではない。 極めて世俗的で、一夫多妻、豚肉の拒否が書かれている。 この書が何故これほどまで力を持ったのか、興味あることだが、関連書を含めてそこまでは読み込まない。
「火山の下」、何たる難解な本だ。 複雑たる時代1938年、当時のメキシコを知らなければならない。これがかなり困難。 解説を先に読んでから読むべきだった。主人公のジェフリーはアル中か、強度のアルコール依存症だ。 大江健三郎もアルコール依存症のような気がする。 意味不明と思われる部分も多い、本来注釈が必要な小説であろう。 じっくりと一年くらいかけて読むべき本か、螺旋階段を地獄に向かって崩壊していくアル中ジェフ。 火山の下は12章よりなり、それぞれの語り手が異なっている。そこにあるズレ、同時代ゲームの六通の手紙のズレに関連ずけられるか。 誰か、謎解き「火山の下」を書いてくれないか。
二十世紀はアル中だ! 本の帯には「20世紀文学の金字塔」とある、それなら、研究書、解説本が出版されていてもいいはず。
図書館に予約しておいた「火山の下」が取り置きされたので借りて読み始めだが、長編、事情があって期間内には三分の一しか読めずに返却。 書店ありそうなので購入して読もう。 第一章は男性二人がカジノ閉じたカフェのテラスで二つの火山を背景にしてで話し込んでいる。 好ましい第一章である。
「神曲」読み終えるには一年はかかるだろうと思い、図書館に返却し、「火山の下」を借りて読むことにした。 本を読むには、 目を通す、字句を追う、読む、読み込むがある。 私の場合は「字句を追う」と「読む」の中間で、真ん中だったり左に寄ったりである。
ラウリの「活火山の下で」はあちこちに出てくるので読んでいた方が良さそうと思い、市立図書館のHPで検索すると蔵書はなさそう。 ネットで調べると確かにある。 白水社の新しい世界の文学〈第35〉「活火山の下で」がある。加納秀夫訳である。 1966年刊の古書で¥4798〜となっている。 何故細かく書くかというと新しい世界の文学シリーズ発刊は学生の頃で買い始めて途中で読む力が無くなって購入を中止したシリーズなのである。 金もないので購入したのは10冊に及ばないので「活火山の下で」を購入には至らなかった。 なお、購入した分は行方不明である。
現在、「火山の下」の題名で2010年に斎藤兆史監訳、渡辺暁共訳で白水社からエクス・リブリス・クラシックスシリーズで3564円で出版されている。
大江健三郎が「火山」を書いたのは1954年頃、「活火山の下で」翻訳出版されたのは1966年、原書で読んだ可能性もあるが、関連性はないだろうと推定する。
「懐かしい年への手紙」を少し読み始めたらダンテの神曲をせめて引用の部分は読んでいた方がよいと思い、神曲の世界に一寸触れてみた。 大江健三郎は岩波文庫の山川丙三郎訳がお気に入りで、これを読んでみると文語文で、曲の末の注を読みながらでなければならない。 ところがその注の字が小さく、中には潰れた漢字もあり極めて読み進めにくい。 そこで新訳をチェックすると講談社学術文庫の原基晶訳が読み易い、本来の神曲が三行毎に分かち書きされているようで、それに従っており、文体も現代文で、注が頁毎に載せられている。 山川訳では第一曲第二曲となっているのに原訳では第一歌第二歌となっている。 神曲は本来詩であることから山川訳の文語体には詩らしさと格調の高さが感じとれる。 原訳でも読み進める、ダンテと一緒に地獄に入るのは至難の技、引用されてる部分を調べてみる。 第十三曲(原訳では第十三歌)が引用されており、特に四十行目で山川訳「たとへば生木の一端燃え、一端よりは雫おち風聲を成してにげさるごとく 詞と血と共に折れたる枝より出でにき・・・」、原訳「ちょうど青々とした生木が両端の一方から 燃やされると、別の端からは滴を垂らして 出て行く蒸気が燻る音をはじめとするたてるように、 絶たれた元枝から 言葉と血がいっしょにあふれていた。・・・」とあり、 懐かしい年への手紙ではp38。
引用されてるイェーツの詩では、詩の翻訳自体詩作であり、訳者による違いが大きく、原詩はもちろん訳詩集も読むことも諦めた。
二冊100円で購入した「いかに木を殺すか」(文春文庫)に収録された「いかに木を殺すか」を読む。 手紙ではないのだが「同時代ゲーム」の第七の手紙のような作品で、この中で何度か「同時代ゲーム」に触れている。 「世界舞台」は村=国家=小宇宙であろう。 下世話で、Wはすぐ分かるがS君 H氏 A君は誰なんだろうと思ってしまう。 関係ないが、かってミクロコスモスというパソコンソフトがあり、windows以前の定番ソフトだった。 当然「雨の木」にも繋がって行く面がある。 解説は川西政明で、埴谷雄高が「自分のこと」で「 」と書いている紹介し、大江健三郎の仕事を「自己」→「自己の他在化」→「自己の多在化」と捉えてるのには成る程なと考える。 埴谷雄高のそれが載っている本は河出「ドストエフスキー論集」で、家にあったはずの講談社「ドストエフスキー全論集」が行方不明だ。
新潮文庫(性的人間)一九六八年四月刊に収録されている「共同生活」も読む。 四匹の猿と住む主人公、一つの部屋に四方向から見詰められ、拒否したいのだが拒否できず、そのことによってのみ存在感を味わっている。 最後に猿の存在は幻覚と判明する。 今まで知らなかった作品だ。大江健三郎は実に色々書いていたんだ。
「政治少年死す」、高校の頃雑誌で読んでもう一度確認したかったのである。 出版はされておらず書籍で読むことはできないが、ネットで読むことができる。 モデル小説ではないが、モデルになった浅沼稲次郎を暗殺した山口二矢は私より一歳上、その現実に圧倒されており、小説には違和感を覚えていた記憶がある。 ついでに読んでなかった「セヴンテーィン」(性的人間ー新潮文庫に収録)も古書店で二冊100円の文庫本を購入して読んだ。 右翼少年を描くだけでなくそれを通して人間の「存在」の仕方を表現しており、それには圧倒される。 山口二矢=おれと考えれば、右翼も脅迫したくなろうが、一人の右翼少年を描いた考えれば感謝状を贈る価値ありだろう。 これも実存主義の小説ではなかろうか。
「同時代ゲーム」を読んで、 単行本を購入して読んだ時は大江健三郎の作品を読まないわけにはいかない、そんな風でしかなかったかなと思う。 単行本では電車の中で読むのは不便で、今まで文庫本の購入は古本屋で購入し、神保町界隈で探しても見つからず、1000円以下ならばよかろうとと新潮文庫の新本を購入した。 以前に読んだ時、何が同時代なのか、何がゲームなのか分からなかった。 この作品は僕から神話的存在の妹宛て出された六通の手紙からなる。 それぞれが一つの作品のようでもある。 第一の手紙 メキシコからの手紙でマリコナルの遺蹟と村=国家=小宇宙を重ね合わせられ、「壊す人」が村を建設するのだが、先住民族を追い払って建設することが暗示されている。「壊す人」はアナーキストのようなとも考えたが永久革命論の方が適しているか、日本書紀に触れられていることからも神話の世界である。 「・・ウーウーと唸って・・」(p28)は晩年様式集の「ウーウー声・・」(p14)に連想させられる。 第二の手紙 スターリン=壊す人=絶対権力者、その暗殺者シリメ、ダライ盤、神話の世界は続いて行く。 「かれらの同時代に生きていた・・」(p174)と同時代はここに表れ、最後まで出てこない。 第三の手紙 亀井銘助の末裔の演出家、これでまた同時代になるわけだ。 川を汚すのは川を格下げ(p237)する行為とするのは納得だ。 第四の手紙 ここで五十日戦争が描かれて、戦争戦術の机上(空想)作戦の展開、著者はゲームをするように作戦を考えたのではないだろうか。 これでもって題名のゲームと考えるのは矮小化なのか。 色々な作戦が実行されて面白い。 第五の手紙で「僕」の兄弟がはっきりと示され、露一、露二郎、露巳(つゆみ)、露己(つゆき)、露留で「僕」は露己である。双子の妹が露巳、へびであることは象徴的だ。神話の完成度を上げていく。 「ツユトメサンが壊す人はじめ創建者らのイメージにとりつかれている・・」(p442)とり憑かれているのは「僕」であり大江健三郎だろう。 題名のゲームには結びつかないがp469に「ゲーム」が出てくる。但し野球関連のゲーム。 第六の手紙 森のフシギ、大江健三郎が創作した???である。 アポ爺、ペリ爺が特高に逮捕される。
ゲームとは何なのか不明だが、全てがゲームなのか、神話とはゲームなのか。
新聞の書評欄の片隅に載っていた夏樹静子著「腰痛放浪記」を図書館から借りて読む。 結果として、心因性の腰痛で、それを治してくれる医師に巡り会い絶食治療を受け快癒して行く。 それまでの三年間の痛み、私の腰痛などかわいいものだ。 何軒か整形外科、針治療、整体、宗教、有名どころには殆ど行っている。 まあ、金がないと受けられない治療でもある。
大学受験きっかけのひとつであったNHKドラマ「あすなろ物語」で井上靖の旧制高校時代をモデルとしたドラマであったのを再確認する意味で「あすなろ物語」を読んだところ、旧制高校時代そのものに相当する部分は描かれててはいなかった。 ドラマについて古い記憶を掘り起こすと女性関係とマント姿で砂浜を彷徨する四高生で、脚本家筒井敬介の作でもある。 原作は、所詮は桧にはなれないあすなろの一寸悲しい小説であることも知る。
蓮池透著「拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々」を読む。 書店に行ったら売り切れで図書館に申し 込み予約待ちで読んだ。 どぎつい題名だが、返還活動の経過が冷静に述べられ、私が拉致問題について考えていたことが含まれ、同意する点も多い。 「解決」の定義の不明確さ、(支援会)が政治にふりまわされている実態、安倍晋三の「任期中に解決します」、「最優先課題として取り組みます」、「最重要課題として取り組みます」。 安倍晋三の欺瞞性は批判するにも値しない。 5人の一時帰国時約束を破って北朝鮮には戻さない、私としてはこの判断には疑問を感じている。北朝鮮と何らかの打ち合わせがあってしかるべきではないだろうか。 意味のないというか戦略のない経済制裁。 なにせアンタッチャブルの世界だ。 しかし問題なのは私自身傍観者であることか。
続き 小森は万延元年のフットボールから書き始め、安保闘争の解釈の違いがズレを意味するものであると、それならズレが分かり易い。 著者は二分法を提案しており、万延元年の一揆、60年安保闘争、また鷹四と密三郎、古事記と日本書紀と。 二分法が男と女、悪と善、文明と野蛮、勝者と敗者といったものならば通俗小説に陥ってしまう。明と暗、肯定的と否定的と考えれば納得である。 古事記と日本書紀を提出しているのは卓見だ。 否定的部分を再分割してその否定の部分の再分割していく中に大江文学の全体が見えてくるとしている。 いい読書案内にもなっている。
更に『同時代ゲーム』の読書案内になりそうだと思い小森陽一著「歴史認識と小説 大江健三郎論」の『同時代ゲーム』の部分「第三章 千年の交渉者」を読む。借り物の本である。
小学館 日本の作家23大江健三郎において、 加賀乙彦が根源への遡行ー大江健三郎『同時代ゲーム』を読むと題し、六つの手紙からなるこの小説の手紙にはそれぞれずれがあり、そこに読者の参加を求めており、作者と読者とが、物語を作り上げるのを競い、ゲームをおこなっている趣がある。ーなるほどと思う。 地形も意識的にずらしているのか。 死と再生の物語とみている。
「同時代ゲーム」の解説は四方田犬彦が書いている。 題名の同時代は何を意味しているかを書いている。 小さい時間と大きい時間と。
「懐かしい年への手紙」、読み始めて、その前に「同時代ゲーム」を読んでおいた方がよさそうだと思い、通勤電車の中でも読みたいと思い文庫本を探したが意外にないもので、気分転換も兼ねて小学生高学年以上向けの「自分の木下で」を読んだ。 大江健三郎の作品は個人生活と虚構を微妙に繋ぎ合わせて文学空間を想像して行くもので、個人生活そのものを書いたものは避け気味で、今回はじっくり読んでみた。 大江ゆかりさんの画には優しさが溢れている。 あちこちに書かれたことではあるが、光さんの「お祖母ちゃん、元気を出して死んで下さい!」p160は大江健三郎どうよう、私も元気を出して死ぬことにしたい。 少年時代は木の上で、大人になってからは電車の中で読書するのは他にすることがないので集中できると書いてあり、私の電車読書もそうかと思う。 場所に関しての芥川賞受賞作があったと思い、ネットで調べたところ、円城搭の「道化師の蝶」であった。 芥川賞受賞作の掲載された文藝春秋は保存しているのだがこの号はない。 「飛行機の中で読むに限る」に始まる小説である。 その中にラテン語で書かれたとされる小説「猫の下で読むに限る」が出てくる。この印象が深く記憶に残っている。
「懐かしい年への手紙」を読み始めている。 単行本では大きいので、文庫本を中心に読む。解説等を先に読んでから本書に入ることにし、単行本には付録に、大きい「懐かしさ」にむかっての大江のインタビューが載っている。 そこに「・・僕がずっといだいているのは、今日の核時代において、人類が二十一世紀へ生き延びうるとすれば、それはキリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラムの人たち、それに仏教徒らという、信仰を持つ人たちと、宗教を持たぬ人間とが、なんとか協同して、ひとつ祈りをおこなうことがあってはじめてじゃないか・・」とある。 それを裏切ってるのが二十一世紀の現実だろう。 宗教にある独善性、内包する男女差別を考慮すると宗教には否定的にならざるを得ない。 文庫本(講談社学芸文庫)では作家案内は黒古一夫が書き、解説は小森陽一が書き、大江健三郎が「著者から読者へ」を書いている。 小森もダンテには触れており、ダンテを読まないと理解が浅くなってしまおうが、神曲を読み解く時間はない。 「ズレ」については触れられず、解りにくいが比喩について、暗喩、還喩、提喩、反語法(アイロニー)を取り上げているのが興味深い。
寺山修司地獄偏を読む。 購入したときにちらっと覗いただけできちんと読んでなかった。 恐らくランボーの地獄の季節が念頭にあったのだろう。 龍之介の地獄変はどんな小説だったのか思い出せない。 寺山修司のこれはやはり長編詩の領域で、思い出すのは高校生の時に聴いたラジオドラマで犬神云々で強い衝撃を受けた。 ネットで調べると「恐山」だったようだ。 地獄偏の単行本は1983年1月1日発行(ネット調べ)なっているが、読んだのは普及版で1983年7月1日発行、寺山が亡くなったのは1983年5月4日(肝硬変腹膜炎敗血症)であることからその逝去を悼んで出版されたのであろう。 それで購入したわけだ。 内容はおぼろげな記憶の「恐山」と同じような寺山修司の世界である。 「恐山」もドラマではなく長編詩だった気がする。 老いたる私にはあの震える感動がなくなっている。
村上春樹は翻訳の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を読んだだけで何も読んでいない。 全然読んでいないのは不味かろうと「ノルウェーの森」を読んだ。 発行は1987年、88年に22刷、ベストセラーだ。 厭世気分を淡々と自分自信を語って行く。 高校でも大学でもこんな風に書くのがいたなあと思い出す。 「一人の美しい女」p8、美しいをそのまま言葉に出して来るのには抵抗を感じる。それは出さずに語って貰いたい。 何時の時代か、その時の貨幣価値はどのようなものかと気にしながら小説を読む。 新宿「西口の原っぱ」p151、山の稜線が・・「まるで『サウンド・オブ・ミュジック』のシーンみたいですね」p252、 「学食ランチ、A120円B100円C80円、Cが食えないのは60円のラーメン」p104、「20歳」かp126、「クレジットカード」p114、「1969年」p159・・となればはっきりする。 当時、クレジットカードがあったのか、それには全然気がつかない安サラリーマン生活をしていた。 ブツブツ喋る語り口、何となくライ麦を連想していたら、「・・不思議なしゃべり方するわねぇ」・・「あの『ライ麦畑』の男の子の真似・・」p182と出てくる。私の感想は先取りされている。 何せエロチシズムの表現が多い。高校生の頃読んだとしたら太陽の季節以上の衝撃を受けたと思う。 「好きな人に毎晩抱かれて、子供が産めれば埋いい・・」p124、村上はこんな女性を肯定するのか。 ハツミさんへの感情の震えは「少年期の憧憬のようなもの・・」p116、この「憧憬」を描いた小説と考えても良いのかも、それにしても猥褻だ。 村上は1949年生まれで私より三歳若い。どの作家もそうなのだろうが幅広い知識にはやはり驚く。
「帝国の慰安婦」 発売当初書店には在庫がなく、図書館に予約していたが予約待ちが多く一年以上先になりそうなので購入読んだ。 納得する面が多く、特に植民地いう構造の中で捉える点、業者、慰安婦宿主、女衒が実務を担っている。 私としては国より民であり、民間が元慰安婦を支援するのを支持する、国の責任逃れの手段であったにしても。 被害者は老齢化している、これは絶対見逃してはいけない。 日韓双方に政治に利用され過ぎだ。 あったとはずの本「朝鮮人強制連行の記録」が見つからない。戦時中禁止された慰安婦の写真が載っている写真集もあったはずだが。 性奴隷、性奴隷と言われようが人間性が残っているのにはほっとする。 奴隷と言われようが家畜ではないのだ。
探したら「朝鮮人強制連行の記録」朴慶植著未来社刊が出てきた。
新聞の日曜版小説を読み終わる。 もともと毎日読まなければならない新聞小説は苦手でほとんど読んだことはないが、週一回の日曜版小説は読んでいる。 荻原浩作「ストロベリーライフ」、静岡の苺農家に異様に詳しいので出身地をネットで確認したところ、(旧)大宮市出身で大宮高校卒業である。 都内でデザイナーだった恵介が父の病気から実家の苺農業を手伝ってのめり込んで行く小説で、苺栽培の技術的難しさを描きながら人間関係に触れていく。 結末は明る過ぎるが読んでいて楽しい。 人気があったようで新聞社から単行本で出版される。
津島祐子がこの18日肺癌で亡くなった、1947年生まれで私より若かったとは意外だった。 ほとんど読んでなく、かなり前にNHK TVドラマ純情キラリを再放送で観ていたところ、原案が津島祐子となっており、それにしては変だなと思い、「山猿記」を読んだのが初めてである。 追悼の意を感じ近作の「ヤマネコドーム」を図書館から借りて読んだ。 3.11後にミッチが日本に訪れることから物語は始まる。 途中まで読んで何故ヤマネコドームか不審に思い、スマホで調べた。 ドームはビキニ環礁の放射性汚染物質で造り上げたルニットドームなのである。 確かに表紙はルニットドームの写真である。 ミッチ達混血孤児にまつわる小説で、現在、幼児期、青年、壮年時が前後し不思議な空間となている。 場所は日本であったり、アメリカ、カナダ、ヨーロッパと地理的にも広い空間となっている。 オレンジに絡む殺人、推理小説になるようで推理小説にはならない。 戦後の混血孤児の哀しさが中心となり、チェルノブイリ、3.11が背景にあるものの主張はされない。 ヤマネコはミッチが一時生活していたパリ郊外(?)の古城に現れるヤマネコの眼がミッチの眼に似ていることに由来するのだろう。 ミッチのコガネムシに似た眼は エメラルドグリーンの昆虫に通じる。 主人公は依子ことヨンコである。
「ローザ・ルクセンブルクの暗殺」を読み終えて。 種々の証言が出てきて推理小説のような様相が現れるが大衆に惨殺されたのではなく、軍に惨殺されたと考えるのが妥当である。 ドイツ革命時政権を握った社会民主党が帝政時代の軍隊、官僚をほぼそのまま受け継いだのが背景にあり、暗殺を座視していたわけだ。 軍事裁判は軍人に有利に進められた。 軍法会議判事ヨルンスはヒトラー政府から民族裁判所判事に任命され、惨殺の中心的役割を果たしたルンゲは後にヒトラー万歳の手紙を書いている。 ヒトラー政権が産まれる下地はすでにあったのだ。 社会民主党がスパルクス団を潰したいと考えていたのが大きな要因ではある。
「ローザ・ルクセンブルクの暗殺」、読むに従い、虐殺、凄惨さに気分が悪くなる。 民間人が殺されて軍事法廷裁判、軍人に有利となるのは当然だろう。 2.26事件では民間人北一輝は軍事裁判で銃殺となった。これは法的に妥当ではないのだろう。
福村出版、小川、植松訳「ローザ・ルクセンブルクの暗殺」を図書館から借りて読んでいる。 暗殺されたのは知っていたが具体的にどんな風だったのか知りたいと思ったのである 。 読み始めると当時のドイツの状態を知らないと理解不十分になりそうなので、図書館から山川出版の「ドイツ史 3」を借り暗殺前後の時代を読む。
今期芥川賞受賞作本谷由希子作異類婚姻譚、滝口悠生作死んでいない者を読む。 異類は似て行く夫婦の話でカフカの変身を連想してしまう。 馴れた筆致のようで、恐ろしさが感じられないのが残念。 どう展開するのかと思っていたら夫が山芍薬になってしまうのにはがっくりだ。 死んでいない者は葬式の話で亡くなった祖父には子供が5人、孫がいて、曾孫がいて多人数が出てくる。 記憶力が怪しげになっているので読み進むに従い誰が誰だか解らなくなってしまう。 それが作者の魂胆だろう。 個性的な遺族達。数人に焦点を当てて書き込んで欲しいとの思いになる。 地名に浦和が出てくるので、浦和が舞台らしいのだがイメージが重ならない。 浦和の何処なんだ。 これから選評を読む。
鴻巣友季子氏が大江健三郎/尾崎真理子の対談に触れていて、掲載誌新潮2005年11月号があったので読んでみる。 確かに「引用する文章と文章と地の文章との間にはまずズレがなきゃいけない、それがありながら精妙なつながり方を」と語っている。 意外や、「現実の自分と書かれた太宰の辻褄を合わせるには、自殺するほかないですよ!」と太宰治について語っている。 また、反体制的な知識人を教育する温床として純文学は大切だとも語っている。
ネットで「火山」についてしらべていたら「江藤淳と大江健三郎」の著者の小谷野淳のブログがあることを知る。
「キルプの軍団」メモ 地下壕、大江健三郎はこういうのが好きなんだ。子供の秘密基地に繋がるようなのが。 オーウェンの詩は読んだことがない。p135 ネットで調べると、題名がアブラハムとイサクの詩がある。 「魚が水を飲むように」と「」つきで書いてあるので、なにかの引用かと思いますネットで調べたが分からなかった。 「罪の許し」・・私にはいまひとつ理解が及ばない。 region of quilp、キルプの軍団、北川訳ではどう訳されているのだろうか。 もう「骨董屋」を返却しているので確認はしない。 初めキルプを好意的について描く小説かと思ったら、やはりそうではなく、百恵さんを襲うようなものを意味していた。 「キルプの軍団」、「私」から出発し私小説を装って小説空間を構築して行く大江健三郎文学特徴がよく出ている。 過激派(?)を扱うのは大江のテーマであろう。 代表作と言えるのではないだろうか。
「キルプの軍団」読書途中、なにせ読むのは遅い。「僕」は高校二年生である。p32,p72(18) 久しぶりに「僕」が主人公になる小説で懐かしさを感じてしまう。 旧約聖書のエイブラハムがコーランではイブラーハムであることを知る。p132 百恵さんに好感を抱く。 サッチャンの名前が出てくるので太宰治のすたこらさっちゃんを思い出したので図書で調べたらそんな題名の作品はなかった。 更にネットで調べる、山崎富栄がが太宰からスタコラサッチャンと呼ばれていたらしい。 小説の中にも現れて来ないようなのに何故記憶にあったのだろうか、山崎との心中に関する読んだ評の中にあって、 それに強い印象を持ち、そう思うようになったようだ。 中野重治について通りぬけ難い暗礁の海を行く文章p201とあり、大江健三郎もさもありなんと感じる。 虐げられられし人びとのネリーは骨董屋のネリーに由来するのか。p211
「キルプの軍団」、単行本で途中まで読んでいたが、電車の中では大きくて読みにくいので図書館で文庫本を借りて読むことにした。 今までは解説を先に読むとそれにとらわれ自分の読み方ができないと先には読まないことにしていたのだが、最近は読書案内の一つとしており、文庫本には解説があり、それを先に読む。 大江健三郎の「新しい文庫版のために」の中に、この版のために「骨董屋」と「荒涼館」を読み直した(英語版)とあり、「荒涼館」も読んでおくべきかと思われるがこれは止めておく。「ニコラス・ニクルビー」も。 「虐げられし人びと」は「骨董屋」に影響された作品だったのか。 解説は鴻巣友季子(全然知らない)。 「僕」は高校生か、ディケンズの英語版を読むんだから当然だろう。それも三年生か、それも極めて優秀な高校生だ。 主人公のオーちゃんは大江の次男を一寸モデルにしたわけか、モデルを考えながら小説を読む習慣はない。 外国文学には聖書の箴言などの引用がっっっっっっq多い。注を読まないと分からない。 振り返れば日本文学の中で最も引用の多い作家ではなかろうか。
「骨董屋」下巻を読み終わる。 通勤の電車の中で読むのがメインなので時間がかかる。 ネリーもおじいさんも死んでしまう。 クウィルプは暗い海に溺れて死んでしまう。 最後の一行 「すべてのものは消え去っていくのだ!」 クリスマスキャロル、オリヴァートゥイストも読んでおきたい気もするが、切りがない。 まして、下巻解説で「骨董屋」はディケンズの主要長編の中で短い方だと書いてあるのだ。
「骨董屋」、読むのが遅く上巻を読んだ段階だ。 キルプが北川訳ではクウィルプになっている。 読みにくい訳だなと思っていたら、大江健三郎の文体と似たところがあるような気 がする。大江健三郎は英訳の方が読みやすいのかもしれない。 「キルプの軍団」はディケンズを読ませるための作品ではないか。 ギリシャ神話等々からの引用があったりするので(訳者注)が絶対必要だ。 産業革命時のイングランド下層社会が見えてくる。 可哀想なネリー、おじいさんは只の賭博狂に過ぎなかったのか。 「小人で顔と頭は巨人、陰険で狡猾、身の毛もよだつニヤリとした笑い・・」、こんなキルプに大江は愛着を感じるのか。 「座ることができない椅子」が出てくる。岡本太郎の作品「座ることを拒否する椅子」が連想される。 私が事務所で使っている金属の飛び出ている椅子、これも座ることを拒否する椅子だ。
「キルプの軍団」、どういうわけか読んでなかった。 読み始めて、ディケンズの「骨董屋」に沿った小説であり、購入当時「骨董屋」を読んでから「キルプの軍団」を読んだ方がいいと思い、そのままにしてしまったのを思い出した。 それで今回「キルプの軍団」を途中で止め「骨董屋」を読むことにした。 「キルプの軍団」では中学生がペンギン・クラシック版を読みながら物語が進むのだが、英語版が読める訳ないので翻訳を探す。 店頭には売ってなくて、図書館で借りることにした。 意外に翻訳が少なくてちくま文庫の北川悌二訳を読むことにした。文庫本上下になり上を借りる。
香山リカ著「がちナショナリズムー「愛国者」たちの不安の正体」を読む。 安倍首相の傲慢さが不安を抱えるネトウヨに安心感を与え、経済政策はミドルクラスに期待を持たれ、現実的に支持率があがっているいるわけか。 傲慢症候群で論理的な話が通じないのも納得、対話を避け、相手を野次で潰しにかかるのも納得。 橋下が学者はテーブルの上だけで役に立たないと対話を拒否し見下すようにするのと相通ずる。 この状況下に如何にすべきかの回答はない。 香山リカが参加していた市民連合もひとつの応えか。 時代の傾向を経済政治だけでは捉えられない?
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