[2023年6月2日]
大江健三郎さんの「晩年様式集/in late style」を再読する、工藤庸子を側におきながら。
前口上として p9
私は長編小説を書いていた。そしてそのまま続けて来たが、「三・一一後」それに興味を失った。 p9,10、遺作出版があることになるのか。
余震の続くなかで p12
子供の時分に魯迅の短編のほんやくで覚えた「ウーウー声をあげて泣く」・・p14、魯迅は短編が多い、どの作品だろうか?
ネットにヒントがあり、魯迅の短編集「吶喊」(岩波 竹内好訳魯迅選集)中の「狂人日記七」、「・・ウーウー悲鳴をあげて笑うだろうな。」だと思うのだが。
先の友人が・・・新しいダンテだと、イギリスの実力派詩人・・翻訳・・・
赤黒い表紙に農耕用の大きいフォークに背を刺された人影が黒ぐろと描かれているの表紙の本・・・「地獄編」 p19、ネットで探しても見つからない。この段階でダンテの神曲が英語ではDivine Comedy、神聖喜劇と知る、大西巨人の小説ではないか。
しかし、どこまでフィクションか、学生の頃、暗い絵に出てくるブリューゲルの絵を探したが、どこにもなかった、フィクションだったのである。
先の友人はサイードで、ネットでサイードを検索していると、サイードと伊丹空港十三の顔貌が似ていることに気がついた。
イギリスの実力派詩人の「地獄編」、やはりフィクションとは思わない。
赤線を引いてる行・・・
In its present state,・・・
Left to us,・・・ p20
Left to us,・・・の訳に、
「よっておぬしには了解できよう、未来の扉が閉ざされるやいなや、わしらの知識は、悉く死物となりはててしまふことが。」p21
寿岳文章(じゅがくぶんしょう)訳を引用している、かって、地獄編には山川丙三郎訳を引用していたはずだ。
山川訳では、
「この故に汝會得しうべき、未来の門の閉さるゝとともに我の知識全く死ぬるを」となっている。
寿岳文章の本を図書館から借りてみた。
こんな大きい本なのである、画像の右下は岩波文庫版山川丙三郎訳ダンテの神曲、今まで図書館から借りた本のなかで一番大きい。
ー大丈夫ですよ、・・・・夢ですから! p22 →新しい人よ目覚めよ、ラジオドラマにもなったんだ
三人の女たちによる別の話(一)
1
わたし→長江の妹
長江、リッチャン、オセッチャン、
2
アカリ、千樫、
ー懐かしい年から、返事は来たの?
記憶にある、どの小説、この本を前に読んだ記憶か
3
真木、p31
空の怪物が降りて来る p34
1
3
「人生の習慣」岩波書店
三人の女たちによる別の話(二) p47
アサが動き始める p57
2
万延元年のフットボールのフィクションと懐かしい手紙の新聞にも出た事実のギー兄さん、 p69、これもフィクションなんだからなあ
3
パパは、アカリさんの知的障害を、根本的なところで尊敬してないんじゃないか、 p75
4
真暗になった頭の働きのまま年をとり、死に移行するということになる・・・p79
三人の女たちによる別の話(三) p88
サンチョ・パンサの灰毛驢馬 p97
三人の女たちによる別の話(四) p114
カタストロフィー委員会 p121
2
フルマイ p130
3
パパがこんなにやさしく微妙な話をする人か p133
5
ギー・ジュニア・・・大男の骨格 p136、ギーはズーっと小男のイメージだった。
6
目下の仕事といえば、『晩年様式集』の草稿を書くて程度・・・p139、この複層した感じ
ふ
死んだ者らの影が色濃くなる p151
p・pさん ??
Kさん=鎌田慧
ヨシヒコ=塙嘉彦 p153
U氏=内橋克人 p155
シマ浦 p156
「三人の女たち」がもう時はないと言い始める p174
パパはこれまで性懲りもなく三十年、四十年と書き続けて、読者の関心はあらかた失っている老作家の古めかしい繰り返し・・・p180
(拒絶的なダダp182 かつてダダイズムがあったな、ダザイズムとのダジャレもあった)
『春さきの風』「わたしらは侮辱のなかに生きています。」中野重治 p186
溺死者を出したプレイ・チキン p190
プレイ・チキン、チキン=臆病者
「陶製のメリケン」 p213
それらの三人の同世代 長江古義人 伊丹十三 ギー兄さん p215
長江 p215
コギー兄さん(コギー 水死) p216
魂たちの集まりに自殺者は加われるか? p219
いまYさんは立派な英文学者 p230、山内久明?
『さようなら、私の本よ!』 p237
ーー正直、僕には吾郎が確信を込めて自殺という罪を犯したのじゃない、という気持があります。 p240
私の職業は看護師で p241
ヘレン・ガードナーのエリオットの研究書 p237
田亀、当然タガメなのだが私はゲンゴロウと勘違いして読んでいたことがあった。
『日常生活の冒険』・・・小説の書き出しが未熟でアキレられると思いますが・・ p240
かれは僕の小説が暗いといい、自分のやってることはもっと将来性がない、といった。 p256
この小説のあちこちに、大江自身の作品を批判させる場面が出て来る。批判されている作品のかたちはわたしには好ましい。
五十年ぶりの「森のフシギ」の音楽 p258
伊方原子力発電所は、テン窪大地から三十キロの地点にある。 p261
二十五万分の一地図「松山」?? p262
『カリブ海偽典』"Biblique des derniers gestes" p264
画家 フランシス・ベーコンの言葉 p269
真木が・・・「私小説」的な語り方の長編に批判的なんです。 ナサケナイ p273
日本酒の壜が一本 p278
チガウ言葉 p285
私は生き直すことができない。しかし
私らは生き直すことができる。 p310
この章の見出しのみ終点の 。がついている p310
クンデラのいう「作品(ウーヴル)」に達成されたか
「ゆっくり急げ(フェステイーナ・レンテ」 p322
過去をチェックしたら「晩年様式集」読んだのは今回で三回目になる。前二回は読んだだけの記述だけでメモもない。まさに目を通しただけだつたか。
大江健三郎のまさにこれが『最後の小説』、或る面では「総括」でもあるようだ。
ポリフォニー、複層した表現、丁寧に読み取ろうしても、
この小説は不可解
結論は、私は生き直すことができない。しかし、
私らは生き直すことができる。?
晩年様式集の工藤庸子評に出てくる大江の作品
これが大江健三郎自身が代表作と認める作品といってもよいのではないだろうか。
『水死』『さよなら私の本よ』『懐かしい年への手紙』『取り替え子』『アグイート』『新しい人よ眼ざめよ』
『おかしな二人組』三部作『個人的な体験』
『「雨の木」を聴く女たち』『さかさまに立つ「雨の木」』『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身』『セヴンティーン』『政治少年死す』『日常生活の冒険
引用された他者の作品、これを読まないと『晩年様式集』は理解できない?
晩年のスタイル、若い芸術家の肖像、失われた時を求めて、フィネガンズ・ウェイク、金枝篇、活火山の下、ドン・キホーテ、ハックルベリーフィンの冒険、トム・ソーヤの冒険
[2023年5月8日]
図書館に予約していた「100万回死んだねこ-覚え違いタイトル集」福井県図書館編集講談社二〇二二年十月発行が借りられる連絡が来て、早速読んだ。
面白い、余り面白くて涙が出そうになった。
自分でも、まるっきり記憶にないものがあるが、小川洋子の数式・・博士、→数式を愛した博士。
図書館司書さま、乾杯!
[2023年4月21日]
放映は古い(二〇二二年九月)のだが、NHK100分de名著「アイヌ神謡集 知里幸恵」を購入し、読む。
かなり以前、岩波文庫の知里幸恵著「アイヌ神謡集」一九七八年発行を購入したが、わかりにくかった。
NHK100分de名著ならわかりやすいだろうと思ったわけである。
少しは理解が深まった。わかったつもりでも神謡である、謡を聴かなければだめだろうと思う、youtubeであるのだろうか。
知里幸恵の写真を見たら、伊藤野枝に似てると思った。
知里幸恵は金田一京助の家に寄宿していた。
[2023年4月10日]
瘋癲読書日記(2019年12月7日)には
大江健三郎の芥川賞選考委員辞任はネットでチェックすると円満に行われたようになっているが、当時、文藝春秋社への批判に拠るものと記憶していた。
「大江健三郎の人生」貧困なる精神X集」をチェックしたら、満更記憶違いではなかったようだ。
(文藝春秋社発行の雑誌「諸君」の反・反核編集方針への反発)
大江健三郎の選考委員は平成8年(1996年)下期まで
読売新聞は1994、2000、2004年の3回に渡り、憲法改正試案を発表(読売新聞にようこそ)している。
ところがその読売新聞に「二百年の子供」平成15年(2003年)を連載している。
(九条の会は2004年(平成16年)設立)
私の姑息な疑問は、大江健三郎の政治性(?)についてである。
セリーヌの小説「夜の果てへの旅」をヒントにしてロバンソン小説(二人組小説)を書いていることもある。
セリーヌは反ユダヤ主義になる人間である。
(注、トロツキーはトルストイを評価しているが、セリーヌの将来を危険視していた。「革命の想像力 トロツキー芸術論」(柘植書房1978年)のセリーヌとポワンカレ・小説家と政治家、詩人・反逆者としてのトルストイ)
[2023年4月11日]
新聞に富岡多恵子が亡くなったとの記事があった。現代詩年鑑’64を開き,富岡多恵子の詩を読んでみた。
「女タチ」
躑躅色ノ服ヲキテ
招待状ヲモッテイク
・・・・・・
躑躅が読めなかった、つづじであった。
一行目の一字が読めない、悲しいことだ。
6日老衰のため 87歳。
現代詩手帖発行人 小田久郎について、毎日新聞4月10日の記事に「2022年1月18日、肺炎のため90歳で死去していたこと」が載っていた。詩人 城戸朱理であることは知らなかった。
[2023年4月3日]
大江健三郎全小説3 「政治少年死す」を読む(あらためて)。
あらためてというのは、文藝春秋1961年2月号立ち読み、ネットの海賊版、今回が正規の読書となる。
解説を読んでから本文を読む。
封印は解かれ、ここから新たに始まる
尾崎真理子
「セヴンティーン」と「憂国」が同じ月に発表 p483
9 死亡広告
純粋天皇の・・・p97 は、「厳粛な綱渡り」の詩とほぼ同一
江藤は・・・第一部では自分の内部の「セヴンティーン」に向けられていた作者の視線が、中途から一転して浅沼事件という外側の「事件」を追いはじめたからであろう〉 p482
「政治少年死す」若き大江健三郎の「厳粛な綱渡り」ある文学的時代精神の”考古学”
日地谷=キルシュネライト・イルメラ
「悲しみとユーモア、残酷と慈しみ、怒りと失意、情熱と憂愁の、きわめて稀で個性的混合」三島
「恐るべき犯罪に至る以前に娘の男の生涯に起きたことは、程度の差こそあれ誰もが経験することであり、この男は我々自身と少しも違わない」 p492
「政治少年死す」ードイツ語読者のための序 p492
大江は1957年から1963年までの初期作品で、呆然自失、失望感、行き場のないエネルギー、疎外感、自信喪失といった混乱期のテーマ・・・
歴史と作品の背景 p495
「セヴンティーン」 p497
「政治少年死す」ー現段階での考察 p498
1966年の大江のエッセイ
「・・この章節は保守派からも進歩派からも、様ざまな種類の政治的誤解をうけたが、もっとも端的にいって、僕はこの小説のヒーローに対して、嘲弄であったことは一瞬たりともない」(「作家は絶対に反政治的たりうるか?」『大江健三郎全作品 3』(第1期)新潮社、1966年度末、p263) p499
事実、創作、文学的なるもの p501
『宴のあと』
性的なもの,政治的なもの p503
再び、アンビヴァレンツ、アンビギュイティー、コンテクストについて p504
未解決なまま残された問題の今後 p505
ドイツ語版への反響 p507
『政治少年死す』読む。
山口ニ矢 十七歳、その時私は十六歳で衝撃は大きかった。浅沼稲次郎暗殺、本来浅沼に対し強く関心を抱かなければならないのに、山口ニ矢はどうしてそこまで行ったのか、興味を感じていた。即ち、被害者より加害者に向かっていた。大江健三郎さんもだ。
発表当時、文藝春秋で立ち読みした。共鳴することができなかった記憶がある。
(セヴンティーンは当時呼んだ記憶がなかった。セヴンティーン掲載は文藝春秋1961年1月号、幸福な若いギリアク人と三島由紀夫の憂国が小説中央公論1月号に掲載され、とてもニ誌を購入する(経済的にも)余裕がなく、後者のみ購入したかことによる。全作品の解説を読んでそれに気がついた。)
この小説の出だしは素晴らしいp49、さすが大江健三郎さんだ。金木書店の奥さん(?)が、大江健三郎さんの本といっていたので、これから大江健三郎さんといおう。
ノグチ・イサムの造ったばかでかいコンクリートブロックの、・・あの巨大な橋じゅうのいぼいぼは男根と女陰を湿すのだ p62
南原征四郎p63、これは大江健三郎を模しているようだが?征四郎といえば板垣征四郎、ぱろっているのか。
作者自身を登場させ、批判させられるように描くのは、この頃にすでにあったの
だ
鬼と明治天皇をミックスしたような純粋天皇・・・p82
小松茂夫、広津和郎、浦松佐美太郎、藤森安和 p86
あれp79、アレp86、あれp87、p89、p90、p91
8
おれは警視庁と東京地検のとり調べを受けていた、・・p87、確かにここから表現が変わる、ここまでがセブンティーン第一部の続きか
新東宝 p89、明治天皇絡みの映画を製作していたが、後半エログロナンセンス映画を製作、1961年倒産。
此処過ぎて悲しみの市 p95
絞死体を・・・警察官は精液の匂いをかいだという・・・ p97、これが決定的だ。
事実からフィクションを創っていくのは、この時からか?
フィクションから事実に近づいていくといった方がよいか?
私と同じ世代の工藤庸子、高校時代に浅沼稲次郎暗殺事件、政治少年死すをどう受け止めていたのだろうか。
高校生当時、書店で立ち読みし
(当時16歳)、違和感を持った記憶がある。マスターベーションを突きつけられた思いがあったのだろう。内容をよく覚えてないことから、サラッと目を通しただけかもしれない(ネットでダウンロードしたのも(海賊版))。
[2023年3月25日]
工藤庸子著「大江健三郎と『晩年の仕事』」講談社二〇二二年三月刊 購入
序章 読みなすこと
ローズさんはいてもローズはいない、サクラさんはいてもサクラはいない p14
「近代小説」トイウジャンルそのものが、否応なく晩年の危機を迎えているはずであり、おそらく大江の「晩年の仕事」は、此の切迫した状況に向き合う地点で繰り広げられている。 p16
自筆原稿を前に「生成批評」をを本気でやってみたら? p25
第一章 『取り替え子』ー人生の窮境と小説を書くこと p41
篁さん、p54、なんと読むのかすぐ忘れてしまう
シンメトリーの印象 p50
サイード
古義人さんの小説、悟良さんの映画、篁さんのオペラ p57
大黄は伊東四朗そっくり p61
丸山眞男 p62
全共闘世代のはしりに当たる年齢のわたし(工藤庸子)は、・・p63、私にはその意識はないが
「現代政治の思想と行動」を大江文学のガイドブックとして読むことが有効なのではないか・・・p63
(なんと複雑な時間構造!) p71
センダックによれば、これは《モーツァルトに対する愛》を具体化するための試みであり、 p79、Outside of thereの新訳はだめということになるか
吾朗のほうは、あの夜以来、《引き返しのできない所》まで、出ていってしまった・・・p82
ソレ p42 p44 p49 p50 p51 p52
アレ p49 p53 p54 p55 p59 p60 p61 p61 p63 p70 p71 p73 p73 p73 p74 p74 p77 p78 p85 p121 p124 p124 p129 p130
第ニ章 『憂い顔の童子』ーーセルバンテス、ジョイス、古義人 p87
Rejoyce! p88
日本文学から世界文学へのフィードバックとして、ワタシハ大江の「晩年の仕事」を読み解きたいと考えているのである。 p108
古義人の認識において、「童子」と「騎士」のあいだに連続性はないらしいということは確認できた。 p112
田部夫人は『失われた時を求めて』のヴェルデュラン夫人を「パロディ化」している、 p116
娘を驢馬に比較された古義人はムッとする。
四国の森の二人組は、どこかちぐはぐに相手を思いやる。 p120
「カーニバル的な暴力」な暴力という点で、『取り替え子』は『憂い顔の童子』と共鳴しあっている。
『阿呆物語』のやや込み入ったパロディ p121
冒険や事件が終わって日常が戻ったところで「結末」の章を書き起こすのは、一般的な小説作法であり、・・『悪霊』などはその典型。 p128
「軍楽」・・・・・敗戦直後の破壊された街を歩く男が極限的な暴力に踏みにじられた者たちにゆるしを乞う、祈りのような文章である。軍楽隊の音楽に魂の救済のしるしを見るという点からしても、 p129
《錆びた小ぶりの砲丸》・・・超国家主義という政治的な脅威・・・隠微なイデオロギーの健在ぶり・・・「晩年の仕事」を貫く「父と天皇制」・・・p131
『フィネガンス・ヴェイク』 p136
HCE p137
第三章 『さようなら、私の本よ!』 p141
武満徹との対話『オペラをつくる』、《政治的なものについて小説を書くとき、少し単純化したり、少し歪めたタッチで書いたりして自分の小説のかたちをつくっている》・・・p152
サイード『文化と帝国主義』 p154
ジュネーヴ、バクーニン p158
『21世紀 ドストエフスキーがやってくる』 p159
丸山眞男「春曙帳」、私はドストエフスキーに強姦されたのである。 p156
『革命と死と文学ードストエフスキー経験と現代ー』
スタヴォロージン
文芸読本『ドストエフスキー』、あったはず、『埴谷雄高ドストエフスキー全論集』
p161
『ドストエフスキー全論集』、執筆者に女性の名前は一つもない。 p164
パフチン『ドストエフスキーの詩学』 p167
聴き取られる言葉と内面の言葉が重なり合いねじれて一体になるようなー ー不思議な文体 p170
ベケット式
ベケット式 ドストエフスキー風 パフチン式 大江式 p172
大江「、・・・小説の文章の書き方の一難しいところは、人が移動していくところをうまくリズムに乗せて文章にすることだ、・・」 p175
かりに『さようなら、私の本よ』を楽曲に喩えるとしたら?ー諧謔精神あふれる「スケルツォ」の大作、とわたしは迷わず応えるだろう。 p182
エリオット「ゲロチョン」 p184
『四つの四重奏曲』に由来する三本の《燃えるトゲ》に
よって支えられている、 p188
「イースト・コウカー」の最後のスタンザから引かれたこの三行が、小説全体をしめくくる第三の《燃えるトゲ》である。 p196
フローベールの「晩年の仕事」 p203
《現在の時間と過去の時間は/おそらく未来の時間の中では現在となる/また未来の時間は過去の時間の中に含まれる》 p206
第四章 『臈たしアナベル・リイ 総毛立ち身まかりつ』ー女たちの声 p213ナボコフ的な意味合いにおける複数の言語との密かな「情事」であることに気づかぬ者はいない。 p218、私は気づかなかったよ!
見方を変えればロリータは、研究者のローズさんと女優のサクラさんをつなぐ影のヒロインようでもある。 p220
「みなし子」や「もらわれっ子」などの言葉を、わたし自身は戦後の差別語と理解している)。p229、??
8ミリカメラによる撮影・・・「凌辱」なのである。 p236
書きつつある小説の「小説作法」について小説家が小説の内部で解説してしまうと手法は、近代小説の基本的な約束事に反している。 p244
「しやうやの口説き」 p245
第五章 『水死』ー「戦後民主主義」を生きる p256
大江健三郎の父親は、劇的な状況で《不幸な死をとげた》わけではない p260
井上ひさしが樋口陽一と同い年、仙台一高に在学した友人であり、大江とともに護憲運動を組織 p260
丸山眞男の政治学と大江健三郎の文学とはいかなる関係があるか? p271
《ひとりの戦後民主主義者》・・「丸山眞男の言葉の使い方」 p272
十九世紀の小説は大方が「恋愛小説」か「姦通小説」だったから、女性の身体描写は小説家にとって腕の見せどころ・・・p280
ジェィムズ・ジョイス『ユリシーズ』の第十七挿話「イタケ」 p283
《もう取り返しが付かないといふ黒い光》 p294
「先生」「時代の精神」・・・p298
「生成論」「生成批評」 p305
『失われた時を求めて』 p305
今回は、古典的な《年代記》式記述も、《生の諸段階への再訪》というエリオット風の「方法論」も、ひとまず放棄されたところから、あらためて父の探索が始まるのであるらしい。 p306
大江健三郎と武満徹の共著「ギリシャ悲劇」 p313
「御霊ごりょう」「死霊しりょう」「悪霊あくれい」「生霊いきりょう」 「物の怪」 p318
叙述の欠落p325 デモクラティックな小説の証しではないか? p326
「高知の先生」・・・丸山眞男の「知識人論」の大きな源泉のひとつが中江兆民(高知出身)の『三酔人経綸問答』 p332
「神話宇宙)は、森々と展がり、E々と深い・・・・武満徹、"I hear the Water Dreaming” p342
第六章 『晩年様式集』ーカタストロフィー、そして「最後の小説」 p343
むしろ同時性をもつ「カタストロフィー小説である・・・p344
「諸段階への再訪」により、反復と対比の構造が、大江自身の用語によるならズレを含んだ繰り返しとして見えてくる・・・・・p345
大江健三郎は「僕という人物」がフェイドアウトして・・・・・ついに書きやめることに成功するー p353
奇妙な「一人称小説」 p336
現実とフィクションが不可分のものとして絡み合う物語のスタイル p327
起源の異なる草稿をパッチワークのように並べてゆく方式とその効果は・・・・・私の理解を超えた、特異なものに思われる。 p360
「ウーウー」・・・子供の頃に魯迅から仕込んだもの・・p362
「老いたる芸術家の肖像」であると同時に、人生を逆向きに俯瞰しながら未来に思いを馳せる、前代未聞の野心作・・・
ジョイス『若い芸術家の肖像』、プルースト『失われた時を求めて』p366
パロディー小説
『フィネガンズ・ウェィク』、ヴァージニア・ウルフ『波』 p367
二〇一一年九月一九日「さよなら原発一〇〇〇万人アクション」
アーカイブ p368
他者の言葉を導入しようと試みる例・・p371
震災直後の先の見えない現実にルポタージュのように密着したwork in progress でありながら、緻密なフィクションとして構築されてゆく p373
インタヴューの音声が録音されてから原稿になるまでの複雑なプロセス p376
フローベル 『ブヴァールとペキュシェ』
複数的文体 p377
マルカム・ラウリー、『「雨の木」を聴く女たち』 p378
「有楽町一丁目の日本外国特派員協会」・・・・・ウェブで容易に確認することが出来る。 p381
『トムソーヤの冒険』の結末が復習されてから、新しい物語世界に移行する p383
提案と結論のズレ p385
優しさと女性的なものとの自然な結びつき・・・『悪霊』のダーシャ p386
性的なもの無縁ではない優しさの水脈
『政治少年死す』 p387
工藤庸子自身、山口ニ矢についてどう感じていたのかを聴きたい。
ギー兄さん・・・遅れてきた「戦後知識人」、凡庸になりがちな議論、与するつもりはない p397、議論してもらいたい
「水死」・・円環のような物語・・モダニズムに精通した小説家ならではの造形美・・・p400、?
『晩年様式集』と『「晩年様式集」+α』・・全く別物?? p402
《書いている「私」が長い間しゃべる》 ・・・複数的でない p404
中野重治『春先の風』 p405
アサさんは・・『小説家の肖像』描く役割 p405
「晩年の仕事」六作品の最初と最後の作品が・・円環 p406、円環になる小説を書けばいいんじゃないか?
小説家が小説を書いている小説・・・p410
カリブ海偽事典 p411
シャモアゾーのクレオール文学 p411
アカリさんと・・・・・古義人自身が父権的なものとの葛藤という抑圧された記憶から開放される・・・p411
祝杯の気配漂う終末・・
凡庸なフィクションの約束事を破壊する、・・p412
腰くだけ
ドン・キホーテ
二十世紀前半のヨーロッパ文学、後半のアメリカ文学にはないものを、戦後の日本文学はついに持つことができた。 p413
「作家=騙りて=主人公」による言語的抑圧から解放 p414
「過ぎ去った生の諸段階への再訪」という試みは
過去の作品を徹底的に批判するという仕掛け・・「小説家」の人生が露出 p415
『晩年様式集』の読者は『「晩年様式集」+α』に近いものを読んでいるのではないか p419
深瀬は続けて《詩を超えることーーそれは驚くべき想像が意思であるといはねばならぬ》p420
終章 「戦後の精神」について p421
岩波ブックレット『憲法九条、あしたを変えるー小田実の志を受けついで』 p422
大江の構想する文学は《いかなる事実からも、また事実のセカイWord覆ういかなるイデオロギーからも自立した者》小説の方法
サイード『文化と帝国主義』・・・《歴史と現実に背を向けている自分への批判》 p424
全体小説 p422
『憲法九条、あしたを変えるー小田実の志を受けついで』 p422
「パロディとその展開」 p426
『小説の方法』あとがき 山口昌男 ミハイル・パフチン p427
柄谷行人との対談 笑いは
《近代というのはルネッサンス位後ということですね》 p428
《兄の「メイスケ母」解釈にはやはり男性中心主義のニオイがあるから注意していようね》 p431
『政治少年死す』・・《サディクに踏みつけるべき女性でなく、敬愛と淡くエロティックな親しみを感じる、真実の女性 》
p431
小説は、・・・「時代の精神」を書くのであり、p433
サイード『知識人とは何か』
アドルノ p455
ヴァージニア・ウルフ『自分自身の部屋』 p455
サイード『晩年のスタイル』
p457
「ポストモダンの前、われわれはモダンだったのか?」 p463
この本を読むと、ジョイスなりサイードなりを読まないと大江健三郎は理解できないことになってしまうようで、大江健三郎が遠くなる。
[2023年3月24日]
「カリブ海偽典」パトリック・シャモアゾー塚本昌則訳二〇一〇年紀伊國屋書店刊、図書館から借りて読む。
バルタザール・ボデュール・ジュール
イヴォネット・クレオストp79、
マノット、ボデュール=ジュール・リモネル、バルターズp81、
マントー、シンガーミシンp94
ポールp97
パパ、アデノール・ボデュール=ジュールp58
尊大なムラート、傲慢なペケ、皺だらけのクーリp101
マン・ルブリエp108
ユブリスとアガベーp120
私はマノット・ボデュール=ジュール。フェリシテ・ジャン=リュース連絡とある能なし男とのあいだに生まれた娘p122
レオナール・ガスバルド、ガスドー、妻アナイーズ、シャビーヌ娘たちが三人 p133
マントーのルブリュp160
アナイーズp161
アンヌ=クレミール・ルブリエp173
バルタザール・ボデュール=ジュール氏は、彼の父リモネルと、母マノットにp181
チェ・ゲバラp206
エメ・セゼールの詩p210
ミイラp238
イゾメーヌ・カリュブソp262
ボードレールp284
パトリス・ルムンバp293
クワイ・エンクルマp295
彼女が、怒り、恐怖、喜び、興奮といった感情を笑いによって制御 p296
ラビンドラナート・タゴールp296
ラブレーp297
呪ったりめそめそするために思い出していたのではなく p306
アパトゥディ p314
アパトゥディはクレオール語で「?では足りない」を意味する。 p931
賢人を見分けるだけでは足りません(アパトゥディ)。
賢人たちがしていることをして、彼らが避けていることを避けねばなりません。
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神に祈るだけでは足りません(アパトゥディ)。
神を当てにしない術を心得なければなりません。 p314
時の地下牢から逃れてきたその数多くの人々は・・・p317
この本読むのに時間がかかりそうで、貸出期間の延長をネットで申し込んでのんびり読むつもりでいた。その期間をチェックしたら、三日しか延長されていない。二週間延長できるはずなのだが、借りて三日目に手続きしたので、その三日目から二週間ということなのだ。
そんなこともあり、カリブ海偽典読書中断。
ギブアップ、屁理屈を付けた。私の先も延長できないのである。
[2023年1月25日]
ちくま3月号を開いたら、蓮實重彦がエッセイを書いている。
工藤庸子の繊細な意図に・・・・・大江健三郎の作品をまともに論じうる逸材が現代の日本には彼女と尾崎真理子の二人しか見当たらない・・
ウーン
[2023年2月19日]
文藝春秋で芥川賞受賞作を読む。
二作受賞で
井戸川射子作「この世の喜びよ」
ショッピングモールの中の喪服売場から始まる。
二人称で書き進められる小説で、私は誰と思って読み進めたが、途中で自分をあなたと表現する日常生活(?)を描く小説で、正直言って全然面白くない小説だった。長らく受賞作を読んできたが、最悪だった。もちろん私に読む力が無かったせいだが。
佐藤厚志作「荒地の家族」
「攣る」、つると読むのか。
植木職人の主人公が回顧しながら東日本大震災の中に生きて行く。
東日本大震災を描く小説類の中で、かなりよく書けていると感じた。
[2023年2月16日]
鷲見洋一著「編集者ディドロ 仲間と歩く『百科全書』の森」平凡社二〇二二年四月発行
図書館から借りて読む。後からの予約者もいるので全895頁急いで読む。
ですます調で読みやすく、それに騙されて読む、読むではなく読み飛ばす。
はじめに p3
第一章 『百科全書』前史 p17
第二章 『百科全書』刊行史 p85
第三章 編集者ディドロの生涯 p205
第四章 商業出版企画としての『百科全書』 p305
第五章 『百科全書』編集作業の現場 p395
第六章 「結社の仲間」さまざま p479
第七章 協力者の思想と編集長の思想 p549
第八章 図版の世界 p637
第九章 身体知のなかの図版 p701
あとがき p854
p109 非熟練労働者に支払われる一日分の労賃がニリーヴル 五〇〇〇円
p231 ディドロが父に書いた手紙 中野重治『村の家』、『歌の別れ』所収、新潮文庫
p284 年収一〇〇から三〇〇リーヴルが、「労働者、奉公人」、三〇〇・一〇〇〇リーヴルが「熟練工、企業中間職、コレージュの教師」、一〇〇〇・三〇〇〇が「中間管理職」、五〇〇〇・ニ万が「ブルジョワ」、四万・一〇万が「貴族」、一〇万から四〇万が「王侯」
p321 四つ折り版の大型本
p363 一リーヴル二五〇〇円の換算
p423 一番高い場所をあたえられている「神についての学問」が実はたったの四行
p425 「百科事典」と「辞書」という相容れない概念が呉越同舟
p486 『百科全書』は人間精神の歴史なのであって、人間たちの虚栄の歴史ではないのだ
p490 モンテスキュー
p497 革命の種が、たぶん地上のどこか知られぬ一角で成長するか、
p513 実業家と呼べる人びとはたったの四名です。『百科全書』が資本主義の担い手とは無縁だったいう証でしょう。
p564 あちこちにナヴィゲートし
p565 シンパの読者でも
p619 一九世紀以降、高等教育で知識は分断化、専門化し、唯物論は気費されました。
p625 ディドロが考える「結社」の根源には、意外にも生理学や政治学までをも取り込んだ、「多元的分子論」が潜み隠れているのです。
p711 「もの」としての人体描写・・・サド侯爵の作品における冷徹で客体化された人物描写・・・フランス語で読めば・・・病院の手術室におけるひんやりした感触
p817 一七世紀にコルベールが編纂させた図版集に、早くも『百科全書』図版徒歩瓜二つの素描がある
p820 メタ言語 語り手が全面に出て来て
p821 ルーヴル宮で開催された絵画・彫刻・版画の「サロン展」
p864 ディドロは『百科全書』の項目と同じように、実生活でも骨の隋まで演技するヒトであり、周囲の友人知人はおろか、われわれ後世の読者まで騙し続けて面白がっていた形跡がある
p882 「グーグル」こそが地上最大の百科事典であって、「ウィキ」はそのネットワークの海に浮かぶ、比較的小振りで優遇された小島、ないしクラゲのような存在でしかないです。
p892 謝辞 なんといっても二五年を超える期間、恩恵を受けた文部科学省科学研究費による助成でしょう。
[2023年1月3日]
大江健三郎と「晩年の仕事」を読んでいて、「21世紀ドストエフスキーがやってくる」集英社二〇〇七年刊のドストエフスキーが21世紀に残したもの 大江健三郎+沼野充義 が引用されているので読んでみた。
「スタヴロージンの告白」の位置づけp120
「ロシア報知」の校正刷りとアンナ夫人が書き残した書写版のニ種類がある。
もともと第二部第九章として書かれた、ドストエフスキーは校正の際に、第三部第一章と書き直している。
私の読んだのはどれだったんか、調べてみた。
読んだのは江川卓訳の新潮文庫、第二部、第三部にも「告白」は載っていない、
本に細かい目次はない。
この小説の最後に「注」があり、この章は最初は第二部の「第九章」と表記されていたが、校正の段階で第三部「第一章」と変えられた。と記載され、
文節(?)毎に、1.2.3,.・・・と、番号を付けられ、1では・・・校正刷りから抹消。と書かれている。
私は単に注と思い読まなかったのだ。
解説には、このことが書かれていた。以前、解説は読まない習慣だったのがまずかった。
しかし「告白」は読んだ記憶があり、調べると米川正夫訳(全集)で読んでいる。目次に、
第二編・・・201、スタヴローギンの告白・・・443
と書かれている。ここで読んでいたわけだ。
校正刷りである。
亀山郁夫「謎解き悪霊」を読んでいたのだが、気がつかなかった。
大江「・・・私は世界文学を好きなように読んできた。・・・」p118
大江は謙遜して語ってるんだろうが、私は私の低いレベルで、大江やドストエフスキーを好きなように読もう。
大江「・・・「大審問官」の章が誇大化される・・・・小説の中にあるある一部分を哲学的に誇大化するすることは常に間違っている・・・私が埴谷さんや高橋和巳さんたちに抱いてきた違和感はそこにあります。・・・」 p127
大江「第二部が書かれていたとしたら・・・レーニンの役割、スターリンの役割、トロツキーの役割などがそれぞれ変わったものになりえたかもしれない。・・・・サイード・・・ドストエフスキーもまた、あの困難な時代において、「意思的な楽観主義」をもって死んでいったのだろう、と思う。・・」 p139
沼野「・・・「さようなら、私の本よ!」・・・「四つの四重奏」・・・「セリーヌ」・・・ドストエフスキーの気配が満ち満ちている・・」
p140
沼野「ドストエフスキーの神の問題・・・安岡治子「ドストエフスキーとキリスト教」(岩波講座文学8)・・・ドストエフスキーは、「神を見つけるため」に一生苦しんで模索してきた、・・・」 p142
大江「・・・神を考えるために全生活捨てようということを続けた人たちの一部が、たとえばオウム真理教にいるだろう・・・」
(二〇〇六・一〇・二三)
オウム真理教事件1988・1995年
[2023年1月24日]
太宰治「右大臣実朝」「惜別」を新潮文庫「惜別」で読む。
高校時代、太宰に傾倒していたのに読まなかった作品である。
解説は奥野健男、懐かしい名前である。
右大臣実朝、ユダヤ人実朝、滅びて行く鎌倉幕府、文が滅びて行く。戦時下の作品。医王山。太宰治らしい文章。
惜別、魯迅の仙台時代を描く。なぜか魯迅と周作人を混同してしまう。魯迅は周樹人。
周が中国の現状について長々と話す。従来の太宰にはない書き方である。
「惜別」を読んだことから魯迅選集の「藤野先生」を読む。この「藤野先生」が「惜別」そのものである。