瘋癲読書日記

瘋癲読書日記 読んだのを書き止めて置かないと読んだかどうかも忘れてしまう侘しい瘋癲老人の遅読読書メモ。
スマホで書くのでミスタッチが避けられないのは残念だが便利(週一日記もスマホ)


メモ
NHK100分名著、金みすず、エチカ、 中公新書ラクレ 防衛省に告ぐ
岩波新書 日本の私からの手紙 サイ--ド 岩波ブックレット 憲法九条あしたを変える。
[2023年12月日]
市立図書館では、書籍を自由に持っていける棚 を設け、そこに蔵書する必要がないと判断された図書が置いてある。通常、趣味関連の雑誌が置かれているのだが、雑誌以外にスベトラーナ・アレクシェビッチ著「チェルノブイリの祈り 未来の物語」岩波現代文庫二〇一一年、重松清著「くちぶえ番長」新潮文庫二〇〇七年が置いてあり、早速持ち帰った。
よく考えたら、図書館で蔵書の必要なくなった本ではなく、市民が必要なくなった本をそこに置き、欲しい人が持って行くシステムである。かって図書館の高砂分室にそんなシステムがあった。
よく見たら「くちぶえ番長」は令和五年五月三十四刷である。
「チェルノブイリの祈り」は出版当時図書館から借りて読んだ本で、図書館の蔵書をチェックすると、「チェルノブイリの祈り ー未来の物語ー」一九九八年岩波書店五冊、岩波現代文庫二〇一一年九冊、岩波書店完全版(旧版より約1.8倍の増補改定)二冊、とあり、自由図書になったのがあったの、も納得。
片や「くちぶえ番長」、新潮文庫一冊だけである。

[2023年12月16日]
尾崎真理子著『大江健三郎の「義」』講談社二〇二二年度一〇月発行を読む。
発行時購入したが、 大江のエッセイ「想像する柳田国男」p59,p74,p85.p105.p163が何度か引用されているが、新潮76(1).p192-205.1979-01に掲載されたエッセイて、エッセイ集等には収録されていない。大江は柳田国男との繋がりを隠蔽しているということか、まさか。
その音は、やなぎだの「ぎ」に由来するのではないか? p22、?マークが付いていてもあまりにも穿ち過ぎ。
その繋がりを基本と考えるのは、大江健三郎を矮小化しているように感じる。
なぜ「ギー」なのか p23
「義」については、
二十一世紀日本に「徳」はあるか(定義集p202)
曽祖父・・・「義」と大書してある額・・・p24(定義集p204)
、 定義集p205に
・・・あれは、義にいさんなんですね。とある。
柳田国男「海上の道」 p84,
成城という「美しき村」 p147
この時、世田谷区成城に住み続ける理由についても問うていたが、拒絶の表情が 明らかだったので、慌てて話題を変えた。 p148
根所家 p172
M/Tと森のフシギの物語p26、M、Tってなんだっけれ、作品を見直したら、M=matriarch.女族長、T=tricster.詐欺師、ペテン師、ワクジュンカガ=手ぎわのいいやつ、はっきり書いてある。完全に忘れていた。我、読む力なしだ。 青山半蔵の狂気 p177
「僕にとっては、組み替えを自分でやることが小説を書くことです。」(『座談会昭和文学史 六』)p164
本当の事をいおうか! p186
鷹四の妹との近親相姦、妹の自殺、p188、これが本当の事でいいわけか。事件の現象だけか、
・・・私はラジオから天皇が人間の声で語るのを聞いたところだった!〉(『日本の「私」からの手紙』一九九六年) p222
コギトと日本浪漫派 p232
『水死』で古義人は、演劇集団「屈居人」のリハーサルですバッハのカンタータを聴くうちに、亡くなる間際の父からドイツ語の「救い主」を 「天皇陛下」と説明された記憶を 呼び覚まされる。すると古義人はドイツ語で高らかに唱和し始める。 p234
一九六四年大江『産経新聞』〈ここ数年、新しいナショナリズム待望の気運の中で明治的なるものの再評価のがはげしいのは、いかにも当然であるが、それにしても明治期の文章には、独特なナショナリズムの勢いなあふれている。(中略)明治の文学者達のナショナリズム根底を、彼らが江戸期から継承した儒学の伝統に帰する意見が、特に新しい保守派によって、一つの定説なった観がある。/しかし、歴史的事実を、よりダイナミックに考えようとすれば、二葉亭をその典型として、明治期の文学者達は、彼らそれぞれの直接間接の、維新体験によって、独自のナショナリストとなったとみなすべきではあるまいか?〉 p240
平田篤胤と柳田国男 p264
「魂のこと」 p269
上野誠・・・日本的な知性は〈「ぬみあわせ」と「ずらし」によって生まれるのではないか〉 『万葉集から古代を読みとく』二〇一七年 p270
『宙返り』の着地点とは p280
「この小説の結末が絶対正しかったとは考えていません。僕自身、まだ揺れ動いている。『神』の問題からはほとんど自由になったと思いますが 「大江健三郎の「宙返り」=転向」『中央公論』一九九九年八月号 p282
尾崎真理子は文学研究者でもなく、文芸評論家でもなく、大江健三郎のファンであり、愛読者である(と思う)。

大江健三郎への?は
@大手出版社にしか関わりをもたないことへの疑問、本多勝一も同疑問?
A平野謙の『みずからわが涙をぬぐいたまう日』に対する匿名批評(誤読)に対して、大江は激しく反論したが、誤読されるという作品であるということに反省はないのか。
B登場人物は何かというと、東大卒、有名人(?)とすぐわかるのに、仮名(?)を使って登場させる。権威主義と捉えられかねない。東大×私大。
C四国の田舎出身であるのに、成城に住む、その心の内は?
D憲法九条擁護なのに、読売新聞に小説を連載する、尾崎真理子への義理?、そういえば、大江健三郎を売国奴呼ばわりする産経新聞にかってエッセイを書いていたような?
Eセリーヌの『夜の果てへの旅』をヒントにロバンソン小説を書いたわけだが、セリーヌは反ユダヤ主義者、納得しにくい。
F性と文学。
以上、小心者の私の僻み。

尾崎真理子著『大江健三郎の「義」』にあっては柳田国男、
工藤庸子著「大江健三郎と『晩年の仕事』」ではサイード、プルースト
いずれも大江の作品群を読んでないと理解できない。
文学批評は、ネタ本さがし、楽屋話なのか、作品自体を評するのは今やないのか。そういえば文芸時評というのは最近読んでないな。

[2023年12月14日]
岩村暢子著「ぼっちな食卓ー限界家族と「個」の風景」中央公論新社二〇二三年九月発行、図書館から借りて
目次
序文にかえてー同じ家族の一〇年後、二十年後を追跡してみたら・・・1
第1 部 あの家の子どもたちーかっての姿とその後の姿・・・15
1 子どもが邪魔・・・17
2 ベビーチェアの中から始まる「孤食」  ・・・23
3 家に帰らない子、子どもを待たない親・・・29
4 自由とお金と無干渉・・・42
5 三男は私のベット・・・47
6 させてあげる「お手伝い」とその結果・・・53
第2部 やがて「破綻する夫婦「孤立する祖父母」とその特徴・・・61
7 十年後、5組に1組の夫婦が破綻・・・63
8 破綻する夫婦と10年前の共通点・・・
9 子ども夫婦の破綻を招く「実家の支援」・・・
10 ダイニングテーブルに表れる家族の変化ー「独りベッド飯」の夫たち 11 独居老人より怖い「同居老人」の孤立と孤独・・・
12 祖父母世代は、まるで異星人・・・103
13 あなたの親は私の他人ー「実家分担」・・・114
第3部 「食と健康」をめぐる「通説」とシビアな「現実・・・121
14 「健康障害」は9割が伏せられる?・・・123
15 健康管理は「自己責任」・・・
16 「共食」と「健康障害」の意外な関係・・・
第4部 「個」を尊重する家庭食とその影響・・・
17 家庭共食を蝕むブラック部活とブラック企業・・・141
18 家庭料理の変化と個化すること家族・・・148
19 同じ釜の飯より「個」の尊重・・・153
20 食器に表れる家族の変化・・・159
21 「子どもの意思の尊重という子ども放置・・・165
22 「リクエスト食」育ちの子どもたち・・・その後の姿・・・173
第5部 誰もが「自分は譲れない・・・179
23 人に口出しされたくない・・・181
24 お教室の変化・・・みんな 「教える人」指向・・・187
25 「私一人の時間」が欲しい・・・193
26「自分時間」を生きる家族たち・・・200
27 「私」中心の呼称変化・・・
第6部 個化する家族・・・その後の明暗・・・213
28 家族の空洞化と「外ごと化」する家庭機能・・・215
29 正論と現実のはざまに・・・223
30 崩れなかった円満家庭とは・・・233
調査概要・・・246
あとがき・・・250

[2023年11月27日]
「晩年のスタイル」p238に喚起させられ、トーマス・マン「ヴェニスニ死す」新潮文庫昭和四十四年五刷(帯に90円)を読む。
毎日新聞2020.06.06今週の本棚なつかしい一冊に小川洋子が「ヴェニスに死す」について、あらすじをわかりやすく書いている。
一九一二年トーマス・マン三十七歳の作だ。
ヴェニスに死すは、この文庫本で2回読んだ記憶があり、鉛筆であちこち「」してある。
小川洋子が書いているように、初めに墓碑類の石工場が描かれて不吉な物語を暗示している。 p101
赤ネクタイに・・最新流行のクリーム色の夏服という出立の一人が、・・実は老人である、 p110、実はアッシェンバッハでもあるのか。
「おや、クドゥツィオ、やっぱり君もいたんだね」
アッシェンバッハは少年愛にのめり込んで行く。以前読んだときは、同性愛小説と感じとっていなかった。
アッシェンバッハは最後にはコレラで亡くなる。
トーマスマンがこれを書いた時、三七歳、レイトスタイルになるのか、実年齢からは晩年ではないが、アッシェンバッハは明らかに晩年である。恋に狂う晩年。
表現の豊かさ、文学を目指すものは「ヴェニスに死す」を読むべきであると、今になってわかった。
少女愛の「ロリータ」には嫌らしさが付き纏う。

[2023年11月9日]
ネルーダ詩集
田中さと子訳編「ネル-ダ詩集」思潮社海外詩文庫二〇〇四年八月発行 を市立図書館から借りて読む。
詩集を読むというのは変だが。
詩集〈二十の愛の詩と一つの絶望の歌〉から p8 二十歳

女の肉体。白い丘 白い腿
その身をまかせたおまえの姿は 地球に似て
おれの荒々しい農夫の肉体は おまえを掘りおこし
大地の底から 息子を躍りださせる
・・・
・・・< br> ・・・< br> 詩集〈大地の住処一〉から p12 二十九歳
詩集〈大地の住処二〉から p18 三十三歳
詩集〈第三の住処〉から p27 三十五歳
誰が欺いたのか 砕け 測りしれない
輝きなくした百合の株 すべてが傷だらけで
どんよりした光に満ちている
・・・
・・・
・・・
詩集〈おおいなる歌〉から p33 四十六歳
この詩集は二万行からなる、絶対に読むことはない。
・・・
・・・
・・・
マチュ・ピチュよ おまえは
石の上には石を 土台には襤褸を敷いたのか
石炭のうえに石炭を 底には涙を
燃えたつ黄金 その中で震えているのは
大粒の赤い血の滴か p39
・・・
・・・
詩集〈葡萄と風〉から p68 五十歳
いつチリへ
おお チリ 海と 葡萄酒どんより
雪のほそ長い花びら
ああ いつ
ああ いつ いつ
詩集〈ありふれたものへのオード〉から p72 五十歳
詩集〈新・ありふれたものへのオード〉から p84 五十二歳
靴下へのオード
マル・モリが わたしに
一足の
靴下を
もってきてくれた
} 詩集〈第三のオード集〉から p86 五十三歳
スプーンへのオード
スプーン
いっとう古い
人間の手の

詩集(気まぐれ〉から p89 五十四歳
空に登るために必要なのは
         そら
        に
       登る
      ため
     に
    必要    な
  もの
 は
二つの翼
詩集〈百遍の愛のソネット〉から p92 五十五歳
マティルデ 植物 あるいは 石や 葡萄酒や
大地から生まれて 辛抱強く生きるものの名前
このことばが満ちてゆくなかで 夜が明け
その夏のなかで レモンの光が爆ぜる
詩集〈イスラ・ネグラの覚え書〉から p99 六十歳
誕生
ひとりの男が生まれた
生まれでた多くの人びとのあいだに
生活した
生活する多くのひとびとのあいだで
だが 語ろうとしているのは 身の上話でなくて
生地についてである
そこは チリの中央部で
・・・
詩集〈ニクソン殺しの扇動と革命讃歌〉から p103 六十九歳
T ウォルト・ホイットマンの霊を呼び出すことから始めよう
わが祖国に対する愛ゆえに
わたしはあなたに訴える 必要不可欠な兄
灰色の指をした 老ウォルト・ホイットマンよ
あなたの素晴らしい支援遠えて
一行 一行で 血に飢えた大統領
ニクソンの根をぶっつぶすのだ
ワシントンで奴の鼻が呼吸しているかぎり
・・・
詩人論・作品論 
パブロ・ネルーダを語る/ガブリエル・ガルシア=マルケス p110
パブロ・ネルーダ、このにこやかな戦士/フリオ・コルターサル p166
パブロ・ネルーダについてのをメッセージ/ガブリエラ・ミストラル p120
解説・年譜
パブロ・ネルーダノ作品=田村さと子 p128
年譜 p148
この詩集はネルーダ全詩の僅かな作品しか載ってないのだが、いずれも力強く、訴えられもする。私好みではあるが、現代詩(戦後詩)からみると評価されないのではないだろうか。

[2023年10月3日]
小川公代著「世界文学をケアで読み解く」朝日新聞出版二〇二三年八月発行を読む。
図書館に予約してたのが入ったとの連絡があり、「ヴェニスに死す」を中断して読む。
今こそ《ケアの倫理》について考える--序論にかえて 7
1 シャーロット・ブロンテの場合 7
シャーロットは、どれほど執筆にとり憑かれた状態になってもいても、「彼女が何かしなければならないことがあったり、また他の人から助けをもとめらた時は決して一瞬の間もそれを無視したことはない」 p7
2 ケアの価値とはなにか 10
ギリガンは「天使の声は、女性の肉体を通して語るヴィクトリア朝の男性の声」 p10.12
3 子育て・介護する男たち 15
「「男らしさ病」 p17
第一章 現代人が失つつあるものとしての〈ケア〉--思想史 20
1 強者から弱者ベランダ--『ドライブ・マイ・カー』、アントン・チェーホフ『ワーニャ伯父さん』 20
2 苦悩する魂--オスカー・ワイルド『獄中記』「幸福な王子」 26
3 ケアの思想--カール・マルクス、マックス・ヴェーバー、ミシェル・フーコー 30
4 〈多孔的な事項〉-~ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』「病気になるということ」 38
「体に男女乗って性別があるように、心にも性別があるのではないか」、『自分ひとりの部屋』 1929年 p46
シェイクスピア『リア王』でもテーマ化されている「男性性を降りる」ことは、直立者から横臥者に変容することである。 p48
社会全体がマジョリティの価値(=交換価値)に支配されている問題を抱えて問い直していくことこそ、ケアの価値を再評価する契機に結びつくのではないかと思われる。 p50
第ニ章 弱者の視点から見る--暴力と共生の物語り 51
1 ケアで読み解く--『マッドマックス 怒りのデス・ロード』 51
現代社会においては、自分たちこそが「正常」であると考える「正常性」(normalcy)と自分たちの方が優れているという「優位性」(superiority)というものが、特権を持つ人々の姿勢を形作り、マイノリティの人々遠生きづらくしている。 p55
2 〈妹の力〉--柳田国男「妹の力」、アンナ・ツィマ「シブヤで目覚めて」 57
3 憎悪から赦しへ--ハン・ガン『少年が来る』 68
4 菜食主義と暴力--ハン・ガン『菜食主義者』、今村夏子 75
菜食主義が政治的な意味合いを帯びたのはワーズワースが生きたロマン主義時代だった。 p78
今村夏子の短編「木になった亜沙」 p80
5 弱者の視点を獲得する--グアダルーペ、ネッテル、カフカ、高山羽根子 p81
人間が虫に変わる『変身』(Die Verwandlung,1915年)は、じつは人間を非暴力化する、暴力をなくしたいというカフカの願いがこもった変身譚だったのではないかと思えてくる。 p82
高山羽根子『首里の馬』も、弱者からの視点を意識して書かれた優れた小説である。 p84
この章では自分の弱さとどう向き合うかという問題について考察してきた。 p87
第三章 SF的想像力が生み出すサバイバルの物語 88
他の小説もほとんど読んでないのだが、SFはまるっきり読んでないので、この章は飛ばす。著者のは幅広い知識には敬服する。 
1 SF的日常を再考する--ダナ・ハラウェイ「サイボーグ宣言」 88
ハラウェイのはフェミニズムへの多大なる貢献は、こうして支配層西田奉仕してきた広義のは「ケア」実践者の物語遠掘り起こし、「サイボーグ」を肯定的に捉え直すことだったといえる。 p94
2 想像力で境界を超えてゆく--『インターステラー』、レム『ソラリス』 96
3 想像力の軽視/経済学の重視--ダニエル・デフォー『ロビンソン・クルーソー』 102
マルサルは、・・・・アダム・スミスも、また今日における「経済人」も、サイボーグできない役割遠担ってくれる人たち--多くが女性である--のおかげで、経済的ない報酬を手にしてする事ができている事実には目を向けている。 p108
ロビンソン・クルーソーはその世界をも可能なかぎり所有物で満たそうとする。 p109 4 「他者」の物語--マーガレット・アトウッド『侍女の物語』 113
5 女性の連帯--アトウッド『請願』 119
第四章 〈有害な男らしさ(トキシック・マスキユリニテイ)〉に抗する文学を読む 129
1 犬の魂と「男らしさ」--大江健三郎『万延元年のフットボール』 129
映画『パワー・オブ・ザ・ドッグ』は「「有害な男らしさ」とともに語られることの多い作品である。 p138
犬の力で思い出すのは、大江健三郎が『万延元年のフットボール』で描く根所鷹四の暴力性と彼の「犬の魂」であろう。 p132
フロイトは、・・・生と死がそれぞれのエロスとタトナスを駆り立てると説明・・・鷹四が駆り立てるられているのは後者のタトナス的衝動である。 p133
自分指示を守って嘘を言い通した妹を裏切り、彼女を自殺にまで追い込んだしまったという自責の念に苛まされていた。意識的にか無意識的にかは読み取れないが、故郷で兄の蜜三郎に会う計画もそのことを告白するためであったのだろう。 p133
竹村和子は、・・・「加害者/犠牲者という二項対立そのものを再考しなければならないという見方がある」とも言っている。
『万延元年のフットボール』は、「妹の側にたってものを考える」ことができなかった男が、それができるようになる物語である。ヴァージニア・ウルフの言葉を借りれば、両性具有的な精神を注ぎ込んだ作品ともいえる。 p137
2 ネガティヴ・ケイパビリティ--『パワー・オブ・ザ・ドッグ』 139
二〇二一年に公開されたNetflixオリジナル映画『パワー・オブ・ザ・ドッグ』は「有害な男らしさ」とともに語られることの多い作品である。というのも主人公フィル・バーバンクは、二歳年下の弟ジョージの結婚相手ローズに対して憎悪を募らせ、彼女を自分の女性嫌悪(ミソジニー)の標的にし、家父長的な威圧感でもって、これでもかというほど彼女を追い詰めていくからだ。 p130
ローズの前夫との間の息子ピーター p130
了解フィル--あるいはフィルに共感している(フィルを演じる)カンバーバッチ--のふるまいからは、鷹四が湛えていた「憂鬱」が感じられる。 p143
3 資本主義と魔女狩り--シルヴィア・フェデリーチ『キャラバンと魔女』 144
4 産むか、産まないか--キャロル・ギリガン、川上未映子『乳と卵』 149
フェミニズムの側から考えれば、鷹四は許されざる罪の数々を犯している。そして鷹四は「すでにおれは欲望と恐怖とで頭がやられていても、妹の側にたってものを考えることなどできはしなかったんだよ」と語り、猛者近親相姦が他人に知られると、「ふたりとも酷いめ二項あうんだといって、辞書から中世の火刑のは図版ヲさがし出していもうとに見せたりもした」とき〈魔女狩り〉を利用して、恐怖です従わせようとした。
妹は妊娠していることを伯母に気づかれた時、誰かに「強姦された」というよう兄な鷹四妊娠指示された。それに従った妹は、その結果堕胎手術だけでなく、不妊呪術迄受けさせられ、そして、よく朝自殺にしてしまう。弱者である鷹四元年自分より弱い妹に死妊娠追い込んだ。このような悲劇は、どのようにして生まれるのか。彼女はなぜ中絶に反対しなかったのか。あるいはできなかったのが。何故周りの、とくにたかしのは超え妊娠従ってしまったのか。 p149 生命をめぐる妊娠と出産、そして中絶の問題はフェミニズムの課題であり続けるだろう。 p150
ギリガンがインタビューしたキャシーという女性は「子どもを産むか、妊娠中絶するかのどちらかですよね。この二つが、私に与えられている選択肢でしょう。でも私が悩んでいるのは、自分自身を傷つけるか、私の周りの人たちを傷つけるか、という選択なんです」 p151
Netflix『ヒヤマケンタロウの妊娠』,男が妊娠する映画である。 p154
5 差異の問題--森崎和江『第三の性』、ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』 156
ター、マギー・メイ・・・おそらく男女の境界線を越える心の交流なあったのだろう。 p162
サヴェージの『パワー・・・』におけるフィルの男性原理を根源とする「犬の力」は、大江の『万延元年のフットボール』では鷹四の「犬の魂」と共鳴するような暴力性に満ちた性質を帯びている。 p167
ギリガン、ウルフ、ベルリン、森崎川上、多和田らの「女の側」のケアの物語は、近代社会における〈自律的な個〉が他者を所有し、支配しようとする物語を否定する。。 p168
一方でもこの章で取り上げた、サヴェージや大江といった作家が描く「男の側」に刻まれた傷を理解することもまた、我々読者が〈多孔的な自己〉を獲得する一歩になるのではないかと思う。
第五章 死者(ビラヴド)の魂に思いを馳せる--想像力のいつくしみ 169
1 生のかけがえのなさ 169
トニ・モリソン『ピラウド』 
木村敏(『関係としての自己』
とりわけ分断が深刻がしている今日、他者を自分を同類の人間として見ることは困難になってきているかもしれない。それは、近代人が個の自立や自己責任に重きを置きすぎるあまり、潜在的に懐疑心と攻撃性を抱え込んでしまっているからだ。 p171
西田が主張するのは、他者の内面にアクセスしようとする、より多孔的な自己像にも通ずるアプローチなのかもしれない。 p172
鷲田清一、〈わたし〉の独自性とは・・・他者の存在との関係のなかでまるで贈り物のはように届けられる、与えられろものでははいのか。 p173
文学を読む実践は、木村敏のいう「同類の人間を見ている」ことに繋がるのではないだろうか。 p174
西田幾多郎は、生と死は「外的に対立するものではない」と主張する。 p175 2 想像することのできる恩寵--トニ・モリスン『ビラヴド』 176
鷲田によれば、近代の市民社会の根幹をなす「個人の自由」は所有論が前提になっている。 p179
3 死んでしまった人が、また生き返って-~平野啓一郎『ある男』『空白を満たしなさい』 184
死者を慮る視点というのは、平野文学の原点にあるいっても過言ではない。 p190
平野・・分人主義とは、職場や友人たち、家庭でのそれぞれの人間関係があり、背景の異なるさまざまな人に触れながら、幾つもの「分人」を生きているという考え方である。 p192
4 ひきさかれた魂--石牟礼道子『苦海浄土』 193
「ビラブドの記憶と同時にあの言語を絶する中間航路の記憶を抹消してしまいたいと願う黒人の心理を表現する一方で、この耐えがたい物語をあなた(読者)だけに聞いてもらいたいという作者の気持ちをこめている」 p193
疎外された人々の闘争史の内奧から魂を呼び出した語り部がいる。 石牟礼道子 p194
5 近代人の死への恐怖--ドリス・レッシング『よき隣人の日記』 201
大江健三郎・・・彼は戦後の広島です出会った被爆者たちの「深甚な暗さをひそめている恐ろしい眼をすえて凝然と立ちすくむ」様子を眺め、次のエフトシェンコの詩の一節を引用している(ヒロシマ・ノート 岩波新書、1965年 50~51頁)(ヒロシマの光 大江健三郎同時代論集2のヒロシマ・ノートでは94頁)
(エフトシェンコ、エロシェンコと勘違いした。ネット検索でエロシェンコで拒否された。イェロシェンコでアクセス可) 彼女の動かねひとみは ・・・
「・・・・・悲惨な死への闘い、悲惨な死にいたる闘い」 p202
引用の岩波新書とは頁数がかなり違うので、図書館で確認した。
1965年第1刷発行でその2006年第82刷でチェックした。
104頁だつた。
当然なのだが、岩波新書、大江健三郎同時代論集のヒロシマ・ノートの章立てには違いはない。
世の中の人はいつも言うことだ。「何故彼らをホームに入れないんだ?彼らを見えないところにやってしまえ、若くて健康な人々から見えないところ、気にかけなくてもすむところへ!」 p204
「死ぬのはどうしてこんなに難しいのだろう?そんなことを思うには不法だろうか?それとも役にたつだろうか」 p206
口をつぐむこと、弱くあることについて--あとがきにかえて 210
社会的立場の弱い人間は、思っていることを自由に言葉にできないということもようやく理解したのだった。 p211
#MeToo運動 p212
ギリガンの〈ケアの論理〉 p214
〈多孔質な自己〉は、自分のなかにある"弱さ"を認めつつ、相手の"弱さ“をも理解しようとする自己なのかもしれない。
何が正しいのかという判断が揺らぐことを承認すること--ネガティヴ・ケイパピリティをも言祝ぐこと--をめざすために本書を書いた。 p215

[2023年9月25日]
エドワード・サイード著大橋洋一訳「晩年のスタイル」岩波書店二〇〇七年九月発行を読む。
ON LATE STYLE
扉、表紙裏ではなく、カバーそのものに大江健三郎のメッセージが記載されている。
「サイードの「晩年性(レイトネス)」研究の、
文化的芸術的にもっとも豊
かな本。本を読む喜びと
生きていく希望を呼びおこす。
        大江健三郎
走り書きのようだが、大江の思いの強さそのものがある。
ON LATE STYLEの英語版には大江が英語でメッセージを寄せているようだが、どのようなものであろうか。
まえがき・・・・・(マリアム・C・サイード) 1
二〇〇三年九月二五日木曜日の朝、エドワードが他界したときに書いていたのがこの本でした。 『人文学と批評の使命』が最後の著作 p1
わたしの記憶が確かなら、このアイデアー作家や音楽家やその他の芸術家たちの「晩年の作品」「晩年のスタイル」「アドルノと晩年性」などなどーは一九九八年代の終わり頃にエドワードとわたしの会話の一部となっていました。 p2
序・・・・・・・・(マイケル ・ウッド) 5
「死は私たちに一日たりとも猶予をくれなかった」と、サミュエル・ベケットが・・・初めからベケットが 出てくる(ジョイス論プルースト論ーベケット 詩・評論集)。 
サイードにとって晩年性は、本書で述べられているように、「故郷喪失(エグザイル)の形式」である。 p11
第一章 時宜を得ていることと遅延していること  21
三つの問題圏
第一の問題圏、始まりをめぐる概念の総体。誕生と起源の瞬間。『始まりの現象ー意図と方法』。その最初の一世紀間に書かれた小説は、先祖の発見について、新世界の、経歴の、社会の創造についてこだわり続けたのだ。『ロビンソン・クルーソー』『トム・ジョーンズ』『トリストラム・シャディ』p25
過去を回顧し、そこに始まりの瞬間を位置づけることは、その段階に、何らかの計画(・・・『荒涼缶』執筆)の基礎を置くことになる。 p25
第ニの問題圏、始まりから脱皮すること、すなわち継承・・受肉の弁証法・・〈生命の論理〉・・(小説は美的形式)(『感情教育』『幻滅』)(『ミドルマーチ』 このダーウィンのプロットこそ、十九世紀イギリス社会遠扱うこの偉大な小説を構造化しているのである) p25
例外もある。『ガリヴァー旅行記』『罪と罰』『審判』・・・年齢や世代に固有の、美的反映=考察(リフレクション)との間に驚くほど根強く残る対応関係から、こうした作品群は逸脱しているように思われる。 p26
最後の大きな問題圏 p27
人生の最後の一時期に、彼らの仕事と思索が、いかに新しい表現形式を獲得したのか。そうした作風を、わたしは晩年のスタイルと呼ぶことにしよう。 p27
ベートーヴェン『荘厳ミサ曲』 p29
アドルノ、彼はマルクス主義にワクチンを注射したのだ。 p38
それゆえアドルノもまた、ベートーヴェンと同じく、晩年性そのものを体現する人物像となる。現在に対する、時機を失した、スキャンダラスな、破局的ですらある人物として。 p38
アドルノ自身のエッセイを前にするとき、アイロニーとして迫ってくるのは、主題としての、またスタイルとしての晩年性が、いかにしばしば、わたしたちに思い起こさせてくれるかである。すなわち死を。 p52
第ニ章 十八世紀への回帰  p53
「晩年のスタイル(Sptstil)」ーアドルノによる命名 p55
シュトラウスに関する項である。
シュトラウスと並んで、わたしが関心を寄せているのは、・・・ジュネの晩年の作品であり、またイタリアの映画監督ルキノ・ヴィスコンティの晩年の作品であり、なかでも一九六三年の映画『山猫』の場合、原作となったランペドゥーサの同名の小説もまた、作者はこの一作しか残さなかったものの、晩年の作品なのである。 p55
第三章 限界にたつ『コシ・ファン・トゥッテ』  87
フーコー、ウェルギリウス、サド   
第三章まで、音楽に疎い私には理解不可能だ、むしろ知識を持っていたら深い森に迷い込み、出ることができないだろう。あー音痴でよかった。
第四章 ジャン・ジュネについて  123
『屏風』 p144
ジュネの最後の作品群、とりわけ『恋する虜』は死のイメージで飽和している。 p146
彼の作品は、あの歌をやめさせろ、物語とき記憶を疑え、わたしたち心底強い愛着を持つようになったイメージをもたらした美的経験を無視せよた、命じてくる。p148
大江派コクトー、ジュネ、ラディゲから離れたところいる。避けているのか。
第五章 消えやらぬ古き秩序  151
けれどもこのグラムシ的処方と改善策を否定しつづける   p170
ヴィスコンティが映画を使って、ランペドゥーサの小説に付加しようとしたものは、映画的にとらえられたプルースト的退廃であり、   p180
アドルノ、シュトラウス、ランペドゥーサそしてヴィスコンティは、グレン・グールドやジャン・ジュネと同様に、二十世紀の全体化規範となってたちはだかる西洋の文化等の文化的拡散装置ー音楽業界、出版業界、映画、ジャーナリズムーの裏を書いたのだ。p184
第六章 知識人としてのヴィルトゥオーソ  187
グレン・グールドについてである。 
第七章 晩年のスタイル瞥見  p215
この章が読んでみたい章のはずである。
T
ベートーヴェンやワーグナーはまぎれもなく不適合者であった。つまり自身の時代の芸術的・社会的規範に挑戦状をたたきつけるぼどに独創的な思想家であった。 p217
モダニズムとは、逆説的なことながら、新たなるものの運動というよりも、加齢と終焉の運動、ハーディの『ジュード』から引用すれば「〈子ども〉に変装した〈老人〉」の一種なのである。p218
極端な若さと極端な老齢とのスキャンダラスな混淆状態は、長くは続かないということである。 p219
しかし、終わりつつもまた生き延びることもある。・・・ギリシャ詩人コンスタンディノス・カヴァフィス  p220
時とともに、おそらく、成熟をとげ、死の影のもとでしばしば時期はずれの早咲きとなるか  p220
U p221
エウリピデスは、様式における晩年性、おそらくは退廃性とすらいえるものと、内容における原始性との混淆体である。 p221
『バッカイ』『アウリスのイーパゲネイア』 p222
V p229
アレクサンドリア出身のギリシャ人の詩人コンスタンディノス・カヴァフィスが死んだのは一九三三年である。 p229
「・・・/彼らのおぞましい家からわたしはとびでた。/逃げ出したのだ、わたしのミリスの思い出が/キリスト教につかまって、改宗させられてしまう前に。」
これこそが晩年のスタイルの特権ともいえるものだ。それは厳密と喜びとを、その両者の間の矛盾を解決することなく提示できるのだ。 p237
W
ドナルド・ミッチェルは、・・・ブリテンのオペラ『ヴェニスに死す』が、・・晩年の遺言的作品であると認めている。 p238
(ネット調べで、オペラは1973年作曲、トーマス・マンは小説を1912年発表マンは1875-1955、魔の山は1924年、小説自体は「晩年」臭いが、若い(?)時の作品なのだ。)
この作品は比較的初期の作品になる。作品の秋色を帯びた、ときに哀愁さえたたえた性格を考慮すると、初期作品であることの逆説性はいや増しに高まるだろう。 p239
マンもブリテンも同性愛者だったのか、p239、マンも今まで読んできて考えもしなった。
アッシェンバッハ・・・彼らはこう言っているように思われる。数々の類似性なり示唆があろうとも、これはわたしではない、と。 p240
ドリット・コーンによれば、・・・「作品の背後にいる作者は、彼が作品の内部に埋め込んだ語り手の頭越しにメッセージを伝達するのである」 p240
しかしながら私は、コーンと同様に、この中編のみせかけだけの道徳的解決は、語り手自身の要求に応えるものであって、マン自身に応えるものではないと考えたい。
マンので「ニ方向にむいたアイロニー」ーマン自身と語り手の間で、そして語り手と主人公の間で生ずるニ方向性ー
彼のオペラの歌詞作者であるミファンィ・パイパーも     p241
訳者あとがき  275
あとがきを先に読んだ。 この本の濃厚さを知る。
死を前にした人間が、時代とのズレを意識しつつ、時代に抵抗し続けること、円満な和解と完成と達成に逆らい続けること、これが「レイトスタイル」である。 p278

サイード氏遺作『ON LATE STYLE』(2006年4月 PANTHEON刊)英語版裏表紙に掲載された大江健三郎氏のコメント
 “知識人としての名演奏家”というのは、グレン・グールドについてかれのいった言葉だが、エドワード・W・サイード自身がその名にふさわしかった。  シュトラウス、ベートーヴェン、シェーンベルグ、マン、ジュネ、アドルノ、ラムペドゥーサ、ヴィスコンティ、そしてグラムシ、かれらはみなこのすばらしい本の中にいる--{サイードの人間らしさあふれた深い論述、それは人生の老境に直面するほかない窮状において、私が見出しうる、唯一の励ましとなろう。 大江健三郎
"Edward W. Said was himself an example of ‘the virtuoso as intellectual,’ as he has referred to Glenn Gould. Strauss, Beethoven, Schoenberg, Mann, Genet, Adorno, Lampedusa, Visconti, and Gramsci are all in this brilliant book -- a profound statement of Said's humanity, which I can only find encouraging as I face the inevitable predicament of the late stage of my own life."
--KENZABURO OE
(https://www.cine.co.jp/said/said.html)

もっと本を読まなければならない。しかし時間がない。

所謂大江健三郎短編集 再読
「「雨の木」を聴く女たち」一九八二年、 「新しい人よ目覚めよ」一九八三年、  「いかに木を殺すか」」一九八四年、 河馬に噛まれる」一九八五年、 「静かな生活」一九九〇年、 「僕が本当に若かった頃」一九九二年
全部読んだか確認する。余り意味はないと思うが、結構未読が あるのではないかと思って
「「雨の木」を聴く女たち」一九八二年、

[2023年9月10日]
松里公孝著「ウクライナ動乱ーソ連解体から露ウ戦争まで」ちくま新書二〇二三年七月一〇日発行を読む。
第一章 ソ連末期から継続する社会変動 p19
†ロシアのウクライナからの脱植民地運動 p27
二〇一三年、ロシア→ウクライナ石油ガス鉱物資源、ウクライナ→ロシア機械、金属、金属資源 p27
†多文化国家の存続条件 p67
†黒海艦隊問題 p77
ヤヌコビッチ大統領、ロシアとハルキウ条約 p78
オバマ大統領がリセット政策を放棄 
合法的・民主的に選ばれたウクライナ大統領を、街頭暴力を用いて打倒するという方法は、インテリ大統領であったオバマが本来好んだものではなかろう。 p79
†本章のまとめ p83
かくして、二〇〇八年以後の旧ソ連圏の戦争はすべて、ソ連末期の分離紛争の再燃という事態になったのである。 p85
第ニ章 ユーロマイダン革命とその後 p87
1 ユーロマイダン革命飲み屋見方 p89
†脱共産法 p148
ソ連国家、ウクライナ共和国国家を演奏すれば五年から一〇年の懲役 p149
†「軍、言葉、信仰」 p156
二〇一二年言語を廃止、・・・そんなことをすれば南東地域の分離主義遠いっそう燃え上がらせてしまう  p157
†露ウ開戦後のウクライナ正教会 p162
第三章 「「クリミアの春」とその後 p177
1 二〇〇九年以前のクリミア p179
†クリミアの多極共存型デモクラシー p204
2 マケドニア人支配下のクリミア(二〇〇九ー二〇一四年) p205
†ジャルティの辣腕が多極共存政治を解体 p207
「マケ」エフカ、「ドネ」ツク、・・外来幹部を「マケドニア人」と呼ぶようになった。 p209
†ロシア人生政党の苦境とアクショノフの台頭 p217
「クリミアのロシアとの再統一などというロマン主義的なお喋りをしていても仕方がない」・・・いま大切なのは、ロシア語話者の具体的な人権を守ることである。  p219
†革命がエリート内対立を激化させる p221
「緑の小人たち」「礼儀正しい人々」・・ロシアの特殊部隊 p236
†三月一六日住民投票  p237
プーチンは・・・コソヴォ人と同様の自決権を行使する権利がクリミア人にあるのではないかと示唆した。 p237
第四章 ドンパス戦争 p273
プーチン大統領は、ドンパスを「ジェノサイド」から解放するというスローガンです露ウ戦争を始めたが、ドンパスは、この戦争により、最多数の戦争犠牲を出し続けている。 p274
1 ドネツク州の、起源 p274
ドンパスとは「ドネツク川流域」あるいは「ドネツ炭田 p274
†ドン・コサック p277
†ソ連の工業化とドネツク州 p281
私はこの地域に関する知識は全くなく、ウクライナの辺境の地くらいと思っていたが、かなりの工業地帯だった(?)のだ。
工業化による人口流入のおかげで、ドンパスは他民族地域になった。 p282
2 ソ連解体後のドネツクエリートの苦悩 p283
†ドネツク州における共産党支配の終焉 p283
†赤い企業長†一九九四年地方選挙ービジネスマン知事の進出 p288
†地域閥闘争の激化 p290
†オリガーク政党の乱立と大統領選でのクチマの苦戦 p292
†二〇〇二年議会選挙が誇示したドネツク・エリートの強さ p293
†二重の剥奪感をバネに p296
ドネツク州のリージョナリズムが、他の東部諸州より強かった 
東部に共通する「西部に搾取されている」・・・「東部諸州の中でも、ドネツク州の声は特に軽視されている」 p296
3 オレンジ革命と地域党恩顧体制の完成 p298
4 ユーロマイダン革命とドンパス革命 
†失われたチャンス(二〇一四年二ー三月) p307
ヤヌコビッチが逃亡 p307
†初期の抗議行動 p309 
†無力なウクライナ愛国党 p313
愛国派が示威行動を行なっても、分離派の火に油注ぐだけ・・・
マイダン活動家が何をやっても警察に捕まることはないというを認識した反マイダン派の市民が怯えて、抗議行動を自粛するようになったのと同じである。
実際、分離派の運動は、敵であるマイダン派の運動論に多く学んでいた。p313
†ドネツク人民共和国の誕生 p317
†人民共和国最高会議の成立 p319
近未来ウクライナ大統領に秋波を送るプーチン p321
プーチン大統領は、ウクライナ大統領選挙を行うことの意義を認めると同時に、人民共和国は住民投票を延期するよう提案  p321
†独走する共和国 p323
†ドネツク空港空襲 p324
五月二六日のウクライナ軍によるドネツク空港の空爆 p325
5 平和でも戦争でもなく p327
すでに二〇一五年には、人民共和国との経済関係を「血の商業」などと呼んで忌み嫌う民族愛国派は多かった。 p330
†民間砲撃の伝統
ウクライナ側は、ドンパス戦争に向けた準備を大急ぎ p330
戦闘で劣勢なウクライナ武装勢力は、・・・銃後の民間家屋、民間施設を狙うようになった。・・・早くも二〇一四年初夏、のちにプーチンに対ウ開戦の口実を与える非常に良くないウクライナ軍の伝統が形成された。 p331
†ノヴォロシア運動の地理的限界 p332
南東ウクライナで伝統的に支持されてきたのは、「ウクライナの連邦化」であって「ロシアへの編入」 。p334
†本章のまとめ p335
ドンバス分離派は、マイダン革命の規制事実を受け入れるか、絶望的な武力抵抗をするかいずれかしかなかったのである。
第五章 ドネツク人民共和国 p337
二〇一四年に成立してから露ウ戦争開戦までのドネツク人民共和国の歴史を紹介 
1 先行する分離運動 p340
†ソ連解体期 
ソ連末期の「勤労者の民族連帯運動」(インテル運動)、オレンジ革命(二〇〇四年)に反対するウクライナ連邦化運動
インテル運動は、基幹民族の民族主義に対抗し、ソ連の維持とロシア語話者の人権擁護 p340
†オレンジ革命後の分離運動とマージナルな活動家たち p341
†アレクサンドルの政治思想 p343
なぜロシアは、西側とウクライナの攻勢に対抗できないのか・・・第一に、下からのイニシアチブを無視・・第ニにモチベーションを欠いた「民間外交」・・第三に新味のない「ソフトパワー戦略 
ひとたび危機がウクライナを襲えば、 我々は新たな東方拡大運動(Drang nach Osten)に直前するだろう。伝統的な「文明化の使徒」だけではなく、ロシアとロシア的なるものへの憎悪を叩きこまれた、・・・
アレクサンドルは二〇一三年一一月以降を予見・・・ p345
2 建国期の試練 p346
†住民投票後の新体制、ロシアからの応援団 p346
†ロシアの介入の強まり p348
ロシア指導部は、「人民共和国が滅びない程度には助けるが、人民共和国がウクライナを軍事的に追い詰めたり、分離独立を主張したりするところまでは助けない」という妥協点を選んだ。これがミンスク合意の基礎になる。
†援助の交換条件 p351
@急進派を指導部から排除すること。AB p352
「人民共和国がロシアにモデルを提供する」 p354
†人民共和国の反転攻勢 p355
共和国軍を自警団の寄せ集めから単一の国軍に再編成 p356
クリミヤ人やドンバス人が「ウクライナに帰りたい」と思うとすれば、それはウクライナがロシアとの経済競走に勝ち、ウクライナの生活水準がロシアを追い抜いた場合  p359
†押し付けられた第一ミンスク合意  p359
ミンスクでの第一合意二〇一四年九月五日 
†ノヴォロシア国家連合の終焉 p361
3 二〇一四年八月のドネツク(リアルタイム)
著者がドネツクを訪問した際の体験記 p365
4 小康期の人民共和国(二〇一五-二〇一七年)
† 花壇とスケートボード p374
OSCE(Organization for Security and Co-operation in Europe:欧州安全保障協力機構)
†スルコフの政治技術者 p377
†建国者パージの第ニ波ー共産党 
二〇一四年 第六章 ミンスク合意から露ウ戦争へ p419
ドンバス紛争管理の失敗がいかに露ウの全面戦争に発展したかについて述べる。 p420
1 1 分離紛争解決の五つの処方箋 p420
†処方箋@ー連邦化 p421
ミンスク合意は典型的な連邦化政策  p421
†処方箋AーLand-fo-Peace p424
分離政体が自分の実効支配地の一部を親国家に献上することで独立を認めてもらう p424
†処方箋Bーパトロン国家による保護国化 p425
事実上、分離政体を自分の保護国にしてしまう、・・・ロシアが赤恥をかく p425
  パトロン国家は親国家と半永久的に関係が悪くなる。 p425
†処方箋Cー親国家による再征服 p427
一番後腐れのない方法 p427
処方箋Dーパトロン国家の親国家の破壊 
例としては、一九九九年、「コソヴォを救うためになされたNATOによるユーゴスラヴィア空襲 p428
2 ゼレンスキー政権の再征服政策 
†ミンスク合意の「リセット」 p430
人民共和国への「反撃」については現地司令官に任せていた。p432
†パリ四首脳会談 
ゼレンスキーは四首脳会談を引き継ぎつつ米英土の参加で拡大を要求 
二〇一九年一二月のパリ首脳会談
生真面目に原稿を読み上げるプーチンの横で、ゼレンスキーがにあにあ笑っている  p432
プーチンが対ウクライナ戦争に舵を切ったきっかけとなったしている。
二〇二〇年前半の「停戦協定違反」の数は著しく少ない。 p433
†アゼルバイジャンに続け p434
3 奇妙な宣戦布告 p436
†ミンスク合意に見切りをつけたロシア指導部 p436
二月一五日、下院は、両人民共和国を国家承認するようにプーチンに要請する決議を採択 p436
二月十八日、両共和国元首、女性、子供、老人のできるだけ多くをロシア連邦に疎開させることを発表  
†ニ月二一日安全保障会議 p437
プーチンが主催、公開
プーチン大統領、ドンバス両共和国を承認 p441
ウクライナの本体部に攻撃をかけるかどうか議題にならず・・プーチンが検討したのは、ロシア軍総司令部においてであった・・国家の在り方としてこれは病的である。 p442
†ドンバスニ共和国の承認 p442
共和国の住民を狂喜させた。
演説内容のほとんどは、ソ連の民族領域連邦政策の批判 p442
ソ連の民族範疇は、「ロシア人」もう含めて、すべて初期ボリシェヴィキ政権が構築したものであって、ウクライナ人だけが特に人工的などということはない。 p445
八年前のオデサ事件の犠牲者を黙祷  p445
†二つの宣戦布告の間 p446
ニ共和国承認表明の直後、プーチンは共和国の首長と共に「友好・協力・相互援助条約」に調印 
二つのというのは、一つがドンバスニ共和国の承認(二月二一日)「友好・協力・相互援助条約」締結で、もう一つが二月二四日のことか?
†二四日の「特別軍事作戦」宣言 p447
二四日早朝、プーチンの「特別軍事作戦」宣言(二度目の宣戦布告)、ロシア軍はウクライナ全域に侵攻 p447
†「ドンバス解放」 p450
プーチンは、NATO拡大の阻止、ドンバス住民の救済、ウクライナの脱ナチ化 p450
実際は、この戦争でNATO拡大、ドンバスでの民間犠牲者数の増大 
この戦争によって、 ウクライナ政治における右派民族主義者の地位は揺るぎないものになり、野党は撲滅され  p450
4 体制変更戦争 p452
†開戦 
†初戦のロシア軍の苦境 p457
5 領土獲得戦争へ p460
キエフ急襲作戦の失敗のち、三月二五日、ロシア軍総司令部が記者会見で、今後はドンバスに兵力集中 
†ヘルソン、ザポリジャの占領から併合へ p461
†領土獲得戦争への険しい道 p463
†学生の志願 p464
二〇二二年五月の著者のオンラインインタビューで  
†反転 一極世界外交に精を出すプーチン p465
現実の戦争は軍部に丸投げし、自分は、一極世界の終焉なるものを演出する外交ショウに精を出すようになった。(ゼレンスキーと似てきた) p466
九月の敗走と政治危機 p467
†新方針の採択 p470
大退却の中でプーチンもようやく目を覚まし 
@九月二〇日(まさにドネツク市での大量被弾死の翌日)、ドネツク等で住民投票の実施を発表A翌二一日、三〇万人の予備役を動員B一〇月八日、セルゲイ・スロヴィキン、ロシア統合軍司令官に任命 
同日クリミヤ橋が爆破 p470
「もしウクライナ軍が戻ってきたら自分たちがどんな目に遭うか」p472 †戦線の安定化 
二〇二二年一一月一一日、ロシア軍ヘルソン州右岸から撤退、ドニプロ川が軍事境界線 p472
†バフムト攻防線とワグネル p474
†ウクライナにとってのバフムト p475
ゼレンスキー大統領は負けているときはアメリカ大統領府の助言を聞くが、勝つと聞かなくなるようである。 p476
†ウクライナ国内の粛清 p476
なぜ明日にも反転攻勢が始められるような嘘を、国民につくのか。 p478
†本章のまとめ p480
国連信託統治のような非・主権国家的な解決法が大規模に採用されるようにならない限り、解決が難しい問題なのである。 p481
終章 ウクライナ国家の統一と分裂 p483
ウクライナの問題は、第一義的にはウクライナの問題だ 
プーチン政権を打倒しても、ウクライナは良くならない。
†分離戦争への実証的アプローチ p484
こんにちのウクライナは、民族解放運動の結果生まれたのではなく、ソ連解体の結果生まれた。 p485
国民の団結を高めるのは繁栄と福祉の向上であって、イデオロギーや言語の強制ではない。
†身体のアナロジーで領土を考える非合理 p488
†分離運動の社会的背景 p491
社会主義解体後のウクライナの貧困化に対する不満、社会的不公正への怒り p491
†継続する社会変動とトランスナショナリズム p494

トランスナショナリズム:国際社会を考えるのに従来の「国家」では考えられず、ある国の民間の個人・団体と他国の民間・団体あるいは政府との間で形成される関係 
あとがき p498

ゴルバチョフ、スターリニズムの崩壊と評価をしていたが、その後の資本主義には関心がなかった。すなわちロシアの周辺国にも関心がなかった。
本書に出てくる、国名、地域名は当然人物名にも疎かった。そんなわけで、この書を読み切ったとは言えない。読んだともいえない。
ロシアは悪、ウクライナは善というメディアの中で、得られた知見は有意義なものであった。
勿論、明確な答えはない、どれだけ血を流さなければならないのか。
ウクライナが勝って更に政権のは極右化、ロシア人狩り、貧しい農業国、外国資本が蚕食、勝ってもウクライナに未来はない。
[2023年8月24日]
井口時男著「危機と闘争ー大江健三郎と中上健次」p110に?(すが)秀実著「革命的なあまりに革命的なー「1968年の革命」史論」作品社二〇〇三年発行の第一部ニューレフトの誕生第四章大江健三郎における保守的革命主義帰趨が取り上げられているのでそこを読んでみる。
1 ブントので時代 p71
『われらの時代』一九五九年七月書き下ろし刊行、一九五八年社学同結成
この現実世界ので性的人間をえがくリアリズムであり、その達成のために性的イメージが有効な武器であると考えたのである。(厳粛な綱渡りp236)
「われらの時代」、このタイトルはアイロニーである。 p72
「われらの文学」という文学全集、確かにあった。
一九六五年「われらの文学」一九六五年刊行第一回配本大江健三郎、最終巻は江藤淳と吉本隆明 
この全集が六〇年安保以後ので時代性を積極的に刻印・・・ p73
2 全学連われらの時代 p74
「民学同」 p76、実際あったような気がするので、ネットでチェック、あった日本共産党(にほんの声)と共闘関係にあった民主主義学生同盟だ。
この物語の読者の多くを占めていたに相違ない学生ニューレフトたちにとって、リアリティーの欠如はおおうべくもなかったと想像される。 p77、まさにリアリティーがなかった記憶がある。大江の学生運動絡みの小説はいつもリアリティーが感じられない。
日本の六八年革命・・p77、??
八木沢の開陳する組織論は、どちらかといえば、はるかに後者(全共闘)に近い。その意味でも、『われらの時代』の射程は、すでに六八年を指し示していたと言えるのである。 p77、??
靖男は・・・ハイデッカーがいうところの、「故郷喪失」の感情にその根拠をもっている。 p78、(「故郷喪失」、すなわち人間が本来あるべきところ、住み処(安住処)としての「故郷」を失い、絶えず「居心地のよくーない」「不安で不気味な」情態にあること/ネット川口雅之) 
それゆえ、彼らは自身が置かれている頽落状況への批判は、失われたものを糧としているという意味で、ファシズム人間接近するハイデカーを論じたブルデューの言葉ヲ用いれば、「保守的革命」という相貌を隠している。 p78
男根的美学主義への羨望が「われらの時代」以下の大江作品を規定しているといってよい。 p79
3 先見的な故郷喪失の感情 p77
「政治的人間」は八木沢、靖男は「性的人間」 p78
一九五八年二月、第一回日劇ウェスタンカーニバル p79
ブント主義 p85、?
4 パラノイア的磁場からの逃走 p88
神経症たる「不幸な若者たち」のパラノイア的行為は失敗に帰すことを宿命だけられているのである。
しかし、それを最も端的に表現するのは、『万延元年のフットボール』に引かれてある、谷川俊太郎の詩集『鳥羽』からの言葉「本当のことを云おうか」にほかならない。大江的「故郷喪失」の最終的な審級とは、「本当のこと」を言おうとしながら、決してそれを言えないーそんなものは存在しないー状態のことである。 p88
鷹四が「本当の事ヲ他人話す勇気が、なまみの人間によって持たれうる」か否かにのみ腐心するパラノイア願望の人間であり、それゆえ壮絶な(滑稽な)自殺をとげるのに対して、「本当の事」を語りたいと思いながら何が「本当の事」やら知らぬ蜜三郎は最後に、その神経症的/パラノイア的磁場からアフリカへと逃走する。 p89
六十年安保から六八年革命にいたる学生アクティブィストへの大江の影響は、六七年の『万延元年』を もって、表面的にはほぼ終わりを告げる。 p90
当時の最大のベストセラーは『万延元年』
一〇・八羽田闘争は、潜在的に「万延元年」的騒擾と見なされていたのだ。 p91、?
闡明されるのは・・・蓮見重彦の『大江健三郎論』を待たねばならないのである。

一九三〇年代の保守的革命主義、ルカーチ、ハイデッカー 

「われらの時代」一九六二年六月発行岩波文庫の作者解説「『われらの時代』と自身」では「・・ぼくはぼく自身のでもっとも主要な方法として、性的なるものを採用することに、この小説をつうじてはっきり決定したのだった。」、学生運動には一切触れてない。

[2023年8月21日]
朴舜既、竹内康浩著「謎ときサリンジャー「自殺したのは誰なのか」」新潮選書二〇二一年八月発行を読む。
発行時購入し、一寸読んでそのままになっていた。

サリンジャー関連の書籍で読んだものをこのHP内で調べてみた。
二〇二一年  「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年間」金原瑞人/訳、新潮社二〇一八年発行の一部分
「フラニーとズーイ」村上春樹訳、平成ニ十六年三月一日発行新潮文庫
「A Perfect Day for Bananafish」(LB版)と中川敏訳集英社文庫「九つの物語」を並置して読む。
二〇一五年
 ジョアンナ・ラコフ著井上里訳「サリンジャーと過ごした日々」
二〇一四年
 ケネス・シラウェンスキー著田中啓史訳「サリンジャー生涯91年の真実」
二〇〇三年
「サリンジャー再び 村上春樹」を掲載してあった文學界六月号
村上春樹訳「ザ・キャッチャー・イン・ザ・ライ」白水社2003年刊

二〇一九年、映画も
映画「ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー」鑑賞2019.2.10

小説の題材になるグラス家の家族構成
母親 ベシー 父親 レス
シーモア 長男 バディー 次男、作家
ブーブー 長女
ウォルト 三男 ウエーカー四男 三男四男は双生児
ゾーイ 五男 フラニー 次女

実際のJerome David Salingerの家族
父親 Sol Salinger 母親 Marie
姉 Doris 
まえがき p3
「バナナフィッシュ」の最後、男は・・三十一歳・・突然、自分の頭を拳銃で撃ち抜いてしまう。
本当に自殺だったのだろかー。
「バナナフィッシュ」一九五三年、「フラニーとゾーイ」一九六一年、「大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア序章」一九六三年、「ハプワース16、1924年」 一九六五年  p6
「ライ麦畑て捕まえて」は一九五一年刊行
序章 シーモアの予言 15
銃声/「ハプワース16、1924年/読み飛ばされた予言
ミチコ・カクタニの「ハプワース」を酷評もあって、米国では単行本は刊行されず。一九六五年の『ニューヨーカー』に掲載。
ビリヤード、一つの球が他方にぶつかる。当てられた球の方はポケットに落ちていく。サリンジャーの作品における死者と生者の関係性・・p25
第1章 若い男 
男の正体 p27
「バナナフィッシュ」においてサリンジャー自身は、銃である頭を撃ち抜いた男がシーモアであったとは一言も言っていない p27
Seymour Glassでなく、"see more glass“の問いがある p29
家族の証言 p31
シーモア序章で、家族たちが・・あの若い男、・・初期の作品で ・・おまけに銃まで撃ったりしている「シーモア」とされる男は、ぜんぜんシーモアでなくて・・・誰かさんというか、私自身にすごく似ている、というのだ。 p32
お前の星座は出ているか 
若い男、「僕は山羊座」、誕生日は十二月二十二日から一月十九日の間 p34
「ゾーイ」では、シーモアの誕生日は・・一九三八年二月がシーモアの二十一歳・・p34
「若い男」はシーモアではなくバディー ? p35
Faux Pas p37
男はシーモアのようでありながら、(アリー・ウープ同様)時空を超えて出現しているバディーでもある。 p38
かってシーモアはバディーの「義足」にはっきり言及している。p40
アンデルセンの赤い靴  p42
エレベーターでの出来事 p44
男は「自分は義足なのかどうか、バディーなのかシーモアなのかという潜在的な問いを私たちに遺してこの世から消えた、とも言える。p48
どちらか問題 p48
自殺か他殺か p50
ホテルのベッドの上に転がったのはシーモアの死体だった。「もう片方であるバディーは生き残った。 p50
あの男がシーモアであると同時にバディーでもあるならば、・・・・・生き残ってしまったサリンジャー自身の物語として、その作品を見て読むべきではないだろうか。 p53
バディーの悶絶 p54
二人の拍手 p56
サリンジャー自身もまた、自分が書くものは死者が半分を書いていると感じでいたのかもしれない。 p57
バディー、シーモア、二人は作家としてハイブリッドなのである。 p59
あの銃声は拍手のようなものだったのである。 p60
第2章 両手の音 p61
公案を裏返す 
白隠慧鶴禅師。「隻手音声」 p61
片手片足のミュリエル p63
シビルの片足、男のこめかみ p68
GlassがGlassを打(撃)つ音 p74
シーモア・グラスとバディー・グラスが生み出した自殺とも他殺とも言える銃声であったことがはっきり理解できるであろう。 p80
勝ち負けでも生死でもなく p84
私たちが無意識に受容している「川のように流れる時間」という前提に汚染されてしまっている。 p89
日本の弓聖の教え p90
弓術家 阿波研造 p91
そこから銃声が響いた瞬間には、生と死に本質的な違いもなくなって・・・撃つ者(生き残る者}、撃たれる者(死ぬ者)の区別がなくなった音でもあったのだ。p94
暗闇の音 p96
ザ・バナナフィッシュ p99
ウィリアム・マックスウェル、「ニューヨーカー」の編集者  p99 因果の囚人 p102
「目方で男が売れるなら、こんな苦労もかけまいに」(男はつらいよ 星野哲郎作詞) p104
第三章 バナナとリンゴ p107
最高のうってつけの日 p107
「テディ」、「ナインストリーズ」の九番目 
「どちらか問題」再び p110
少女の悲鳴・・・またもや死体は描かれない。  p111
芭蕉 p115
(芭蕉、英語でJapanese banana)
片手の拍手という公案 p122
鈴木大拙ー芭蕉 p123
蝉の時間 p125
「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」p119、・・・蝉が鳴いている時、蝉は完全なのであって、何の不満もなく世界に満足している・・p127
時間とは川の流れのようなもの、常識的な時間の型を破っているのが 蝉の声・・・鈴木大拙 p130
時間ー川のように流れる時間ー一次元の空間モデル、二次元になれば、平面的な広がりを持つ海のようなもの  p134
読者の時間旅行 p134
事実として、読者は時間の流れるままに生きながらも、まずは十七年かけて未来ではなく過去へと逆方向似旅をさせられ、そこで今度は一気に未来を見通す経験をせられていたのである。 p138
一本の腕という幻想 p139
リンゴではなくバナナをたべよ p144
テディによると、リンゴは論理であるという。 p144
テディは輪廻を経験していたし、ニーチェは永劫回帰を唱えていたし、鈴木は蝉の声に永遠を見いだしていた。 p147
サリンジャーは、「リンゴを吐き出し」ていたに違いない。・・・リンゴ(論理)を否定する「テディ」は実に「バナナフィッシュ」の答え合わせのような作品なのである。 p150
音こそが答えようとして世界に響いている。それは芭蕉にとっては「蝉の声」であり「蛙飛び込む水の音」であった。全く同様に、サリンジャーにとってはそれは若い男の「銃声」であり、子供の「悲鳴」なのである。 p153
サリンジャーのアレンジ p154
割れた頭 p156
作品世界の中のバディーに、「生き残った」としての人生を歩ませたのである。・・つまりはサリンジャー自身が「残された者」だった p161
私たちは皆、彼らのように死にゆくもの側ではなく、残された側にいる、私たちはまだ生きているのだから。だからこそ私たちが心から共鳴しやすいのは、逝ったシーモアの物語よりも、ホールデン・コールフィールドという一人の「残された者」の物語であろう。 p161
次の章で・・・主人公ホールデンが解かねばならない課題はひとつだけだ。いかにして「割れた頭を拾いあげるか、である。p162
第四章 ホールデン p163
テディが正の方に放たれている一方で、ホールデンは負の方に突き抜けている。
、勉強やスポーツに打ち込むこともない。学業不振、なりたいもの「あんまりピンとこないな」
ホールデンには「的」狙う気がないようだ。「方向がない」 p164
「何時だったかオレも完全に忘れていたよ」「何時だったかとかまったく分からなかった」 p165
(因果率を守っている)。その意味では、どんな不良も「正常」である。 p167
この小説の一つの魅力はホールデンの毒舌にあって、・・「インチキ」な人々を攻撃するのは小気味よい。 p167
ゲームから遠く離れて p167
かって弟を置き去りにした兄は、今度は自分が「この世の残された者」として生きねばならない。・・・今は「狙わない者」として、目標なくこの世をさまよい歩いている。 p169
人生かが的狙いの勝負であるという幻想は、学校全体、あるいはアメリカという国全体を覆っているのかもしれない。 p175
戦いが繰り広げられているフットボールも、正確にはアメリカン・フットボールである。アメリカでは、その建国から現在に至るまで戦いの熱狂が続いている、・・
勝つ側にいれば、世界はゲームだろう。でも負ける側にしたら「こりゃ一体何のゲームなんだよ」とホールデンは問い  p177
敵と味方の区別がつかない・・勝敗の区別もない・・「方向」のわからない兵士・・・p178、 この意味においてならば『ライ麦』も一つの「戦争小説」なのかもしれない。  p179
ゲームで大切なのは・・的を狙うのではなく、衝突音を聞くことなのである。 p179
ホールデンは・・・この世のゲームを構成しているのが勝者と敗者・・・・・ サリンジャーから見れば、世界というゲームを本当にプレイしているのは死者と生者であったはず p180
この先、ホールデンが語る出来事のところどころで生と死の交差点ーそれは大きな音であったり無音であったりするー g180
落ちた少年 p180
ホールデン・・・自分はキャッチャー(捕まえる人)になればいい。 p182
フィビー・・キャッチ(catch)じゃなくて、ミート(meat)よ! p183
「ミート」とは「拾い上げること」なのかもしれない、了解しておきたい。
「キャッチ」するという看板とは対照的に、『ライ麦』は様々な物/人が現実に地面に落下していく物語なのである。 p188
(「クリスマスに欲しいのは二本の前歯だけ」) p193
落下の三重奏 p196
お父さんのアリーやジェイムス・キャスルという死者が、ホールデンの人生を左右するほどの大切な役割 
「・・自分が反対に死んだ側で、花束をもらう側だったら、こりゃ一体何のゲームなんだよ!・・・」 p201
つまり、生と死には本質的な区別はない。  p202
妹は「カケラをちょうだいよ.とっておくわ(Im saving them)  p203
savingには「救う」という意味もある。 
「キャッチャー」というタイトルにもかかわらず、キャッチよりも拾い上げ、すなわち死者のは弔いを主題としている。 p204
落ちたのは誰? p205<
死者を拾い上げ、死を経由した者(割れたレコードのカケラ)とともに歩んでいく。そんな死者と生者がつむぎ紡ぎ出しているのがこの物語である、と私たちは読んできた。 p208
ジェイムズ・キャスルが死んだ前の学校で、あるいはアリーが死んだ三年前に、すでに自分も「落下者になっていたことに、ホールデンはまだ気付いていない。 p210
ジェイムズはホールデンのセーターを着て自殺した。 p211
また、ジェイムズ・キャスルという名前自体も、チェスのキャスリングという一種の入れ替わり技を連想させるものだろう。 p212
ストラドレーターのデート相手が、ホールデンの女友達だったのである。 p215
拾い上げることは、死を排除するのではなく包摂する行為・・・拾う側(生者)と拾われる側(死者)の間の隔たりー一方通行の感じーは残っている。 p223
ビリヤードの球は一つの球がもう一つとぶつかって、すなわちミートして、初めて落下すろのである。 p224
一見、一人だけで死んでいるようだが、その裏には、「入れ替わり」が可能なもう一人がいる。だから、そこでは、いわば「両手の拍手」が鳴り響く。 p225
弟が左利き・・・ホールデンの 右手がアリーの死んだ晩からずっと不自由であること p229
フィービー師匠 p232
金も帽子も、一方が差し出し、他方は遠慮しつつ受け取っている。当事者同士はその意義は分かっていないものの、ホールデンの流している涙がこの場面の特異性を物語っているであろう。 p234
「トイレから出ようとして、ちょうどドアの手前のところで、ちょっと気絶しちゃったんだ。」
カタルシス(排泄から転じて浄化) p236
祝福 p241
妹のヤツがくるくる回ってたりして。ほとんど泣き叫ぶところだった。むちゃくちゃ幸せで。 p245
ホールデンはこうして、どちらが死んだのか問題でない死、という地点に到達した。言い換えれば、そんな「死」を経験したホールデンは、もはやこの世に残された孤独な単独者なくなったのである。
作家バディーも、田舎に引きこもって薪を割ったりしながら案外楽しそうに生きていたのだった。サリンジャーも同様だったはすだ。 p248

発行された時代を考慮すれば、何も目指していないホールデン。
戦争には敗者だけで勝者はいないのだ。
「ライ麦」がかなり売れたというのも、ちょっと分かった気がする。状況を考えれば今後も売れていくだろう。

文学界掲載の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』訳者解説 村上春樹を読んでみた。
戦争体験をそのまま生々しく・・彼の体験は、フィクション化するにはあまりにリアルなことであり・・・彼の神経はそのような直接的作業には耐えられなかったのではないだろうか、そういう意味合いにおいて、『キャッチャー』は書かれることのなかったサリンジャーの個人的な『戦争小説』であると言ってもいいのかもしれない。 p271

 

[2023年8月12日]
文藝春秋で芥川賞受賞作を読む。
市川沙央作「ハンチバック」
作者は重度難病患者、TVで放映されていた。病名は先天性ミオパチーである。
初めに〈head〉〈/head〉、〈title〉、〈div〉等のhuml文が続く、それが目新しい形式かと思ったら、ちょっと稼いで寄付する原稿である。それが猥褻な内容である。
(なお、私は〈div〉のタグはほとんど使わない。)
ハンチバックの意味は「背骨が弓のように大きく曲がっていること、またそうした人のこと」(ネット調べ)
ネット関連の用語、難病介護関連の用語が多く、スマホで意味を調べながら読んだ。
芥川賞は短篇を対象にしているはずなのにだが、長いのが多いが、今回は36頁の短篇である。
難病患者の施設(マンション)での詳細な生活、そこには生きることの意味を感じさせられる。一方セックスについての表現、1億五千万円の小切手・・・小説は空想ではなく虚構であるはずだ。
性、セックスが人間存在の証になる、これを強烈に描き出している、それが受賞の要因になるのだろう。
反面、障害者の実態を暴露する小説か、読んでいて面白くない気持ち悪かった。私が読んで面白いようじゃ文学ではないか。

第二作、書けるんだろうか、この 一作だけでもいいんだが。

健常者が書いたら障害者に対する侮辱になるし、そうでなくても障害者への侮辱になるのではないか。

[2023年8月9日]
井口時男著「危機と闘争ー大江健三郎と中上健次」作品社二〇〇四年十一月発行(図書館からの借り物)を読む。
一 事実は/に復讐する
一a スキャンダルとアイロニーー大江健三郎 9
1 川嶋至が忘れられている p9 私小説、モデル小説の研究者
2 「事実」はいかにして文学の"急所=恥部"となるか p12
「虚構」と「事実」、高級な読者と低級な読者 
三島由紀夫「宴のあと」事件、原告側:私生活が歪められたという不快感、書かれたことが秘匿したい「事実」だから「プライバシーのは権利」を侵害されたといっているのではない。逆に、書かれたことが「事実」でないからこそ、自分自身に帰属するはずの私生活の所有権が他者に奪われた p14
(柳美里「石に泳ぐ魚」裁判で大江は「 付記  一、右の文章で、私が書きなおすことの必要を申したのは、現実世界 の経験でえたものの内面化、文学化に、その手続ききがつねに必要である、自分はそれをやってきた、という こ とに根ざしています。・・・」(大江健三郎氏の「感想」と題された陳述書の「抄録」には、以下の附記がある。「この『感想』と題された陳述書・・・の一部)ーネットより)
 (モデル小説であれば『政治少年死す』も関連するが、これはモデルあるいはその家族から訴えられたわけではないので、別個に考えるべきなのだろう。モデル小説というより、単に山口二矢をきっかけに書いたもので、でもやはりモデル小説か)
右翼団体が山口二矢に代わって大江健三郎に抗議したと考えるべきか。
        文学を擁護すればすれほど、「事実」は忌むべき"急所=恥部"たらざるをえなくなり、その結果、「事実」を問題化する行為は即座にスキャンダル?をひきおこすことになる。 p17、下衆の勘繰りで読むわけか
3 悪循環を切断するために p18
『取り替え子』はまぎれもない「モデル小説」
「アレの真相をのぞきたい、という読者の欲望をあからさまにそそる仕掛け p18
渡部直己は、、・・・"のぞき趣味"で読む低級な読者と同じ  p19
福田和也・・・「事実」への好奇心で読者の関心を釣りながら、「虚構」によって「事実」を「捏造もしくは粉飾」したことに対する倫理的批判  p20
小森陽一・・・固有名詞が《どのように操作されているかを、つきとめねばならない》 p21、井口「固有名詞をめぐる大江の方法は、もっとぞんざいであり、かついかがわしい。小森の姿勢はいかがわしさにとどかない。」
加藤典洋・・・この小説が「事実」と直結している(かにみえる)点をこそ擁護している点で、第三のタイプ p23
4 いかがわしさを否認しないこと p24
小説はいわば"スキャンダルの器"である。 p26
大江は・・「政治少年死す」・・『取り替え子』・・『憂い顔の王子』・・・読者の「事実への関心を否定しない、むしろ小説という社会的存在に活力を 補給するものとして積極的に肯定する方法を採用している  p28
5 「事実」から作ることと書物から作ること p28
アイロニーは、語り手の"真意"に、どんな解釈にも従属しない不敗の場所を確保するための方法・・・『取り替え子』のいかがわしさは、アイロニーのいかがわしさである。 p29
大江は《僕という小説家は、最初からアイロニーの作家として出てきた》 (大江健三郎・再発見) p29
千樫の言葉が"以下に語られることはホントウのことだ"明示的、非明示的に"これはホントウのことではない" p31
「父よ、あなたはどこへ行くのか?」→古義人に対する一回目の襲撃→「みずから我が涙をぬぐいたまう日」→二回目の襲撃 p32
"これは「事実」だ"は、"これは現実の事件からつく作られた"というふうに、"これは「事実」ではない"は、"これは過去の「虚構=小説」または"これは書物から作られた"というに。 p33
6 太宰治と三島由紀夫の真面目なアイロニー  p34
"これは「事実」だ"と"これは「事実」ではない"→"これは現実から作られた"と"これは書物から作られた" p34
「道化の華」、「仮面の告白」
7 まじめなアイロニーとして、しかも、生き延びること p39
三島 いつでも書くことを放擲する自由、"書く「私」"亡ぼす自由にほかならない。p40、書くことと生きることとを分離して、しかもまじめであろうとする、どんな書き手にも訪れうる「不快」であり「絶望」である。三島は、いわば、行為によってこの負債を一挙に返済しようとしたのだ。 p41
スノビズムの伝統 p42
大江 書くことと生きることとを分離することなく両立させること p43
『壊れものとしての人間』「片足びっこの小さな老婆」は万延元年のフットボールの後、『私という小説家の作り方』祖母が《離れの自室で切子細工のグラスから赤玉ポートワインを飲んでは》『M/Tと森のフシギの物語』の後で書かれた、 p44
読み(変え)つつ書き(変え)つつ自分を作る(作り変える方法・・・自分自身の生が《徹底して複雑な入れ子細工の箱となって、引用のなかの引用の、また引用の、という様相を呈する》(私という小説家の作り方) p45
8 大江健三郎的闘争 p45
手法の露呈化『小説の方法』「パロディとその展開」
《これは事実でない、事実でないことを語っているのだ、ということをあきらかにしながら記述していく書き方》 p46
『トリストラム・シャンデイ』ローレンス・スターンの荒唐無稽、奇抜な内容の小説 p47
三人称 『宙返り』『取り替え子』 p46
『憂い顔の王子』は『取り替え子』への批評に対する応答 p52
9 正義と真実、そして自由 p52
作家の自由とは、突きつめていえば、この私的な「真実」と「正義」を実現するための自由に他ならない。
付 車谷長吉における正義と真実、そして自由 p59
確信犯的に、"事実暴露"ふうな 私小説を書き続けている作家 

一b 覚醒と脱力ー中上健次
1 市民社会という他者
兆民
その文学観においては断固たる反ルソー主義者だった p63
兆民の文学観は健全である。・・彼の文学観が近代以前 p64
2 「事実に復讐する」ということ
《批評の方法として最過激の方向が、「事実は復讐する」であるなら、小説の方法の最過激は「事実に復讐する方向である。》(夢の力) p68
「事実」むき出しの「私小説」・・・短篇集『熊野集』 p73
3 中上健次はアイロニーを知らない p73
佐藤春夫 愚者の死 中上「佐藤の転向だ」 p73
中上の言説を特徴づけるのは、愛憎複合である。p78
両面的感情に対してアイロニカルな距離をとることができない。 p78
4 愛憎複合者の自己欺瞞 p78
「私は私である」という自同律・・・埴谷雄高、主辞「私」と賓辞「私」とのあいだには、「無限の深淵」が開いている。 p82
中上、秋山駿氏へ、《・・背反するものが二つある・・・どちらに偏っても元気がなくなる・・》p93
『千年の愉楽』が想像界、『地の果て 至上の時』が象徴界に、『熊野集』は現実界に、 p99
大江と中上をうまく絡めた評論かと期待したが、そうてはなかった。アイロニーと愛憎複合の並列である。後半は何が書かれるのか。

ニ 二つの「空洞」
ニa 崇高とユーモアー大江健三郎 p103
1 作品は呼びかけ、現実は応答する 
短篇集『「雨の木」を聴く女たち』『河馬に噛まれる』
"書きつつ生きる"という自分自身の生のスタイルを創作の方法へと、自覚的に転化したのである。 
小説は・・・それはテクストであると同時にメッセージである。 p103
2 「伝達という思想 
「テクスト=メッセージ」・・・「「郵便的」(東浩紀) p107
『万延元年のフットボール』
鷹四《本当の事をいおうか》
蜜三郎、言葉は君の「真実」を載せいないし、そもそも君の「真実」そのものが疎外感情にもとづく過大な「妄想」に過ぎない、
言葉についても人間についてもたかをくくった正しさにすぎない、  p110
?(糸へんに圭、すが)秀実は、『革命的な、あまりに革命的な』の第四章「大江健三郎における保守的革命主義の帰趨」で・・・蜜三郎の態度に《「本当のこと」を言おうとしながら、決してそれは言えないーそんなものは存在しない》という認識を読んでいる。 p110
疎外論の内面に「意味=真実」、「真実」は伝達は伝達不可能な「残余」・・・・・鷹四には「天皇」はいない。しかし彼の自殺は、いわば「本当の事=真実」そのものを、誤読と誤解に満ちたこの世界の彼方へ、超越的レベルへと上昇させようとするのである。 p111
? 私の解釈、「悪でもないし 善でもない、何にもなれなかったし、何もないのだ」
3 六〇年代末の鷹四から80年代のギー兄さんへ p113
大江は現実)モデルと作品との関係自体を小説化・・ここでは現実と称される世界は小説の外にあるのではなく、下位レベルとして小説のなかに取りこまれているのだ。・・「私小説」のような貌をしているが 、むしろ一般の虚構よりもう一段虚構の水準が高いのである。このとき、虚構と現実という通常の分割は無用である。これが大江的「私小説」の大江的たるゆえんにほかならない。p113
「僕」は「ギー兄さん」を模倣して鷹四を創造し、「ギー兄さん」は「僕」の作品を模倣して自分を「ギー」の役割に同一化する。「ギー兄さん」は作品と現実との相互応答・相互模倣の関係そのものの化身である。 p114
4 「事故死」への挑戦 g118
《事故によらなければ悲劇は起こらない。それが二十世紀である、》『武蔵野夫人』
「事故=偶然」 p119
5 「確信犯の不信仰者」として祈ること p122
《確信犯の不信仰者》は、そのような絶対者への帰依を拒んであくまで「こちら側」に踏みとどまりながら、しかし、「あちら側」との接触をもとめてなお祈りつづける者にほかならない。p124
6 "オウム的なものに"抗して p127
「最後の小説」もしくは「」締めくくりの小説」という観念は、九四年末のノーベル文学賞受賞と相まって、大江小説に悪しき影響をもたらした。p133
『燃えあがら緑の木』三部作も『宙返り』上下巻も、大江の投入した労力に反して、小説として成功していない。
作者に必要でも読者には必要のない記述が多すぎるのだ。p133
7 ユーモアにおいて肯定すること p134
「ベラックヮの十年」 p135
「僕が本当に若かった頃」 p137

ニb 愉楽と(の) 闘争ー中上健次
1 大江健三郎の卓越する「個人」たち p141
高安カッチャンやペニー、「河馬の勇士」、「僕」、兵衛伯父さん、マリア、タカチャン等々 
「内部指向型」の人間・・・彼らの姿勢は自己の「限界」を隠すことなく示すものとして、ユーモアの微光をまとうのである。それが大江健三郎が描き出す「個人」である。 p143
空洞のまま保ちつづけることで彼らは彼らの《魂のことをする》のであり・・・p143
2 卓越への意志ー竹原秋幸と浜村龍造p144
3 敗北する「一」の神学 p149
しかし、"卓越者"であることは、同時に浜村龍造の致命的な弱点である。江健三郎の人物たちとちがって、龍造の卓越への意志は根底に母性へのルサンチマンを含み・・p154
4 中上健次の無骨で力ずくの「闘争=闘争」 p156

5 見られてあること、語られてあること p162
6 「世界」が焼きはらわれた  p1679
大江的世界の「空洞」は上方に空いていたが、中上的世界の「空洞」は基底に空いている。 p173

三 "貧しさ"の方へ 
三a アレゴリーと(しての)根拠地ー大江健三郎
1 大江健三郎と中上健次の相反する闘争 p177
中上健次の「闘争」が土地からの離脱、土地に緊縛されたアイデンティティの物語の解体、したがって「私」の分裂と散乱、累積する「記憶」からの解放  p177
大江は、自分が生い育った四国の山間部の村を、独自の創建神話と歴史を備えた「村=国家=小宇宙」として構築  p177
大江健三郎は一人称を引き受ける・・・記憶をも引き受ける。p179
ギーについて、隠遁者ギー(万延元年のフットボール)→核時代の隠遁者(われらの狂気を生き延びる道を教えよ)、ギー兄さん(懐かしい年への手紙)、 二代目ギー兄さん(燃えあがる緑の木) p180
八〇年代以後にわかに昂進する自作言及性・・・作者はすべてを記憶しようとし、読者もまた、忘れることを禁じられているのである。 p182
2 「村=国家=小宇宙」と「路地」 p182
メキシコで書かれた第一の手紙・・・「村=国家=小宇宙」は世界のいたるところにありうる・・・・それは新宮の「路地」解体後、アジアにアメリカに、世界のいたるに遍在する「路地」を見いだそうとした中上健次   p183
決定的に隔てるものは別にある。それは、大江がこれを、物語でも小説でもなく、アレゴリーとして呈示していることにほかならない。 p186
3 『万延元年のフットボール』、またはリアリズムとアレゴリー p186
まずかれらの指示にしたがって、われわれの土地をそう呼ぶことから始めよう。(同時代ゲーム)
個々の事物や事件の描出以前に「意味」が進行しているような書き方、それがアレゴリーである。 p187
柄谷行人「大江健三郎のアレゴリー」(『終焉をめぐって』所収) p189
なぜ大江は、近代小説が 否定したアレゴリー的設定にこだわるのか。
柄谷《近代文学が前提しているのは、特殊なものが普遍的なものを「象徴」するという一つの信念なのである。・・・》p189
だが、『万延元年のフットボール』は基本的にリアリズム=シンボル的小説の圏内にある。 『万延元年のフットボール』にあっては、アレゴリーとしての性格はリアリズム=シンボル的枠組のなかに組みこまれているが、『同時代ゲーム』にあってはアレゴリー性こそが小説の全面を支配している。それが近代文学の評価軸をとまどわせるのだ。 p193
4 『同時代ゲーム』、または世界の死とアレゴリー p193
"知的ゲーム"の豊かさなのであって、近代小説の豊かさとはちがう。
アレゴリー小説にあっては、解釈の仕方はあらかじめ作者によって指定されている。・・・読者はそれをなぞるようにしむけられている。そこにはほんとうの意味での(読者のおのずからの発見人称委ねられた、という意味での)多義性はない。 p193
「僕」はこれから自分の書き記す言葉が引き受けざるをえない"貧しさ"を自覚している。 p195
5 『懐かしい年への手紙』、または私的なアレゴリー p198
トリックスター、中上の世界では「わる」 p199
「懐かしさ」という言葉は柳田国男から p199
『南総里見八犬伝』が儒教(朱子学)の世界像を参照枠、『神曲』はキリスト教の意味体系を 参照枠としている。
大江の谷間の村の場合、『同時代ゲーム』や『M/Tと森のフシギの物語』 p202
「ギー兄さん」の試みが孤立していたのと同様、谷間の村を舞台にした大江健三郎のアレゴリーも、ひとり孤独に担うしかないアレゴリーである。 p204
6 『憂い顔の童子』、またはアレゴリーとしての帰還 p204
『ドン・キホーテ』を 参照枠としてしつらえた『憂い顔の童子』 p205
大江の『故郷=根拠地』はつねにアレゴリーの空間であることを銘記しておく必要がある。
古義人が自分の「書いてきたこと・してきたことのすべて」というテクストを照合しつつその意味を読みとらなければ場所である。 p206
三b "貧しさ"と(しての)小説ー中上健次 p209
1 地理も歴史も奪われてあること p209
大江のアレゴリーはあくまで、土地の具体の相貌、その地形に固執するが、中上の「路地」は、逆に、抽象化と記号化への途を急ぐのだ。 p214
2 「路地」が記号化し、世界が記号化する  p214
 《家々は身を寄せあっていた。肌と肌をこすり合わせているように、家と家は、隙間がなかった》
4 『大洪水』、あるいは"貧しさ"を加速すること p224 中上の"貧しさ"は《地理も歴史も奪われた言語空間》(江藤淳) p228
5 「在る」ということの"貧しさ" p229
6 小説は"貧しさ"に加担する p235
『奇跡』では、小説と物語とが、交錯し、対話し、協働し、抗争している。 p238
小説(イクオ)、物語(タイチ) p239
あとがき p243

[2023年7月31日]
大江健三郎著「人生の習慣」岩波書店一九九三年五刷発行(Amazonから購入)の「信仰を持たない者の祈り」を読む。
カート・ヴォネガット p3
バームサンデー p4
ケイオス(カオス) p5
しかしこの紙のなかに、あるいはこの画面のなかに、自分の秩序というものをつくりたいと考えているのが現代の芸術家だと、私も本当に思うからです。 p5
マルカム・ラウリー・・・ どうしても祈りのような言葉が自分なかに湧いてくる、p6
宗教的な見方・・・そのような営業を受けると小説家として自由でなくなる・・・ p9
九歳
粉をひいているおじいさんがいる。 p10
『ジョバンニと牛』p11
私は友人たちやせんせいから、「大江君はいつも誇張して考えるくせがある。小説家になってよかった」といわれたことがあります(笑)。 p11、小学校時代の友人の話は珍しい
アッシジのフランチェスコ p10
自分にも魂の問題がある 「よし、魂はいい。小麦粉をとろう」 p12
自分がいつか信仰を持つのではないか・・・その時本当に大切なものを捨てることができるだろうか p12
私は小説にその子供を殺してしまおうと思っている父親のことを書きましたけれども、私自身は殺そうと思ったいうことはないように思います。だからかえって、「君は卑怯だ」とか「臆病なんだ」とかいわれても、それはしかたありませんけれども、しかし自然に死ぬのだったらそのほうがいいかもしれないと思っていたことは確実なんです、 p14
この子供がこのまま死んでいくのだったら、自分は二十八年間生きてきたけれども、そのことに意味がないということでした。 p14
ミルチャ・エリアーデ  「自分がここに生きているといつこと、存在したということは、誰も否定できない
indestructibilty of human existence p17 < br> エピファニー p18
「クイナです」 p19
妻はギョッとして私を見ました。p20
NHKの録音で言葉を習った p21
森安信雄先生、隅谷三喜男先生 p22
『Mのレクイエム』 p23
かれの心の中にやはり特別なものがあって、亡くなられた自分のいちばん大切先生のためにひとつの曲をつくっていく。その時かれの心の中に働いているものを、やはり私は「祈り」というふうにとらえたいのです。 p24
ミラン・クンデラ・・・笑いと忘却の書 p25
「人間の権力に対する闘いは、忘却に対する記憶の闘いだ」 p26
ー悪魔の笑いに対して「いや、この世の中はすべていいんだ」といいかえして笑った。 p27
アポカリプス  p28 天使の笑いも悪魔の笑いも、極端に走って・・・人間の死だって無意味だ・・・ふたつの深い裂け目 p28
片方はファナティシズム。片方は絶対な懐疑主義。 p28
《人々の愚かしさというものは、あらゆるものに答えをもっているということからくるのだと自分は思う。・・・・・全体主義的な世界とは・・・クエスチョンズの世界というよりは、アンサーズの世界なのです。・・・・》p30
読者に対して、アサートはしないけれども、何かを問い続ける態度というものを伝達することが できれば考えているわけです。そういう人間は確信をもっていないわけですからー信仰を持っていないといったほうがいいかもしれない。・・・・心の中にある方向づけというものを持っている。それはやはりひとつの「祈り」だと私は考えるわけです。  
リアルポリティクス p31
ジョージ・ケナン
《  それをいつくしみ、よく保ち、発展させ、・・・そのままにわれわれの後に来るべき者らに渡せという・・・》p32
あらゆるところに「祈り」というものはある。
私たち宗教を持たない人間、信仰を持たない人間にも祈るということはある。「生命の春のために「核の冬」を拒むという願い、  p34
重藤文夫先生
「ああいう人たちは自分たちの生命のために闘っている。自分たちもあの人たちとともに闘いたい」 p35
(一九八七年10月、東京女子大学)

祈りについては小説「宙返り」に書かれているが、 「信仰のない者の祈り」とは本書読んだ。はっきり「アサートはしない」と書いてあった。

大江健三郎の講演は一九六〇年代、鶴見俊輔逝去の際、二度聴いたことがあった。講演は右の耳から左の耳で、このような講演集では、かえって謦咳に接する気分になる・・今となると。

「人生の習慣」
私はあまり話のたくみな人間じゃありません。若い時はドモっていたし、いまもしばしば言語不明晰です。 p220

[2023年7月29日]
あらためて「揩スしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ」を読む。
揩スしを臈たしにしていたので揩スしに変更した。
くさかんむりとにくずきの違いである。
この小説では「私」が語る。古義人や長江が語るのではない。古義人、長江が語ルームると、作者はどこにいるのだろうとう考えるが、そんなことを考えることもなく、スムーズに読める。
前に読んだのは何時だろうと、このbookdiaryをチェックすると、二〇一七年六月になっている。 きっかけは不明だが、雑誌の連載時には「なんだこの題名は?」と関心持たなかったようである。 序章 なんだ君はこんなところにいるのか
1 p 6
ーまだ百歳までには時間があります。小説も、主題というより、新しい形式が見つかれば書くつもりです。 p7
2 p 11
『形見の歌』 p15
3 p17
第一章 ミヒェル・コールハウス計画
1 p26
三十年前・・・金芝河釈放を求めるハンストp26、1975年{
ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガー p29、ブレヒト以後の重要な社会派詩人
2 p33
3 p40
4 p44
「M計画」 p44
サクラさんは、アメリカに渡って、学者になったもと情報将校と結婚・・・臨書・・ p49
「アナベル・リイ」経験 p45
5 p50
6 p55
シケイロス、ルイス・ブニュエル監督 p58
クラナッハ p61、ルネサンス期のドイツの画家
リュッツェン p61 の戦い(Schlacht bei L?tzen)は、三十年戦争中の1632年11月16日(旧暦11月6日)にドイツのライプツィヒ南西、リュッツェン(ドイツ語版、英語版)近郊において・・
自分の地方で維新前後に起こった二度の百姓一揆・・・p63、黒澤明に作らせたい、
第二章 芝居興行で御霊を鎮める
1 p66
柳家 p68
チャリ p75、関西の方言で,道化(どうけ)たこと,あるいは道化者を意味する。また人形浄瑠璃や歌舞伎の道化役や滑稽な場面(チャリ場)をいう。
「耳栓の木」 p76、?
2 p77
サクラ・オギ・マガーシャックp79
三人組 p81
3 p87
白い貫衣 p92
保護者のディヴィッド・マガーシャック p94
笏 p96
古めかしい漢字やルビの選び方が面白くて・・p96
めでしれいつくしぶ p98、 めでしは愛でし、れいつくしぶが不明、礼尽くし、ぶは強調 ??
engager p102
4 p102
"I" p108
第三章 You can see my tummy.
1 p110
日本文学研究者としてのディヴィッド・マガーシャック p112
2 119
スイートルームのベッドの再設定がちょっとわかりにくい。
料亭のリコンファーム p121、料亭でもリコンファームと言うんだ。
コーデュロイのズボン p123
3 p131
4 p137
5 p141
台詞の文体化 p141
神田神保町の古書店街・・私の小説の翻訳・出版が始まって以来の著作権事務所がある、p142< br> You can see my tummy.・・『芽むしり仔撃ち』からです。p143
「芽むしり仔撃ち」で確かめようと思ったら、「芽むしり仔撃ち」がない。買ってなかったのか。大江健三郎逝去に伴い、新潮社が文庫本を再刊したので それで購入してチェック。
芽むしり仔撃ち、p155「私のおなか見てもいい」
第四章 「アナベル・リイ映画」無削除版
1 p146
2 p150
ジャック・マリタン(フランスの哲学者)を経由でフラナリー・オコナーが学んだという「生き方の習慣」  p152
フィリップ・A青年 p153
3 p155
「赤衛軍」 p156
スウェーデン総領事のマンションのメイド。 p157
秋学期 p159
4 p160
プログラム・ピクチュア p162
5 p167
「ブイイ・フュメ」 p167、スモークしたようなニュアンスのワイン
ジュヴィナイルな性欲 p168、ヤングアダルトな
股間に黒い点・・・太い親指がこじいれられる・・・目にしめる鮮烈さの赤・・・ p175
モンステラの葉 p178、葉に穴や裂け目のある観葉植物る
「翼を持つ天使」 p179、熾天使
終章
月照るなべ/揩スしアナベル・リイ 夢路に入り、
星ひかるなべ/揩スしアナベル・リイ が明眸俤(めいぼうもかげ)にたつ
1 p182
来年私は、渡辺さんが去って行かれた没年(73歳)に
Kenzaburo p185
コラプス p186
プリディカメント p186
『大宇宙の旅ー時間空間を貫きて』 p187、J.H.ジーンズ著、翻訳は昭和十五年出版 
2 p190
監督は使わない、彼女自身とおれとKenzabro'その三人で作る映画 p191
『活火山の下で』マルカム・ラウリー 
『夜はやさし』スコット・フィッツジェラルド著 
マージュリー・ボナー p192
サクラさんがよく口にする言葉として"It's only movies, but movies it is!"
おれはファルス=ヴァジャイナ原理主義  p195
3 p196
コギーの現金書留 
コギーがノーベル賞 p198
4 p201
私の祖母が、先生と同級生・・子供農業協同組合の貯金 p201
ウォーレ・ショインカの『死と王の先導者』 p202
ーアレ、アレ!? p205
三浦明助 p208
谷間のコロス p209、古代ギリシャ劇の合唱隊 
アーアー p211
5 p211
ーゲネプロ p213、最終リハーサル
スクリーンに星が輝く・・・p218

「揩スしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ」は中編であり読みやすい。それなのに他の作品とも関わりがあり、総合小説的(?)意味合いがある。
ポーの詩「アナベル・リイ」より、日夏耿之介の訳詩が基本にあり、題名「揩スしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ」を「美しいアナベル・リイ」に変更したのは新潮社の営業に妥協したということだろう。
詩「アナベル・リイ」はそもそも少年少女の愛が始まりであるのに、この小説では後に明かされるが、青年がサクラを強姦する形である。
ナボコフの「ロリータ」とは全く別種である。

六年前にも「揩スしアナベル・リイ 総け立ちつ身まかりつ」を丁寧に読んでいる、何がきっかけだったのか。

[2023年7月13日]
一年くらい前に図書館に予約していた本が貸出になったので読む。
逢坂冬馬著 「同志少女よ敵を撃て」 早川書房二〇二二年四月十九版
ロシア人少女セラフィマが狙撃手になり独ソ戦に参戦し、引退するまでの物語である。狙撃手になるための訓練、著者のその技術に関する知識、独ソ戦の知識には感嘆する。
ジェーコフが登場してくる。p183
フルシチョフも p314
敵?
幼なじみ自分が結婚すると思っていた相手「ミハイルないボリソヴィチないボルコフを撃つ p443ー 
戦場を描き個人も描く。トルストイの「戦争と平和」をちょっと連想すろ。
ロシア語に翻訳されたらロシア人はどう読むのだろうか。
また、まるっきり「日本」を離れている国際的な様相の作品である。
(私の知識不足か)
五木寛之の直木賞受賞作品「青ざめた馬を見よ」はロシアを舞台にし、新しい形の小説と捉えていたが日本人が登場する。

[2023年7月2日]
2023/6/27毎日新聞朝刊に
「狭山事件の背景」静岡大教授・黒川みどりを読み、狭山事件は終わってないのだ。
この記事を読み、
黒川みどり著『創られた「人種」 部落差別と人種主義(レイシズム)』二〇一六年有志社発行を図書館から借りて読む。
目次を書くだけでこの書の概要が推測できる。
被差別部落
はじめに 1
第一章 「人種」 という語りの成立 9
◆1 「種姓」観念と「天理人道」 10
「種姓」観念・「穢れ」感の継承と断絶ー「「解放令前後/人類に相違もなしー文明開化の主張
◆2 人類学による「学知」の付与 31
◆3 習慣ハ第ニノ天性」 38
「遺伝と習養」/被差別民の「救済」/「習慣」が「種族」をつくる/社会外の社会/low classとhigh classの「新平民」 ー島崎藤村「破戒」、高校の時頃から破戒を読んだのを思い出した。
第ニ章 もう一つの「人種」 67
◆1 被差別部落の〈発見〉 68
犯罪のが温床というまなざし/「種族」 という境界/「習慣」と「人種」境位ー『特種部落改善の梗概』/「最悪ノ難村」
◆2 「特殊部落」という「人種」 82
部落改善の指導者の人種主義ー留岡幸助・竹葉寅一郎/被差別部落「放擲」論ー柳田國男
◆3 起源論による対抗ー大和同志会  95
大石誠之助、高木顕明(けんみょう) p96
第三章 「人種」から「民族」へ 115
◆1 「同一民族や」のなかの「異種」 116
「後進」ゆえの「同化」/排除/「日本人」のなかの「人種」の再発見/創りつづけられる「人種」
◆2 「人種」と「民族」のはざま 130
「日本民族」から被差別部落の研究へー喜田貞吉/「事実上の解放」を求めてー系譜的固定制の打破/「後進」と「部落責任論」/「人種」と民族」
◆3 「階級」による「烙印」の消去 144
「民族」という自己表象/「特殊部落一千年史」/「真の無産者」/「部落民」の消去続けられる起源論による啓蒙
「特殊部落一千年史」高橋貞樹 p146
佐野学「特殊部落民解放論」 p147
山川均 特殊民の権利宣言 p155
海軍省主催の思想懇談会メンバー 阿倍能成 谷川徹三 和辻哲郎ら p161 ◆4 「日本民族」への包摂 159
「国民」のなかの「少数同胞」/「国民一体」精神の涵養ー融和教育/「日本精神」による融和問題の「解決」
第4章 「人種」という語りの「消滅」/その後 171
木下恵介監督『破戒』p172
◆1 「特殊部落」という語り 172
「政治起源説」による「人種」の語りとの切断/「国民」のなかの排除・差別
◆2 「市民社会」の陰ー中上健次の作品と思想から 183
"人権の時代"/作家中上健次の登場/「戦後民主主義」からの出発と離脱/「実作者としての存在拠点」から/「差別、被差別」を問うー「路地」解体の渦中で/「市民社会」の「物の怪」ー「不可視の虐殺、戦争」/「路地」が消えた後/潜む差別への剔抉/対立の「無化」を求めて
狭山事件の概要 p185
「部落地名総覧」の発覚 p186
このような本の広告を新聞で見たような記憶がある。どのような場所なんだろうと好奇心はあったが、研究者などが求める本で私には縁がないだろうと考えていた記憶がある。
作家中上健次の登場 p187
これまで歴史的叙述だったのが、中上健次論のようになる。
一九六四年誕生一九九二年早逝、一九八一年カミングアウト 
「路地」 p189
『危機と闘争ー大江健三郎と中上健次ー』井口時男 p190
「西洋の合理主義で日本を切ろうとする」が「合理主義では斬れないところで差別が出てくるんです」 p194
『陰翳礼讃』谷崎 p195
「市長は、私のどもりどもり言う言葉をじっときいてくれた」 p205、中上はどもりがちだったのか 
小栗判官の物語の構造へ踏み込む p209
隠微に差別意識が内包するという最悪の事態・・・・・『路地』が消えて「市民社会」に呑み込まれていくことが果たして差別を解消するのか p210
「「差別」なる物の怪は、市民のおびえがつくり出し行政当局が利用するものである、と私は思う」 p213
◆3 「被差別部落」という語りの無化/後退 242
二〇〇三年、麻生が野中広務について、野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ」と発言 p247
部落問題意識の希薄化/「人権一般」への流し込み/「被差別部落」という語りの後退 
「部落地名総覧」事件 p243
参考文献 255
あとがき 263

部落問題は「解消論」と接合しながら、無知、無関心が許される「特殊」領域として機能しているようにみえる。p265

ヘイトスピーチ、LGBT、ジェンダーフリーに対する批判、差別問題は・・・

私自身、いつの頃から知ったのだろうか。
親たちが「バンタ」という言葉を話していた記憶がある。「バクロウ」もそのような意味合いだったのか。誰それがそうだという話で部落があるという話ではなかった。なお、街中に精肉店があったかが関連づけて考えることはなかった。
後に「バンタ」は番太郎から来ているのを知った。
高校に入って藤村の破戒を読んだのがはっきりと認識させたものと思う。 また、旧花街の名前を言っていけないと聴いた。
狭山事件、高校の頃かと思っていたが、大学に入った時で、新聞に掲載された田舎の暗い田圃風景が強く記憶に残っている。部落とは表記されなかったと思うのだが。
四本指で人を指してはいけないというのも大学の同寮生から聴いた。

この本も一回読んでわかりましたという本ではない。

[2023年7月9日]
満州
平井美帆著『ソ連兵へ差し出された娘たち』二〇二二年一月集英社刊を図書館から借りて読む。この書が発刊時話題になったが、近くの書店にはなかったので、図書館に予約していて読めるのが今になった。
序章 「乙女の碑」の詩 10
第一章 満州への移住 29
第ニ章 敗戦と集結 83
女性の軍人(ソ連兵)の高笑い p91
第三章 ソ連兵への「接待」 119
「れいちゃんならここにいるよ」 p162
第四章 女たちの引き揚げ 165
八路軍からの待遇はとてもよかった。まず軍隊に女の兵士がいたことに驚いた p170
偽八路 p175
「博多別れ」 p175
長谷川テル(緑川英子) p192
三畳ほどの個室がずらりと並んでいる・・。 p193
第五章 負の烙印 197
郡是製糸工場での一食は、蚕のさなぎが入った汁に塩を入れた椀と、さつまいもの欠片(かけら)ニ個だけ。 p200
ロスケにやられた女 p213
ロスケ p220
第六章 集団の人柱 257
三畳ほどの部屋は廊下を挟んでずらりと並び、 p301
終章 現代と女の声 307
満州からの引き揚げについて、きちんと成書は読んでなくて、今回初めてとなる。
黒川村黒川開拓団に焦点を当てたものだが、引き揚げ全体を覆うものが見えてくる。
国、軍隊、自治体の施策が、団幹部の行動が、古い過去の話では済まされない。
開拓地は元々土着の農民の土地である→敗戦後中国人に襲われる→ソ連軍に守って貰う→仲介、開拓団幹部だけでなく、ロシア語のできる軍人ら→女性の提供を条件にする。
この構図がある。
問題は、提供された女性は団を守った犠牲になったのに引き揚げてから、ロスケの女等と差別されていることである。
乙女の碑は建てられたが。
重い本である。

  [2023年7月1日]
『臈たしアナベル・リイ 総け立ちつ身まかりつ』読み始めたが、ロリータを読んでからのほうがよかろうと、新潮文庫の若島正訳令和四年四月十三刷「ロリータ」を購入し読む。
(2023.06.24毎日新聞今週の本棚で、若島正が岡村俊明著「中野好夫論」を評している。)
解説類を読んでからということで、後ろ方から読む。
p565以降に注釈が40頁もある。また読了後お読み下さいとある。それで後回し。
つねに新しい『ロリータ』・・訳者あとがき p607
一九五九年二月に、我が国では早くも大久保康雄訳で河出書房新社から上下二冊本として出版された。 p612、私の読んだ記憶とは大分ずれる。
ネットで調べたら「1962年7月、映画「ロリータ」(監督:スタンリー・キューブリック、脚本:ナボコフ)の上映に合わせ、 河出書房新社から「河出ペーパーバックス」シリーズの1冊として刊行されたウラジーミル・ナボコフ(1899〜1977)の長編小説。 さ翻訳は大久保康雄(1905〜1987)。装幀は原弘(1903〜1986)。」
これを読んだのだ、間違いない。
古い話だ。

解説・・野心的で勤勉な小説家志望の若者に   大江健三郎 p614
ここをきちんと読むために買ったのだ。
1
二十世紀最良の小説の中で、・・
私と英語という言語との情事の記録・・
2
幾章かごとに構成される、ひとつの小説ごとの文節化(はっきり他の部分から切断して書く、という意味で私(大江)は使っている)が徹底していることにもよる。 p617
作品はじつにストイックな「生きることの労苦の小説」に変わる。 p618
3
およそ常人にナボコフの言語感覚の高みにいたることはできない! p618
スピード p619
4
ボオ詩集
(平成十八年八月、作家)
この後に「この作品は平成十七年十一月新潮社より刊行された。」の記載があることから、大江健三郎さんの解説が載ったのが平成十八年十一月一日発行ということだろう。
先日、私が購入したのは令和四年四月十日十三刷である。

『ロリータ』


原稿の編集を私に依頼してきたのである。p9
ジョン・レイ・ジュニア博士 p13
第一部
(見出しは、部があり次に章、節、項・・がるはずだが、細かく番号づけられているだけ、これも特有の表現か)
1 p17
ロリータ、ロ・リー・タ、ローラ、ドリー、ドロレス p17
2 p18
私 p18
父親、ジェローム・ダン p18
母の姉 シビル p18
3 p21
アナベルは、筆者と同じで、 p21
4 p25
5 p28
ハンバード・ハンバード p35
6 p38
7 p44
8 p46
ヴァレリア p45
9 p57
10 p62
私は・・・・ハンバード流に愛撫したりた、 p63
ヘイズ夫人 p66
黒人の女中 、ルイーズ p69
11 p71
ドロレス p73 12 p99
13 p102
14 p111
しがないせむし男 p112
クィルティ先生 p113
15 p115
16 p120
17 p125
シャーロット・ヘイズ p128
ケニー p128
夢魔ハンバードは・・・・・私はグラスを粉々に砕き、 p128
ハンバード夫妻の住まい・・p132
18 p133
HとH、ハンバードとヘイズ p134
ロッテ・・シャーロット  p137
ドリー(我がドリータ) p142
19 p142
20 p146
21 p160
22 p168
ミス・ファーレンからの手紙  p168
臭化カリウム錠 p169
ケニー p171
23 p174
ファーロー夫妻は私を自宅に引き取ってくれた。 p181
ジーン・ファーロー p186
25 p188
マクフェイト p191
ヴィーがポーの、ベアが ダンテの小さな恋人 p191
26 p195
27 p196
雨が一粒シャーロットの墓に落ちた。) p213
「・・・このスケベ」、p207
「・・ほんとそっくりじゃない、クィルティに?」 p218
29 p229
30 p240
31 p241
32 p242
エリザベス・タルポット p243
バーバラ・バーク、チャーリー・ホームズ p244.245
「おまえのお母さんは亡くなったんだ」 p253
第ニ部
1 p257
2 p273
車で旅行し回る、読んでいても車酔いし易い私は酔ってしまいそう。観光案内をこれでもかこれでもか読まさせられている感じである。
一緒に汚らわしいことをして、普通の人々みたいな生活をしないでいるつもりなの、 p281
優雅なアナベル p288
こうしてうららかな無駄話をいちいち列挙・・p289
3 p294
アナベル・ヘイズ、ドロレス・リー、ロ・リー・タ p297
ビアズレー p303
青い老人(・・青く腐っているだけなのか) p308
罪深い旅 p309
ガストン・ゴダン p310
私たちの長かった旅行は・・広大な国土を曲がりくねった粘液の跡で汚しただけのこと・・p311
4 p312
5 p317
6 p320
7 p324
8 p327
9 p335
10 p340
私はただの獣に過ぎないのだから、 p341
11 p341
12 p351
13 p354
14 p358
15 p368
ビアズレー校・・・ハリウッドとの契約が期限切れになるとすぐ戻ってくると約束 p368
16 p371
個々のキャビンは融合して次第にキャラヴァンサライを形成する・・p372、私の若い時代浦和東口にキャラヴァンサライという大衆バーがあった。どうでもいいが。
17 p380
18 p383
今起こっていることは治しようのない病というか癌なので、p385
あの男 p386
クィルティ p392
19 p393
私たちはグロテスクな旅を続けた。 p406
20 p406
娘さんは昨日退院されました、・・叔父さんのギュスターヴさんが・・ドリーの入院費を現金で支払って、p435,436
21 p419
22 p422
23 p428
娘さんは昨日退院されました、 p435
24 p447
25 p449
お尋ね者 ドロレス・ヘイズ。p452
リタがここに登場してくる。p457
26 p457
彼女はロリータの年齢の二倍で、私の四分の三だった。p457
ヴァレチカはシュレーゲルで、シャーロットはヘーゲルだ。p459
性は芸術の小間使いにすぎないのである。 p460
親愛なるパパへ   p473
28 p474
私はリチャード・F・スキラー氏殺害の予行練習をした。p474
コールモント局留 p474
29 p478
(我がロリータ!) p494
「だめ。まったく問題外。それくらいだったらキューのところにもどれわ。つまりー」 p497
30 p501
31 p503
プロテスタントのつまらない無神論・・p504
32
私たちが最初に旅行したあいだ、・・p505
33
ラムズデール再訪。 p512
クィルティ医師 p519
34
クィルティが在宅注釈なのを確認 p521
彼女は私の子だったんだクィルティ p528
35 p546
『ロリータ』と題する書物について ウラジミール・ナボコフ p553

読み終わって、
「河出書房新社から「河出ペーパーバックス」シリーズの1冊として刊行されたウラジーミル・ナボコフ(1899〜1977)の長編小説。」は読んでなかったとも同然と判断するのが適切だ。
記憶を呼び起こすものが何もなかった。
この作品についてどう考えるのか。
一回読んだだけでだめだ。

[2023年6月日]
大江健三郎さんの『臈(らふ)たしアナベル・リイ 総立ちつ身まかりつ』を読む。
ポオ詩集の「アナベル・リイ」は部分的にしか紹介されてないので、 日夏耿之介全集第二巻譯詩・翻譯から「アナベル・リイ」を記しておく。
日夏耿之介の没年は1971、現在50年を経過しており、著作権は消滅しており記載しても問題ないと判断、ルビは括弧に入れた。

「アナベル・リイ」

在りし昔のことなれども
わたの水阿(みさき)の里住みの
あさ瀬をとめよそのよび名を
アナベル・リイときこえしか。
をとめひたすらこのわれと
なまめきあひてよねんもなし。

わたの水阿(みさき)のうらかげや
二なくめでしれいつくしぶ
アナベル・リイとわが身こそ
もとよりともにうなゐなれど
帝ク羽衣(ていきやううい)天人だも
ものうらやみのたねなりかし

かかればありしそのかみは
わたの水阿のうらうらに
一夜油雲風をを孕み

アナベル・リイそうけ立(だ)ちつ
わたのみさきのうらかげの
あだし野の露となさむずと
かの太上(たいじやう)のうからやから
手のうちよりぞ奪(ば)いてんげり。

帝クの天人ばら天?およばず(?は祉の旧字体)
めであざみて且さりけむ、
さなり、さればとよ(わたつみの
 みさきのさとにひとぞしる)
油雲風を孕みアナベル・リイ
そうけ立(だ)ちつ身まかりつ。

ねびまさりけむひとびと
世にさかしきかどにこそと
こよなくふかきなさけあれば
はた帝郷のてんにんばら
わだのそこひのみずぬしとて
臈たしアナベル・リイがみたまをばら
やはかとほざくべうもあらず。

月照なべ
臈たしアナベル・リイ夢路に入り、
星ひかるなべ
臈たしアナベル・リイが明眸俤(めいぼうもかげ)にたつ
夜のほどろわたつみの水阿(みさき)の土封(つむれ)
うみのみぎはのみはかべや
こひびと我妹(わぎも)いきの緒の
そぎへに居臥す身のすゑかも。

「臈(らふ)たしアナベル・リイ 」や「総立ちつ身まかりつ」の句はあるが、 「臈(らふ)たしアナベル・リイ 総立ちつ身まかりつ」そのままの詩句はない。

「日夏耿之介全集第二巻譯詩」、この本は大きく重く、持って帰るのが面倒で、該当の詩の部分をスマホに撮った。
アナベル・リイ

以前、臈たしアナベル・リイを読んだとき、「ロリータ」を考えもせずに読んだ。
工藤庸子評を読みながら。
序章は雑誌新潮の掲載誌で。
本作品でも大江はシケイロスに触れている、好意的に。シケイロスはスターリニストでトロツキーの暗殺者、この辺りのことを大江はどう考えているのか、いつも気になる形である。

[2023年6月18日]
古書店で200円で買ったレーニン「帝国主義論」角田安正訳光文社二〇〇六年刊を読む。
マルクスが半世紀前に『資本論』を執筆していたとき、圧倒的多数の経済学者にとって自由競争は「自然法則」と思われていた。 p42
一八八九?一八九〇年・・・カルテルが大いにされ p44
巨大銀行 p73
持ち株会社 p96
〈フランス人は、ヨーロッパを対象とする高利貸しである〉 p108
帝国主義(金融資本が支配的となった体制)は、資本主義が最高度に発達した段階である。 p117
表8 1910年の有価証券総額  日本12(単位:10億フラン) p120<
資本主義体制のもとでは、農業は発達を遂げられない。 p124
海運業 p143
カウツキー・・御都合主義・・日和見主義・・ p147、もっと酷い言葉で非難している
植民地政策・・・余剰人口を移すことができる。 p156
表14 列強の植民地領有 日本 p158
原材料の供給源をひとつ残らず手中に収めるときである。 p162
独占的シンジケートとトラスト・・・市場を蚕食 p163
この自由競争がみるみるうちに独占への変容 p173
帝国主義とは、特殊な発展段階に資本主義のことである。 p175
「中国=日本連合」を阻止 p205
エンゲルスは、一八五八年十月七日マルクス宛て・・・イギリスのプロレタリアートは事実上、ブロジョワ化する一方である。 p210
訳者解説で書かれているように、レーニンので論敵や反対者に対する攻撃や糾弾は徹底的 p284、読んでいて不快になるくらいである。

これを「ショック・ドクトリン」にどう繋がるか、繋がる要素は確実にある。

[2023年6月12日]
NHK eテレの100分で名著で、堤未香が出演してる「ショック・ドクトリン」を見ている影響もあり、堤著の「堤美香のショック・ドクトリン」を読む。なお、Twitterで堤をフォローしている。
カタストロフィ或いはそれに近い事件が起こった時、国民は不安になる、そのような状況下、新自由主義が大手を振って入り込む。不安を煽って政府に都合のいい政策を推し進める。
マイナンバーカードの詳細がわかる。返還できるのだ。
我々はもっと疑問を持たなければならない。

[2023年6月2日]
大江健三郎さんの「晩年様式集/in late style」を再読する、工藤庸子を側におきながら。

前口上として p9
私は長編小説を書いていた。そしてそのまま続けて来たが、「三・一一後」それに興味を失った。 p9,10、遺作出版があることになるのか。

余震の続くなかで p12
子供の時分に魯迅の短編のほんやくで覚えた「ウーウー声をあげて泣く」・・p14、魯迅は短編が多い、どの作品だろうか?
ネットにヒントがあり、魯迅の短編集「吶喊」(岩波 竹内好訳魯迅選集)中の「狂人日記七」、「・・ウーウー悲鳴をあげて笑うだろうな。」だと思うのだが。
先の友人が・・・新しいダンテだと、イギリスの実力派詩人・・翻訳・・・ 赤黒い表紙に農耕用の大きいフォークに背を刺された人影が黒ぐろと描かれているの表紙の本・・・「地獄編」 p19、ネットで探しても見つからない。この段階でダンテの神曲が英語ではDivine Comedy、神聖喜劇と知る、大西巨人の小説ではないか。
しかし、どこまでフィクションか、学生の頃、暗い絵に出てくるブリューゲルの絵を探したが、どこにもなかった、フィクションだったのである。
先の友人はサイードで、ネットでサイードを検索していると、サイードと伊丹空港十三の顔貌が似ていることに気がついた。
イギリスの実力派詩人の「地獄編」、やはりフィクションとは思わない。
赤線を引いてる行・・・
In its present state,・・・
Left to us,・・・ p20
Left to us,・・・の訳に、
「よっておぬしには了解できよう、未来の扉が閉ざされるやいなや、わしらの知識は、悉く死物となりはててしまふことが。」p21
寿岳文章(じゅがくぶんしょう)訳を引用している、かって、地獄編には山川丙三郎訳を引用していたはずだ。
山川訳では、
「この故に汝會得しうべき、未来の門の閉さるゝとともに我の知識全く死ぬるを」となっている。
寿岳文章の本を図書館から借りてみた。

DivineComedy こんな大きい本なのである、画像の右下は岩波文庫版山川丙三郎訳ダンテの神曲、今まで図書館から借りた本のなかで一番大きい。

大丈夫ですよ、・・・・夢ですから! p22 →新しい人よ目覚めよ、ラジオドラマにもなったんだ 

三人の女たちによる別の話(一)
     1
わたし→長江の妹 
長江、リッチャン、オセッチャン、
     2
アカリ、千樫、
ー懐かしい年から、返事は来たの?
記憶にある、どの小説、この本を前に読んだ記憶か 
     3
真木、p31

空の怪物が降りて来る p34
     1
     3
「人生の習慣」岩波書店
三人の女たちによる別の話(二) p47
アサが動き始める p57
     2
万延元年のフットボールのフィクションと懐かしい手紙の新聞にも出た事実のギー兄さん、 p69、これもフィクションなんだからなあ
     3
パパは、アカリさんの知的障害を、根本的なところで尊敬してないんじゃないか、 p75
     4
真暗になった頭の働きのまま年をとり、死に移行するということになる・・・p79
三人の女たちによる別の話(三) p88
サンチョ・パンサの灰毛驢馬 p97
三人の女たちによる別の話(四) p114
カタストロフィー委員会 p121
2
フルマイ  p130
3
パパがこんなにやさしく微妙な話をする人か   p133

ギー・ジュニア・・・大男の骨格 p136、ギーはズーっと小男のイメージだった。

目下の仕事といえば、『晩年様式集』の草稿を書くて程度・・・p139、この複層した感じ 
ふ 死んだ者らの影が色濃くなる p151
p・pさん ??
Kさん=鎌田慧
ヨシヒコ=塙嘉彦 p153
U氏=内橋克人 p155
シマ浦 p156
「三人の女たち」がもう時はないと言い始める p174
パパはこれまで性懲りもなく三十年、四十年と書き続けて、読者の関心はあらかた失っている老作家の古めかしい繰り返し・・・p180
(拒絶的なダダp182 かつてダダイズムがあったな、ダザイズムとのダジャレもあった)
『春さきの風』「わたしらは侮辱のなかに生きています。」中野重治 p186
溺死者を出したプレイ・チキン p190
プレイ・チキン、チキン=臆病者 
「陶製のメリケン」 p213
それらの三人の同世代 長江古義人 伊丹十三 ギー兄さん p215
長江 p215
コギー兄さん(コギー 水死) p216
魂たちの集まりに自殺者は加われるか? p219
いまYさんは立派な英文学者 p230、山内久明? 
『さようなら、私の本よ!』 p237
ーー正直、僕には吾郎が確信を込めて自殺という罪を犯したのじゃない、という気持があります。 p240
私の職業は看護師で  p241
ヘレン・ガードナーのエリオットの研究書 p237
田亀、当然タガメなのだが私はゲンゴロウと勘違いして読んでいたことがあった。
『日常生活の冒険』・・・小説の書き出しが未熟でアキレられると思いますが・・ p240
かれは僕の小説が暗いといい、自分のやってることはもっと将来性がない、といった。 p256
この小説のあちこちに、大江自身の作品を批判させる場面が出て来る。批判されている作品のかたちはわたしには好ましい。
五十年ぶりの「森のフシギ」の音楽 p258
伊方原子力発電所は、テン窪大地から三十キロの地点にある。 p261
二十五万分の一地図「松山」?? p262
『カリブ海偽典』"Biblique des derniers gestes" p264
画家 フランシス・ベーコンの言葉 p269
真木が・・・「私小説」的な語り方の長編に批判的なんです。 ナサケナイ p273
日本酒の壜が一本  p278
チガウ言葉 p285
私は生き直すことができない。しかし
私らは生き直すことができる。 p310
この章の見出しのみ終点の 。がついている p310
クンデラのいう「作品(ウーヴル)」に達成されたか
「ゆっくり急げ(フェステイーナ・レンテ」 p322

過去をチェックしたら「晩年様式集」読んだのは今回で三回目になる。前二回は読んだだけの記述だけでメモもない。まさに目を通しただけだつたか。


大江健三郎のまさにこれが『最後の小説』、或る面では「総括」でもあるようだ。
ポリフォニー、複層した表現、丁寧に読み取ろうしても、
この小説は不可解

結論は、私は生き直すことができない。しかし、 私らは生き直すことができる。?

晩年様式集の工藤庸子評に出てくる大江の作品
これが大江健三郎自身が代表作と認める作品といってもよいのではないだろうか。
『水死』『さよなら私の本よ』『懐かしい年への手紙』『取り替え子』『アグイート』『新しい人よ眼ざめよ』 『おかしな二人組』三部作『個人的な体験』 『「雨の木」を聴く女たち』『さかさまに立つ「雨の木」』『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身』『セヴンティーン』『政治少年死す』『日常生活の冒険
引用された他者の作品、これを読まないと『晩年様式集』は理解できない?
晩年のスタイル、若い芸術家の肖像、失われた時を求めて、フィネガンズ・ウェイク、金枝篇、活火山の下、ドン・キホーテ、ハックルベリーフィンの冒険、トム・ソーヤの冒険

[2023年5月8日]
図書館に予約していた「100万回死んだねこ-覚え違いタイトル集」福井県図書館編集講談社二〇二二年十月発行が借りられる連絡が来て、早速読んだ。
面白い、余り面白くて涙が出そうになった。
自分でも、まるっきり記憶にないものがあるが、小川洋子の数式・・博士、→数式を愛した博士。
図書館司書さま、乾杯!

[2023年4月21日]
放映は古い(二〇二二年九月)のだが、NHK100分de名著「アイヌ神謡集 知里幸恵」を購入し、読む。
かなり以前、岩波文庫の知里幸恵著「アイヌ神謡集」一九七八年発行を購入したが、わかりにくかった。
NHK100分de名著ならわかりやすいだろうと思ったわけである。
少しは理解が深まった。わかったつもりでも神謡である、謡を聴かなければだめだろうと思う、youtubeであるのだろうか。
知里幸恵の写真を見たら、伊藤野枝に似てると思った。
知里幸恵は金田一京助の家に寄宿していた。

[2023年4月10日]
瘋癲読書日記(2019年12月7日)には
大江健三郎の芥川賞選考委員辞任はネットでチェックすると円満に行われたようになっているが、当時、文藝春秋社への批判に拠るものと記憶していた。
「大江健三郎の人生」貧困なる精神X集」をチェックしたら、満更記憶違いではなかったようだ。
(文藝春秋社発行の雑誌「諸君」の反・反核編集方針への反発)

大江健三郎の選考委員は平成8年(1996年)下期まで
読売新聞は1994、2000、2004年の3回に渡り、憲法改正試案を発表(読売新聞にようこそ)している。
ところがその読売新聞に「二百年の子供」平成15年(2003年)を連載している。
(九条の会は2004年(平成16年)設立)

私の姑息な疑問は、大江健三郎の政治性(?)についてである。
セリーヌの小説「夜の果てへの旅」をヒントにしてロバンソン小説(二人組小説)を書いていることもある。
セリーヌは反ユダヤ主義になる人間である。
(注、トロツキーはトルストイを評価しているが、セリーヌの将来を危険視していた。「革命の想像力 トロツキー芸術論」(柘植書房1978年)のセリーヌとポワンカレ・小説家と政治家、詩人・反逆者としてのトルストイ)

[2023年4月11日]
新聞に富岡多恵子が亡くなったとの記事があった。現代詩年鑑’64を開き,富岡多恵子の詩を読んでみた。
「女タチ」
躑躅色ノ服ヲキテ
招待状ヲモッテイク
・・・・・・
躑躅が読めなかった、つづじであった。
一行目の一字が読めない、悲しいことだ。
6日老衰のため 87歳。

現代詩手帖発行人 小田久郎について、毎日新聞4月10日の記事に「2022年1月18日、肺炎のため90歳で死去していたこと」が載っていた。詩人 城戸朱理であることは知らなかった。

[2023年4月3日]
大江健三郎全小説3 「政治少年死す」を読む(あらためて)。
あらためてというのは、文藝春秋1961年2月号立ち読み、ネットの海賊版、今回が正規の読書となる。
解説を読んでから本文を読む。

封印は解かれ、ここから新たに始まる
尾崎真理子
「セヴンティーン」と「憂国」が同じ月に発表 p483
9 死亡広告
  純粋天皇の・・・p97 は、「厳粛な綱渡り」の詩とほぼ同一 
江藤は・・・第一部では自分の内部の「セヴンティーン」に向けられていた作者の視線が、中途から一転して浅沼事件という外側の「事件」を追いはじめたからであろう〉 p482
「政治少年死す」若き大江健三郎の「厳粛な綱渡り」ある文学的時代精神の”考古学”
日地谷=キルシュネライト・イルメラ
「悲しみとユーモア、残酷と慈しみ、怒りと失意、情熱と憂愁の、きわめて稀で個性的混合」三島 
「恐るべき犯罪に至る以前に娘の男の生涯に起きたことは、程度の差こそあれ誰もが経験することであり、この男は我々自身と少しも違わない」 p492
「政治少年死す」ードイツ語読者のための序 p492
大江は1957年から1963年までの初期作品で、呆然自失、失望感、行き場のないエネルギー、疎外感、自信喪失といった混乱期のテーマ・・・
歴史と作品の背景 p495
「セヴンティーン」 p497
「政治少年死す」ー現段階での考察 p498
1966年の大江のエッセイ
「・・この章節は保守派からも進歩派からも、様ざまな種類の政治的誤解をうけたが、もっとも端的にいって、僕はこの小説のヒーローに対して、嘲弄であったことは一瞬たりともない」(「作家は絶対に反政治的たりうるか?」『大江健三郎全作品 3』(第1期)新潮社、1966年度末、p263) p499
事実、創作、文学的なるもの p501
『宴のあと』
性的なもの,政治的なもの p503
再び、アンビヴァレンツ、アンビギュイティー、コンテクストについて p504
未解決なまま残された問題の今後 p505
ドイツ語版への反響 p507

『政治少年死す』読む。
山口ニ矢 十七歳、その時私は十六歳で衝撃は大きかった。浅沼稲次郎暗殺、本来浅沼に対し強く関心を抱かなければならないのに、山口ニ矢はどうしてそこまで行ったのか、興味を感じていた。即ち、被害者より加害者に向かっていた。大江健三郎さんもだ。
発表当時、文藝春秋で立ち読みした。共鳴することができなかった記憶がある。
(セヴンティーンは当時呼んだ記憶がなかった。セヴンティーン掲載は文藝春秋1961年1月号、幸福な若いギリアク人と三島由紀夫の憂国が小説中央公論1月号に掲載され、とてもニ誌を購入する(経済的にも)余裕がなく、後者のみ購入したかことによる。全作品の解説を読んでそれに気がついた。)
この小説の出だしは素晴らしいp49、さすが大江健三郎さんだ。金木書店の奥さん(?)が、大江健三郎さんの本といっていたので、これから大江健三郎さんといおう。
ノグチ・イサムの造ったばかでかいコンクリートブロックの、・・あの巨大な橋じゅうのいぼいぼは男根と女陰を湿すのだ p62
南原征四郎p63、これは大江健三郎を模しているようだが?征四郎といえば板垣征四郎、ぱろっているのか。
作者自身を登場させ、批判させられるように描くのは、この頃にすでにあったの だ
鬼と明治天皇をミックスしたような純粋天皇・・・p82
  小松茂夫、広津和郎、浦松佐美太郎、藤森安和 p86 あれp79、アレp86、あれp87、p89、p90、p91
8
おれは警視庁と東京地検のとり調べを受けていた、・・p87、確かにここから表現が変わる、ここまでがセブンティーン第一部の続きか
新東宝  p89、明治天皇絡みの映画を製作していたが、後半エログロナンセンス映画を製作、1961年倒産。
此処過ぎて悲しみの市 p95
絞死体を・・・警察官は精液の匂いをかいだという・・・ p97、これが決定的だ。

事実からフィクションを創っていくのは、この時からか?
フィクションから事実に近づいていくといった方がよいか?

私と同じ世代の工藤庸子、高校時代に浅沼稲次郎暗殺事件、政治少年死すをどう受け止めていたのだろうか。

高校生当時、書店で立ち読みし (当時16歳)、違和感を持った記憶がある。マスターベーションを突きつけられた思いがあったのだろう。内容をよく覚えてないことから、サラッと目を通しただけかもしれない(ネットでダウンロードしたのも(海賊版))。

[2023年3月25日]

工藤庸子著「大江健三郎と『晩年の仕事』」講談社二〇二二年三月刊 購入
序章 読みなすこと
ローズさんはいてもローズはいない、サクラさんはいてもサクラはいない p14
「近代小説」トイウジャンルそのものが、否応なく晩年の危機を迎えているはずであり、おそらく大江の「晩年の仕事」は、此の切迫した状況に向き合う地点で繰り広げられている。 p16
自筆原稿を前に「生成批評」をを本気でやってみたら? p25
第一章 『取り替え子』ー人生の窮境と小説を書くこと p41
篁さん、p54、なんと読むのかすぐ忘れてしまう 
シンメトリーの印象 p50
サイード
古義人さんの小説、悟良さんの映画、篁さんのオペラ p57
大黄は伊東四朗そっくり p61
丸山眞男 p62
全共闘世代のはしりに当たる年齢のわたし(工藤庸子)は、・・p63、私にはその意識はないが 
「現代政治の思想と行動」を大江文学のガイドブックとして読むことが有効なのではないか・・・p63
(なんと複雑な時間構造!) p71
センダックによれば、これは《モーツァルトに対する愛》を具体化するための試みであり、 p79、Outside of thereの新訳はだめということになるか 
吾朗のほうは、あの夜以来、《引き返しのできない所》まで、出ていってしまった・・・p82
ソレ p42 p44 p49 p50 p51 p52
アレ p49 p53 p54 p55 p59 p60 p61 p61 p63 p70 p71 p73 p73 p73 p74 p74 p77 p78 p85 p121 p124 p124 p129 p130
第ニ章 『憂い顔の童子』ーーセルバンテス、ジョイス、古義人 p87
Rejoyce! p88
日本文学から世界文学へのフィードバックとして、ワタシハ大江の「晩年の仕事」を読み解きたいと考えているのである。 p108
古義人の認識において、「童子」と「騎士」のあいだに連続性はないらしいということは確認できた。 p112
田部夫人は『失われた時を求めて』のヴェルデュラン夫人を「パロディ化」している、 p116
娘を驢馬に比較された古義人はムッとする。
四国の森の二人組は、どこかちぐはぐに相手を思いやる。 p120
「カーニバル的な暴力」な暴力という点で、『取り替え子』は『憂い顔の童子』と共鳴しあっている。
『阿呆物語』のやや込み入ったパロディ  p121
冒険や事件が終わって日常が戻ったところで「結末」の章を書き起こすのは、一般的な小説作法であり、・・『悪霊』などはその典型。 p128
「軍楽」・・・・・敗戦直後の破壊された街を歩く男が極限的な暴力に踏みにじられた者たちにゆるしを乞う、祈りのような文章である。軍楽隊の音楽に魂の救済のしるしを見るという点からしても、 p129
《錆びた小ぶりの砲丸》・・・超国家主義という政治的な脅威・・・隠微なイデオロギーの健在ぶり・・・「晩年の仕事」を貫く「父と天皇制」・・・p131
『フィネガンス・ヴェイク』 p136
HCE p137

第三章 『さようなら、私の本よ!』 p141
武満徹との対話『オペラをつくる』、《政治的なものについて小説を書くとき、少し単純化したり、少し歪めたタッチで書いたりして自分の小説のかたちをつくっている》・・・p152
サイード『文化と帝国主義』 p154
ジュネーヴ、バクーニン p158
『21世紀 ドストエフスキーがやってくる』 p159
丸山眞男「春曙帳」、私はドストエフスキーに強姦されたのである。 p156
『革命と死と文学ードストエフスキー経験と現代ー』
スタヴォロージン
文芸読本『ドストエフスキー』、あったはず、『埴谷雄高ドストエフスキー全論集』  p161
『ドストエフスキー全論集』、執筆者に女性の名前は一つもない。 p164 パフチン『ドストエフスキーの詩学』 p167
聴き取られる言葉と内面の言葉が重なり合いねじれて一体になるようなー ー不思議な文体 p170
ベケット式
ベケット式 ドストエフスキー風 パフチン式 大江式 p172
大江「、・・・小説の文章の書き方の一難しいところは、人が移動していくところをうまくリズムに乗せて文章にすることだ、・・」 p175
かりに『さようなら、私の本よ』を楽曲に喩えるとしたら?ー諧謔精神あふれる「スケルツォ」の大作、とわたしは迷わず応えるだろう。 p182
エリオット「ゲロチョン」 p184
『四つの四重奏曲』に由来する三本の《燃えるトゲ》に よって支えられている、 p188
「イースト・コウカー」の最後のスタンザから引かれたこの三行が、小説全体をしめくくる第三の《燃えるトゲ》である。 p196
フローベールの「晩年の仕事」 p203
《現在の時間と過去の時間は/おそらく未来の時間の中では現在となる/また未来の時間は過去の時間の中に含まれる》 p206
第四章 『臈たしアナベル・リイ 総毛立ち身まかりつ』ー女たちの声 p213ナボコフ的な意味合いにおける複数の言語との密かな「情事」であることに気づかぬ者はいない。 p218、私は気づかなかったよ!
見方を変えればロリータは、研究者のローズさんと女優のサクラさんをつなぐ影のヒロインようでもある。 p220
「みなし子」や「もらわれっ子」などの言葉を、わたし自身は戦後の差別語と理解している)。p229、??
8ミリカメラによる撮影・・・「凌辱」なのである。 p236
書きつつある小説の「小説作法」について小説家が小説の内部で解説してしまうと手法は、近代小説の基本的な約束事に反している。 p244
「しやうやの口説き」 p245
第五章 『水死』ー「戦後民主主義」を生きる p256
大江健三郎の父親は、劇的な状況で《不幸な死をとげた》わけではない p260
井上ひさしが樋口陽一と同い年、仙台一高に在学した友人であり、大江とともに護憲運動を組織  p260
丸山眞男の政治学と大江健三郎の文学とはいかなる関係があるか? p271
《ひとりの戦後民主主義者》・・「丸山眞男の言葉の使い方」 p272
十九世紀の小説は大方が「恋愛小説」か「姦通小説」だったから、女性の身体描写は小説家にとって腕の見せどころ・・・p280
ジェィムズ・ジョイス『ユリシーズ』の第十七挿話「イタケ」 p283
《もう取り返しが付かないといふ黒い光》 p294
「先生」「時代の精神」・・・p298
「生成論」「生成批評」 p305
『失われた時を求めて』 p305
今回は、古典的な《年代記》式記述も、《生の諸段階への再訪》というエリオット風の「方法論」も、ひとまず放棄されたところから、あらためて父の探索が始まるのであるらしい。 p306
大江健三郎と武満徹の共著「ギリシャ悲劇」 p313
「御霊ごりょう」「死霊しりょう」「悪霊あくれい」「生霊いきりょう」 「物の怪」 p318
叙述の欠落p325 デモクラティックな小説の証しではないか? p326
「高知の先生」・・・丸山眞男の「知識人論」の大きな源泉のひとつが中江兆民(高知出身)の『三酔人経綸問答』 p332
「神話宇宙)は、森々と展がり、E々と深い・・・・武満徹、"I hear the Water Dreaming” p342
第六章 『晩年様式集』ーカタストロフィー、そして「最後の小説」 p343
むしろ同時性をもつ「カタストロフィー小説である・・・p344
「諸段階への再訪」により、反復と対比の構造が、大江自身の用語によるならズレを含んだ繰り返しとして見えてくる・・・・・p345
大江健三郎は「僕という人物」がフェイドアウトして・・・・・ついに書きやめることに成功するー p353
奇妙な「一人称小説」 p336
現実とフィクションが不可分のものとして絡み合う物語のスタイル p327
起源の異なる草稿をパッチワークのように並べてゆく方式とその効果は・・・・・私の理解を超えた、特異なものに思われる。 p360
「ウーウー」・・・子供の頃に魯迅から仕込んだもの・・p362
「老いたる芸術家の肖像」であると同時に、人生を逆向きに俯瞰しながら未来に思いを馳せる、前代未聞の野心作・・・
ジョイス『若い芸術家の肖像』、プルースト『失われた時を求めて』p366
パロディー小説
『フィネガンズ・ウェィク』、ヴァージニア・ウルフ『波』  p367
二〇一一年九月一九日「さよなら原発一〇〇〇万人アクション」  アーカイブ p368
他者の言葉を導入しようと試みる例・・p371
震災直後の先の見えない現実にルポタージュのように密着したwork in progress でありながら、緻密なフィクションとして構築されてゆく p373
インタヴューの音声が録音されてから原稿になるまでの複雑なプロセス p376
フローベル 『ブヴァールとペキュシェ』 
複数的文体 p377
マルカム・ラウリー、『「雨の木」を聴く女たち』 p378
「有楽町一丁目の日本外国特派員協会」・・・・・ウェブで容易に確認することが出来る。 p381
『トムソーヤの冒険』の結末が復習されてから、新しい物語世界に移行する p383
提案と結論のズレ p385
優しさと女性的なものとの自然な結びつき・・・『悪霊』のダーシャ p386
性的なもの無縁ではない優しさの水脈  
『政治少年死す』 p387
工藤庸子自身、山口ニ矢についてどう感じていたのかを聴きたい。
ギー兄さん・・・遅れてきた「戦後知識人」、凡庸になりがちな議論、与するつもりはない p397、議論してもらいたい 
「水死」・・円環のような物語・・モダニズムに精通した小説家ならではの造形美・・・p400、?
『晩年様式集』と『「晩年様式集」+α』・・全く別物?? p402
《書いている「私」が長い間しゃべる》 ・・・複数的でない p404
中野重治『春先の風』 p405
アサさんは・・『小説家の肖像』描く役割 p405
「晩年の仕事」六作品の最初と最後の作品が・・円環 p406、円環になる小説を書けばいいんじゃないか?
小説家が小説を書いている小説・・・p410
カリブ海偽事典 p411
シャモアゾーのクレオール文学 p411
アカリさんと・・・・・古義人自身が父権的なものとの葛藤という抑圧された記憶から開放される・・・p411
祝杯の気配漂う終末・・
凡庸なフィクションの約束事を破壊する、・・p412
腰くだけ
ドン・キホーテ 
二十世紀前半のヨーロッパ文学、後半のアメリカ文学にはないものを、戦後の日本文学はついに持つことができた。 p413
「作家=騙りて=主人公」による言語的抑圧から解放 p414
「過ぎ去った生の諸段階への再訪」という試みは 
過去の作品を徹底的に批判するという仕掛け・・「小説家」の人生が露出 p415
『晩年様式集』の読者は『「晩年様式集」+α』に近いものを読んでいるのではないか p419
深瀬は続けて《詩を超えることーーそれは驚くべき想像が意思であるといはねばならぬ》p420
終章 「戦後の精神」について p421
岩波ブックレット『憲法九条、あしたを変えるー小田実の志を受けついで』 p422
大江の構想する文学は《いかなる事実からも、また事実のセカイWord覆ういかなるイデオロギーからも自立した者》小説の方法 
サイード『文化と帝国主義』・・・《歴史と現実に背を向けている自分への批判》 p424
全体小説 p422
『憲法九条、あしたを変えるー小田実の志を受けついで』 p422
「パロディとその展開」 p426
『小説の方法』あとがき 山口昌男 ミハイル・パフチン p427
柄谷行人との対談 笑いは 
《近代というのはルネッサンス位後ということですね》 p428

《兄の「メイスケ母」解釈にはやはり男性中心主義のニオイがあるから注意していようね》 p431
『政治少年死す』・・《サディクに踏みつけるべき女性でなく、敬愛と淡くエロティックな親しみを感じる、真実の女性 》  p431
小説は、・・・「時代の精神」を書くのであり、p433
サイード『知識人とは何か』
アドルノ p455
ヴァージニア・ウルフ『自分自身の部屋』 p455
サイード『晩年のスタイル』 p457
「ポストモダンの前、われわれはモダンだったのか?」 p463

この本を読むと、ジョイスなりサイードなりを読まないと大江健三郎は理解できないことになってしまうようで、大江健三郎が遠くなる。

[2023年3月24日]
「カリブ海偽典」パトリック・シャモアゾー塚本昌則訳二〇一〇年紀伊國屋書店刊、図書館から借りて読む。
バルタザール・ボデュール・ジュール
イヴォネット・クレオストp79、
マノット、ボデュール=ジュール・リモネル、バルターズp81、
マントー、シンガーミシンp94
ポールp97
パパ、アデノール・ボデュール=ジュールp58
尊大なムラート、傲慢なペケ、皺だらけのクーリp101
マン・ルブリエp108
ユブリスとアガベーp120
私はマノット・ボデュール=ジュール。フェリシテ・ジャン=リュース連絡とある能なし男とのあいだに生まれた娘p122
レオナール・ガスバルド、ガスドー、妻アナイーズ、シャビーヌ娘たちが三人 p133
マントーのルブリュp160
アナイーズp161
アンヌ=クレミール・ルブリエp173
バルタザール・ボデュール=ジュール氏は、彼の父リモネルと、母マノットにp181
チェ・ゲバラp206
エメ・セゼールの詩p210
ミイラp238
イゾメーヌ・カリュブソp262
ボードレールp284
パトリス・ルムンバp293
クワイ・エンクルマp295
彼女が、怒り、恐怖、喜び、興奮といった感情を笑いによって制御 p296
ラビンドラナート・タゴールp296
ラブレーp297
呪ったりめそめそするために思い出していたのではなく p306
アパトゥディ p314
アパトゥディはクレオール語で「?では足りない」を意味する。 p931

賢人を見分けるだけでは足りません(アパトゥディ)。
賢人たちがしていることをして、彼らが避けていることを避けねばなりません。
・・・・・・・・
・・・・・・・・
神に祈るだけでは足りません(アパトゥディ)。
神を当てにしない術を心得なければなりません。 p314

時の地下牢から逃れてきたその数多くの人々は・・・p317

この本読むのに時間がかかりそうで、貸出期間の延長をネットで申し込んでのんびり読むつもりでいた。その期間をチェックしたら、三日しか延長されていない。二週間延長できるはずなのだが、借りて三日目に手続きしたので、その三日目から二週間ということなのだ。
そんなこともあり、カリブ海偽典読書中断。
ギブアップ、屁理屈を付けた。私の先も延長できないのである。

[2023年1月25日]
ちくま3月号を開いたら、蓮實重彦がエッセイを書いている。
工藤庸子の繊細な意図に・・・・・大江健三郎の作品をまともに論じうる逸材が現代の日本には彼女と尾崎真理子の二人しか見当たらない・・
ウーン

[2023年2月19日]
文藝春秋で芥川賞受賞作を読む。
二作受賞で
井戸川射子作「この世の喜びよ」
ショッピングモールの中の喪服売場から始まる。
二人称で書き進められる小説で、私は誰と思って読み進めたが、途中で自分をあなたと表現する日常生活(?)を描く小説で、正直言って全然面白くない小説だった。長らく受賞作を読んできたが、最悪だった。もちろん私に読む力が無かったせいだが。
佐藤厚志作「荒地の家族」
「攣る」、つると読むのか。
植木職人の主人公が回顧しながら東日本大震災の中に生きて行く。
東日本大震災を描く小説類の中で、かなりよく書けていると感じた。

[2023年2月16日]
鷲見洋一著「編集者ディドロ 仲間と歩く『百科全書』の森」平凡社二〇二二年四月発行
図書館から借りて読む。後からの予約者もいるので全895頁急いで読む。
ですます調で読みやすく、それに騙されて読む、読むではなく読み飛ばす。
はじめに p3
第一章 『百科全書』前史 p17
第二章 『百科全書』刊行史 p85
第三章 編集者ディドロの生涯 p205
第四章 商業出版企画としての『百科全書』 p305
第五章 『百科全書』編集作業の現場 p395
第六章 「結社の仲間」さまざま p479
第七章 協力者の思想と編集長の思想 p549
第八章 図版の世界 p637
第九章 身体知のなかの図版 p701
あとがき p854
p109 非熟練労働者に支払われる一日分の労賃がニリーヴル  五〇〇〇円
p231 ディドロが父に書いた手紙 中野重治『村の家』、『歌の別れ』所収、新潮文庫
p284 年収一〇〇から三〇〇リーヴルが、「労働者、奉公人」、三〇〇・一〇〇〇リーヴルが「熟練工、企業中間職、コレージュの教師」、一〇〇〇・三〇〇〇が「中間管理職」、五〇〇〇・ニ万が「ブルジョワ」、四万・一〇万が「貴族」、一〇万から四〇万が「王侯」
p321 四つ折り版の大型本
p363 一リーヴル二五〇〇円の換算
p423 一番高い場所をあたえられている「神についての学問」が実はたったの四行
p425 「百科事典」と「辞書」という相容れない概念が呉越同舟
p486 『百科全書』は人間精神の歴史なのであって、人間たちの虚栄の歴史ではないのだ
p490 モンテスキュー
p497 革命の種が、たぶん地上のどこか知られぬ一角で成長するか、
p513 実業家と呼べる人びとはたったの四名です。『百科全書』が資本主義の担い手とは無縁だったいう証でしょう。
p564 あちこちにナヴィゲートし
p565 シンパの読者でも
p619 一九世紀以降、高等教育で知識は分断化、専門化し、唯物論は気費されました。
p625 ディドロが考える「結社」の根源には、意外にも生理学や政治学までをも取り込んだ、「多元的分子論」が潜み隠れているのです。
p711 「もの」としての人体描写・・・サド侯爵の作品における冷徹で客体化された人物描写・・・フランス語で読めば・・・病院の手術室におけるひんやりした感触
p817 一七世紀にコルベールが編纂させた図版集に、早くも『百科全書』図版徒歩瓜二つの素描がある
p820 メタ言語 語り手が全面に出て来て
p821 ルーヴル宮で開催された絵画・彫刻・版画の「サロン展」
p864 ディドロは『百科全書』の項目と同じように、実生活でも骨の隋まで演技するヒトであり、周囲の友人知人はおろか、われわれ後世の読者まで騙し続けて面白がっていた形跡がある
p882 「グーグル」こそが地上最大の百科事典であって、「ウィキ」はそのネットワークの海に浮かぶ、比較的小振りで優遇された小島、ないしクラゲのような存在でしかないです。
p892 謝辞 なんといっても二五年を超える期間、恩恵を受けた文部科学省科学研究費による助成でしょう。

[2023年1月3日]

大江健三郎と「晩年の仕事」を読んでいて、「21世紀ドストエフスキーがやってくる」集英社二〇〇七年刊のドストエフスキーが21世紀に残したもの 大江健三郎+沼野充義 が引用されているので読んでみた。
「スタヴロージンの告白」の位置づけp120
「ロシア報知」の校正刷りとアンナ夫人が書き残した書写版のニ種類がある。
もともと第二部第九章として書かれた、ドストエフスキーは校正の際に、第三部第一章と書き直している。
私の読んだのはどれだったんか、調べてみた。
読んだのは江川卓訳の新潮文庫、第二部、第三部にも「告白」は載っていない、 本に細かい目次はない。
この小説の最後に「注」があり、この章は最初は第二部の「第九章」と表記されていたが、校正の段階で第三部「第一章」と変えられた。と記載され、
文節(?)毎に、1.2.3,.・・・と、番号を付けられ、1では・・・校正刷りから抹消。と書かれている。
私は単に注と思い読まなかったのだ。
解説には、このことが書かれていた。以前、解説は読まない習慣だったのがまずかった。
しかし「告白」は読んだ記憶があり、調べると米川正夫訳(全集)で読んでいる。目次に、 第二編・・・201、スタヴローギンの告白・・・443
と書かれている。ここで読んでいたわけだ。
校正刷りである。
亀山郁夫「謎解き悪霊」を読んでいたのだが、気がつかなかった。

大江「・・・私は世界文学を好きなように読んできた。・・・」p118
大江は謙遜して語ってるんだろうが、私は私の低いレベルで、大江やドストエフスキーを好きなように読もう。

大江「・・・「大審問官」の章が誇大化される・・・・小説の中にあるある一部分を哲学的に誇大化するすることは常に間違っている・・・私が埴谷さんや高橋和巳さんたちに抱いてきた違和感はそこにあります。・・・」 p127
大江「第二部が書かれていたとしたら・・・レーニンの役割、スターリンの役割、トロツキーの役割などがそれぞれ変わったものになりえたかもしれない。・・・・サイード・・・ドストエフスキーもまた、あの困難な時代において、「意思的な楽観主義」をもって死んでいったのだろう、と思う。・・」 p139
沼野「・・・「さようなら、私の本よ!」・・・「四つの四重奏」・・・「セリーヌ」・・・ドストエフスキーの気配が満ち満ちている・・」  p140
沼野「ドストエフスキーの神の問題・・・安岡治子「ドストエフスキーとキリスト教」(岩波講座文学8)・・・ドストエフスキーは、「神を見つけるため」に一生苦しんで模索してきた、・・・」 p142
大江「・・・神を考えるために全生活捨てようということを続けた人たちの一部が、たとえばオウム真理教にいるだろう・・・」
(二〇〇六・一〇・二三)
オウム真理教事件1988・1995年

[2023年1月24日]
太宰治「右大臣実朝」「惜別」を新潮文庫「惜別」で読む。
高校時代、太宰に傾倒していたのに読まなかった作品である。
解説は奥野健男、懐かしい名前である。
右大臣実朝、ユダヤ人実朝、滅びて行く鎌倉幕府、文が滅びて行く。戦時下の作品。医王山。太宰治らしい文章。
惜別、魯迅の仙台時代を描く。なぜか魯迅と周作人を混同してしまう。魯迅は周樹人。
周が中国の現状について長々と話す。従来の太宰にはない書き方である。
「惜別」を読んだことから魯迅選集の「藤野先生」を読む。この「藤野先生」が「惜別」そのものである。