天方 蒼あまかた そう 小片集
小編でもなく、掌編でもなく、小片

[美味しかったもの] [映画館] [顔] [桜]

想い出しメモ
古いことをぽっと思い出すことがあり、忘れないためにメモしておこう。

巫山戯た自慢話 ・小唄勝太郎のかばん持ちをやったんだ。(コンサートのアルバイトでタクシーから下りてくる勝太郎の化粧カバンを楽屋まで運んだだけ。)
・所ジョージの特番のスタジオ撮影を断った。(風邪を引いて酷い口唇ヘルペスができて断ったのだ。)
・もう一つあったはず、ウーン思い出せない。会津祭り大名行列の青龍隊の一員として加わったことでいいか。

いく子へ
ここでは、従妹のいく子が聴けば、わかり頷いてくれるような思い出を書く。
○旧名
小学生の頃であろう、中国を題材にした絵を描いた半紙の大きさの和紙にに嘉重と署名の入っのが何枚かあった。 祖母に誰?っと聴くと、お祖父さんだと言われたが、理解できていなかった。嘉右衛門を襲名する前の名前であることは後に知った。その抽斗の中に、内容は記憶にないが、叔父が中国から出した軍事郵便の葉書があった。
○何年か前の東京塩川会で「トシチャの子どもでしょう」と、女性に声をかけられた。
その方の名前は記憶から外れてしまったが、塩川のアタミ食堂と武蔵屋(料亭だったが、今は廃屋)の間の狭い道を行くと突き当りに普通の家がある。
そこが、その女性の育った家、小林家である。
その主を周りではトヨアンツァと呼んでいたようだ。そこに私の一、二歳上の小林豊がおり、その妹さんが声をかけてくれた女性である。喜多方市の職員で東京塩川会に参加していたのである。
私の母の名は八重であるが、拝んでもらったのだろう。名前が良くないとのことで、とし子にして、周りからはトシチャと呼ばれていた。
普通の家、その頃の家は商売だったり、農家だったりで、一寸珍しく、変な表現となってしまった。
吉成材木店の貸家だそうで、今はどうなっているのだろうか。

引っ越して行った子
(サッちゃんではない)
諏訪町に住んでいて、小学校一年二年(?)の頃、引っ越していった男の子がいた。高校生のとき、通学列車の中でその子のお母さんに声をかけられたことがある。あの子はなんと言う名前だったんだろう。
角田敏か芳賀美代子に訊けばわかるだろうか。

諏訪町
諏訪町にあった会津機業、キンギョと言ってた。

諏訪神社(お諏訪様)でスクリーンを張った映画を観た記憶がある。
アチャコの白野弁十郎だった。
この記憶をネット(花菱アチャコ×シラノ)で確かめてみると、 “由利本荘市 作品データ"に 大江戸人気男、1957年5月  「シラノ・ド・ベルジュラック」を下敷に・・とある。
更に「大江戸人気男」で検索すると アチャコの役名は「助六」となっている。「白井権八」を勝新太郎が演じている。作品データでは、カラー白黒となっており、私がみたのは白黒である。

「校歌」
統合になる前の塩川中学校校歌
「朝日燦々輝ける会津盆地の真ん中にその名も高き塩川中学校・・・」だったかな?

塩川小学校校歌
作詞 佐々木信綱 作曲 近衛秀麿
一、天にそば立つ 磐梯の
  峰にたぐへん 吾等の理想
  力をつちかひ いざや共に
  祖国日本を新たに興さむ
  吾等吾等の 塩川小学校
二、雪をいただく 飯豊山
  高く保たん 吾等の希望
  歌声あはせて いざや共に
  文化日本の いしずゑ築かむ
  吾等吾等の 塩川小学校
三、流れさやけき 日橋の
  水にみがかん 吾等の心
  勤しみはげみて いざや共に
  平和日本の あけぼの迎えへむ
  吾等吾等の 塩川小学校

いつも雪ある飯豊山は中学校の校歌だったことになるか。

駐在所 塩川町の駐在所、今は駐在所の前にあったサイレン(ボー)も取り払われ更地になっている。
自転車の二人乗りで、始末書を書かされたことがあった。それが初めての始末書であった。
12時、17時のボーは、駐在の奥さんがラジオを聴いて、スイッチを入れてボーを鳴らしているのだと聞いていた。


高校時代
小中学校同級会、2004年病欠、 2007年芦ノ牧温泉、 2010年裏磐梯、 2013年東山温泉、 2015年鬼怒川温泉、 2017年欠席

高校時代のことを書こうとして、小中学校の同級会を書くのは、高校時代を思い出すきっかけがあったからである。
2013年の同級会で高校生の頃会いましたね、言われその時は反応できなかった。そこには恥ずかしい過去を忘れたいとの思いがあった。それで同級会に出るのかと言われれば応えようがない。
会津若松市内の高校は全て訪れているのに、高校で塩川町の同級生に会ったのはFさんだけなのである。廊下で立って待っているとFさんがこちらに向かって廊下を拭き掃除していて眼があったのである。
他の高校では避けられていたのかも知れない。勿論駅の待合室では会っている。
どのような用事でその高校に訪ねたのか記憶にないが、市内の全部の高校に行った記憶と重なっているので、完成した文芸誌をクラブ担当の先生に届けたと思う。今だったら郵便を使うのだが、そのような環境ではなかったのだろう。 一高でも廊下で待っていた記憶がある。若商で雪の中で野球部が練習しているのを目撃したのはこの時ではないだろう。
高校時代の記憶を綴ってみよう。
男子高校の実態を書こう。今考えると青春ドラマの様相がある。新入生当初昼休み、当時はダルマストーブの周りに集まり暖をとる。一浪した門叶(?)(とかない)、背は大きくないが、骨太で赤ら顔で眼はギョロリ、煙草を吸っている。ジャックナイフをこれみよがしと取り出す。安全ボタンを押してパチンと刃を出すタイプではなく、振って刃を出す。近づきたくない同級生だ。
一方、それを鼻で笑うた正義感の柔道初段の平山がいる。今思えば私は彼と親しかった。私の滑舌が悪く嘲笑されたとき庇ってくれたし、戸叶にやられて眼の周りを真っ黒にし、ノラクロ状態(今ならパンダ状態)て授業に出てきた時、眼と眼で合図した、今ならアイコンタクトか。
授業中、私は平山と一緒に教室から出ていけと叱責を受け、二人揃って教室から追い出されたこともある。高校の先生には迫力がある。
中学校のO先生は男子生徒にしょっちゅうビンタを浴びせ、ビンタを浴びない生徒はいなかったのではないか、その先生は陰ではOとか呼び捨てにされて、軽く見られていた。センコーという言葉はまだ使われていなかったように思われる。
会津女子高の佐藤征子、私はクラブ関係で一寸名前を知っているだけ、平山は通学の列車が同じで、二人でうわさしあった記憶がある。
門叶と平山が廊下で睨み合った事があった。門叶はジャックナイフを構え、平山は素手、結局事件にならなかったが、私はなにも考え られない状態だった。
ノラクロ以前のことだったか。
門叶は、結局退学になった。私ならばすぐに「おらあ、東京さいぐだ」となるところが、 門叶は会津若松におり、たまに合い、駅で喋ったこともあった。今考えると、在校時の同級生に合いたかったのかもしれない。連れの女の子に「あれは同級生だった〇〇だよ」と言いたかったのだろう。
藤巻には、よその高校の制服を着ているのに出会い、転校になったのだと知った。
藤巻にはそれ以来合うことはなかった。
立ち直った(?)松本(?)には、小中同級生で背炙り山にハイキングに行く途中に合った。
彼が校庭脇でシマヘビ捕まえ皮を剥きま膨らましていたのには、ウヘーであった。
文化祭(学而祭)のストームの時、側に三瓶先生がいるのに三年生が集まって「三瓶、三瓶、ぶっ殺せ」と叫んでいたのも記憶に残っている。
女子高校生で他に記憶が有るのは、馬場須美子(名前の方は?)、クラブ関係で名前を知っていたのに、馬場須美子を紹介しようか、下郷町の人だよと同級生が話してくれたのだ。その同級生の名前は覚えていない。
東長原の高畑がこの子を紹介しよう、なまこ壁を背景に写した若松女子高の生徒の写真を見せてくれたことがあった。その高校生の名前は覚えていない、訊かなかったのかもしれない。
もう一人、いつも若松駅の前で汽車をまっている一高の女子生徒がいた。汽車で一緒にはならないので猪苗代方面かなと思っていた。 クラブ関係で名前を知ってたはずなのに、思い出せない。
高校の頃、実存主義は知らなかった。「今、これを読んでいるんだよ」と実存主義の本を示した同級生がいた。私は「フーン」と言ったきりだった。彼は誰だったのか。
男子同級生にも思い出せない人がいる。
一度知り再度知った場合は思い出せるが、一度きりだと思いだせないようだ。
相田まさおは三人いた。一人は政男で後の二人は昌男である。
相田政男は酒屋の息子で親しかったような気がする。「北上夜曲」の五番「僕は生きるぞ 生きるんだ 〜」が好きだと言っていた。慶應大学受けるんだと言っており、不遜にも、それだったら俺でも早稲田受かると想っていた。後年、同窓会名簿を閲覧していたら、彼は確かに慶應に入っている。
その相田政男が亡くなった。ネットでチェックしていたら、今年、令和元年七月二八日に亡くなっている。七十六歳となっているが仏事に絡む数えか、七十四、七十五歳のはずである。

街を歩いている若女生、どこまで帰るのだろうと、自転車に乗った朝野と私が後をついて行ったら、萬花楼に入って行った。ストーカーだ。

若松市内でピアノの聞こえる家があった、どの辺りだったんだろう。
母の思い出、数点
 
懐かしい女性

懐かしい女性とは意味合いが異なるかもしれないが、
木工所Mに中学生頃、出前に行った時、私より一歳上のそこの娘、ハツコさんが白いシュミーズ姿で通っていたのである。
清新さ感じた記憶は懐かしい。
猥雑、エロチシズムとは別の世界である。
なお、ハツコは貰い子(貰われ子)と聴いていた。

居候住まいの幼年時、その家に疎開していた母娘家族がいて、娘さんは二人おられたではないかと思っている。
その娘さん小学校高学年であったろうか、その部屋で一度遊んでもらった記憶がある。
どんな人だったのか母に聴いておけば良かった。

幼年時、栄養不良の子供だったので保健婦さんに時たまビタミン注射を打ってもらっていた記憶がある。
空箱アンプルベッドを玩具にしていた記憶がある。
その保健婦さんが後年(私が小学生の頃)店に来られたことがあって、母に紹介され、綺麗な方で恥ずかしかった記憶がある。

懐かしい女性には嘉奈子ちゃんを入れなければ、彼女、水鉄砲で遊んだことを全然覚えていないんだな。 <

美味しかったもの

 子供の頃から「美味しかった!」と強く印象に残るものを思い返してみた。
就学前であったか小学校低学年であったか、会津若松市の食堂で食べたものである。
思い返してみるとかた焼きそば五目あんかけだったと思う。
当時にしてはかなり贅沢なランチで叔父も一緒だったのだろうか。
小学校高学年になって、猪苗代にある叔母の家に行って食べたハムエッグ、これも美味しいなあと思った。
金沢に行って初めて食べた餃子、十八の歳だった。こんなに美味しいものがあるのかと思ったものである。
「第9ギョーザの店」が店名だっと思うが定かではない。
天疱瘡で三ヶ月入院していて、差し入れてもらったマックのハンバーグ、このジャンク食品が淡白な病院食を食べてばかりいる時に美味しいと感じたものである。

ラーメンが、カレーが、カツ丼が美味しいと感じることがあってもいいはずだが、ラーメン屋に居候していたので、あの時美味しかったという強い印象はない。 ラーメンはしょっちゅう食べていたが、カツ丼、親子丼は食べた記憶は少ない。

今、美味しいと感じるもの。
田舎に行った時に食べるラーメン、ケンタッキーのスタンダードのフライドチキン、力の焼鳥も美味いと思う。マグロはトロより赤身が好きだ。

映画館(ブタイ)

 ユキオサッと呼ばれ、多分町で知らない人はいなかったろう。
 鉄道事故で脚一本失ったユキオサッは空っぽのズボンの右脚をベルトの後に絡めて、片足でぴょんぴょんと歩く。
 その姿は物心ついた時からの私には見慣れている風景だが、初めて見る児にとっては珍しく、真似をしたりする。
 片足で器用に自転車に乗り映画館に通い、もぎりなどの雑用をこなすのを仕事にしている。
通う路は舗装されてない砂利道で、冬、雪が積もり固まった道でも自転車で通勤し続け、僕自身がやったのかどうか定かではないが、 雪で固まった道にスコップで段々を付け叱られた記憶が残る。  そのユキオサッも後年、急性胃潰瘍か、腸閉塞かでなくなったと聞いている。

 映画館と云ったが、田舎の町唯一のものであり、芝居、浪曲も演じられ「ブタイ」と呼んでいた。
 楽屋風の部屋もあり、席も枡席風になっており、子供にとっては舞台から一階席、二階席と遊び場でもあった。 町の芸者の踊りの会も催されていたが、これは観たことはなかった。
 映写室でランニング姿の技師(映画館の家族だが)からフィルムの切れ端をもらったのも少年の日の思い出である。 映画も「カツドウ」と呼んでいた。

この映画館、正式名称は新栄座である。
何時閉館したのだろうか。映画館から吉永小百合の「寒い朝」が始終流されていた記憶がある。
このレコードが何時発売されたのかをネットで調べてみると、昭和三十七年四月に発売されている。高校三年生の時である。
この映画館の跡に大衆食堂が開店した。大学に入って授業料の免除を受ける際に、書いたのは母だが「近くに同業者が開店し生活が大変だ」と母が書いた記憶がある。
授業料の免除は半期毎でありどの時点か不明だが、閉館したのは三十七年の後半か三十八年の前半ではなかろうかと思われる。
町唯一の文化施設の閉鎖が記憶に明確でないのは地域文化に対する認識に底が全く浅かったということである。
初めに観た映画の題名は全く記憶にない。何せ就学前の話である。
最後に観たのは、うーん記憶を呼び起こしている、洋画だったのは確かだ。「朝な夕なに」(1957年製作)、ネットで、チェックしていたら思い出した。『真夜中のブルース』がヒットしたのだ。
日本公開が1958年9月、中学2年生の頃、妥当であろう。
ところで、「真夜中のブルース(Mitternachtsblues)」はベルト・ケンプフェルト楽団の1958年発表の曲となっている。年代が合わない。更に調べると、作曲はFranz Grotheで、Trompetsolo aus dem Film immer wenn der Tag beginnt,1957年となっている。ベルト・ケンプフェルトは編曲であろう。

記憶にある題名は黄色いカラス、青い怒濤、続警察日記、忠臣蔵、佳人、絶唱、杏っ子、清水の次郎長もの、驟雨(?)・・・赤胴鈴之助、・・・

ここで観た戦争映画、題名、公開年はネット調べ(記憶の確認である)。
特攻の映画、「雲ながるる果に」(1953年)
アチャコの「二等兵物語」(1959年)。
「戦艦大和」(1953年)、この映画を観たあとに砂場(おそらく学校の)で、砂で戦艦大和を作り遊んだ記憶がある、何せ九歳。 同時上映でシベリア抑留の映画があったようなきがするのだが。
「戦艦大和」はWikipedia1953年の公開映画に載っていない。
「人間魚雷 回天」(1955年)



   顔

 両手で顔を洗い、頬の辺りを擦るとぽこっとゴムのような固まりがついている感じがする。
 「男が鏡を見るもんじゃない」と子供の頃何となく教えられていたような気がするのだが、鏡をみる。
頬骨に肉がついて、顔全体も赤黒い。
 ムーンフェースと色素沈着、ステロイドホルモンの副作用の典型、何も考えることはないはずなのだが、本来の顔ではない。 青白い方で、男のくせに色が白いとひやかされたり、この顔以上に色が白かったら病気だよなんて云ったりしていた方なのだ。
 自分の顔をじーっと見たことがあるのだろうか、二日酔いの朝、青白くへこんだ頬、疲れた目、その周りの隈、 こんな風な見方はしたことはある。
自分の顔はどんな顔なのだろうかと観察したことはなく、誰もそんな風には鏡をみないだろう、ひげはちきんと剃れたか、 これで人に会ってもおかしくないか、点検しているに過ぎない。
 夜、電車に乗り、窓に映ったのを見た時もある、どんな風だったのか憶えていない。
 鏡で見るのは単に映ったもので本当の自分ではないかもしれないが、 ステロイドを服用する前に顔を精密に観察しておくべきじゃなかったのかとの思いはある。
 恐らく、それでも自分の顔は解らないだろうが。

 ステロイドを服用しているのは自身であり、色素沈着、ムーンフェースも自分自身である。


   桜

 暗い、真っ暗なのか灰色なのか、明るさもあるような、眼で明るさを捉えているのか、頭の中の明暗のかよく判らない。
声がする、誰かが声をかけてるのか、酸素が流れる音なのか、自分の声か。
足を動かそうとしてるのか、足があったはず、手があったはず、動かすとはどういうことなのか。
 暗い。
 何処に向かって行くのか。

 蒼二は三歳だったのか、もう四歳になっていたのか憶えていない。
「ほら、桜がいっぱい咲いてるよ。」
「うーん」
「ほら、手を伸ばしてごらん、手が桜に届くよ。」
桜の枝先に指が触れ、微かに枝が揺れる。
本郷の町から本郷駅まで距離があり、会津若松に行くのにはバスを利用する人が多い。その上、 汽車の本数も少ないので駅まで歩いて行く人は少ない。
 駅へ向かっての一本道には桜並木が続く、ピンクにに空をそめているが、そこを歩いている人も見えない。
「蒼二、手を伸ばしてごらん。」
「とどかないよお」
「もう少し向こうの桜に手を伸ばしてみよう。」
「だめだよ」
「ほらほら、届きそう。」
「もっと手を伸ばして。」
「あるくのいやだよお」
 誰もいない待合室で蒼二の母は汗を拭いた。

疾うにこの桜並木はなくなっているが、蒼二は時々母と歩いたこの桜並木を思い出す。
今にして思えば、本郷町には住めなくなり、他所の町から父の墓参りの帰りだった。

 日傘をさした和服姿の母、白いシャツと紺の半ズボンの自分を思い描きたいが、そんな風であるわけはない。  その頃の写真は極めて少なく、その分自由に空想できる。
 でも蒼二に連想されてくるのは次の写真である。
 原点